◻️171の13『岡山の今昔』岡山人(太田直太郎、内藤定次郎、内藤孝次郎)

2021-04-06 22:15:41 | Weblog
171の13『岡山の今昔』岡山人(太田直太郎、内藤定次郎、内藤孝次郎)


 太田直太郎(おおたなおたろう、1798~1829)は大坂に遊学して、武田流算学家元の武田無量斎に和算を学ぶ。

 武田真元(たけだしんげん、号は真空堂または無量斎、。?~1847)は、和算家だ。和泉(いずみ)堺の人。土御門(つちみかど)につかえる。坂正永(さかまさのぶ)、村井宗矩(むらいむねのり)に和算を、間重富(はざましげとみ)に暦法をまなぶ。

 さて、それからの太田は、どのような経緯をたどっていったのだろうか、武田流(真元流)をおこす。易学にも精通し、著作に「階梯算法」「算法便覧」などがあるという。


この流派は、特に近畿以西に勢力をもっていた。
 その武田から算術に関わる「秘術」の伝授される機会を得て、滞在50日でその奥義を極めたというから、秀才に違いない。帰郷後も、研鑽を積んで、算術図説数十条を作る。
 太田の没後、岡山市の吉備津神社と倉敷市玉島の羽黒神社に掲げたという。「新撰浪華武田流諸国算者見方角力」に関脇、また「諸国算者高名鑑」にも頭取として名を連ねている。

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 武田流の兄弟弟子に倉敷の内藤定次郎(ないとうさだじろう、1796~1870)がいて、内藤が太田に産題の依頼をしている文章が残っていることから、交流が続いていたことがわかっている。その彼は、当時の窪谷郡倉敷村の穀物商・角屋の出身にして、29歳の時大坂に商用でいったおり、武田無量斎に師事し、しばらく算法の習得に努めたという。どのくらいの滞在であったのだろうか、それはともかく、その道を極めたというのなら、秀才に違いあるまい。
 やがて故郷に戻っては、仕事のかたわら私塾を開いて岡山の商人わその師弟らに算法を教授したという。


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内藤孝次郎(ないとうこうじろう、1820~1893)は、角屋本家の養子となり、内藤定次郎の家業の米肥問屋を継ぐ。幼くして、定次郎に算法を学び始め、近隣の同学からは「神堂」とも言われていたという。こちらも、父と同じように、商売のほか、算法の教育者としての人生を送ったものと考えられているようだ。


続く

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◻️107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

2021-04-06 21:05:09 | Weblog
107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

 そもそも百間川の名の由来は、「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が堤防を含め百間(約180メートル)あったことから、そう名付けられたという。現在の岡山市北区三野・中区中島付近で旭川と分流し、操山の北を東流する。それからは、同市中区米田付近で、東に仰ぐ芥子山を避けるように、大きく南に流れを変える。
 それからほどなく南下してといおうか、干拓地の間を通って児島湾に注ぐ。 旭川の分流部より瀬戸内海に出る河口までの総延長は12.9キロメートル、その間の幅は200~300メートル位あるという。


 そもそも、岡山城付近を流れる旭川は、安土桃山時代の宇喜多政権により、に行われた築城工事の時に、蛇行するよう付け替えられ、河道も狭くされた。これだと、北からの水流がその曲がりのところで岸に激しくぶつかり、岡山、石山それに天神山以外の岡山城下は、以来たびたび洪水に見舞われるようになった。特に、1654年(承応3年)に起こった大洪水は、城下に甚大な被害をもたらしたという。

 これに意見したのが、当時岡山藩に出仕していた陽明学者の熊沢蕃山であって、蕃山は、1654年(承応3年)の旭川洪水の経験から、洪水対策として「荒手」と呼ぶ越流堤と放水路を組み合わせた「川除け(かわよけ)の法」を提案し、津田永忠に伝授した模様だ。これを「よし」とした永忠は、藩として取り組むべきと藩主に進言したようだ。

 まもなく藩主の池田綱政から岡山藩郡代の津田に対し、荒手堤をつくるようにとの命令が下り、かかる構想に基に、洪水の際にはここに分流を呼び込んで、3段の荒手を設けることにしたという。これにより水勢を弱めながら旭川の氾濫を越流・放水させるという仕掛けだ。

 この工事は、1669年(寛文9年)に永忠の指揮で着工された。その翌年にかけて、岡山藩普請奉行藤岡内助、石川善右衛門らによって工事が指揮され、御野郡竹田村(現在の岡山市竹田)、中島村(現在の岡山市中島)の間に荒手堤が築かれた。


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 要は、城の上流地点で土手の一部を低くした荒手堤を構えつつ、幅広の百間川溝を掘って東の中川までつなぐ。そうした仕掛けを設けたことにより、旭川の洪水時には水がそこで分流されるようにしたわけである。


 ところが、中川周辺の地域の人々としては、もとより排水の悪い干拓地に、それまでは城下へ流れていた水がどっとこちらへ押し寄せてくるではないか。折しも、1673年(延宝元年)の旭川大洪水では、この百間川のおかげで城下の被害は比較的軽くすんだかわりに、濁水は中川周辺の農村部を襲い、大災害となったという。


 津田としては、この時、しからぱどうしたらよいのかだけでなく、ある壮大な構想を描いていて、その計画の中で、百間川を大改造し、中川周辺の河川排水をすべて一本化する排水路として延長、かつ、その河口部に前代未聞の大干拓を行うというもの、これが、後にいう沖新田である。


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 そして迎えた1682年(天和2年)には、永忠が郡代となり、池田綱政の命が下り、上道郡沖新田開発を計画するにおよび、排水の処理問題とも関連して1686年(貞享3年)から翌年にかけて、百間川の改造、拡張を築造していく。



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 そして迎えた1692年(元禄5年)沖新田の開発に伴い百間川を児島湾まで貫流させ,その河口に大水尾(おおみお)遊水池を設け、そこに唐樋(からひ)を築き,排水を促し潮水の逆流を防ぐ仕組みを導入する。

 すなわち、沖新田の干拓は、倉田新田(1679年(延宝7年)に完成)、幸島新田(1684年(貞享元年)に完成)に続いて、1691年(元禄4年)に、池田綱政の命により津田永忠が主導して干拓工事が開始された。そして、翌1692年(元禄5年)には完成するという、非常なスピードで進められたのは驚きだ。

 同時に、百間川を延長して新田の中央を通すことが設計される。前述した1692年(元禄5年)の沖新田の開発に伴い、百間川を児島湾まで貫流させる工事を完成させる。


 あわせて、その百間川が瀬戸内海へ流れ出るところの河口に、百間川の水を海に排出するための施設として百間川河口水門を設けるとともに、大水尾(おおみお)遊水池を設け、唐樋(からひ)の設備を築き、排水を促し潮水の逆流を防いだ。

 それというのも、大水尾周辺の低地は、一度洪水が起きれば、満潮時とかさなる時もあろう、その時の潮位というのは、時に海側の水位が百間川の水位の方が上回りかねなかったのではないだろうか。そこで、樋門によって水量を調整するためにも広大な遊水池をつくる必要があった。さらに、かかる大水尾池を造るために、当該百間川河口部に築いたのが、百間川大水尾堤防(現在のいわゆる「旧堤」)というわけだ。


(続く)


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