Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

La Scala Nights in Cinema: LA TRAVIATA

2008-07-22 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
映画による”スカラ座の夜”シリーズ第二日目はゲオルギューとヴァルガスの『椿姫』。

スカラ座の『椿姫』といえば、1955~56年にマリア・カラスが出演したものが
伝説の舞台となっています(55年の公演のライブは、EMIからCDも出ています)。
そのあまりの完成度(歌もさることながら、役の表現としての)の高さに、
ミラノの聴衆は、これ以上何を聴くのだ?という気持ちだったのに違いありません。

1964年に一度新プロダクションの『椿姫』がカラヤンの指揮で復活することになりましたが、
そのカラヤンが指名したのは、当時のミラノの観客たちが望んだレナータ・スコットではなく、
当時まだキャリアが開けたばかりだったミレッラ・フレーニでした。
結局、本人の準備不足とスコット・ファンの不満が重なったうえ、
まだカラスの公演からたった8年後、カラスの舞台を観た観客もたくさんいたことでしょう、
舞台は荒れに荒れ、フレーニは野次り倒され、その後のパフォーマンスをキャンセル。
現代の美形ソプラノのはしりともいえるアンナ・モッフォが代役をつとめたそうです。


(1966年のメトでの『椿姫』の公演の際にバックステージで撮影されたモッフォの写真。)

この公演の失敗により、ますます強くなった聴衆間の、
”カラス以外には誰もこの役を歌わせない!”という意志もあり、
なんとその後1990年(その間実に26年!!)まで、スカラ座は『椿姫』を舞台にのせることができませんでした。
この1990年の公演でヴィオレッタを歌ったのはファブリッチーニ。
相手役はアラーニャ、指揮はムーティ。
こちらも廃盤になっていなければ、現在もCDが発売されているはずですが、
1963年の公演のスコット、フレーニ、モッフォという錚々たるメンツをもってしても、
『椿姫』が27年の長きにわたる封印に追い込まれたことを思うと、
私個人的には、こんなんで復活していいんですか?と思わなくもない出来なのですが、
この1990年当時、スカラ座はミラノのオペラヘッドを追い出して、
絶対にブーが起こらないように仕組んだ、という話です。そりゃそうでしょう。

実際、日本での、NHKイタリア・オペラの1973年の公演がVAIから発売されていますが、
この時のスコットは明らかにファブリッチーニの数倍上を行く出来で、
また、まだキャリアが始まったばかりのホセ・カレーラスが素晴らしいアルフレードを聴かせています。
(いや、むしろ、私はこの公演の魅力はカレーラスにあると思うほど、彼の出来が素晴らしい。)



カラヤンの野望が邪魔をしたとはいえ、そんなスコットですら救えなかった『椿姫』ですから、
本当を言うと、ファブリッチーニでまたまた30年の眠りに入る可能性も十分あったわけですが、
スカラ座の根回しもさることながら、カラスの公演を観たオペラヘッドの中には1990年まで生きながらえなかった人も多かったに違いなく、
聴衆の方にも再演を受け入れる下地が出来上がりつつあったのかもしれません。
しかし、この90年の公演を聴いたならば、すでに亡くなったオペラヘッドも墓場から歩いて
スカラ座に抗議しにやってきたに違いない、と私は思う。

まあ、しかし、そのおかげで、現在スカラ座は自由に『椿姫』をかけられるようになったわけで、
そうでなければ、こうしてゲオルギューがヴィオレッタを歌う『椿姫』を映画館で見れるという状況もなかったかもしれないことになります。

そのゲオルギューのヴィオレッタ役は、彼女が国際的なキャリアを築く足がかりとなった役。
それまでほとんど無名だった彼女が、ショルティが指揮したコヴェント・ガーデンの『椿姫』の公演で
一気にブレイクしたのは、オペラ・ファンの方ならご存知の通り。
この公演はDVDにもなっていますし、抜粋の映像もたくさんYouTubeで公開されています。
このコヴェント・ガーデンでの公演が1994年。ルックス的にはゲオルギューが最も美しかった時期で、
(1965年生まれなので、当時29歳。)
最近の彼女は顔の表情に段々と年齢を感じさせるようになってきた(まだ42歳なのに!)のと、
少し痩せすぎなのではないか?と個人的には思うので、
見た目の話をすれば、コヴェント・ガーデンをとる人も多いでしょうが、
私は新進歌手特有の自信と野心に満ち溢れた態度もそれはそれで面白いと思う一方で、
最近ゲオルギューが身につけ始めた年齢から出てくる落ち着きと余裕が、
そっと身をひく、という精神的に大人の女性であるところの、
このヴィオレッタのキャラクターに非常にマッチしていると思うので、
実はこのスカラ座でのゲオルギューの方がパーソナリティとしては好きかもしれません。




