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北方4島を売ってしまったのは誰か。

2016-12-22 23:57:25 | 国内国際情勢
1956年の日ソ共同宣言によれば、日本と現ロシアの間で平和条約締結後に北方四島の

内の歯舞島、色丹島は返還するとの内容に、日本側はロシア側との平和条約を結ぶ

努力を長年続けて来たかと言えば、必ずしもそうではない。言葉は悪いが放置され、議論の

卓上に登ることさえ無い場合も多かった。


安倍総理は2016年12月に山口県長門市において、ロシアのプーチン大統領と首脳会談を

開き、放置された北方四島の問題に解決の糸口が見つかると期待されていたが、残念ながら

成果を上げることが出来なかったのが実情だ。


ハッキリ言って日本はロシアと平和条約を締結する気持ちはかなりの高確率で少ない。

平和条約と銘打ってもその内容は決して喧嘩しないとか生易しいものでは無い。そもそも

ロシア側が求める平和条約とは日本が1951年に米国と結んだサンフランシスコ平和条約に

対抗する手段としての外交関係国としての立場を要求しているものであり

事実上、日本は米国とのサンフランシスコ平和条約の関係があるのでロシアとは平和条約は

結べないと考えるのが妥当だ。



現在サンフランシスコ平和条約と呼ばれているものは、二十年程前はサンフランシスコ講和条約と

呼ばれていた。それが「講和」ではなく「平和」条約と呼ぶようになったのは1990年代後半の

米国クリントン政権時代からである。

1995年に起きた米軍兵の少女暴行事件で取り沙汰された日米地位協定の見直しはその大本である

サンフランシスコ講和条約に由来する行政的な協定で、講和条約による主権の回復の意味を

問われる機会が多かった為に、評判の宜しくない「講和条約」を「平和条約」と呼ぶようにして

少しでも地位協定の印象を良くしようとしたモノである。


20年以上経過した今になっても「講和条約」から「平和条約」と名前が変わっても、その主旨が

改善していない事を証明するかのように名護市でのオスプレイ墜落事故の米軍の対応は決して

好感が持てるものではなかった。



日ソ共同宣言から足掛け60年経った今になっても北方領土が解決しない状況で、多くの国民が

半ば諦めかけて忘れ去られようとしている中で、

一人だけ「対ロシアのスタートラインに立った位の気持ちで・・・」

などと検討違いの都合の良い話をする人もいるもので、麻生と言う名前らしい。


安倍総理の前の自民党政権でロシア側と首脳会談を開いた人物といえば麻生太郎で、外務省の

HPから確認すると、今でも人々の記憶に残る当時の財務大臣の中川昭一がイタリアG7閉会後に

酩酊記者会見を行った2009年2月14日から僅か4日後の2月18日にロシアのサハリンで

麻生とメドヴェージェフ大統領で首脳会談が行われている。その首脳会談で

「型にはまらないアプローチ」で帰属の問題を最終的な解決を目指すとなっている。

同年5月12日にはプーチン首相とも会談を行い、 

「帰属の問題に関し、最終的な解決を図る必要がある。」と述べている。

そして2016年の現在では「我々の世代で解決をするよう努力する」となっている。


麻生太郎が総理大臣時代に僅か3ヶ月の間にロシア側のトップであるメドヴェージェフ大統領と

プーチン首相と2度も会談を行うことは異例とも思える。


つまりはこう。麻生太郎はアレだ。狙いどころで日本の落としどころだ。間違いなく今の段階で

領土問題を物にする為にこの機会を無駄にせず、確実に勝利すべき。

あれから7年経った今になって、日本はロシアに麻生政権という千載一遇のチャンスを与えてしまった

ことを悔やまなければならない現実に直面している。それが今の北方4島問題。

どうやら北方4島の帰属の問題には答えが出ているようです。








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