え~っと、今日もニーチェの「善悪の彼岸」についての引用となります。読んだものをこうして引用していく行為はまた違った意味合いをもたらします。全体を読んでいる時は本に対する印象のようなものが先に起ってくるのですが、部分のセンテンスを引用(そしてデジタル情報としてわざわざ打ち込むという行為もある)する時は視点がミクロに移り、それらを集積していくにあたり再び全体の印象が浮かび上がってくるような気になります。だからといってニーチェを理解できたかは別問題なんですが…。
“わたしたちの良心のうちには音楽があり、わたしたちの精神のうちには舞踏がある。これには清教徒たちの繰り言も、あらゆる道徳の説教も、偽善ぶりも調子が合わないのである。”
“「利害関係のない」行為なるものは、ある前提のもとではきわめて深い関心と利害関係のあるものなのだ。ー「それでは<愛>はどうなるのか?」ー何だと、愛から行われる行為は、「利己的でない」行為だというのか?しかし君たちは、何という愚か者だろうー!「みずからを犠牲にした者は称賛されるのではないか?」ーしかしほんとうの意味で自分を犠牲にした者であれば、自分がその代わりに、あるものを望み、それを手にいれることができたことを知っているのだーおそらく、自分のもっている何かを犠牲にすることで、自分に必要な何かを獲得したのである。”
“真理は女なのだ。真理に暴力を加えてはならないのである。”
“おそらく現在あるものには。未来をもってものが何もないとしても、わたしたちの笑いだけにはまだ未来があるのだ!”
“わたしたちの欲望は、無限のものへの欲望であり、尺度で測られることのないものへの欲望である。息づかいも荒く、前に進みたがる奔馬にまたがった騎士のごとくに、わたしたちは無限なものに向かって進もうとして、馬の手綱を投げ捨てる。わたしたち現代の人間、わたしたち<半野蛮状態>の人間はーもっとも大きな危険に際してこそ、ー自分たちの至福を初めて味わうのである。”
“苦悩がもたらす鍛練、大いなる苦悩がもたらす鍛練、ーこうした鍛練だけが人間を高めるものであったことを、君たちは知らないのか?不幸のうちで魂が張り詰めることで、魂は強きものに育てられるのである。偉大なものが滅びてゆくことを目撃して、魂は戦慄する。魂は不幸を担い、不幸に耐え、これを解釈し、利用しつくすことで創造的になり、勇敢になる。そして魂に贈られた深みと仮面と精神と狡智と偉大さのすべてーこれらはすべて苦悩を通じて、大いなる苦悩による鍛練を通じて贈られたものではなかったか?”
“人間のうちでは、創造されたものと創造する者が一体になっている。人間のうちには、素材、破片、余剰、粘土、糞便、無意味なもの、カオスが存在している。しかし人間のうちにはさらに、創造するもの、構築するもの、堅きハンマー、神的な観照が創造の後に憩う安息日があるー君たちにはこの対立が理解できるか?”
“ある人にとって正しいことが、他人には正しくないことがありうること、万人に適用される道徳を要求することは、より高き人にたいする侵害であること、要するに、人間のあいだには位階の秩序というものが存在するのであり、したがって道徳にも位階の秩序というものが存在することを、知ろうともしないし、嗅ぎつけようともしないのだ。”
“わたしたちが「高度の文化」と呼んでいるほとんどすべてのものは、残酷さを深めて、それを精神的なものとしたことで生まれたのであるーこれがわたしの主張する命題である。”
“誠実さ、真理への愛、叡知への愛、認識のための自己犠牲、真実を求めるヒロイズムなどという言葉……こうした高貴な言葉による装飾もまた、人間の無意識な虚栄から生まれた昔ながらの虚飾の飾りであり、虚偽の古着であり、虚偽の金粉であるにすぎないし、このようなへつらうような彩色と上塗りの下には、<自然的人間>という恐るべき<原文>が隠れていることを認識しなければならないのだ、と。”
“「人間よ、お前は自然以上の存在だ!お前は自然よりも高き存在だ!素性の異なる存在だ!」と人間たちの耳に吹き込んできた誘惑の調べを拒否することであるー”