この記事を書くにあたって、あらためてそのコヴェント・ガーデンからの録音を聴いてみたのですが、
久しぶりに聴くと印象が違ってびっくりです。
現在の彼女の歌唱に比べると、声にも肩にもものすごく余計な力が入ってます。
あの頃は、こんなに力を振り絞って歌っていたんだなあ。

彼女はもともとこのヴィオレッタ役に非常に向いた声質を持って生まれたようで、
声域的にもほとんどパーフェクトと思えるほどマッチしていて、上から下までどの音も危なげなく出ているし、
また、彼女の声に特有の少し暗いカラーがほんとうにこの役にぴったり。
これほど役にぴったり声が合っている幸運な例というのも少ないでしょう。

今回彼女の歌を聴いて、さすがに40歳代の女性が決して20歳代の女性と同じには見えない、
というのと同じ意味での声の加齢は感じさせます。
その結果でしょうか、若干アジリタが重たくなっている点は残念ですが
(例えば、一幕最大の見せ場、”ああ、そは彼の人か Ah! fors'e lui che l'anima " の最後、
”花から花へ Sempre libera "に入る直前の、gioire(喜び)という言葉の装飾音が、
コヴェント・ガーデン時代は一音一音しっかりと音の輪郭がたっていたのですが、
このスカラ座での公演はかなりうやむやです。
しかも、Sempre liberaの中でも同じ旋律が出てきますが、どちらとも全く同じ状況に陥っていました。)
歌唱全体の印象としては、むしろ、コヴェント・ガーデンの頃よりも
大きな進歩が見られます。
まずは、歌唱から余計な力がそぎ落とされたこと。
難関な音でも、聴いているこちらを全く疲れさせず、コヴェント・ガーデンの頃より
楽々と出しているような印象を受けるほどです。
歳を重ねても声の響きに衰えが見られないというのは、どんなトレーニングをしているのか知りませんが、
正しい方向に向かっている証拠。喜ばしいことです!
発声の良さは『ラ・ボエーム』の際にも感じたので、単にこの日が好調だっただけではないと思います。

それから、その点と同等か、それ以上に、”お?”と思わされたのは、
言葉の扱い方。コヴェント・ガーデンでは随所で大げさな表現が散見され、
それが今ひとつ私が手放しで気に入れない理由の一つとなっていたのですが、
彼女本人の長年の経験によるものか(きっとヴィオレッタ役は何度も歌っているでしょうから)、
それとも、このスカラ座でコーチから指導されたものか、それらがことごとく改善されていて、
私はとても嬉しかった。



例えば、同じ一幕の”そは彼の人か”の中で、自分が立場の不似合いな相手であるアルフレードに
(ヴィオレッタは高級娼婦。アルフレードは田舎出のぼん特有の穢れのなさと、常識のなさから、
ヴィオレッタのパトロンにではなく、本当の恋人になりたい!と宣言するのである。)
本当に恋に落ちそうになっているのに気付いて、何て馬鹿な自分なの!と自嘲する、
"Follie, follie! どうかしてる、どうかしてる!"。
この言葉をまるで爆発させるように乱暴な息を込めて発音する人がいますが、
私はそれを聴いただけで、”だめだ、このソプラノは。”とレッテルを貼ってしまいます。

カラスの録音を聴くと、この言葉をいかに大切に発音しているかがわかると思います。
ゲオルギュー、かつての彼女は、”だめだ、このソプラノは”系だったのですが、
このスカラ座での公演ではうってかわり、素晴らしい抑制のきいた歌い方になっていて、◎。




また、ニ幕での父ジェルモンとの会話のシーン。
ジェルモンの、娘の縁談にキズがつかないよう、娼婦のあなたは息子のアルフレードから、
未来永劫手を切ってください、と嘆願され、ついに折れるヴィオレッタ。
偽善もはなはだしい父ジェルモンが、”あなたのために何かしてあげられることは、、?”と、
ふざけたことをのたまう個所で、ヴィオレッタがほとんど泣き崩れんばかりに、
”Morro!..(私は死んでしまうでしょう!)"と歌いだすシーンは、
気分が高まって叫ぶように歌ってしまう歌手が本当に多いのですが、
それをやられると私は安物のソープオペラを見せられたような気がして、
一気に冷めてしまいます。
しかし、このスカラ座の公演でのゲオルギューは、今にも崩れてしまうような
脆さを感じさせながら、Morroという言葉を大事に歌ってみせてました。



