昨夜0時からのワールドカップ、ノックアウトステージのクロアチア戦は大変残念な結果に終わりました。新潟に住む書学生の孫たちなども観戦していて、ワタシの家族LINEでも大いに沸き立ち盛り上がったのですが。
予選を含めた4試合は、それぞれ異なった見どころがあり、それはそれで十分満足いたしております。思い通りの展開やゲームプランであったとしても勝てない、というのは勝負事ではつきものであります。クロアチア戦に関しては、相手がやはり一枚上であった、と言うよりないのでしょう。個々の選手の出来不出来、森保監督の采配などをいまさら論じても致し方ありません。選手たちは、この経験がまた次のステップとなり新たな人生が始まるのでしょう。
この歳になってなかなかいいものを見させてもらいました。喪失感よりも満足感の方が若干強いのであります。日本のサッカーがわずかづつながらも年々進歩を遂げ、世界の強豪国に割って入ったという実感もありました。決してまぐれではなく、明確な戦術や意図をもって戦い、結果を出したのです。
今日から、また平常な生活に戻ります。目下最大の関心事は明日からの一泊二日の信州旅行であります。ワタシが22才で、某金融機関の新入行員だった時の同期が長野市に住んでいます。お互い会社の寮生として意気投合し、一升瓶をもって酌み交わしたのでありました。双方の結婚式にも出て、ずっと親しい友であったのですが、彼は60才定年を待たず会社を退き、国元に帰ってしまいました。そしてなんと市長に立候補して当選したのです。
しかし、2期の任期を経て、残念なことに数年前3期目の選挙で落選したのです。彼が公職を離れて、一般人のレベルに戻ったのを機に連絡を取り、消息などのやり取りが始まりました。ワタシは現役の頃から、役員などの偉い人、将来性のある優秀な先輩などとは、「個人的なお付き合い」も含め、出来るだけ近寄らないようにしてきました。自分の出世のために力のある上司などに阿る(おもねる)、ゴマをするといったことが好きになれなかったからです。おかげで、家内には「あんたは、偉い人とゴルフやったりする割には、ちっとも偉くなれないね」などとやんわり皮肉られていました。
いいのですよ。誰かにすりよって偉くして貰えなくても、やるべきことをやり、会社の為に役立っているのなら、見る人は見てます。「自己満足」で結構なのです。
と言った按配で、たいして出世もせずに今の隠居生活です(笑)。その長野の友人にも、当時は公職で忙しいのだろうから、そっと遠くでその活躍を応援して喜んでおりました。そして、落選してしばらく経って、励ましの気持ちもあって連絡し、ヘタな書や印を贈っていたら、「そのうち遊びに来てください、一献傾けよう」と誘われていたのです。そこで、昔からの旅仲間と連れ立って「善光寺」に寄り、温泉宿で一夜だけの再会を果たし旧交を温めようということになったのであります。
事程左様に、人生の途中で偶然知り合った人たちと付き合いが始まり、切れたり繋がったりしながらも長く親交を保てるというのは得難い事であり、残り少ない人生を彩り豊かに終えるエッセンスともなりましょう。
話は変わりますが、篆刻でごく最近彫ったのが、わが書道の師の「雅号印」でありました。頼まれもしないのに、勝手に彫ってLINEで写真を送ったら、受け取って貰えるようです。その前には書道仲間に「仮名書き」用の小印を頼まれていました。
更に、書道教室の「師範代」格の先輩がいて、彼女はたしか「一般の部」書道6段か7段だそうです。以前大臣賞など特別の受賞歴がある彼女は、確かな技量と熱心な取り組み姿勢があるので、「雅号」を使った作品作りを「けしかけた」のです。ワタシの師匠藤原先生は、書道界の悪しき伝統=昇段昇格の認定にお金をとる、などといったことが嫌いで、雅号を付ける許可や命名に対する見返りを要求することはありません。(恐らく先生は、若い頃から、そうした謝礼や付け届けなど随分多額なお金を払ってきて、ひどい目に遭っているのです)
そのおかげで、技量も経験も半人前のワタシですら、ほぼ勝手に雅号を自分で付けて使用しております。書ならば「嘉苑」篆刻ならば「篩石」です(笑)。勿論先生は「勝手になさい」と言うだけでお礼などもしておりません。
その師範代格の先輩が、あれこれ雅号を考え出したものだから、ついお節介を焼いてしまいました。
彼女は「ビッグママ」と自称するくらい豪傑で、ご主人の家業まで実質コントロールをしているようです。彼女は実家が「秋田」で、お国から送っていただいた珍味、お新香や農作物のおすそ分けを頂いています。そこで考えたのが秋田県の「県花」である「蕗の薹」(フキノトウ)の一字をとり「雪」を加えた「蕗雪(ろせつ)」であります。幸いにして彼女はその雅号が気に入ってくれたようです。お節介ついでに、その記念として「雅印」を彫りました。
これです。
いずれも、二度彫り。つまり一度試しに彫ってみて気に食わない所を反省・修正して新たに彫り直しています。最初からきちんとした印稿を作ればいいのに、わざわざ二度手間をかける、というのが独学独習のいい所でもあり愚かなところでもあります。経験的には二回目のほうがずっと良くなるのです。それとてあくまで自分の主観ですから、他人や専門家さんがどう感じるかは全く別物になりますね。
というわけで、相手の方に喜ばれようが気に入るまいが、お構いなしであります。人様の役に立って喜ぶ顔を見たい、などというのは「偽善」であろうと思います。ワタシはただただ、気の向くまま、そして自分の技量・経験値を上げるためにやっていることなのであります。
本日も、いつにもましてとりとめのないお話で失礼を致しました。