まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

青春哲学の道(1)

2010-08-04 | 随筆
俺は小さい頃、どもりだった。どもりは差別用語で今では吃音者というそうだが、ちゃんちゃらおかしい、どもりが最も適切だ。それほど皆から哂われていたからだ。「どもり、どもり、うつるから近づくな」、子供の頃よく石をなげられたものだ。また小中学生の頃は先生に申し送りがあったのか、教科書の朗読を当てられるというのが少なかったが、高校になるとよく当てられた。それがとても辛かった。俺の名を呼ぶなと心で叫んでいると、どうしてか俺が当てられるのである。高校三年の時、席順の前の女性に惚れてしまった。向こうもまんざらでなく、河原で二三度デートしたことがある。ある日、物理の授業で教科書の朗読を当てられた。ああ、彼女とはもうこれで終わりだなーと思いながら立った。「あ、あ、あ、-」。一行も読めないのである。みんなの冷ややかな嘲笑が小耳に聞こえてくる。きっと、前に座っている彼女は自分がどもっているような恥ずかしい思いをしているのだろう、それは見える次第に小さくなっていく背中のまるみに現れていた。
当然のことながら翌日から彼女は俺と口を利こうともしなかった。それに対して、俺は別に彼女を恨むことは一切なかった。むしろどもる自分が悪いのであり、彼女に恥ずかしい思いをさせて申し訳ないと思った。しかしこれはこたえた。家の二階で、窓のガラスを素手で割った。手から鮮血が滴った。「どうしてわしを産んだんやあ」。父親は静かな声で「そんな小さなことに拘るな。宇宙はひとつや」、ぽつんとそう言った。
のちに解ったことだが、左利きを矯正すると70%はどもりになるという。俺は左利きだった。母親が、小さい頃から左でハシを持ったり字を書いたりすると俺の左手をパシっとひっぱたいたものだ。左を使いたいのに何故だめなのか、母親は世間様に恥ずかしいからというが、俺にとって左手を使うことは自然な行為で、どうしてダメなのか解らなかった。手を使うというのは一種の表現行為である。その否定が言語という表現にも自信をなくすという影響を及ぼしたと俺は思っている。かといって母親が悪いわけでもない。母親は俺の左利きの不自由さを思ってしたことだからだ。しかし結果的に左利きより嘲笑されるどもりになった。
お前は生きるのか、死にたいのか、自分に問うてみた。生きたい、そう思った。だったら強くなるしかなかった。どろんこでゴールめざして戦うラグビーをやれば強くなるかもと、ラグビー部に入った。しかし強くはならなかった。夏休みには夜間の工事現場で働いて、その金で北海道を二週間野宿をしながら一周した。自分の何かを変えたかった。でも変わらなかった。郵便のアルバイトをしてトランペットを買い、毎日吹いた。いい音が出たり、出なかったりの繰り返しだった。自己流で唇にマウスピースを押さえ過ぎて、吹けば吹くほどヘタになっていった。でもトランペットの音色は孤独感を癒し、放課後の教室でよく吹いた。油絵にも没頭した。内面から吹きあがる何かを絵筆で表現したかった。しかし、トランペットも油絵も、自分を変え得なかった。強くなろう、強くなるしかない。やがて、解りもしない哲学書を読み漁った。サルトルの「嘔吐」「自由への道」ニーチェの「ツアラトウストラ」、そこからパスカル、ショーペンハウエル、キルケゴール、ハイデッガー、ほとんど解らなかったが、数行読んでは考え、一頁読んでは一日中考えた。
ニーチェを読んで、「そうか、脱皮しないヘビは死ぬ、か」、「超人をめざせ、か」、そうだ、形而下の問題なんて、なんぼのもんじゃい、と思った。どもりだといって哂うのは、そいつが善人とか悪人とかという問題じゃなく、人間という生き物だからだと思った。日常的な人間など超えてしまえ、そう思った。次第に、世間の常識や日常生活というものを否定、あるいは軽んじるようになっていった。しかし世間でいうグレルということはなかった。どもるのは世間が悪いのではなく、自分が悪いと、内面的には自分を攻め立て、グレルなどという余裕はなかった。そして頭が悪かったのか、いつ当てられるかという思いで授業に集中できなかったせいか、成績は悪かった。ただ、おぼろげに、俺はたぶん世間並みの常識的な普通の生き方はできないだろうと思っていたし、そういう生き方を拒否するようにもなっていった。だからタバコを吸ったり、カンニングをしたりして学校にバレても平気だった。担任の女教師が「あなたには就職を斡旋しない。学校の恥さらしになるから」、そんなことも言われた。しかし俺は「上等じゃあねえか」と、日常というものを軽蔑し女教師を哂う余裕さえ生まれていた。ニーチェの超人への道、それは精神があらゆる重みに耐える駱駝になり、らくだが意志を持った獅子になり、そして最後に何にも放たれた自由な子供になる。俺はそれを信じていた。俺は今、駱駝じゃねえか。そう思えば怖いものはなくなっていった。
