♦️287『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(モーツァルトなど)

2018-08-29 19:05:37 | Weblog

287『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(モーツァルトなど)

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)は、当時は神聖ローマ(東ローマ)帝国領ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストの父と、母との間に、七番目の末っ子として生まれた。6歳にして「神童」と呼ばれる程になっていて、その後、ザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷楽師として仕える一方でモーツァルト親子(父と姉と自分)は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地への演奏旅行を行う。
 1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかし、こうした賞賛の割には、報酬はわずかなものであったという。30代には比較的安定した仕事に就き、「実直そのものの教師」(全音楽譜出版社出版部編「モーツァルト、ソナタアルバム2」全音楽譜出版社)であったというのだが、生活にもやや余裕ができたとも伝えられる。しかし、子供が死ぬなど家庭的には安定しなかったらしい。
 短めの生涯に実に数多くの作曲をなした。覇気に富んだものとしては、「ピアノ・ソナタ第11番イ長調K(ケッフェル)331」が挙げられよう。第一楽章の変奏曲は特段の響きあり。その第3楽章ロンド(輪舞曲)は、「トルコ行進曲」とも呼ばれる。オスマン帝国の軍楽隊の音楽にインスピレーションを受けて作曲したという。曲調は流ちょうで軽やか、そして華麗。テンポはかなり速い。聴いていて、次々と場面がひらけていくかのようだ。
 1788年には、6月に交響曲第39番が、7月に交響曲第40番が、8月に交響曲第41番が集中的につくられ、彼の「3大交響曲」と呼ばれる。いずれも、きっちりまとまっている感じだ。人びとは、不思議な感動を誘う、日常でない程の世界へといざなわれるのかもしれない。
 これらの最後のものが「ハ長調K551」で、ギリシア神話における最高神にちなんで、副題を「ジュピター」(太陽の惑星としての「土星」も同名)という。このニックネームは、当時のヴァイオリン奏者でプロデューサーでもあったザロモンにより名付けられたという。「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」も淡麗な雰囲気を醸し出す名曲とされ、彼のパトロンである貴族向けにつくられた。
 また後世に影響を与えたオペラ作品が幾つもあり、その一つ、歌劇「フィガロの結婚」が有名だ。フランスの劇作家ボーマルシェが1784年に書いた風刺的な作品に曲をつけた。伯爵の召使いフィガロと恋人スザンナの結婚をめぐる1日の騒動とのことらしい。
 モーツァルトは、クラシック音楽の「古典主義の時代(1750~1820)」の前半に生き、後のロマン主義の時代への橋渡しを前に没しており、音楽史において、しばしばこんな調子で語られる。 
 「モーツァルトは改革者ではなかった。かれは当時流行していた形式や様式に従って書いた。モーツァルトのオペラは、音楽的に高いものをもっているので偉大なものと考えられている。実際に、18世紀のオペラの中でもモーツァルトのオペラのみが、今日でもつねに上演されているにすぎない。
 様式。モーツァルトのオペラはイタリアの強い影響を示している。かれはパルランド様式を広く用い、またきわめて混み入った筋書きを用いている(フィガロやドン・ジョバンニ)。モーツァルトのオペラは同時代のイタリア・オペラに比べて偉大である。それは(1)モーツァルトの音楽の偉大さと演劇的な作品というものについての意味からいって、(2)モーツァルトの偉大な旋律的才能のゆえに、そして(3)その性格描写の手腕からいって偉大である。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)
かれは音楽を中心に色々書いており、奇抜な言い回しも見られる。その一つに、「音楽は、決して不快感を与えてはなりません。楽しみを与える。つまり常に「音楽」でなくてはなりません」があって、なかなかに世情に通じているといおうか、誠に味わい深い。

(続く)