豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その2)

2024年06月28日 | 本と雑誌
(承前)
 荷風は、日本の文士・文学者だけでなく、軍人、警官(特高)、政党政治家、さらに一般の日本国民も嫌いだった。
 麹町通りで台湾の生蕃人(ママ)の一行を見かけるが、彼らは警備の日本人巡査よりも温和な顔をしていると書いている(16頁)。関東大震災の折に被服工廠跡で多数の焼死者が出たのは、巡査が粗暴で臨機応変の才覚がなかったことによると批判する(127頁)。 
 大正8年中国で起った排日運動の原因は、わが薩長政府の武断政治の致すところであり、国家主義の弊害がかえって国威を失墜させ邦家を危うくするのであると喝破し、その後の敗戦に至る日本の歩んだ道を暗示している(29頁)。

 昭和11年の日記には、現代日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なきことの三つであるが、政党、軍人の腐敗も結局は「一般国民の自覚乏しきに起因する」ものであり、しかし「個人の覚醒は将来においても・・・到底望む」ことはできないと悲観する(345頁)。
 満州事変(昭和6年)、5・15事件(同7年)、2・26事件(同11年)などにおける軍人の暴挙だけでなく、戦時下に軍服のまま平然と待合に(客として)出入りするなどといった軍人の非行を指弾する記述は随所にある(233、257、352頁など)。企画院、大蔵省その他の建物が落雷で焼失した際には「天罰痛快々々」と書いている(昭和15年6月21日、下巻93頁)。
 巡査、軍人、政治家から文士まで、荷風はしばしば彼らを「田舎漢」と呼んで軽侮する。
 尾張藩士の末裔にして大学南校からプリンストン大学を経て文部官僚となり、官を辞した後は日本郵船の支店長などを務めた父のもとに小石川で生まれ、幼少期にアメリカ生活を経験し長じてからはアメリカ、フランス留学も経験したモダンな荷風には(しかし親の期待には応えられなかった)、当時日本の政治、軍事を、そして文壇をも牛耳り、東京に蝟集する地方出身者の言動は不愉快ったのだろう。

 荷風が嫌う文士の筆頭は菊池寛である。菊池を「売文業者」と呼び、酒場の美人投票で、お気に入りの女給仕に投票するためにビール150瓶(1瓶1票だった)を買って車で自宅に持ち帰ったなどという噂話を暴露し冷笑する(196頁)。有島の情死報道にも無関心(65頁)、芥川の自死にもそれほどの関心を示していない(148頁)。
 荷風は軽井沢も嫌いなようだ。8月10日の東京は涼しい、高いホテル代を払ってまで軽井沢へ避暑に行く奴の気がしれないと書いているが(何年だったか?)、これも軽井沢を有難がるような文士に対する当てこすりか。もっとも他方では、昭和2年8月に軽井沢の離山で鶯を聞いたことを懐かしむ記述もある(昭和9年8月1日、308頁)。
 夏目漱石の未亡人が漱石の私生活を語った本を出版し(夏目鏡子、松岡譲「夏目漱石の思い出」)、そのなかで漱石は「追従狂」という精神病だったなどと暴露したことを強く批判する(151頁)。「漱石の思い出」はその昔角川文庫版で読んだが、そんな記述があった記憶はない。
 荷風にとって有難いのは、森鴎外と上田敏(132頁ほか。荷風を慶応義塾教授に推挙してくれたらしい)、それと成島柳北だけのようである。成島の日記を筆記する様が随所に出てきた。 

 新聞社、新聞記者、出版業者、賄賂が横行し著作権を無視する教科書出版社(父親が文部官僚だったから実態を知っていたのか)、その社主や編集者たちも嫌いである。
 かつて朝日新聞は荷風のカフェ出入りを中傷しておきながら、にわかに寄稿を依頼してきたことを訝しがる(昭和6年、220頁)。改造社の円本、中央公論社に対しても冷ややな記述があるが、結局は円本の出版でかなりの印税を得たようだし、戦後になって中公から全集まで出すなど、経済面ではしっかり(ちゃっかり)しているようだ。

 この日記の面白いところの一つは、荷風が随所で印税などの金銭勘定を書き残していることである。
 太陽堂が連載寄稿の依頼の際に、前払金として現金500円を突き出した無礼を詰り(90頁)、改造社の全集企画に関しては契約手付金1万5000円が小切手で支払われ、斡旋した邦枝何某にも礼金500円が支払われるとある(145頁)。後には、改造社の円本の印税が巨額に達したることを察知した無産党員から脅迫を受けたりもしている(178頁)。納めた所得税額まで明記してあったが、これは下巻だったか。
 文士の住宅事情の一端もうかがうことができる。
 大正7年のことだが、築地への引越しの際に、築地の新居の家屋代金は2500円(土地代がないということは借地だったのか?)、仲介会社手数料460円(建物価格の約20%とは高くないか!)とある。他方、余丁町の旧自宅の地所と家屋の売却代金が2万3000円、家具什器類の売却代金が1892円などで、差引残金は2万3304円22銭とある(20頁)。お金には恬淡なようでいて、銭単位まで書き残すとはけっこう銭勘定に細かい人である。

 酌婦(という言葉は使ってないが)の前借金の相場も書いてある(昭和11年、356頁)。3年で1000円が相場だが、半年で2、300円という女もあり、寝台その他の造作一切付きで1日3円を家主に支払う例もあるという。
 玉ノ井近くの梅毒病院では入院患者が100人以上あり、入院料は1日1円だったそうだ。民法の授業で前借金契約を無効とする判例を学んだが、あの事案では法外な前借金が無効だったのか、そもそも前借金契約自体が無効だったのか。 

 本書には、伏字(×××)や、「削除」とか「切取」と書かれたところが何か所もあるが、そこには何が書いてあったのか。
 軍人や政治家に対する批判は随所に見られたが、天皇の言動に関する感想はなかったように思う。「摘録」なので編者の磯田氏が摘除したのか、もともと記述がなかったのか。ひょっとしたら、「削除」「切取」や伏字の部分に書いてあったのは天皇に関する記述だったのではないかと推測する。
 満州事変や朝鮮独立運動、大杉栄暗殺、5・15事件、2・26事件、血盟団事件など、世の中の不穏な動きにふれていながら、天皇にまったく無関心だったとは思えない。難波大助の死刑に関して40文字近い伏字があるのも(79頁)、そのような想像をたくましくさせる。
 ただし大正天皇の崩御が近い時期に、新聞紙が天皇の飲食物や排泄物の量などを報ずることは(昭和天皇の時にも日々報道されたが、明治天皇の時も同様だったという)君主に対する詩的妄想の美感を損なうものであり、車夫下女の輩が号外を求めて天子の病状を口にするのは冒瀆の罪の最たるものであると書いている(125頁)。(つづく)

 2024年6月27日 記
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