<後編 その1から続く>
もはや、ピンカートンを信じ続けることでしか、
自分の存在のよりどころを確認できない蝶々さんは、この後、
Niente, niente. Ho creduto morir
Ma passa presto come passan le nuvole sul mare.
(なんでもありません、なんでも。死ぬかと思ったけれど、
でも、海の上の雲がすぐに流れていってしまうように、気分が晴れました。)
と、ひたすら彼が自分のもとに戻ってくれることを信じている、
いえ、もはや祈っているという段階に入ったかもしれません。
そうまでして信じ続けなければいけない理由~子供が生まれていた!
そして、その後、部屋の奥から、男の子が現われ、シャープレスは、
ようやく、ピンカートンと蝶々さんの間に子供が生まれていたことを知ります。
(ただし、ピンカートンはその事実をこの時点では知らない。)
この子供の役に、メトのミンゲラ演出版では、文楽の人形を使用したことが話題になりました。
そのアイディアを支持する人が言う主だった理由の一つは、
”人間の子供を登場させた場合、まったく演技らしい演技をしないで、
そこにいるだけ、という感じなのに引き換え、文楽の人形はどんな子供よりも上手く演技をしてみせる”
というものです。
私はこの意見にははっきり言ってびっくりです。
蝶々さんの子供は、歌詞から計算するに、齢三つ。
そんな子供が、蝶々さんとピンカートンの間の事情なんて、理解できるわけがない。
確かに、実演では、ほとんどの子供が、わけがわからず、ボーっと突っ立っていたり、
蝶々さんにされるがままにしている、とケースが多いのですが、それでよいのです!
私は、このシーン、さらには、蝶々さんが自害する場面などで、
人間の子供が、”今日の夜ご飯何かな?”などと考えてそうだったり、
蝶々さん役の歌手に抱きしめられるたびに、”何これ?”というような表情をするばするほど、
一層、憐れを催します。
子供が何も知らないからこそ、ここは悲しみが募るではないですか?
文楽の人形がわけ知り顔で、蝶々さんの胸に飛び込んだり、大人顔負けの感情を見せるたびに、
なんともいえない違和感と嫌悪感を私は覚えました。全然リアルでないから。
私の考えでは、ここは絶対に人間の子供じゃなきゃいけません。
もしもピンカートンが戻ってこなかったら~ アリア ”芸者になって街に出て Che tua madre dovra ”
もしもピンカートンが戻ってこなかったら、自分は、雨の日も風の日も街に出て、
芸者に戻るしかない、と訴える蝶々さん。
思わず情をかけずにおれなくなったシャープレスは、ピンカートンに事情を話すことを約束して、
蝶々さんの家を立ち去ります。
そんなところに、スズキに首ねっこをつかまれてゴロー登場。
”アメリカだって、正式に認知されない子供は、世間に冷たくあしらわれるだけだ”
と言い放つゴローを追いかえす蝶々さんとスズキ。
ここでも、ゴローはひどい奴のように一瞬思われますが、しかし、間違ったことを言っているわけではない。
いずれにせよ、この言葉は、蝶々さんの胸に深く刻まれ、後に子供を手放す決心をする一因にもなっていきます。
大砲の音、白い船、ピンカートン、長崎に再入港~裏番的名場面
大砲の音が、一つ、長崎の港の方から響き渡って、一瞬の沈黙の後、
弦が奏でる”ある晴れた日に”の旋律をバックに、蝶々さんがはやる心をおさえながら、
望遠鏡で港を眺め、船の色と船体に書かれた船名を確認する、この場面も、思わず涙、のシーン。
まぎれもない、ピンカートンをのせたアブラハム・リンカーン号であることを確認した蝶々さんは、
嬉しさを爆発させ、
Trionfa il mio amor! la mia fe'trionfa intera ei torna e m'ama
(私の愛の勝利、私の愛と信頼が完全に勝ったのよ。あの人は帰ってきた、そして私を愛している!)
