♦️93『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(初期の帝政まで)

2018-08-08 23:41:15 | Weblog

93『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(初期の帝政まで)

 紀元前43年、カエサル派のオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる二回目の三頭政治が成立する。アクティウムの海で、アントニウスとエジプト女王クレオパトラの連合軍とオクタヴィアヌスの率いるローマ軍との戦いがあり、オクタヴィアヌスが勝利する。いまや、彼は「プリンケプス」(市民の第一人者)にのし上がっていた。
 紀元前27年のオクタヴィアヌスは、元老院からは「アウグストゥス」(尊厳なる者)の称号を得、事実上の帝政が始まる。アウグストゥスがヤヌス神殿の扉を閉める。紀元前27年、ローマがヒスパニアを征服する。紀元前6年、ローマがスカンブリ族以外のゲルマニアの征服にこぎつける。
 紀元前の4年、ユダヤのヘロデ王が死ぬと、ユダヤ人の居留地で反戦が勃発した。当時のこの地域はすでにローマの支配下にあって、シリア総督のクィンクティリアス・ウァルスにより鎮圧される。
 紀元後に移っての6年、ローマはこのユダヤを直接統治下におく。66年にも、ユダヤで反乱が起こる。79年、ウェスウィウス火山が噴火し、ポンペイなどが炎上した。火山灰などに埋もれていたこの都市は、現代に至って発掘作業が行われ、当時のこの都市の全貌が明らかにされつつある。

(続く)

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♦️92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)

2018-08-08 23:39:24 | Weblog

92『自然と人間の歴史・世界篇』ローマは帝政へ(カエサルの暗殺まで)

 紀元前60年には、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一回三頭政治が成立する。紀元前58年、カエサルがガリアに遠征し、紀元前50年にこの地をローマが征服する。紀元前53年には、三頭の一角であったクラッススがパルティアへの遠征で戦死を遂げる。
 そして迎えた紀元前49年、カエサルは任地のガリアから反転してローマに向かう。元老院からは、カエサルの後任のガリア総督を任命し、コンスルに立候補したければローマに帰り届けるよう通告されるにいたる。ポンペイウスは、元老院側についていた。
 この時、カエサルは大いなる決断を下す。「もはや賽は投げられた」と言って、ガリアとイタリアの境、ルビコン河を渡ってローマ市街に帰り、首都を手中に収め、マケドニアに走ったポンペイウスを追ってこの軍をファルサロスの戦いで下す。紀元前48年、ポンペイウスは、中央政界への捲土重来(けんどちょうらい)を期して自身の勢力圏と頼むエジプトに逃れた。しかし、そこでエジプト王プトレマイオス13世の側近に殺害されてしまう。
 紀元前46年には、元老院により十年任期の独裁官に選出される。翌紀元前45年には、ローマの内戦が終結する。元老院の勢力図は、大きく変わっていたことであろう。紀元前44年になると、終身独裁官への任命があり、もはやカエサルに政治的に対抗できる者はいなくなりつつあった。そんなところへ、彼は独裁政治に反対する勢力により暗殺される。
 当然のことながら、元老院への武器の持ち込みは厳禁であった。そのためか、カエサルは当日会場に行くすがらの道端で占い師に目を留め、「今日は(お前が凶事を予言した)イデュス・マルティアエ(3月15日)だな」と声をかけ、その占い師からは「イデュス・マルティアエはまだ終わっていない」との返事があったという。
 なお、この日の元老院会議は、故グエナウス・ポンペイウスから共和国に寄付されたポンペイウス回廊にて執り行われることになっていた。議題としては、カエサルがパルティア(現在のイランあたりを支配していた王国)に遠征し、ローマを留守にする政治体制(執政官として誰を選任するか、など)について協議することになっていたという。
 カエサルの殺された翌日の3月16日、カエサルの遺書が開封された。それには、主にこう記されていたという。
 「1.オクタヴィアヌス(姪(めい)アティアの子)に4分の3、甥(おい)2名に各8分の1の割合で遺贈する。オクタヴィアヌスがこれを放棄した時は、同人に代えてデキウス・ブルータスに遺贈する。
 2.アントニウス(同年のカエサルの同僚執政官)とデキウス・ブルータスを共同遺言
執行者とする。
3.オクタヴィアヌスを養子とし、彼はカエサルの名を継ぐこと。
4.オクタヴィアヌスは、首都ローマ在住のローマ市民に一人当たり300セステルティウスを贈与し、またテベレ川西岸のカエサル所有の庭園を市民に贈与すること。」

(続く)

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♦️153『自然と人間の歴史・世界篇』イタリア都市の自治(ヴェネツィアとジェノバの場合)

2018-08-08 09:39:14 | Weblog

153『自然と人間の歴史・世界篇』イタリア都市の自治(ヴェネツィアとジェノバの場合)

 現在のヴェネツィア(ベネツィア)は、イタリアの北部ヴェネト(ベネト)州の州都だ。アドリア海のラグーン(ラグーナ)と呼ばれる干潟(ひがた)に浮かぶ118もの島々からなるという。
 その名の由来は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だという。もう一つ、「水の都」の通称を持っているのは、この街に属する島々が数多くの橋でつながっていることからくるのだろうか。5世紀(452年)には、このあたりの人びとに自治が築かれる。小さいながらも、共和国となった(のち1797年まで続く)。東ローマ帝国の支配下にあったのだが、それは緩いものであって、多民族の侵入に晒されていたことも、人びとを結束させるに力があったという。10世紀にもなると、海運共和国として貿易で栄えるようになる。
 このヴェネツィアだが、信教の自由と法の支配が有名であって、これなくしては「千年の都」は実現しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16世紀、17世紀のそれぞれにつき、簡単に振り返っておこう。(中略)
 その16世紀の対外的な有様については、こういわれる。
 「しかし、レパントの海戦の勝利にもかかわらず、その後のスペインとの不和のためトルコの前に孤立し、1573年にはキプロス島をトルコに譲って、その意を迎えることによって東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諸国の東方貿易への進出がヴェネーツィアの海上商業をときとともに守勢に立たせてもいた。また、スペインとオーストリアの両ハプスブルク勢力のあいだに挟まれたヴェネーツィアの立場は、イタリアの内部にあっても、フランスやサヴォーイァ公国などと結んで、わずかに現状維持を策する以上には出なかった。」(森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)
 こうした閉塞的な外部環境は、17世紀に入っても続いた。
 「しかもヴェネーツィアは、17世紀前半において、いくつかの国際的紛争をある程度成功裡に収拾するだけの力を残していた。ことに反宗教改革の波がイタリアを風靡(ふうび)するなかで、国内の教会のことに関して教皇の干渉を許さない独自の立場を保持していた。17世紀初頭にヴェネーツィア政府が宗教機関の不動産取得を制限し、また、二人の聖職者を処罰したことに発して、かねてからヴェネーツィアに教権の確立をねらう教皇庁とのあいだに紛争がおこったとき、スペインの支持を得た教皇パウルス五世は、1606年ヴェネーツィアを破門したが、これに対しヴェネーツィア政府は、改革派の聖職者サルビの指導下に完全と対抗し続けた。」(同)

(続く)

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