171の13『岡山の今昔』岡山人(太田直太郎、内藤定次郎、内藤孝次郎)
太田直太郎(おおたなおたろう、1798~1829)は大坂に遊学して、武田流算学家元の武田無量斎に和算を学ぶ。
太田直太郎(おおたなおたろう、1798~1829)は大坂に遊学して、武田流算学家元の武田無量斎に和算を学ぶ。
武田真元(たけだしんげん、号は真空堂または無量斎、。?~1847)は、和算家だ。和泉(いずみ)堺の人。土御門(つちみかど)につかえる。坂正永(さかまさのぶ)、村井宗矩(むらいむねのり)に和算を、間重富(はざましげとみ)に暦法をまなぶ。
さて、それからの太田は、どのような経緯をたどっていったのだろうか、武田流(真元流)をおこす。易学にも精通し、著作に「階梯算法」「算法便覧」などがあるという。
この流派は、特に近畿以西に勢力をもっていた。
その武田から算術に関わる「秘術」の伝授される機会を得て、滞在50日でその奥義を極めたというから、秀才に違いない。帰郷後も、研鑽を積んで、算術図説数十条を作る。
太田の没後、岡山市の吉備津神社と倉敷市玉島の羽黒神社に掲げたという。「新撰浪華武田流諸国算者見方角力」に関脇、また「諸国算者高名鑑」にも頭取として名を連ねている。
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武田流の兄弟弟子に倉敷の内藤定次郎(ないとうさだじろう、1796~1870)がいて、内藤が太田に産題の依頼をしている文章が残っていることから、交流が続いていたことがわかっている。その彼は、当時の窪谷郡倉敷村の穀物商・角屋の出身にして、29歳の時大坂に商用でいったおり、武田無量斎に師事し、しばらく算法の習得に努めたという。どのくらいの滞在であったのだろうか、それはともかく、その道を極めたというのなら、秀才に違いあるまい。
やがて故郷に戻っては、仕事のかたわら私塾を開いて岡山の商人わその師弟らに算法を教授したという。
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内藤孝次郎(ないとうこうじろう、1820~1893)は、角屋本家の養子となり、内藤定次郎の家業の米肥問屋を継ぐ。幼くして、定次郎に算法を学び始め、近隣の同学からは「神堂」とも言われていたという。こちらも、父と同じように、商売のほか、算法の教育者としての人生を送ったものと考えられているようだ。
その武田から算術に関わる「秘術」の伝授される機会を得て、滞在50日でその奥義を極めたというから、秀才に違いない。帰郷後も、研鑽を積んで、算術図説数十条を作る。
太田の没後、岡山市の吉備津神社と倉敷市玉島の羽黒神社に掲げたという。「新撰浪華武田流諸国算者見方角力」に関脇、また「諸国算者高名鑑」にも頭取として名を連ねている。
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武田流の兄弟弟子に倉敷の内藤定次郎(ないとうさだじろう、1796~1870)がいて、内藤が太田に産題の依頼をしている文章が残っていることから、交流が続いていたことがわかっている。その彼は、当時の窪谷郡倉敷村の穀物商・角屋の出身にして、29歳の時大坂に商用でいったおり、武田無量斎に師事し、しばらく算法の習得に努めたという。どのくらいの滞在であったのだろうか、それはともかく、その道を極めたというのなら、秀才に違いあるまい。
やがて故郷に戻っては、仕事のかたわら私塾を開いて岡山の商人わその師弟らに算法を教授したという。
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内藤孝次郎(ないとうこうじろう、1820~1893)は、角屋本家の養子となり、内藤定次郎の家業の米肥問屋を継ぐ。幼くして、定次郎に算法を学び始め、近隣の同学からは「神堂」とも言われていたという。こちらも、父と同じように、商売のほか、算法の教育者としての人生を送ったものと考えられているようだ。
続く
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