と歌います。
ここは、子供が登場するシーンあたりから、どんどん重量度が増してくる蝶々さんのパートの中でも、
フルで鳴るオケの音を飛び越えて歌わなければならない、
私の考えでは、椿姫の、”私を愛してね、アルフレード”と匹敵する裏番的名場面
(裏番とは、私の造語。アリアではないのに、アリアと匹敵するほどの熱狂を巻き起こす箇所。)であり、
ここの歌唱が素晴らしいと、その後に続くオケ(ただし、大音響)をかき消すほどの、
また、花の二重唱に入っていくのが聴こえなくなるほどの拍手とBravaが飛ぶ場合があります。
花の二重唱
ピンカートンが訪れる時のために、と、スズキと二人で庭の花をつんで、
花びらを部屋に撒く蝶々さんとスズキ。
この二重唱は、二人の息が合うと、うっとりとするほどの美しい響きが聴ける名場面。
ただし、その二人の息がぴったり合う、というのは、そう頻繁に起こらないのが難。
ピンカートンを待つ三人~ハミング・コーラス
化粧と婚礼衣装をつけ、ひたすらピンカートンの到着を待つ蝶々さんに、寄り添うスズキと子供。
”三匹の子ネズミのように、息をひそめて、そっと待ちましょう”という歌詞の後、
ただただ何事もなく時は流れ、夕暮れから夕闇へと舞台は変化していきます。
私が今まで見た『蝶々夫人』の舞台中、演出面で最も好きな、
新国立劇場で上演された栗山昌良氏の舞台では、オケが音楽を奏でる間、
望遠鏡を手にした蝶々さん、スズキ、子供の三人が障子の向こうに居て、
よって、観客席側からは、影絵のような三人の姿が障子に映っているのですが、
やがて照明がだんだんと夕暮れから夕闇への変化を描きだし、
そのままハミング・コーラスに入っていくというものでした。
いえ、ハミング・コーラスどころか、その後、休憩なしで、三幕に突入し、夜が明けて、
舞台の明かりが白んで行くまで、ずっと、舞台では3人が微動だにしないまま。
歌手の方への負担は相当なものだと思いますが
(特に蝶々夫人は、三幕で重量級の歌唱が待っているのに、休憩なし。
しかも、3人とも、この間、本当に全く動かずにいるので相当辛いはず。)、
この演出だと、休憩が入ってしまう場合に比べて、
観客も蝶々さんのピンカートンを待ちわびる気持ちを共有体験できるというのか、
影絵状態の三人を見ているのは、トータルで、ハミング・コーラスを含め、
実質5,6分というところだと思うのですが、それはそれは永遠のように長く感じられたのでした。
この演出は、他にも色々と優れた点があって、
新国立劇場は、その後、蝶々夫人を別の演出に変えてしまったようですが、もったいない話です。
さて、このハミング・コーラスは、弦のみの演奏にのせて、合唱が、
まさに、ハミングのみで歌う3分ほどの曲なのですが、涙が出るほど美しい。というか、実際出る。
今年、ここを、これでもか、というほどの弱音でオケが演奏したメトの公演がありましたが、本当に感動的でした。
第三幕
蝶々さんは、夜通しピンカートンを待ち続けて起きていますが、
スズキと子供は疲れて、待った姿勢のまま、居眠りをしてしまっています。
やがて遠くから聞こえる、漁師たちの歌。とうとう朝が来てしまいました。
蝶々さんをいたわって、少し眠るようにすすめるスズキ。
子守歌”かわいい我が子よ、ねんねしな Dormi, amor mio ”
スズキの言葉にしたがい、子供をかかえて子守唄を歌いながら、部屋の奥に消える蝶々さん。
最後のヴァリエーション、高音のBは、ピアニッシモで歌わなければならない難所。
しかし、この音はひたすら、柔らかく美しく聴かせてほしい。
嵐のようなこの後の展開の前の、不気味なまでの静溢さ。
また、蝶々さんの母親としての優しさが溢れるシーンです。ここでもまた泣く。
やがてシャープレスとピンカートン夫妻が蝶々さん邸に現われ、
スズキに、今やピンカートンにはアメリカ人の正妻がいること、
