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価値ある存在-吉本隆明74語より(8)

2005-10-01 01:11:43 | 価値ある存在
勢古浩爾さんの「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」からの、「価値ある存在」、今日は8回目です。青字は吉本隆明の文章。赤字は勢古さんの文章。黒字は筆者の感想です。

新聞やテレビで目に触れた資料を介して、自分に考えられることをとことんまで考えてやろうということにしている。(「辺見庸との対談集「夜と女と毛沢東」より)

吉本は、別のところで「大衆の原像」に関係して、この世界にはどうしても、「知識の系が覆いきれない場所が存在する」といい、、「大衆の原像というものを、どうしても繰り込む以外にないんだ」(笠井潔・竹田青嗣他との対談集「不断革命の時代」より) とも言っています。

これは、今更ながらに考えさせられます。大学の先生への要請もあったそうですが、吉本はバカな職業だと言って断っています。自分にはそんなことができるだろうか。筆者は心のどこかで、知識を絶えず深めていくことが生きる上では大切なことではないのだろうか、と考えてきました。そして、新聞やテレビで得られる情報だけでは、人は今日よりも明日、向上することはできないと思い、通勤時間や余暇を使って、様々な本を読んでは「知識」を積み上げてきました。そのことで、昨日の自分と今日の自分は、その「知識量」だけ違っている、それが日々同じような繰り返しの日常に、ある種の意義を与えるものであるとも思ってきたのでした。つまり、同じ日常を繰り返すことをどこかでバカにもしていたのです。ところが、吉本は次のようにも言っているのです。

「けっして今日よりも明日向上したらそれは立派なもんだというところで終わるものじゃない。それですんでいたときもありましたが、すくなくとも末法の末法の現在では、それはちがうんじゃないかとおもいます。」(「還相論」『未来の親鸞』)

「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂から世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。」(「最後の親鸞」)

実は、勢古さんも書いていますが、日本の大抵のインテリたちは、白川静のように、「知の頂き」を極めることなどとは関係なく(これはこれで大変なことです。その生きる姿に筆者などひれ伏してしまいそうです。)、ただ知に従事しているというだけで、「人々を誘って蒙」をひらき、「世界を見おろ」しているのではないでしょうか? 少なくとも、知識を得た後にそのような立場に立ちたいという潜在願望を持っている人が多いのではないでしょうか? 

これと、9月24日に書いた、「どんな豊富な思想の表現も、いったん行為事実に還元されれば、ありふれたものとならざるをえない。」という吉本の言葉を合わせてみれば、分かりづらいといわれる吉本の「大衆の原像」についても、おぼろげながらも理解できたような気がします。

話がちょっと抽象的すぎるかと思いますので、勢古さんも引用している田原総一朗の例で考えてみましょう。

彼は、サンデープロジェクトでの政治家達との討論では、「私は頭が悪いので、そんな難しいことを言っても分からない。もっと分かりやすく説明して欲しい。」などと、あたかもテレビを見ている大衆の視点に自らが立っているかの発言をたびたびします。しかし、それはそうした単純な問いかけに対し、如何に的確な答が帰ってくるか、いわば相手の品定めをしていることが見え透いており、筆者などは逆に不快感を感じてしまいます。テレビを見ている人々の中にも、田原は頭が悪いわけではないのに、嫌な表現をよく使うなぁ~、と思っている人もいることでしょう。サンデープロジェクトは限られた時間で入念にプログラムが練られているようですので、それ以上のボロが出ることはありません。ところが朝まで生テレビという月一回の深夜番組は、これは生放送であり準備された詳細なシナリオもありませんし、時として横道に逸れての激論になってしまいます。それがこの番組の狙いでもありますが、そこで、田原総一郎の別の顔がひょっこりと出ることがあります。それは、勢古さんが書いている表現に従えば、「おれはこんなことまで知ってるんだぞ。おまえら何も知らないでわかったふうな口をきくな」ということを、得々として言う、ことが時としてあることです。その際の彼は相手を見おろす位置に立っているように筆者には見えてしまいます。そして、相手の発言をその一言で封じてしまうことを度々筆者は見ております。

こうしたことが、吉本が、「その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂から世界を見おろすことでもない。」ということの本当の意味なのですね。吉本の言う、<非知>に向かって着地すること、つまり、先週も書いた「往還」することについて深く考えれば、冒頭の吉本の言葉につながっていくのではないでしょうか。これはこれは、やはり吉本隆明は並大抵のお方ではありません。

さて、たまたま今から「朝までテレビ」が始まるようです。ちょっと田原総一朗の「インテリぶり」を覗いてみるとしよう。
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2 コメント

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Unknown (luck-clicker)
2005-10-02 01:04:37
ぼくはこのブログで吉本隆明の文章を読むと、なぜか小林秀雄を連想してしまうのですが、どこかで小林秀雄が

「人間にとって思想などというものは、歯が痛かったり腹が減ったり、いや、ほんの少しぼんやりしているだけで、すぐに忘れる事ができるものだ」

といった意味の文章を書いていたのを思い出しました。これは「大衆の原像」とは少し違うでしょうか。

ただ、どちらも「知の系が覆いきれない場所が存在する」と言っているのは同じですね。

むろん、そんなのは当たり前のことで、今、ぼくの窓辺でかすかな音をたてるケヤキの葉ずれの音、それに喚起されるぼくの詩的な感興はあくまでぼく個人に属する実存的感覚であり、これが他に代替可能な言葉で置き換えられてたまるか、という気がします。

ぼくは今、小説ブログで『君に』という二十歳の思い出話(ここには、今後もっと思想についての記述が増えてきます)を書き、一方で株式ブログを書いていますが、株式ブログの方が今日で開設1周年を迎えました。われながら、よく退場に至らず1年ももったものだと思っています。

よかったらまた遊びにいらしてください。

大衆の原像 (mariomari)
2005-10-02 07:57:46
lucky-clickerさん、コメントありがとうございます。また開設1周年おめでとうございます。ブログを書くことで自分のトレードを素直に反省することも可能となり、それが結果につながっているのでしょうね。私も同じです。



大衆の原像ですが、その知識の系が覆いきれない場所があり、その空隙が大衆の原像というものに該当すること、そこでは知識でないものが息をついており、その空隙は不可欠だという気がする、と吉本は言っておりますので、小林秀雄の言葉も大衆の原像に通じるものですね。



あと、licky-clickerさんがおっしゃっている詩的感興や実存的感覚も、それが美だけでなく醜へも、善だけでなく悪へも、やさしさだけでなく凶暴さへも拡がっている存在が大衆の「原像」のようです。「原像」ですからこれをすべて体現した人間は現実にはおりません。しかし吉本はその「原像」から、誰でも生活者としては大衆であることを免れないにもかかわらず、その大衆を睥睨する知的仮面を被った輩を鋭く批判する視点を獲得していると言えると思います。

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