この作品の中で、3度出てくる E strano(不思議だわ)という言葉も、
各々が全く違う状況の中で歌われる、その違いを同じ言葉にどのように反映させて歌うか、というのも、
よく注目される点ですが、この歌い分けもなかなか見事だったと思います。
特に天に召される直前、さっきまで苦しかったのに、急に力がわいてきたわ!という言葉が続く最後のE strano。
呟くように限りなく台詞調で歌うケース、ほとんどメロディがついているかのように歌うケースといろいろですが、
ゲオルギューは、今回、思いっきり後者。
前者に比べ、後者は下手な旋律づけをすると大コケする可能性があり、
このゲオルギューの歌い方も非常に個性的な部類に入るものだと思いますが、
これがこけずに効果的だったのはなかなか大したものです。

三幕では、病に苦しむ様子が、『ラ・ボエーム』のミミでの大根っぷりを若干しのばせる
微妙なエリアに何度か足を踏み入れそうになっていましたが、何とか許容範囲内。
また、アルフレードに向かって”あなたが私を救えなければ、この世に私を救えるものは何もない。”という、
ヴィオレッタが神をののしる場面は、歌唱の出来という意味ではほとんど満点に近い出来。
彼女は、『ラ・ボエーム』の時にも感じましたが、要所要所を締めることに関しては、非常に巧みだし、
いつも後の幕になるほど出来がよいので、公演全体での彼女の印象も底上げされていて、
それが私を、ネガティブな意味で”省エネ歌唱”と呼ばせる原因にもなっているのですが、
(それに対して、ポジティブな意味での省エネ歌唱は、『三部作』でのフリットリのような、
表現に寄与しない無駄なエネルギーを一切使わないことを言う。
同じ省エネ歌唱にもネガ・バージョンとポジ・バージョンがあるのです。)
しかし、歌唱全般に関しては、かなりよい出来だったといえると思います。

ただし、彼女が全幕に出演するといつも思うのは、
今ひとつ相手役とのケミストリーみたいなものが全く感じられないこと。
アラーニャと共演するときはどうなのか知りませんし(こわくて観に行ったことがない。)、
最近アラーニャ以外の歌手たちと意欲的に共演している彼女ではありますが、
どの歌手と歌っても、今ひとつ、私には熱いものが感じられないのです。
むしろ、一人で歌っているときの方が熱いという、自己完結型。
それが彼女の歌唱を”冷めている”と評したくなる原因の一つであることを今日確信しました。

あと、少し気になったのは、以前はこんな癖はなかったと思うのですが、
この『椿姫』の映像では、彼女が、自分の歌う番を待つ間、
頻繁に口をもぐもぐさせる動きが捉えられていて、これがかなりおばさんくさくてがっかりです。
(三幕の前奏曲で、SFOの蝶々さんと同様にスカラ座も幸せな時代の回想ショットを入れるという
最悪な編集技を繰り出して来たのですが、
スタッフの意地悪か、そのどれもこれもが口をもぐもぐさせるショットばかり、、。)

さて、共演者とのケミストリーの話に関連して、アルフレードのヴァルガス。
この人は相変わらず、ほんとにわずかながら、声のサイズが小さい。
その感じは録音でも伝わってきます。
丁寧には歌っていますが、この日はあまり本調子でなかったか、
らしくなく、彼にしては微妙に歌が荒れている個所もあります。
しかし、それでも、三幕でヴィオレッタと歌う”パリを離れて Parigi, o cara ”は、
今年のメトのサマー・コンサートでアラーニャと歌ったときと同じ曲とは思えないほど、
気品のある出来に仕上がっているのは、ヴァルガスの力。演技もいつもどおり達者です。

