「好きなものを食べて暮らそう」という高邁?な理想を掲げて始めた自炊が
早くも危機に瀕している。
自分で惣菜を拵えたのは3日足らずで、
その後はコンビニと惣菜店で間に合わせたのだ。
気が向いた時だけ「ちゃんこ鍋」風の一品を作るのが精一杯という体たらくである。
もう自炊はよそう、目下のところグリコの看板(お手上げ状態という昔の駄洒落)である。
ところが縁の切れた筈の弁当屋の伯母さんから電話が入った。
「元気にしてますかー」、我輩の心の揺れを見透かしているのか
「伺っても良いですか」と絶妙なタイミングに私は
「構いませんよ」となった。
何だか復縁を迫られる気分だった。
どうして私の自炊の行き詰まりを知っただろう、私は伯母さんの嗅覚に舌を巻いた。
翌日、伯母さんは本当に顔を見せた。
例によって配達先からの頂き物らしきさつま芋を私に差し出しながら
「元気そうでよかった、風邪なんか引かないようにネ」と私を諭して
見覚えのある笑顔を残して帰っていった。それだけである。
私は内心弁当の復活を言われると覚悟していたが
弁当には一言も触れなかった。立派である。優しい人である。
私は伯母さんの心を疑った自分に腹立てた。
娘が来た時にこの話をしたら、
「弁当を止めても自炊が続かず再び宅配弁当を復活する人がいるということだね」
と解説してくれた。私は少し気が楽になった。
私は自炊を止めて再び宅配弁当にしようと思っている。
ただし、別の弁当屋にするつもり。
あの伯母さんに「また配達して」とはきまりが悪くて言えないからである。
本日も平穏なり
大相撲観戦観戦の翌日は太宰府天満宮界隈で過ごした。
博多のバスセンターからバスに乗り10時少し前に着いた。
〈太宰府天満宮〉
学問の神様に今さら願い事もないのだがそれでも厄除けになればと賽銭をあげて、
御神籤を引いて吉凶を占った。
すると神様は我輩の魂胆を看破したか御神籤で次のように申された。
「人間が力の及ばぬ場合、神の力に頼るはやむにやまれぬ自然の心情である。
だが神様と名の付く物にも色々ある。
溺れたとき藁を掴んだのでは間に合わない。
日頃の信心が大切である。(ここは創作です)」
太宰府天満宮の隣の[九州国立博物館]に立ち寄り「桃山展・大航海時代の日本美術」を観た。
〈パンフレット〉
1500年頃から鎖国までの美術品の展示である。
古美術に素養のない私にとっては展示物に惹かれることもなく唯漫然と時間を過ごした。
外に出たら何を見てきたか殆ど忘れている始末。これも年の故か。
帰りの参道は外国人観光客で溢れていた。
私達親子も彼等に倣って名物の「梅ヶ枝団子」の焼きたてをフウフウしながら頬張り、
人波に逆らって歩いた。
今日も子供達は私の手荷物を持ってくれた。
至れり尽くせりで感謝の気持ちで一杯である。
親らしいことをしてやった覚えも無いのに心優しい子供達である。
そこで思い付いた。これからは子供達を呼ぶとき名前の後に「さん」を付けよう。
今さら呼び方を変えるのは照れ臭いが、
これからもっとお世話になることだし、今が呼び方を変える良い機会だな。
お わ り
〈福岡国際センター〉
「お父さん今度は九州場所を見に行こうか」と娘が誘ってくれたのは秋場所が終わって暫く後だった。
どうやら娘にも大相撲好きが感染したらしい。
九日目。当日は下の息子も加わって親子三人で新幹線で九州に向かう。
正午過ぎに博多に着いて、
九州国際センターに入場したのは幕下の取り組みが進んでいる頃だった。
[富士東]とか[里山]といった元幕内力士の懐かしい顔も見えた。
九州場所の成績は言うまい。私達親子の声援の甲斐なく[稀勢の里]
は目前で5敗目を喫した。期待の[高安]は危うく見えたが勝った。
あの日も[白鵬]は土俵を引き締めていた。