“はっきりと言えば、男のうちの男が、もはや望まれることがなく、大きな存在として育てられることがなくなれば、女がしゃしゃりでてくるのは当然なことだし、よく理解されることでもある。しかし理解されがたいのは、そのことによってー女が堕落するということだ。現在ではこのような事態になっているのだ。”
“ヨーロッパの民主化は、もっとも精密な意味での奴隷制度にふさわしい人間の類型を作りだすものとなろう。しかし個別の例外的な事例にあっては、強い人間は今までおそらく思われていたよりもさらに強く、豊かにならざるをえなくなる。”
“天才には二種類ある。一方の天才は何よりも産出し、産出しようと願っものである。また他方の天才は受胎させられることを好み、生むことを好むものである。”
“誰もみずからのうちにある最善のものを知らないのだ。ー知ることができないのだ。”
“「人間」という類型を高めること、道徳的な表現を超道徳的な意味で使えば、絶え間なき「人間の自己超克」を実現しようとする渇望である。”
“貴族階級の根本的な信念は、社会は社会のために存在するものではあってはならず、むしろ下部構造として土台として存在すべきであり、この土台の上に、選び抜かれた種族の人々が高次の課題に向かって、そもそもより高き存在に向かってみずからを高めてゆくことができるべきだ、というものだ。”
“生そのものは本質において、他者や弱者をわがものとして、傷つけ、制圧することである。抑圧すること、過酷になることであり、自分の形式を[他者に]強要することであり、[他者を]自己に同化させることであり、少なくとも、穏やかに表現しても、他者を搾取することである。”
“生きることは力への意志である”
“「搾取」というのは、退廃した社会や不完全で素朴な社会において行われるものではない。それは有機体の根本的な機能であり、生の本質そのものなのである。ほんらいの力への意志から生まれたもの、生の意志そのものなのである。”
“道徳的な価値の違いが発生する道は二通りある。一つは支配階級の者たちが、支配される者たちとの違いを意識し、そこに快感を感じることで生まれてくる。ーもう一つは支配された者たち、奴隷、さまざまな程度で隷属する者たちのうちで生まれてくる。”
“支配する者たちの道徳にあっては、「善い」と「悪い」という対立が、「高貴な」と「軽蔑すべき」という意味の対立であることはたやすく理解できよう。”
“卑しい大衆は嘘つきであるというのが、すべての貴族的人間の根本的な信念である。”
“高貴な人間は、自己のうちにとどまる力強き者を敬う。みずからに力を行使することのできる者を、語るべきときと沈黙すべきときを知っている者を、喜びをもって自己に厳しさと過酷さを行使する者を、あらゆる厳しさと過酷さを尊重する者を敬うのである。”
“報復においては精密であり、友愛という概念を洗練させ、敵をもつことを必然なものとすること(嫉妬、闘争欲、傲慢などの情動の捌け口として、ー根本的には、良き友でありうるためにも、敵が必要なのだ)、これらはすべて高貴な道徳の典型的な特徴である。”
“奴隷のまなざしは、力強い者たちの徳を妬み深く眺めるだろう。奴隷は懐疑家であり、不信の念に駆られた者である。”
“奴隷の道徳によると、「悪」とは恐怖を引き起こす者のことである。これに対して主人の道徳では、恐怖を引き起こす者、恐怖を引き起こそうとする者は「善き者」であり、軽蔑すべき人間は「悪しき者」と意識されるのである。”
“自由を求める願いと、幸福を求める本能、自由を味わう感情の濃やかさなどは、必然的に奴隷の道徳と特性に属するものである。”
“高貴な人間が想像できないのは、自分のもっていないもの、ーすなわちみずからに「値しない」ものによって、他人から高く評価されたいと願う人間がいるということ、そして後にはこうした高い評価をほんとうのことだと信じようとする人間がいるということなのだ。”
“価値を作りだすのは、ほんらいの意味で主人の権利なのである”