何の大判風呂敷的なものもありませんが、地味ながら舞台をしめていたのは、
父ジェルモン役を歌ったフロンターリ。
田舎の親父特有の、だささ、頑固さ、見栄っ張りさ、でも、それでも本来人間として持っている温かさ、
そのどれもを上手く歌ににじみださせていて、最初は”なんかぱっとしないおっさん、、”と思うのですが、
徐々に引き込まれていきます。
”プロヴァンスの海と陸 Di Provenza il mar ”も、”歌は”(なぜ強調するかは後ほど)
非常に感動的。
ニ幕二場で、札束をヴィオレッタにたたきつけたアルフレードを叱責するシーンでは、
冴えない田舎のおっさんが、突然、”わしはもうきれた!”という、息子への怒りを
一世一代の激しさで爆発させる風で、かなり格好いいし、
その後に続く、激しくヴィオレッタに同情しながら、娘のことを思うと引くに引けない、という
ジレンマに苦しんでいる表情も、胸にしみました。




フローラを歌ったトラモンティ、アンニーナを歌ったペトリンスキーといった
端役の歌手に至るまで、声の芯がきっちりとしていてお芝居も上手なのは、
スカラ座の力が垣間見れます。

第二幕第二場の夜会のシーンで女性の合唱が入ってくる個所では、
そのあまりの響きの美しさにぶっとびました。スカラ座の女声合唱は声の美しさ、
技術共素晴らしいです。

演出は、名作『愛の嵐』で知られるイタリアの女性映画監督のリリアーナ・カヴァー二。
何の奇天烈なこともせず、メトのゼッフィレッリの演出同様に、
ほとんど拍子抜けするくらい王道ともいえる、
実に物語に忠実な演出であるところに、逆に作品への愛を感じさせます。
しかし、一幕でヴィオレッタが "Oh, qual pallor (何と青白い顔)!”と自分の不健康な様子を嘆く言葉があるために、
食事をしている場所から別の部屋にアルフレードとヴィオレッタを移して、
鏡を持たせながらこの言葉を言わせようとする、なんともばたばたする演出が多いなか、
カヴァー二はそのままヴィオレッタをダイニング・テーブルに座らせ、
腕をなでながら"Oh, qual pallor ”と歌わせるという珍しいアプローチをとっています。
これで十分言葉の意味は伝わってくるうえに、じたばた感がなくなって、大変巧み。
王道と見せて、こういった細かい工夫がそこここにちりばめられています。
ヴィオレッタが死にいく場面も、それ自体が幻想だったという解釈など知ったことか、とばかりに、
(デュマ・フィスの原作では、実際、ヴィオレッタに相当するマルグリートは、
アルフレードにあたるアルマンと再会することもなく、ひっそりと一人で亡くなっていくことになっており、
それを踏まえた解釈なのでしょうが)、
カヴァーニは、きちんとアルフレードと父ジェルモンを彼女の死に目に間に合わせてくれます。
私もこちらの王道の解釈の方が断然好き。
このスカラ座の公演は衣装も本当に素敵です。

素敵でないのはマゼールの指揮。
この人は、この一年で、ワーグナー(メトの『ワルキューレ』)、プッチーニ(NYフィルの『トスカ』)、
そしてこのヴェルディ(スカラ座の『椿姫』)と、
違った作曲家の作品を、それぞれ違ったオケで聴く機会がありましたが、
どれ一つとしてオペラ指揮者としての才覚を感じさせるものはなく、
何よりもそのセンスの悪さといい、ドラマの掴み損ね具合といい、
彼が指揮するオペラの全幕は二度と聴きたくない、というところにまで至りつつあります。
先ほど、父ジェルモンのアリア、”プロヴァンスの~”の”歌は”いい、と書きましたが、
マゼールがだっさいリタルダントをかけなければ、もっともっといい出来になっていたはずです。
一幕でのヴィオレッタの見せ所でも、聞かせどころの音にオケの音をかぶせてくるのが早過ぎて、
せっかくゲオルギューが綺麗な音をだしているのも台無し。
というわけで、歌に対する理解も薄っぺらいし、
また各幕の閉めでいつも、”ボクの音楽は重厚なんだよ”といいたげに、妙な重みを出そうとするのも本当にださい。
実際に重厚だったならばともかく、そうでないだけに。
威厳も何もないくせにやたら威張りたがるおっさんのよう。
昨日の『アイーダ』では作品によくマッチしていた金管の明るめな響きが
この『椿姫』の三幕でも炸裂していて、違和感を感じたのですが、
オケの柔軟性のなさか、マゼールの指示によるものかは不明。
『アイーダ』でのシャイーに比べて、オケが全くだるい仕上がりになっているところを見ると、
スカラ座オケといえど、どんな指揮者がふってもすごいものを出せる、ということではないらしいです。
当たり前か。
それでも、ニ幕一場の、ヴィオレッタからの手紙をあけようかどうかとアルフレードが逡巡する場面の
弦の音なんかは、アルフレードの気持ちを語りまくっていてこわいくらい。
オケの力を指揮者が引き出しきれなかった典型例だと思うのですが、
意外や、観客の受けはいい。
スカラ座の指揮者の趣味がよくわからない私です。