やがて高校を卒業してまもなく、俺は新聞広告を見て、自動車の整備工場で住み込みで働くようになった。工場では先輩たちに苛められた。仕事も建設機械の背丈ほどもある大きなタイヤのボルトをパイプではずしたり、油まみれになった。夜になるとぐったりしたが、寮の二段式のベッドの上で、電球を服で覆い、先輩たちが寝静まったなかで、俺はこのままでは終わらないとニーチェを貪り読んだ。
半年ほどして将来は先生になると新潟大学の教育学部に行ってるはずの友人が突然工場に訪ねてきた。話を聞けば、体育クラブに入ったものの、シゴキが激しく耐えられず逃げてきたというのだ。入学金など親が親戚にまで借金して入れてもらったのに、実家には帰れないので、俺のところに直接来たというのだ。そんな弱いことでどうするんだと殴りもしたが、もうすでにヤツの気持ちは逃げてきたという自責の念で普通ではなかった。とりあえずヤツを実家に帰した三日後、今度は親から電話が寮に入った。家の中で家族に暴力を振るい、あばれまくるので、病院に入れ、少し納まったので、今、家にいる、どうしたらいいでしょうかというのだ。
俺は、とりあえずヤツを引き取って、自分の実家の二階に住まわせた。精神状態がまだ不安定でひとりにはしておけなかった。俺は工場を辞めてヤツと一緒に住むようになった。
最も俺にとっても整備工場は潮時だったのかも知れなかった。
しばらくして、ヤツの心は安定し、新潟に戻っていった。
さて、次に俺はどうするか。大学行って、哲学を勉強したい。そんな気持ちになっていた。しかし、家には金がないので、とりあえず入学金を稼いで、大学の二部にでも入って哲学を勉強しようと思った。哲学を勉強して、トランペッターになって、ナイトクラブでトランペットを吹きながら、酒飲み客など形而下の人間を嘲笑しながら暮らそう、そんなことを夢想した。俺はまた新聞広告で、たこ焼き屋で仕事をするようになった。三ヶ月間働けばとりあえず入学金は稼げる、そう思った。
たこ焼きは軽自動車で、路上で売る仕事だった。社長、専務と呼ばれるものがいて、車も20台くらい保有していた。午後三時頃から指定された商店街につけ、主婦や子供相手に夕方七時頃まで売る。一時間休憩を取って、次にパチンコ屋の前につけて、サラリーマンを相手に11時頃まで売る。それから今度は繁華街につけて、水商売の連中や、飲み屋帰りの客に売る。午前一時頃に終わって、社に戻り、売り上げを清算して、家に帰ると午前二時ころだった。「専務、タコが入ってないと客からいわれたんですけど」。確かに仕込みの材料を見ても、キャベツ、テンカス、紅しょうがだけを混ぜたものだった。「あのな、自動車で売るのにナマモノは保険所がうるさいんじゃ。じゃから、タコを乾燥させて粉末で入れてあるんや。客にそういっとけ」「はい、そうします」。俺は一生懸命、焼いて、売った。手で具をわし掴みにして一杯入れるものだから、タコが入ってなくとも美味しいと評判もよかった。8時頃に材料がなくなって、社に帰ることもあった。そうした日が続くと、ある日、路地の影から専務が俺の様子を見に来て、「やっとるな」と声を掛けた。「はい」、「そうか、そうやったんか」「は?」「実はな、材料の減り方があまりにも多いんで、皿を自分で調達して、売り上げごまかしてるのんちがうか、ちゅう声もあってな。それだけ具を入れたら、そらなくなるわな」「専務、タコ、粉末で入ってるって、嘘でっしゃろ。せめてお客さんには、美味しいタコ焼き食べてもらおうと・・」「わかった、わかった。売り上げもあがっとるし、社長にはわしから言うとく。その売り方でええ。明日から材料多めに仕込んだる」。
客が来ない時は哲学書を読んでいた。サルトルの「嘔吐」などはたこ焼きの油で汚れていた。存在することの嘔吐、なにげない日常の嘔吐、実存主義は投企する。人間は常に途上であり、自らを未来に投企することによって存在する。存在と無。
「おっちゃん、たこ焼きちょうだい」、ぼろ服を着た小学生がよく来た。五円玉を握り締めて。三つ10円からで五円じゃ買えないけれど、黙っていつも10個ほどまけてやった。「あいつなあ、家ひどい貧乏なんやで。障子なんかボロボロや」、別の商店街の裕福そうな子供が言った。