しかし、二人が、蝶々さんの子供を引き取り、責任をもってアメリカで育てるつもりであることを伝え、
蝶々さんにはそれを彼女から伝えてほしい、と依頼します。
全く、シャープレスにしろ、スズキにしろ、なんていやな役回りなんでしょう。
しかし、良心の呵責に耐えられなくなったピンカートンが蝶々さん宅から走り去った後、
蝶々さんが現われ、ピンカートンの妻、ケイトの姿を見て、すべてを悟ります。
ピンカートン自らが姿を現せば、子供はお渡ししましょう、と約束する蝶々さん。
スズキに子供と遊んでくるように言いつける蝶々さん。
蝶々さんの意図を察したスズキは拒否しますが、その決心は固く、
スズキはやむなく蝶々さんの側を離れます。
”名誉をもって生きることが叶わぬものは、名誉をもって死ぬべし”という言葉をつぶやいて、
短剣を取り出した蝶々さんのもとに、子供がかけこんできます。
アリア ”かわいい坊やよ、さようなら Tu, tu, piccolo Iddio ”
このアリアが終わった後は、蝶々さんはすべて演技のみで、言葉がないので、
最後の力を振り絞って歌ってほしい箇所。
非常に短いのにも関わらず、この役がソプラノ殺しといわれるのもむべかな、と思わせる大変なアリアです。
蝶々さん自害
この自害のシーンは、演出の方法いかんで、印象がいかようにも変わる。
ピンカートンが到着する前に自害している場合、来てから目の前で自害する場合、
子供が居る前で自害する場合、居ないところで自害する場合、
また、その自害の方法(短剣をどのように扱うか)まで、本当に千差万別です。
さて、蝶々さんが死に追いやられた最大の原因として、私はアイデンティティの問題があると思っています。
蝶々さんは、まず、父親がお上に自害を命じられ、
それが引き金となって貧乏生活に陥ったために芸者という手段でしか身をたてられず、
そんな境遇ゆえに、日本に見捨てられたと感じていたのが、
ピンカートンと出あうことで、アメリカに希望を見出しました。
自分の宗教と家族を捨てて、完全に日本人という自分のアイデンティティを投げ打ったはずが、
(例えば、彼女が、ヤマドリとのシーンで、日本では男性は離婚もやりたい放題だけれど、
アメリカではそんな男は許されない、と判事の真似をして、男性をやりこめる真似をするシーンなどに、
盲目的なアメリカへの信奉ぶりがあらわれている)
そのアメリカ=ピンカートンにも受け入れられず、自分の命を絶たざるを得なくなるわけですが、
結局、その最後は、自分があれほど逃れようとしていた日本という国の忠義によって
死んでいかざるを得なかった、という、その葛藤に、この話の最大の悲しさがあるのではないでしょうか?
死という段階に至ってはじめて、自分は日本人であるという事実から逃れられないことに気付き、
いや、むしろ、それを主張することを選んだ蝶々さん。
なので、この物語がどこの国が舞台であるかに関わらず、普遍的な人間の感情を描いているから
オペラの名作として愛されている、という意見には、ある面、あるレベルでは同意できますが、
その一方で、この話はどうしようもなく、日本という国と切り離して考えることはできない、
というのが私の考えで、それゆえに、日本という国を上手くとらえられていない演出や、
日本人女性の本質を表現できていない蝶々さんの歌唱がのっている公演は辛い、というのが正直な思いです。
(写真は一枚目 ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス、二枚目 ジェラルディン・ファーラー、
三枚目 クラウディア・ムツィオ)
もはや、ピンカートンを信じ続けることでしか、
自分の存在のよりどころを確認できない蝶々さんは、この後、
Niente, niente. Ho creduto morir
Ma passa presto come passan le nuvole sul mare.
