□178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

2019-02-19 11:05:57 | Weblog

178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。

 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。

 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。

 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。

 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


□177『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)

2019-02-19 09:31:20 | Weblog

177『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)

 宇田川玄随(うだがわげんずい、1756~1798)は、宝暦年間(1751~1764)に津山藩医を務める。その家というのは、元々武蔵野国の出身であった。大人となってそもそもは、代々の漢方医を継いだのだが、桂川ほしゅうや前野良沢に学ぶうち、蘭方医に転じる。オランダ語の習得が必要であったからとて、いわゆる横文字との格闘が伝わる。1792年(寛政4年)に同藩内で、解剖を行う。また、「西説内科撰要」を著わし、西洋内科を初めて体系的に日本に紹介する。

 宇田川玄随の養子に宇田川玄真(うだがわげんしん、1770~1835)がいる。彼は、オランダ語などの語学に優れた。「遠西医範」(30巻)をものにし、またその要約本の「医範提要」(3巻)、およびその付図としての「内象銅版画」を著わす。

 玄真の業績としてはそればかりでなく、時代の要請があったようなのだ。語学の才をかわれたのであろうか、幕府の命で天文方の高橋景保(たかはしかげやす、伊能忠敬の師匠)に協力し、「阿蘭陀書籍和解御用」を務める。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