終戦の年、昭和20年に我が家は疎開先から下山した。この選択が苦難の始まりだったと兄は言った。父が病弱だったので母は働くことになった。母は「買い出し」と「担ぎ屋」によって生計に家計を支えるため
一旦家を出るといつ帰ってくるのか誰にも、母自身にも分からなかった。その間、病身の父と5人の子供は何も食べずただ母の持ってくる筈の食料を待った。父は「彼奴は俺たちを日干しにする気だ」と時々呟いた。母が検札で食料を没収されて手ぶらで帰宅した時は悲惨だった。
皆壁に凭れて空腹に耐えた。時々、母も大きな桑折(こおり)を背中に背負い両手に大きな手荷物を持って満面笑みを浮かべて凱旋することもあった。そんなときはいつもすき焼きだった。
終戦の年に父は亡くなった。その死を待っていたかのように我が家の離散が始まった。兄姉は其々親戚に身を寄せたり丁稚に出されて末っ子
の私と母が家に残った。日々の生活は更に困窮を極めて先ず電気が止められた。薪を買えないので雨戸や天井板を剥がして燃やした。
御不浄(母は便所をそう呼んだ)も汲み取りが頼めぬまま糞尿が一時路上に溢れたがそのままだった。それが許される時代だった。
文字通りの赤貧時代だったが、私は少しも辛くはなかった。
こうした状況を理解するには私はあまりに幼すぎたこともあるが、
何より母が周囲の雑音から私を遠ざけて呉れていたのだろう。
母は私と居るときいつも笑顔だった。母と私はいつも煎餅布団に
一緒に寝た。足の冷たい時、母の足がそっと私の足を包んで呉れた
あの暖かさ、温もりを60年を経た今も思い出す。
私が社会人になって社宅に入居して漸く私と母は転居生活に終止符
を打てた。母は勤めを辞めて和裁の仕立てと和裁の個人指導を始めた。
その最初の生徒さんが後の我が女房に納まった。
母は私の結婚を期に兄夫婦の所に帰っていった。
ありがとう お母ちゃん 今日生まれて初めて感謝の気持ちを
言葉にしたよ