ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

落語の枕・演劇・非日常

2012年08月05日 | 演劇
旧芝離宮恩賜庭園にて納涼寄席があるということで、会社帰りに覗いてきた。まだ蒸し暑さが残る夕方、でも庭園の中は木陰になっているせいか、思ったほど暑くはない。何だろう、この夕方の暑さが残った感覚とビールがもたらすまったりとした感覚。普段ならまだ働いてる時間なのに、なんとも気持ちがいい。

演者は三遊亭小圓朝(さんゆうていこえんちょう)。まくら話で観客の緊張をほぐし、軽く笑いをとり、本編へと入っていく。

落語を聴いていて(まぁ、噺家にもよるのだろうけど)、うまいなぁと思うのはその本編への入り方だ。演劇なんかでもそうなのだけれど、本編というのは観客からすると「非日常」の世界だ。「日常」から「非日常」へ。彼岸の世界へどのように観客を導くのかというのは、落語にしろ演劇にしろ大きな課題だ。

もちろんやり方はいろいろある。そういう意味で映画は最悪だ。映画館へ行くと、本編の上演前に大量の予告編を流され(これはまだ許せる)、映画を観るときのマナーを教えられたり、その中でも1番最悪なのはプロダクションや配給会社のロゴが表示されることだ。ここまでは現実だけど、ここからは「虚構」だよ、そう言われている気がしてならない。無粋なのだ。

演劇の世界では、この彼岸の問題、くつろいでいる観客をいかにそのまま劇空間へと導くのかということについて、様々な取組みを行ってきた。新宿梁山泊は客入れの最中から老婆がゴミを拾いながら徘徊していたし、先日の「月の岬」でも客入れ中から舞台上の居間へは役者陣が出入りし、既に劇空間を展開させるなどしていた。観客がまだ日常にいる中でも、非日常の世界を混入させ、その境目を曖昧にすることで劇空間に導いていっているのだ。

これに対して「落語」では「枕」がある。「枕」というのは本編前に噺家が行う一種の前座演目。お囃子がなり噺家が入ってくるとき、そこには観客がいる日常の世界に対する異物として存在する。しかしそこで彼ら噺家が語る話は決して「非日常」の世界ではない。自分自身を紹介したり、時勢の話をしたりしながら、観客を笑わせ「日常」の延長線上でその場をほぐしていく。

しかしここで単純に場をほぐせばいいというものではない。さりげなく本編の背景や基本的な知識を観客に伝えたり、そして上手い演者になると、枕の状態で続いていた話がいつの間にか本編の話へと入っている。観客は枕のくつろいだ状態のまま、(身構えることなく)落語的劇空間に導かれていくことになるのだ。

いったん本編に入ってしまえば、後はもう「芸」の世界。うまい噺家さんは話の中で、1人で何役をもこなしつつ、観客をぐいぐい劇空間に引きずり込んでいく…。

このあたりの仕掛けはやはり落語の「枕」が抜群だ。そしてそれを活かしきった使い方をする噺家は、枕のネタの面白さに関わらず、うまい!と唸らされてしまうだ。

名作落語 28 志の輔   みどりの窓口


平田オリザ×松田正隆の「月の岬」が描いた平穏の中の深い闇 - ビールを飲みながら考えてみた…

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