“位階への本能とでも言うべきものが存在する。それは何よりも、その者の高い位階を示す本能である。畏敬のニュアンスを楽しむ欲望とでも言うべきものがある。これはその者の高貴な素性と習慣をうかがわせる欲望である。また。魂の洗練、善さ、高さを調べる危険な試練があるが、これは恐ろしい権威の力によって厚かましい扱いや不作法な姿勢から守られていない第一の位階の者が傍らを通り過ぎてゆくときに、その魂がどのような反応を示すかという試練である。第一級の位階の者が、まだそれとわからず、発見されてもおらず、誘惑的で、おそらく気の向くままに身を隠し、変装して、生ける試金石であるかのようにみずからの道を歩みつつ、魂の側を通り抜けたときに、どう反応するかによって、その魂は試されるのである。”
“ある種の忌まわしい不摂生、ある種の陰険な嫉妬、不作法な自己の正当化ーいつの時代でもこの三つが混じると、ほんらいの賎民の類型ができあがるー、こうしたものは、堕落した血と同じように、子供たちに確実に伝えられるのだ。そして最高の教育と教養をもってしても、こうした遺伝をせいぜいごまこすことができるにすぎない。”
“わたしたちのきわめて大衆的で、いわば賎民的な時代にあっては、「教育」と「教養」なるものは、本質的にごまかしの技術であらざるえないのである。ーつまり、素性を、身体と精神のうちに遺伝として伝えられた賎民性をごまかす技術なのである。”
“エゴイズムとは高貴な魂に本質的なものである、と。ここでエゴイズムというのは、「われわれこそが存在する」という人々にたいしては、他の人々はその本性からして服従しなければならないし、自分を犠牲にしなければならないという、あの確たる信条のことだ。高貴な魂はこのみずからのうちのエゴイズムを、どんな疑問符もつけずにうけいれるのであり、そのために自分が過酷であるとか、強制的であるとか、わがままであると感じることはないし、むしろそれが事実の根本的な法則に依拠したものではないかと感じるのである。”
“言葉というものは、概念の音符のようなものだ。しかし概念というものは、多かれ少なかれ固定されたイメージの記号であり、しばしばまとまって訪れてくる感覚、あるいは感覚の集まりを示すために使われるものである。人々がたがいに理解しあうためには、同じ言葉を使うだけでは十分ではない。その同じ言葉を、同じ種類の内的な経験に使う必要があるのであり、究極のところ、人々はたがいに共通の経験をしなければならないのである。”
“ある魂のうちで、どのような感覚の集まりがもっともすばやく目覚め、言葉を使って表現し、命令を下すか。これが魂の価値がもつ位階の秩序を決定するのであり、それが結局は魂の財産目録を定めるのである。ある人の価値評価は、その人の魂の構造について何かを明かすものだ。その人の生の条件がどこにあるか、その人のもっとも緊急な問題は何であるかを漏らすのである。”
“選び抜かれ、繊細で、稀少で、理解し難い人々は孤立しがちであり、孤独のうちで不慮の出来事に襲われるものであり、繁殖することも稀なのである。このように<類似したものに向かって前進すること>は自然なこと、あまりに自然なことなのである。だから人類が類似したもの、ふつうのもの、平均的なもの、家畜の群のようなものに向かって、要するに卑俗なものへ!ー進むのを妨げるためには、巨大な抵抗力を呼び起こす必要があるのだ。”
“大衆はある神を崇拝する。ーそしてその「神」とやらは。哀れな犠牲獣にすぎなかったのではないか!成功はつねに最大の詐欺師であるーそして「作品」そのものが成功なのだ。大政治家、征服者、発見者などは、もはや見分けがたくなるまでに、自分の創造したもののうちに変装している。じつは「作品」こそが、芸術家や哲学者の創造した「作品」こそが、それを創造したとされる者を作りだすのだ。尊敬される「偉大な人間」なるものは、後から作りだされた小さくて劣悪な虚構なのである。歴史的な価値の世界においては、こうした贋金造りが横行しているのである。”
“女たちは、苦悩の世界においては優れた透視力をもっているが、残念なことに自分の力を超えたところまで他人を助け、援助しようとするのだ。”
“女性は、愛はすべてのことをなし遂げうると信じたがるーしかしそれは女に特有の迷信なのだ。ああ、心の奥底を理解するものであれば、最高の愛、もっとも深い愛ですら、いかに貧しく、無援で、尊大で、やり損なうばかりであり、救うどころかむしろ破壊するものであることを、見分けることができるものなのだ!”