(なんでもありません、なんでも。死ぬかと思ったけれど、
でも、海の上の雲がすぐに流れていってしまうように、気分が晴れました。)
と、ひたすら彼が自分のもとに戻ってくれることを信じている、
いえ、もはや祈っているという段階に入ったかもしれません。
そうまでして信じ続けなければいけない理由~子供が生まれていた!
そして、その後、部屋の奥から、男の子が現われ、シャープレスは、
ようやく、ピンカートンと蝶々さんの間に子供が生まれていたことを知ります。
(ただし、ピンカートンはその事実をこの時点では知らない。)
この子供の役に、メトのミンゲラ演出版では、文楽の人形を使用したことが話題になりました。
そのアイディアを支持する人が言う主だった理由の一つは、
”人間の子供を登場させた場合、まったく演技らしい演技をしないで、
そこにいるだけ、という感じなのに引き換え、文楽の人形はどんな子供よりも上手く演技をしてみせる”
というものです。
私はこの意見にははっきり言ってびっくりです。
蝶々さんの子供は、歌詞から計算するに、齢三つ。
そんな子供が、蝶々さんとピンカートンの間の事情なんて、理解できるわけがない。
確かに、実演では、ほとんどの子供が、わけがわからず、ボーっと突っ立っていたり、
蝶々さんにされるがままにしている、とケースが多いのですが、それでよいのです!
私は、このシーン、さらには、蝶々さんが自害する場面などで、
人間の子供が、”今日の夜ご飯何かな?”などと考えてそうだったり、
蝶々さん役の歌手に抱きしめられるたびに、”何これ?”というような表情をするばするほど、
一層、憐れを催します。
子供が何も知らないからこそ、ここは悲しみが募るではないですか?
文楽の人形がわけ知り顔で、蝶々さんの胸に飛び込んだり、大人顔負けの感情を見せるたびに、
なんともいえない違和感と嫌悪感を私は覚えました。全然リアルでないから。
私の考えでは、ここは絶対に人間の子供じゃなきゃいけません。
もしもピンカートンが戻ってこなかったら~ アリア ”芸者になって街に出て Che tua madre dovra ”
もしもピンカートンが戻ってこなかったら、自分は、雨の日も風の日も街に出て、
芸者に戻るしかない、と訴える蝶々さん。
思わず情をかけずにおれなくなったシャープレスは、ピンカートンに事情を話すことを約束して、
蝶々さんの家を立ち去ります。
そんなところに、スズキに首ねっこをつかまれてゴロー登場。
”アメリカだって、正式に認知されない子供は、世間に冷たくあしらわれるだけだ”
と言い放つゴローを追いかえす蝶々さんとスズキ。
ここでも、ゴローはひどい奴のように一瞬思われますが、しかし、間違ったことを言っているわけではない。
いずれにせよ、この言葉は、蝶々さんの胸に深く刻まれ、後に子供を手放す決心をする一因にもなっていきます。
大砲の音、白い船、ピンカートン、長崎に再入港~裏番的名場面
大砲の音が、一つ、長崎の港の方から響き渡って、一瞬の沈黙の後、
弦が奏でる”ある晴れた日に”の旋律をバックに、蝶々さんがはやる心をおさえながら、
望遠鏡で港を眺め、船の色と船体に書かれた船名を確認する、この場面も、思わず涙、のシーン。
まぎれもない、ピンカートンをのせたアブラハム・リンカーン号であることを確認した蝶々さんは、
嬉しさを爆発させ、
Trionfa il mio amor! la mia fe'trionfa intera ei torna e m'ama
(私の愛の勝利、私の愛と信頼が完全に勝ったのよ。あの人は帰ってきた、そして私を愛している!)
