宅配弁当を止めてから1ヶ月が経った。
止めた理由は弁当の味に飽きた事、三度の食事を自分の好物で満たそうという、
いささか気取った思いつきだった。
最初のうちはコンビニやスーパーのお気に入りの弁当が中心だったが
買いに出るのが面倒なので止めた。
食事を外食店で済ますのも手っ取り早くて良さそうだが、
店内の片隅で一人黙々と丼をかっこむ自分の姿を想像すると寂しすぎるので、
外食は時々覗くことにして見送り。
残るは自炊だ。
美味しく食べようとレシピ本を拾い読みをしたりもしたが
成果が出る前に面倒臭くなってお手上げ、
とどのつまりは「ちゃんこ鍋風」調理法に落ち着く。
一つ鍋に好きな物を放り込んでグツグツ煮込むあの単純な方法である。
自炊には食べ残しの始末をという難題が有ることに気が付いた。
宅配弁当にはこれが無いからいい。
余った惣菜を勿体ないからと一旦は冷蔵庫に保存するが、
不味くなっているので先ず再食しない。
そのうちに冷蔵庫の中余った惣菜で手狭になってきて、とどのつまりはまとめてゴミ箱に棄てるのだ。
自炊の理想は霞んだ。
我がメニューから美食のロマンは消えてインスタント食品が並び、
腹の足しになるなら目先の有るもので我慢するという習慣が付いてきた。
いっそのこと宅配弁当の復活も考えたが、
自炊宣言をしてまだ1ヶ月があまり、
伯母さんに「また配達をお願いします」とはさすがに恥ずかしいのである。
台所の鍋に四日前のシチューの残りがある。
表面に変色した妙なものが浮いてきた。たいらげようか捨てるべきか私の自炊の悩みは尽きない。
本日も平穏なり
今年の三月、肺炎で入院中に肺に1円玉位の癌が見つかった。
通常なら癌の判定は直接サンプル片を 採って顕微鏡検査で判定するらしいが、
私の場合は肺が触ると壊れるくらい痛んでいるとかでCTスキャンでの判定である。
最初に癌が見つかった時から私は
「仮に癌が進行して病状が悪化しても治療は辞退します」と申し出てあるので
医師も隔月にCTスキャンで経過を観察するだけで今日に至っている。
今日が四度目の検査だった。
果たして結果はどうかと私は緊張して医師の判定を待った。
医師は半年前の画像と見比べながら
「癌は形も大きさも殆ど変化していない、もしかしてこれは癌でないかも知れません」と
画像の1円玉を指して言った。
癌を告知された時、人はどんな思いでそれを受け止めるだろうか。
私の場合、いつも何かに頭を押し付けられているような憂鬱な気分で毎日を過ごしてきた。
ふと「残り何日?」と悲観的になったり、
以前にもまして一日を大切に過ごそうという気持ちになったりした。
子供たちは親父がカウントダウンに入ったと察知して様々な気遣いも見せてくれた。
医師の「癌でないかも」の一言は千金の重みで私を蘇生させ、寿命を伸ばした。
次の検査は来年早々である。その時私の「癌もどき」はどうなっているだろうか。
本日も平穏なり