ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

【演劇】燐光群「ゴンドラドランゴ」|変わりゆくものと取り残されるもの、あるいは劇団というもの。

2016年07月24日 | 演劇
燐光群「ゴンドララドンゴ」観劇。



昭和天皇崩御前、バブル華やかなりし頃、ゴンドラやブランコに乗って、ビルのガラス清掃をする2人。ゴンドラの転落とともに起こったのは、まさかの「転校生」的展開。2人の体と中身が入れ替わってしまう。「おれがあいつであいつがおれで」。これも80年代に対する郷愁か。蜷川に対する突っ込みやや野田秀樹に対するパロディも、80年代の転換した演劇に対する想いだろうか。

(昭和)天皇に対する批判的態度も、70~80年代を支えた文化人たちにとってはそれが当たり前の態度だろう。実際、(昭和)天皇崩御時の「(自主)規制」は半端ではなかった。それに反旗を翻すこと、一矢報いること、それに共感を覚えた人もいただろう。オウムがあんな事件を起こした時だって、直前まで彼らを擁護している宗教学者や文化人はいた。今、考えれば滑稽なことだけど、あの時代、支配/被支配、体制/反体制的な二元論がまだ機能していた時代のように思える。少なくとも今のように真綿で首を絞められているような閉塞感とは質が違う気がする。

そうした80年代に対するオマージュ的な前半は、笑いあり、ダンス?ありで、ちょっとどうなることかと思ったけど、中盤から後半にかけてはさすがに重厚な人間ドラマが展開される。

何といってもトラとロク(猪熊恒和と大西孝洋)の2人、ミチ(百花亜希)、ノリコ(都築香弥子)、サナエ(秋定史枝)らがそれぞれの人物像をきっちりと演じきったからだろう。

80年代から201x年にかけてのいくつかの象徴的なイベントや批判が盛り込まれていても、この物語は心と身体が入れ替わった2人の男を中心とした家族の物語だ。
特にラストのゴンドラシーンは心温まる。燐光群ってこんなのもできるんだ、と。

その一方で、この物語がなぞったように、時代の変遷によって変わっていったもの/変われなかったものがもう一つあったように思う。

それは燐光群の役者たちの演技の型だ。

トラとロクの2人のシーン、あるいは居酒屋の店員たち。彼らの演技は見事だったけれど、最近の劇団が同じ役を演じた時、ちょっとした「間」や演じ方はこうにはならないだろうと思う。それは単純に年齢の問題ではなく、一言でいうと演技が「型っぽい」のだ。

これは演出の仕方なのかもしれないけれど、それ以上に役者陣が影響を受けた時代の感性がそうだった、ということだろう。

ちょっど、今、市民劇団に参加しているが、80年代~90年代に演劇に携わっていた人の演技を見ると、同じような「習性」が見え隠れする。1つ1つの演技を丹念につくり、積み重ねようとする。今どきの演技がフローを重視しているのに対し、彼らの演技は「型」「ストック」で組み立てられているようにみえる。もちろん、ベースには感情の流れがあるわけだけど、それに対してきっちりと1つ1つ演技がつけられているのだ。

野田秀樹に影響を受けた世代以降とはちょっと質が違うのだ。

だからこそ、百花亜希や宗像祥子の演技が自由に、活き活きと見えてしまう(ま、多少、やり過ぎ感もあるけれど)。彼らは流れの中で感情を表現しようとする。

もちろん新しい感性が正しいとかそう言ったことではない。役者としては見事さはまた別の次元の話。ただ劇団にしろ、バンドにしろ、同じ感性をもった人々によって支えられるのだとしたら、新しい客層を取り込んでいくというのは、劇団や役者そのものの感性もまたアップデートしていかなければならないのだろう。燐光群を支える客層がやはり80~90年代に多感な時期を迎えた世代が中心であるというのは、物語もそうだけれど、劇団や役者のもつ完成もまたそうだということなのだろう。

■公演記録

「ゴンドララドンゴ」
作・演出:坂手洋二
日程:7月16日(土)~ 31日(日)
会場:下北沢ザ・スズナリ

役者:川中健次郎 猪熊恒和 大西孝洋 杉山英之 武山尚史 山村秀勝 尾崎太郎 
   都築香弥子 中山マリ 樋尾麻衣子 百花亜希 田中結佳 宗像祥子 秋定史枝 大浦恵実 円城寺あや


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