と歌います。
ここは、子供が登場するシーンあたりから、どんどん重量度が増してくる蝶々さんのパートの中でも、
フルで鳴るオケの音を飛び越えて歌わなければならない、
私の考えでは、椿姫の、”私を愛してね、アルフレード”と匹敵する裏番的名場面
(裏番とは、私の造語。アリアではないのに、アリアと匹敵するほどの熱狂を巻き起こす箇所。)であり、
ここの歌唱が素晴らしいと、その後に続くオケ(ただし、大音響)をかき消すほどの、
また、花の二重唱に入っていくのが聴こえなくなるほどの拍手とBravaが飛ぶ場合があります。
花の二重唱
ピンカートンが訪れる時のために、と、スズキと二人で庭の花をつんで、
花びらを部屋に撒く蝶々さんとスズキ。
この二重唱は、二人の息が合うと、うっとりとするほどの美しい響きが聴ける名場面。
ただし、その二人の息がぴったり合う、というのは、そう頻繁に起こらないのが難。
ピンカートンを待つ三人~ハミング・コーラス
化粧と婚礼衣装をつけ、ひたすらピンカートンの到着を待つ蝶々さんに、寄り添うスズキと子供。
”三匹の子ネズミのように、息をひそめて、そっと待ちましょう”という歌詞の後、
ただただ何事もなく時は流れ、夕暮れから夕闇へと舞台は変化していきます。
私が今まで見た『蝶々夫人』の舞台中、演出面で最も好きな、
新国立劇場で上演された栗山昌良氏の舞台では、オケが音楽を奏でる間、
望遠鏡を手にした蝶々さん、スズキ、子供の三人が障子の向こうに居て、
よって、観客席側からは、影絵のような三人の姿が障子に映っているのですが、
やがて照明がだんだんと夕暮れから夕闇への変化を描きだし、
そのままハミング・コーラスに入っていくというものでした。
いえ、ハミング・コーラスどころか、その後、休憩なしで、三幕に突入し、夜が明けて、
舞台の明かりが白んで行くまで、ずっと、舞台では3人が微動だにしないまま。
歌手の方への負担は相当なものだと思いますが
(特に蝶々夫人は、三幕で重量級の歌唱が待っているのに、休憩なし。
しかも、3人とも、この間、本当に全く動かずにいるので相当辛いはず。)、
この演出だと、休憩が入ってしまう場合に比べて、
観客も蝶々さんのピンカートンを待ちわびる気持ちを共有体験できるというのか、
影絵状態の三人を見ているのは、トータルで、ハミング・コーラスを含め、
実質5,6分というところだと思うのですが、それはそれは永遠のように長く感じられたのでした。
この演出は、他にも色々と優れた点があって、
新国立劇場は、その後、蝶々夫人を別の演出に変えてしまったようですが、もったいない話です。
さて、このハミング・コーラスは、弦のみの演奏にのせて、合唱が、
まさに、ハミングのみで歌う3分ほどの曲なのですが、涙が出るほど美しい。というか、実際出る。
今年、ここを、これでもか、というほどの弱音でオケが演奏したメトの公演がありましたが、本当に感動的でした。
第三幕
蝶々さんは、夜通しピンカートンを待ち続けて起きていますが、
スズキと子供は疲れて、待った姿勢のまま、居眠りをしてしまっています。
やがて遠くから聞こえる、漁師たちの歌。とうとう朝が来てしまいました。
蝶々さんをいたわって、少し眠るようにすすめるスズキ。
子守歌”かわいい我が子よ、ねんねしな Dormi, amor mio ”
スズキの言葉にしたがい、子供をかかえて子守唄を歌いながら、部屋の奥に消える蝶々さん。
最後のヴァリエーション、高音のBは、ピアニッシモで歌わなければならない難所。
しかし、この音はひたすら、柔らかく美しく聴かせてほしい。
嵐のようなこの後の展開の前の、不気味なまでの静溢さ。
また、蝶々さんの母親としての優しさが溢れるシーンです。ここでもまた泣く。
