風そよぐ部屋

ウォーキングと映画の無味感想ノート

マンデラの名もなき看守

2008年06月06日 | 映画
マンデラの名もなき看守 原題:GOODBYE BAFANA


2007年/仏・独・ベルギー・伊・南ア カラー/117分
監督/ビレ・アウグスト  出演/ジョセフ・ファインズ、デニス・ヘイスバート

【あらすじ】[シネカノンHPより抜粋転載]
1968年アパルトヘイト政策下の南アフリカ共和国。
刑務所の下仕官ジェームズ・グレゴリーは、最悪のテロリストとされるマンデラの担当に抜擢される。
彼は、マンデラの生まれ故郷の近くで育ったために彼らの言葉がわかる。
秘密の文書や会話を監視するのが彼の仕事だ。
彼は、マンデラに触れ、マンデラに魅了され、彼が目指す平等な社会に憧れていく。
彼とマンデラの数十年間にも渡る魂の交流を描く。
配給/ギャガ・コミュニケーションズ

映画は、緊張、はらはらどきどきの連続である。
英語のセリフは少し気になったが、それを楽しむ余裕はなかった。
この映画は、マンデラの伝記・闘争記ではない。
闘争のことはほとんど映像に出てこない。
映画的には私にはそれが良いと思う。

さて、原題はGOODBYE BAFANA、バファナとは、この少年のことだ。

これは、ケンカのシーンではない。
少年期、グレゴリーが遊び仲間のこの黒人の少年・バファナと棒術で遊んだシーンである。
彼は、黒人を身近に知っていた。言葉と彼らの遊び=文化を知っていたのだ。
彼はバファナと分かれる時、彼から動物の尻尾のお守りをもらった。
彼は、マンデラと分かれる時、持ち続けてきたこのお守りをマンデラに渡す。
『さよなら・バファナ』は、ただ単なるさよならではなく、
お守りがバファナから友達のグレゴリーに渡り、
そして、グレゴリーから友達のマンデラに渡ったように、
そう、さよならでありながらリレーなのだ、が原題には込められているように私は思う。
そして、ありふれたことだが、人・言葉・文化を具体的に知ることが、
人と人のつきあいでは大事なのだ、を痛感した。

この映画の始まりは、1968年、つまりベトナム戦争が一番激しい時であった。
そしてマンデラが釈放されたのはなんと1990年、つまり、ベルリンの壁崩壊の翌年である。
つまり、その年までアパルトヘイトが続いていたのだ。
その責任の多くは、かつての宗主国英国とオランダ、そしてその後それを放置したアメリカにある。
今日の民族紛争の悲劇の多くは、やはり帝国主義列強に起因している。
彼らは今なおその責を負っていると私は思う。
彼らには最低、エイズ撲滅や社会的インフラ整備をする責任を持っている。
思えば、共産主義撲滅・反テロのためなら何をしても良いとした時代だ。
特にアメリカは、イランで、チリで、ボリビアで、キューバで、弾圧をしてきた。
人は、どうしてこんなに愚かで、暴力的で、想像力がないのか、
と言うのはたやすいが、やはりつくづくそう思う。

折しも、本日、日本の国会では、
『アイヌ民族は日本の先住民族であることを日本政府に求める国会決議』が採択された。
江戸時代から日本は、アイヌ民族の地・北海道を簒奪してきた。
少なくとも、北海道の全ての土地はアイヌ民族の所有と認めるべきだろう。
その上で、彼らに借地料・損害賠償を払うべきだろう。
また、最低限、国有地は彼らに返却するべきだろう。
だが、日本政府がその決議を認めても、具体的な救済措置は極めてわずかなものだろう。
彼らの奪われた土地や言葉が彼らに帰されることはとても難しい。
だが、これまでずっと日本は単一の民族と言われ続けて来たことが、
それが作られた“共同幻想”であったとことが明確にされることは極めて有意義なことだ。
また、沖縄・琉球は独自の民族という主張もある。

文句なく佳作。
有楽町シネカノン一丁目、10:30開始時の観客は40名、シニアで1000円。


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