“深い苦悩を味わったすべての人は、精神的な自負心と吐き気を感じているものだーどれほどまでに深い苦悩を味わうことができるかによって、その人位階がほぼ決まるのである。こうした人は、自分の苦悩のために、もっとも智恵のある人が知りうる以上のことを知っているという確信を抱き、その確信によって彩られているのである。これは「お前たちなど、何も知らないではないか!」と言いうるほどの多くの遥かな戦慄すべき世界を熟知し、そこを「わが家」としたことがあるという恐るべき確信である。”
“苦悩する者が沈黙のうちに抱く精神的な自負心は、選り抜きの認識者、「聖別された」とでも言うべき認識者、ほとんど犠牲にされた者とも言うべき認識者が抱くこうした誇りは、さまざまな仮装を必要とする。差し出がまし同情の手から身を守るために、そもそも苦しみにおいて自分にふさわしくないすべての者から身を守るために、仮装が必要なのだ。”
“「仮面に」敬意を払うこと、そして心理学や好奇心の使い方を間違えないようにすること、それが自由な人間のつとめの一つだ”
“純潔という最高の本能は、これに憑かれた者を一人の聖者にしてしまい、驚くべき危険な孤独のうちに置くのである。それこそは聖なるものをであり、ー純潔の本能の最高の精神化だからである。沐浴幸福のいわく難い充実を味わうこと、魂を絶えず夜から朝へとかりたて、暗鬱なものと「陰鬱なもの」から、明るみへ、輝くものへ、深みへ、繊細なものへと駈り立てる情熱と渇望を抱くこと、ーこのような傾向こそが人を際立たせるのであり、これは高貴な傾向である。ーこれは人を分かつのである。”
“人が高貴であることを示す<しるし>のようなものがある。みずからの義務を、すべての人への義務まで引き下げないこと。みずからの責任を譲り渡すことを望まず、分かち合うことを望まないこと、みずからの特権と、その特権の行使も、みずからの義務の一つと考えること。”
“ある人の高貴さをみることを望まない者は、その人における低劣なもの、目立つもの、それだけ鋭い眼を向けるものだ。ーそしてそのことによって自分の正体をさらけだすのだ。”
“わたしたちはおそらく、誰もが自分にふさわしくないテーブルについてしまっているに違いない。”
“自分の四つの徳、すなわち勇気と洞察と共感と孤独という四つの徳の主人でありつづけることだ。孤独はわたしたちにとって一つの徳である。それは純粋さのもつ崇高な傾向と衝迫を示すからだ。”
“すべての深い思想家は、誤解されるよりも理解されることを恐れるものだ。”
“人間とは、何とも嘘つきで、不自然で、不透明な動物である。ほかの動物からみると人間は、その力よりも策略と狡智のために不気味な存在である。人間は自分の魂を何とか単純なものとして享受しようと、疚しくない良心というものを発明したのだ。”
“哲学者とは、絶えず異常なことを経験し、見聞きし、邪推し、望み、夢見る人のことである。自分自身の思想によって、外からも、上からも、下からも、彼に起こる特有の出来事や落雷に撃たれる者のことである。”
“「悦ばしき智恵」という護符をー人々が胸と首に掛けられんことを望む。”
“わたしはディオニュソス神の最後の門弟であり、最後の秘蹟を授けられた者である。”
“「わたしからみれば人間は、地上に存在するすべての生き物のうちで、もっとも愛すべく、勇敢で、独創力のある動物なのだ。どんな迷宮に迷いこんでも、正しい道をみつけられる生き物だ。わたしは人間に好意を抱いている。わたしは、どうすれば人間をもっと前に進ませ、今よりもっと強く、もっと悪く、もっと深いものにできるだろうかと、思い巡らすことがしばしばある」ーわたしは驚いて「もっと強く、もっと悪く、もっと深くですか?」と尋ねた。「そうなのだ」と神は言葉を重ねた。「もっと強く、もっと悪く、もっと深くだ。もっと美しくでもある」。ーそして誘惑者である神は、人を魅惑する褒め言葉を語ったかのように、穏やかな微笑を浮かべた。”
※“”部分、「善悪の彼岸」二ーチェ(中山元・訳)光文社古典新訳文庫より引用
善悪の彼岸 (光文社古典新訳文庫) | |
Friedrich Nietzsche,中山 元 | |
光文社 |
ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫) | |
Friedrich Nietzsche,信太 正三 | |
筑摩書房 |
善悪の彼岸 (岩波文庫) | |
Friedrich Nietzsche,木場 深定 | |
岩波書店 |
善悪の彼岸 (新潮文庫) | |
竹山 道雄 | |
新潮社 |
ニーチェ入門 (ちくま新書) | |
竹田 青嗣 | |
筑摩書房 |
まんがと図解でわかるニーチェ (別冊宝島) (別冊宝島 1729 スタディー) | |
白取 春彦 | |
宝島社 |
図解でわかる! ニーチェの考え方 (中経の文庫) | |
富増 章成 | |
中経出版 |
これがニーチェだ (講談社現代新書) | |
永井 均 | |
講談社 |
ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 (講談社プラスアルファ新書) | |
適菜 収 | |
講談社 |
はじめてのニーチェ (1時間で読める超入門シリーズ) | |
適菜 収 | |
飛鳥新社 |
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