やがてシャープレスとピンカートン夫妻が蝶々さん邸に現われ、
スズキに、今やピンカートンにはアメリカ人の正妻がいること、
しかし、二人が、蝶々さんの子供を引き取り、責任をもってアメリカで育てるつもりであることを伝え、
蝶々さんにはそれを彼女から伝えてほしい、と依頼します。
全く、シャープレスにしろ、スズキにしろ、なんていやな役回りなんでしょう。
しかし、良心の呵責に耐えられなくなったピンカートンが蝶々さん宅から走り去った後、
蝶々さんが現われ、ピンカートンの妻、ケイトの姿を見て、すべてを悟ります。
ピンカートン自らが姿を現せば、子供はお渡ししましょう、と約束する蝶々さん。
スズキに子供と遊んでくるように言いつける蝶々さん。
蝶々さんの意図を察したスズキは拒否しますが、その決心は固く、
スズキはやむなく蝶々さんの側を離れます。
”名誉をもって生きることが叶わぬものは、名誉をもって死ぬべし”という言葉をつぶやいて、
短剣を取り出した蝶々さんのもとに、子供がかけこんできます。
アリア ”かわいい坊やよ、さようなら Tu, tu, piccolo Iddio ”
このアリアが終わった後は、蝶々さんはすべて演技のみで、言葉がないので、
最後の力を振り絞って歌ってほしい箇所。
非常に短いのにも関わらず、この役がソプラノ殺しといわれるのもむべかな、と思わせる大変なアリアです。
蝶々さん自害
この自害のシーンは、演出の方法いかんで、印象がいかようにも変わる。
ピンカートンが到着する前に自害している場合、来てから目の前で自害する場合、
子供が居る前で自害する場合、居ないところで自害する場合、
また、その自害の方法(短剣をどのように扱うか)まで、本当に千差万別です。
さて、蝶々さんが死に追いやられた最大の原因として、私はアイデンティティの問題があると思っています。
蝶々さんは、まず、父親がお上に自害を命じられ、
それが引き金となって貧乏生活に陥ったために芸者という手段でしか身をたてられず、
そんな境遇ゆえに、日本に見捨てられたと感じていたのが、
ピンカートンと出あうことで、アメリカに希望を見出しました。
自分の宗教と家族を捨てて、完全に日本人という自分のアイデンティティを投げ打ったはずが、
(例えば、彼女が、ヤマドリとのシーンで、日本では男性は離婚もやりたい放題だけれど、
アメリカではそんな男は許されない、と判事の真似をして、男性をやりこめる真似をするシーンなどに、
盲目的なアメリカへの信奉ぶりがあらわれている)
そのアメリカ=ピンカートンにも受け入れられず、自分の命を絶たざるを得なくなるわけですが、
結局、その最後は、自分があれほど逃れようとしていた日本という国の忠義によって
死んでいかざるを得なかった、という、その葛藤に、この話の最大の悲しさがあるのではないでしょうか?
死という段階に至ってはじめて、自分は日本人であるという事実から逃れられないことに気付き、
いや、むしろ、それを主張することを選んだ蝶々さん。
なので、この物語がどこの国が舞台であるかに関わらず、普遍的な人間の感情を描いているから
オペラの名作として愛されている、という意見には、ある面、あるレベルでは同意できますが、
その一方で、この話はどうしようもなく、日本という国と切り離して考えることはできない、
というのが私の考えで、それゆえに、日本という国を上手くとらえられていない演出や、
日本人女性の本質を表現できていない蝶々さんの歌唱がのっている公演は辛い、というのが正直な思いです。
(写真は一枚目 ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス、二枚目 ジェラルディン・ファーラー、
三枚目 クラウディア・ムツィオ)