長椅子に寝そべって見上げた位置から『達磨』は私を見下している。
荒々しく筆太一気に描き込まれたこの『達磨』が私は大好きである。
蛇足を承知で申し上げれば作者は名僧・白隠禅師、数描かれた『達磨』 の中の1枚のコピーであり、京都龍安寺の売店で偶然見つけた私の宝物である。
白隠禅師は今から330年前の人、達磨を描き(書も有名)禅の布教に用いて平易な言葉で禅を説いたそうである。無欲恬淡、生涯寺を持たず全国を行脚したらしく、その生きざまにおいてあの良寛さんの先輩である。
改めて『達磨』と対峙する。眼光は鋭く観るものをねめつけ震え上がらせるが、暫く見ているとその表情が笑みをこらえているかのごときに見えてくるのが不思議、堪らない、非凡である。
ある作家が「日本人画家の描く人物画の目はせいぜい食い付く程度であり、外国人画家のそれは血に飢えた憎悪が感じられる」と書いた。その主張は案外この『達磨』にも当てはまるような気がする。
まだ『達磨』は額の中で私を見ている、見られている。恰も「和尚、お主の魂胆は見えているぞ、フン」とからかわれたているようだ。
テレビはヨーヨーマによるショスタコービッチの「チエロ協奏曲」の演奏が終わった。温かく包み込まれるような美しい音色に暫し陶酔中。
今日も幸せである。