色白の肌を紅潮させて仕切る土俵入りは見事に尽きる美しさ、
間近に見る大相撲の様式美を堪能させて呉れた。また鬼のように強かった。
川柳にある「一ヶ月を一突き半で暮らす好い男」を地で行く相撲で場内を沸かせた。
相撲が退けてからタクシーで博多駅に戻り、駅地下街で夕食を食べた。
狭い店内の互いの額が触れあいそうなテーブルを間に挟んで食事をするのはいつ以来か。
子供達の顔に細かなシワがあるのを初めて知ったが私は気付かぬ振りをした。
誰だったか「最も楽しい一刻は親友と食事をするときだ」との一言を
思い出した。今の私達親子にそれを感じた。
翌日は大宰府天満宮と九州国立博物館を回った。
2枚目に続きます
この頃は物忘れや勘違いが多くて自分に腹をたてることが屡々である。
その1
先週の事、病院で診察日を間違った。
診察券を受付の機械に入れて跳ね返されるまで間違いに気が付かず、
すかさずボランティアの伯母さんが駆け寄ってきて「お父さんは明日明日」と声を張り上げた。
その2
掛かり付けの病院に定期検診に行った時、
元々は来週が予約日であるのに先約が有るのを思い出して今日に繰り上げた。
主治医が怪訝そうな顔をしたので「来週は同窓会と重なって」と咄嗟に嘘をついて釈明した。
その3
病院から帰ってショルダーバッグを覗いて保険証がないことに気づく。
何処で落としたのかビニールの袋ごと綺麗に無いのだ。
今日歩いた道順を思い出そうと考えたが殆ど思い出せない。
それでもショッピングモールでお茶を飲んだことや
買い物をした店をおぼろ気に思い出し始めた。
誰かが拾って届けられているといいな。
保険証の再発行の手続きは難しいかな、
保険証とカードや現金が別にして措いたのが不幸中の幸いだった。等と種々思った。
ところが翌日、奇跡が待っていた。
保険証が案内所に届けられていたのだ。
何でも警備員が巡回中に見付けてくれたらしい。親切な人に拾われて本当に良かった。
何だか命取りをしたような嬉しさの余り
案内所の娘さんたちに二度「ありがとう」を繰り返し、感謝の気持ちを込めた。
本日も平穏なり
ツアーで知り合ったO氏を誘って喫茶店で落ち合った。
2ヵ月振りかな。お誘いしたのはブログにも書いたトルクメニスタン旅行の事、謂わば帰朝報告である。
O氏は私の話を耳の遠い人がするように身を乗りだし目を輝かせて聞き入り、
写真に見いって自分も一緒に行きたかったと残念がった。
私は手土産のドライフルーツを手渡しながら少し悦に入ったものである。
話を聞き終えるとO氏はウエストポーチから1枚のパンフレットを大事そうに取り出して
どうだという風に見せた。それはウエストポーチの中で揉まれて折り目が擦れていたが
[福建省四日間の旅]と読めた。
「これなんかどうだろうね、
相部屋で泊まれば費用も安く上げられるし私も四日間位なら家を空けられそうだ、
値打ちもんだと思うがね一緒に行こう」
と殆ど一息に話した。
O氏は無類の旅好きであるが、病気がちの妻君を気づかい、
久しく旅を楽しんでいない事を私は知っている。
そんな彼の突然の誘いに思わず聞いた。
「奥さんの方は大丈夫ですか?」
「ああ、妹が留守番に来てくれるそうだ」と用意周到である。
中国は私の好きな旅行先ではないと思ったが、私は是非お供したいと承諾した。
O氏は御年83歳の筈だ。足元にははっきりと衰えが見えるが、
ご本人は未だに82歳(時々81歳になる)と意気軒昂だから持病の多さが自慢の私とは名コンビになれそうである。
帰りの車中でパスポートの有効期限のチェックするように伝えるのを忘れたことに気が付いた。
まあいいか。
それにしても彼を旅に駆り立てた動機は何だろう、
私はぼんやり考えながら帰宅した。
本日も平穏なり