逃げるように去って行く子供の背中見ながら、お前も強くなれよ、と心の中で呟いた。
商店街が終わるとバッテリーの電気を消し、油で汚れた白衣のまま、近くの喫茶店で一時間コーヒーを飲んで、また哲学書を読むのが習慣だった。夕飯はいつも自分の焼いたたこ焼きで済ましていた。客は俺ぐらいで、そこのウエイトレスといつも目があった。彼女と薄暗い空間で、何も語らず、見詰め合っていた。そんな日が毎日続いたある日、パチンコ屋の前でたこ焼きを焼いていると一台の車が止まった。運転席の男に何か言って、ウエイトレスの女が俺のほうに駆け寄ってきた。「あたし、喫茶店の息子さんと結婚することになったの」。それが彼女との最初で最後の会話だった。あの沈黙の目の語り合いは何だったんだろう、そういう落胆がないわけでもなかったが、「おめでとう」、俺は車のテーブルに飾ってある一輪のユリの花を手渡した。「うん」、彼女はそう頷いて、また足早に車に戻っていった。
車に乗ってたこ焼きを売っていると、いろんな人たちが話しかけてくる。しかし、車の鉄の囲いが常に俺とその人たちの間に立ちはだかって、それ以上入り込むことはなかった。
車の中で、俺は、この鉄板の外の人とは違う、そういう意識が強かったのかも知れない。
ある雨の日、傘をさして一人の女が来た。サイドの窓から「あたし、大学の中で、男を知らないのはあたしだけなの。お願い、今度の休みに待ってるから」。指定した場所に来いという。「待ってるから」、女は懇願するように言い残すと、とぼとぼ何処かに帰って行った。脚が悪いのか、少し右脚を少し引きずっていた。俺は行かなかった。ある日その女が来て、「どうして来なかったの、させてあげたのに。恐かったの?」。俺も女は知らなかったが、好きでもない女とする気にはなれなかった。それ以降その女は来なくなった。
高校を卒業する時、社会科の教師が文集に贈る言葉を書いた。芥川龍之介の言葉で「ひとを食わずんば生き得るものに非ず」。ええか、これはニューギニア戦線の日本兵の話と違うぞ。お前らこれから社会に出て、人にあった時、ひとに飲まれるな、会った瞬間、そのひとを飲み込むぐらいの気迫を持て生きろというこっちゃ。その教師はポンチュと呼ばれていた。昔、ヒロポン中毒だったらしい。その教師の話は、俺にとって印象的だった。
ニーチェの超人の思想とも相まって、それ以降、人をひととは思わなくなっていった。不思議なことに、そう思っていくと、次第にどもらなくなっていった。ひとをひとと思わなければどもらなくなる、皮肉な話だった。
大学の入学金が溜まりかけた頃、ひとりの女に惚れてしまった。客として初めて会った時、その女は黒のスカートに真っ赤なブラウスという派手な服装で化粧も濃かった。水商売かなと思ったが、話すと純真で、それ以降はたこ焼きは買わず、ちょくちょく顔を出すようになった。親戚の家に間借りして美容師になるために美容学校に通っているという。俺は本気で、惚れてしまった。彼女の休みのたびにデートを重ねた。ラブホテルで俺は初めて女を知った。むこうも初めてでシーツに赤い血が滲んだ。歳は俺よりひとつ上の二十歳だった。俺の頭の中は、彼女がすべてになった。神でもあり仏にもなった。俺はこいつと結婚しようと思った。大学など先の話はもういい。俺は貯めた金でアパートを借りた。一緒に住もうと思ったからだ。しかし彼女は一緒には暮らさなかった。相変わらず、休みの日だけアパートに来た。しばらくして、彼女が「子供ができたかも知れない」と言った。「そのことは黙って親に会ってくれる?」。俺は同意し、彼女の家に行って、両親と会った。「結婚させて下さい」と言って、「その歳で結婚だなんて、狂ってるとしか言いようが無い」と言われた。よほど子供のことを言おうと思ったが約束だったので口にはしなかった。彼女の兄というものが出てきて「失恋することも人間を大きくするよ」と言われた。
アパートの一室で、たこ焼き屋という仕事が悪いのかとも思った。社長や専務に可愛がって貰っていたが、俺はたこ焼き屋をやめることにした。背広を着て、ネクタイを締める仕事ならいいのかと、電話の債権の訪問販売の仕事をした。ところが、直接電電公社に申し込めば、安く電話が引けるのに、一種のサギのような仕事だった。それに彼女の休日と合わず、俺はその会社を辞めた。何回か会ってるうち、子供も出来ていないことがわかった。一体、俺は何をやってるのだろう。アパートで金に窮し、メザシばかりを食べていた。結局、再びアパートを引き上げて、実家に帰らざるを得なくなってしまった。
