黒布を巻いた首無しの亡霊が、がさがさ窓を揺さぶる夜は、勉強なんかできやしない。九時五分。ぼくも黒のとれいにんぐうえあを着込み、階段を駆け降りる。どうして、ドコイクノ、パパ、トメテエ-、後ろで言ったって通じない。ぼくは風だもの。
工事中のたて看板を尻目にあすふあるとの空洞の周りを幼児が踊っている。水銀灯の下で新鮮な光沢を放つ長い髪に、虫たちが群がる。いいのよ、あたしのともだちだもの。銀色のまなざしがそう言うと、しょるだーばっぐをかざして、また、すきっぷだんす、する。他界から現れて、何を探しているのか、この土地に。ぼくがそう言うと、あたしはずっとこの土地よ、あなたこそよそもの、亡霊よ、と切り返す。だいいち、あなたには首がないわ。
ば、ばかいいなさい。ぼくはS高の二年生、です。この間の模擬試験で四十八番から学年六位に上がった優等生、です。父がローンで買ったあの家に、五年も前から住んでいます。父も母も、つきなみに言えばT大を志望しています。
まあ、いいわ。あなたと争う気はないわ。行くんじゃないの、あなたと同じ首無しの亡霊さんたちの所に。むこうにいったわ、かれらたち。
幼児がにっと笑って消えてしまった地の空洞を覗き込むと、青空が見えた。青空の中に幼児と、巨大で、うんちのような海豹がいた。ぴゅう、ぴゅう、と、どでかい海豹のか細い深呼吸を聞いていると、今までため息ばかりついてきたぼくが滑稽に思えてくる。
ぼくは走った。走りながら、数学がまだ三ぺえじ残っていることに気がついた。振り返ったら3X2じょうとるうと235がおっかけてくる。封建時代のCO2だって、微積分と喧嘩しながらやってくる。歴史五ぺいじ、科学四ぺえじだって、今日ののるまで残っていたんだ。いくら置時計を覆いくるむように生きたって、腕時計を飲み込んで時の刻みを五臓六腑に染みわたしても、死が後ろからひょっこり肩をたたくんですよ。だから、君たちと付き合っている暇はありません。
涙が口の中に入る。しょっぱい味がする。ほら、ぼくは首無しなんかじゃない。顔が無ければ涙なんかでるものか。順位発表の張り紙を見て、オレヲオイヌイタと便所の裏でぼくを殴ったあいつこそ首無しだ。キッチンで腫れた顔を洗い、包丁を握り締めたぼくの掌は、飛び交う呪文に縛られて、動かなかった。やがて言葉が無くなった。壁が見えた。油と埃の混ざった染みが見えた。握った包丁を自分に向けようか、あいつをやろうか、壁に突き刺そうか、迷っている自分が見えた。ドウシタノ、ソノカッコウハ、危うく母を刺すところだった。母の顔も見えなかったからだ。べつに刺してもよかったけれど、いいえ、りんごを剥こうとおもったんです。
墓場に着いた。もう、みんなは着いていた。舌が縺れた健忘症患者が、首を吊って表現するような、そんな、かなしみが充満していた。僕はお経を読んだ。
--肝を無くした烏が赤土を掘れ、掘れ、掘れ、と、眺める夜に、その日が死ぬのに好い日であればそれでいいと、銃口を向けて、精一杯泣いてやろうぞ、さあて、めくるめく日が過ぎて、めくるめく悲しみが動いて、何に怯えることがあろうぞ、何に。ゆくものは生きるもの、死に絶える悲しみは牙を剥きて噛んでしまおうぞ、さりとて全身の筋肉が緊張のあまり震え、ぼくの意識は崩れ落ちる。切れえ、切れえ、自己を断ち切れえっ。キョウハヨイヒダ、キョウハヨイヒダ、と産声を挙げる赤子の声帯は、孤独にうちひしがれた牛蛙の嗚咽と同化し、月はただ天命を輝くのみっ。
お経は虚空に響き渡った。響き渡って、一回転して、まるまって、足元に、ぽとんと落ちた。もう辺りには誰もいなかった。
もともとひとりぽっちだったぼくは、また、ひとりぽっちになった。遠くで、どこかの犬が闇に怯え、闇に吼える。ぼくも負けないで、足元にあった空き缶を蹴る。からととどわ、からとと、どわ。樫の木の間をぬってさっかあだ。
からとと、どわ、からとと、どわ、む。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます