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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.180⇒青蛾館演劇公演「アダムとイヴ 私の犯罪学」を見た

2011-10-24 | 寺山修司

■日時:2011年10月22日(土)、19:00~

■劇場:中野・劇場MOMO

■作:寺山修司

■演出:野口和彦

■出演:野口和美、近童弐吉、長谷川哲朗、村田弘美、小林圭太、他

 

この寺山修司の演劇作品は、1966年12月アートシアター新宿文化で初演されたもの(私がほんの5歳の時だ)。で、先日、劇団「青蛾館」によるその戯曲の上演を見てきました。「アダムとイヴ 私の犯罪学」はメインとなる母親役を当時のグラマー女優・春川ますみ(今村昌平監督による「赤い殺意」の演技が印象的!)が演じたといいます。寺山の戯曲集の最後にコメントが掲載されていて、寺山修司は以下のように述べています。「作品はこの、ほとんど春川ますみのためにかかれたようなもので、執筆中にも私はたびたび春川ますみと遭って、彼女の肉塊と抒情とを目の秤ではかりながら、書きたのしんだ。」女優の個性と一体化したその戯曲を今演じるならば、野口和美が最適であるとは最も至極なことか。はたして舞台上の野口和美は嗚咽が出そうになるくらい?チャーミングで見事な演技を見せていました。

 

私は、事前に寺山修司の戯曲を読んでこのお芝居を見たので、青蛾館は丁寧に戯曲を上演している印象を受けました。ただ、私がアダムとイヴ、カインとアベルの聖書の世界に詳しいわけではないので、寺山の作品をどこまで理解できているのかがイマイチ不安ではあるのですが…。そうした基調にあることは置いておいて、林檎を食べつづける母親が実は狂っていた?もしくは狂人にさせられた?というところは、舞台を見ていて一番ゾッとした部分でした。野口和美の汽車を真似たトランスな演技がその狂気性と相俟って人間精神の不気味さを感じさせるものでした。この作品においても寺山修司はそうしたように、母子関係、特に母親を落としるようなモチーフが登場し、どこまで母親の呪縛があったのか?と考えさせられます。そしてその母親こそが寺山修司にとって創作大きな源泉の一つであったことが、また伺いしれるのでありました。

 

◇寺山語録~「アダムとイヴ 私の犯罪学」より~◇

 

 

 

●ぼくの鉄道は、ぼくのなかを流れている赤い血なのだよ。お父さん。血があつい鉄道で、はしり抜けてゆくぼくの汽車が心臓にさしかかるとき、ぼくの喉は思わず、ポーという汽笛をあげる……そう、それはやがて来る時代のさむ空を突刺すようなポーのひびきだ。

 

 

●地上から一人の人間が姿を消すたびに空がその罰をうけて、星をかかげるかな、って思うことがある。だれかがだれかを捨てて旅立つたびに空には新しい星が一つづつ殖えるのだ。もしかしたら天文学は、地上の罪のかぞえ唄なのかも知れない。

 

 

●鳥だって生まれるときには、卵の殻をこわすわ。

 

 

●だれだって自分がかわいいからね。いざってときには愛とか死とかってことばも、ポケットの片隅の煙草の屑みたいにはたき捨ててしまう……

 

 

●…林檎はこの世界で一番小さな地球!片手にでものせられる「創世紀」のいれもの。毎日、毎日、林檎を食って食って食いまくってやる…

 

※「寺山修司の戯曲1」(思潮社)より引用

 

寺山修司戯曲集〈1〉初期一幕物篇
寺山 修司
劇書房
寺山修司の戯曲 1
寺山 修司
思潮社
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