メトではいつも自信満々にふるまっているゲオルギューですら、
カーテン・コールでは一歩幕の前に踏み出した瞬間に恐怖が目に浮かんでいました。
フレーニのような歌手でさえ野次り殺される歌劇場ですから当然の感情ですが、
一人、二人、ブーが出ていた以外は、おおむね好評で、
本人もほっとした様子を浮かべていました。


Angela Gheorghiu (Violetta)
Ramon Vargas (Alfredo Germont)
Roberto Frontali (Giorgio Germont)
Natascha Petrinsky (Annina)
Tiziana Tramonti (Flora)
Enrico Cossutta (Gastone)
Alessandro Paliaga (Baron Douphol)
Piero Terranova (Marchese d'Obigny)
Luigi Roni (Doctor Grenvil)

Conductor: Lorin Maazel
Director: Liliana Cavani
Design: Dante Ferretti
Costumes: Gabriella Pescucci
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ヴェルディ 椿姫 Verdi La Traviata ***

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3 コメント

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私も見ました (DHファン)
2008-07-28 09:33:41
クラシカ・ジャパンで放送されたので。
この映像を見たときは前のショルティ指揮の映像との落差にぎょっとしましたが、でも見終わって彼女を見直しました。仰るとおり一幕最後のコロラトゥーラちょっとあやしかったですけどね。彼女のいつもの通りEsも出さなかったし。
一時彼女のファンになっていくつかCDを聞きましたが、CDで聞くとビブラートがきつくて、私あまり好きじゃないかもと思っていたところです。ヴィオレッタは合っているんでしょうね?見ているうちに容貌の衰えも気にならなくなりました。
歌手はそれぞれ皆いいのに、な~んかもどかしいというかイマイチ響いてこなかったのは、やはりケミストリーが感じられなかったからでしょうか?

次はいよいよデヴィーアのレポですね!
返信する
クラシカ・ジャパン (チャッピー)
2008-07-28 23:18:29
これですか。
http://www.classica-jp.com/opera/index.html
浦安、八千代はおろか鎌ヶ谷のケーブルで見れるのに、船橋は駄目なのね。
さりとて、スカパーはなあ。スカパー貧乏になった人、沢山知ってるし・・悩ましいのう。
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ですよね。/がんばれ! (Madokakip)
2008-07-29 13:24:32
 DHファンさん、

そうですか!クラシカ・ジャパンで!
なんだかお話を伺っていると、結構充実したラインアップで羨ましいです。

最近はスコア主義というのを言い訳に、ヴェルディがもともと書かなかった音は出さなくてすむならそっちの方がプレッシャーが少ないし、ということなんでしょうか、
Esに挑戦してくれない歌手が多くなってきたような気がします。
一時期ドマスがヴィオレッタをよく歌ってましたが彼女も決してEsを出さなかったし、
私が2006年シーズンのメトの公演で大感激したストヤノヴァも、出してませんでした。
もちろん、ルネ・フレミングも出してませんでしたし、
ヘイ・キョン・ホン、ルース・アン姉さん、と、
メトで最近聴いた人はほとんどが出してないですね。
(姉さんは出せそうな感じがするのですが、、。)

私も同感です。歌手一人一人の出来は悪くなかったのに、
何か心に響いてはこなかったですね。
でも、私は、ゲオルギューが歌う全幕公演って、いつもそういう感覚で終わることが多いです。

さて、『マリア・ストゥアルダ』、前編だけアップしました。
わざとじらすなどという高度な技を使える私ではないのですが、
丁度、デヴィーアの登場の直前で節目が来てしまいました。

人間国宝級の歌唱でしたので、このレポもおざなりに書くわけにはいかない!とせめて丁寧に感謝の気持ちを込めて書かねば、と思っているうちに力が尽きてしまいました。でも、後編もまもなくあげるつもりですので、読んでいただけると嬉しいです。

 チャッピーさん、

船橋、がんばれー!!
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