またたこ焼き屋を始めた。しばらくすると、社長から「おまえ、車一式と場所代格安で売ってやるから独立しろ」と言われた。俺は実家で材料を仕込んで売るようになった。金は一週間でサラリーマンの一ヶ月分の給料に相当するほど儲かった。しかし俺は金に執着がまるでなかった。仕事が自由になった分だけ、仕事をしなくなった。寺に行って、仏像を観るのが好きだった。庭園で哲学書を読み、また、仏像とにらめっこした。
ある日、久しぶりにたこ焼き屋の会社に行くと、なにやら人が集まって揉めていた。話を遠巻きに聞いていて、初めて、ここはテキヤであり、何々会という暴力団の息の掛かった所だと知った。「坊主、お前は関係ないから向こうへ行ってろ」、目をかけてくれていた社長は俺を巻き込みたくないようだった。
ある日、深夜に繁華街で売ってると、二人連れの客がきた。「このごろの素人は恐いね、兄貴」、そういいながら背広の泥を落としたり、顔の傷を拭いていた。俺はふっと口から出てしまった。「兄さん方、どちらから来られたんですか?」、土地を聞くつもりだった。「なに、この野郎、降りろ」、言うなり、車から引き釣りだされ、胸倉を掴まされた。そうか、組関係か、その時初めて俺は気づいた。とっさにこれしかないと俺は思った。「兄さん、俺をやってもいいけど、ほら、事務所のもんが見てまっせ。あんたら、ぼこぼこにやられまっせ」。
事務所の連中など誰もいないのに、俺はハッタリをかました。彼等にはその言葉が通じたようだ。「兄貴、やめよ」「ああ」。二人は銭を置いて立ち去って行った。
頃は70年安保騒動の最中だった。多くの学生たちがデモで練り歩いていた。「安保反対、安保反対!」、みんな頑張っているのに俺は何をしているんだろう。そう思って、一度デモにも参加したことがある。シュプレーヒコールのあと、皆で座り込んで、「夜明けは近い~」とフォークソングを合唱した。言い知れぬ、共生感、連帯感に酔った。しかし、車の鉄板のように、やっぱり他者と俺と遮断する何かがあった。俺は組織には入れない、入りたくても、仲間とともに生きることはできない、俺は、孤独でいい、それしか俺の道はない、そういう思いだった。統一教会の若者にも誘われた。彼は身振り手振りで「日本の夜明けは京都から」と俺を説得し、文鮮明の「原理主義」の本を手渡された。キリスト教にも興味はなかった。ニーチェの「神は死んだ」のほうを信じていたからだ。孤独でいい。孤高でいい、何にも属さず、俺は生きる、そう思っていた。
仏像を観ていると、心が浄化した。ニーチェの「超人」に通じるものがあった。その日も寺に来ていると、本堂からお経が聞こえてきた。何気なく見ると、外人がお経を読んでいる。「すごいね、外人なのに」、俺は声を掛けた。話を聞いてみると、二人の外人はカナダ出身でフランスに住んでいて、ひとりは日本語を研究、もうひとりは哲学を勉強しているらしく、日本人のフィアンセと三人だった。今日泊まるところをまだ決めていないというので、俺んちに来いよと、たこ焼きの車に乗せて、実家に着いた。外人たちが数日宿泊した翌日、俺は、コマーシャル製作会社の面接があった。俺は、絵も音楽も好きだったし、テレビコマーシャルを創る仕事ならやってみたいと思っていた。やっぱり新聞募集を見ていくと、女の社長だった。俺は、たこ焼きの車を横付けにして、自分で色を塗ったりした独自の履歴書を持っていった。それのほうが受けがいいと思ったからだ。面接の終わり方、不採用の感触だった。だから俺は給料はいらんから勤めさせてくれと言った。しかし「あなたのような人はどうせ独立するから」と言われた。ケツの穴の小さい女社長め、唾を吐いて外にでた。実家に帰ると、外人たちも観光から帰ってきており、面接がダメだったことを報告している時だった。印刷工場に勤め、妻と子供と同居している俺の兄が仕事から帰ってきて、疲れもあったのか、俺に文句をいいだした。「なんじゃ、おまえは。働きもせず、外人なんか連れてきて、ええかげんにせんかいッ」。口論になった。「だいたい実存主義かなんか知らんが、外国かぶれしやがってッ」。この一件で、俺はもう実家に居場所がないことを知った。日常生活をちまちまと必死で守って生きている兄貴やおやじを反面否定する思いが兄貴にも伝わっていたのかも知れなかった。テレビではまさに安田講堂で学生と機動隊の衝突を生々しく報じていた。東京にいけば、俺の生きる道があるかもしれない。俺は外人たちとたこ焼きの車で東京に向かった。21歳の夏だった。

(長い文章ご精読ありがとうございました。これはぼくの自叙伝でして、もし続きにご興味のある方は、左のカテゴリーの「小説」をクリックして戴ければ、この続きが保存されています)