
■製作年:2011年
■監督:スティーブ・マックイーン
■出演:マイケル・ファスベンダー、キャリー・マリガン、ジェームズ・バッジ・デール、他
→シネクイントにて
映画「SHAMIーシェイムー」は大都市ニューヨークにに生きるセックス依存症の男を描いた作品だ。セックス依存症、タイガー・ウッズなどでその言葉を知った現代病?男は自宅に商売女を呼びセックスを、飲み屋で知り合った女とセックスを、インターネットのアダルトサイトを見て、アダルト雑誌を収集し、自宅・会話を問わず自慰に耽る…。
外見はクールなビジネスマン、仕事以外の日常がセックスまみれであることはパッと見では想像さえできない。与えられた時間、仕事は真面目にする。それも成果をあげるように。そこそこの道徳観、他人には迷惑をかけない、ただ己の欲求するセックスによって得られる快楽を求めて即物的に行動する。私はこの映画の主人公を見ていて、そうした男性は意外と多いんじゃないかと思ったた。そうした行動は程度の差はあれ、多く男に身に覚えがあることではないだろうか?現代は情報が氾濫し、氾濫しすぎることで非日常空間は日常と化し、自分という人間を支えるために刹那的、即物的な欲求消費を求めざる得ない。
しかし、男の本態はセックスといいながらも、実は相手がいない自慰行為でしかないということがわかってくる。何を普通とするかは、この映画を見ているとわからなくなってくる部分もあるが、まず会話を楽しみコミュニケーションをとって自然な形での男女のセックスとなると、男の男性自身は役に立たない。不能な自分と出会ってしまうのだ。つまり、恋人同士の自然なセックスはできない。できないけれど、その直後に、商売女なら役に立つという矛盾。
つまり、男は女という肉体的な存在を伴いながらも、それを借りて実際は自慰行為をしているに過ぎないということになる。映画はそこを映しだすにあたり、この主人公の本性は、生きること、イコール、射精することという空虚な存在であることを描いているように思えるのだった。雨に打たれどんなに苦しんでも、その雨が止むと、またいつもと同じように射精を求める旅にでるしかない。映画は男の空虚で殺伐とした人生を見せて、お世辞にもエロティックであるとは言えない。乾燥しまっくっているのだ。そして、スクリーンという扉を開いて、この男はあなた自身ではないですかと問いかけている。見せてはいけない男の性としての自画像、そんな映画でした。
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