豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

思い出の草軽電鉄

2006年03月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 残念ながら、ぼくは草軽電鉄(正式には草軽電機鉄道というようだが、草軽電車とか草軽鉄道とか呼ばれていた)に乗ったことがない。
 一度乗ってみたいと思っているうちに、ある夏、旧軽に出かけてみると、草軽鉄道は廃線になってしまっていた。
 乗ったことがないばかりか、実は草軽鉄道の走る姿をみた記憶もない。記憶にあるのは、せいぜい旧軽井沢駅に停車している草軽電車と、その駅舎と、駅を出てすぐのところにあった踏切だけである。

 草軽鉄道は、軽井沢駅(新軽井沢)から、旧軽井沢を経て、草津に至る軽便鉄道だったが、モータリゼーションの波に押されて、昭和34年か35年に廃線となり、線路跡が現在では、三笠から小瀬温泉、白糸の滝などを経由して、北軽井沢、草津に向かう道路になっている。
 旧道(いわゆる旧軽銀座)の入り口のところに踏切があり、その右手に旧軽井沢駅があった。踏切には遮断機もあったように記憶するが、降りているのを見たことがない。1日に10本もなかったので(このことは、かつて古本市で苦労して入手した「草軽電鉄50年誌」(軽井沢書林、1973年)によって知った)、なかなか出会う機会がなかったのだろう。
 ただし旧軽井沢駅に停車している2両編成(だったろうか)の姿は記憶にある。親から聞かされたところでは、この近くでぼくが便意を催したため、旧軽井沢駅のトイレを拝借したことがあるという。ぼくと草軽電鉄との縁は、臭くて軽いものだった。

 廃線になった後の旧軽井沢駅舎跡は、ヴィクトリアという洋菓子店になったと思う。
 このヴィクトリアはヨーデルの音楽をスピーカーで流しながら中軽井沢の千ヶ滝にまで販売車で来ていた。年下の従弟がこのヨーデルの物まねをして、よく家族を笑わせていた。
 旧駅舎跡の店には喫茶室もあって裏庭を眺める落ち着いた佇まいだったが、ヴィクトリアもいつの間にか店じまいしてしまい、今では何がなんだか分からない雑然としたスペースになってしまった。

 ぼくの父親はこの草軽鉄道に乗ったことがあるといっていた。これはちょっと羨ましくて、しゃくな話であった。
 親父は、北軽井沢に滞在している大学時代の恩師を訪問するために、北軽井沢までこれに乗ったそうである。
 親子二代にわたって尾篭な話で恐縮だが、親父によると、草軽鉄道のスピードの遅さたるや、乗車中に尿意を催した乗客が、電車から飛び降りて近くの木陰で用を済ませても、走っている電車に戻ることが出来るほどだったという。不器用だった親父にそんな芸当が出来るはずもないので、おそらくそのようなことをする乗客を目撃したのだろう。

 しかし、草軽鉄道を廃線に追いやった責任の一端は私たちにもある。
 昭和30年頃、わが家にはまだマイカーはなかったが、裕福だった親戚の家には、あの観音開きの黒いクラウンがあり、ぼくたちは軽井沢を起点に鬼押し出し、浅間牧場、照月湖、さらには草津白根山、横手山から志賀高原へとドライブに連れて行ってもらった。
 最近の夏の渋滞からは信じられないくらい道はガラガラだった。舗装されていない区間もあったけれど。しばらくしてわが家も人並みにクルマを持つようになった。確かにクルマは便利だし、世界を広げてもくれたが、それは草軽鉄道のようなのどかで愛すべき文化遺産を奪ってしまったのである。

 * 写真は、浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」(軽井沢書林、1973年)に付録としてついていた「消えゆく草軽電鉄」というレコードのカバー(東芝4RS-374)。草軽電車の発車、運行、停車の音などが収録されている。

 2006年 3月 3日

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