鈴木宗男氏が月刊日本11月号に北方領土問題の歴史と題して寄稿している。
北方領土について我々は経緯を殆ど知らないが非常によく纏まっているので同氏の説を紹介したい。
北方領土問題の歴史
新党大地代表 鈴木宗男
外務省は領土問題の経緯を説明すべきだ
日ソ共同宣言から60年目の今年、北方領土交渉がスピード感を持って進んでいる。まさに政治のダイナミズムだ。このまま一機に平和条約の締結まで進んでほしいものだ。
とはいえ、日本国民はいささか置いてけぼりになってるのかもしれない。勿論国境を確定させる領土問題の解決はトップリーダーの決断にかかっているが、それを見守る国民の理解も重要だ。そうでなければ、メディアの風向きで交渉が頓挫してしまう危険性がある。
2002年当時、私は日本政府の方針に従って北方領土交渉に取り組んでいたが、メディアからは「鈴木宗男は勝手に「2島ぽっきり」で決着をつけようとする国賊だ」と激しくバッシングされた。官房副長官だった安倍総理は記者会見で「鈴木宗男議員は政府の方針通りに領土交渉に臨んできた」と言ってくれたのが、メディアや国民のバッシングは収まらなかった。
その背後には、政府や外務省が右バネを怖がって、国民にちゃんと説明をしてこなかったという事情がある。それでメディアや国民の正しい理解が得られず、私や東郷和彦さん、佐藤優さんなどが権力闘争に巻き込まれてしまった結果、領土交渉が躓いてしまい、日ロ関係は10年以上も停滞してしまったのである。
その反省も込めて、今回は北方領土問題の経緯や安倍政権の方針をお伝えしたい。
まず北方領土問題の起源は、第二次世界大戦である。1945年8月9日ソ連は日ソ中立条約を破って日本に侵攻した。
我々日本人からすれば、ソ連にアメリカなどとの和平交渉の仲介を頼んでいたのに、一方的に中立条約が破られて奇襲されたのだ。満州や千島列島に住んでいた同胞がひどい目にあわされ、さらにシベリア抑留では数十万人の同胞が殺されたのである。しかもソ連は日本がポツダム宣言を受託したあと思う南樺太と千島列島に進行して占領してしまった。断じて許しがたいことだ。
しかしロシアにはロシアの言い分がある。そもそも日本はナチス・ドイツの同盟国で、ナチス・ドイツのソ連侵攻に拍手喝采を送っていたではないか。それもは日ソ中立条約に優先するヤルタ協定に基づいて行動したわけだ。8月14日のポツダム宣言受諾後に攻め込んだというが、対日戦争が正式に終結したのは9月2日で、それまでは戦争状態だから問題はない、と。
もちろんロシアの言い分を聞いたところで、(そうですか)と納得することはできない。だが、日本は負けたのである。そしてサンフランシスコ講和条約で敗戦国として理不尽を呑んだのである。そうである以上、北方領土問題は平和的に話し合いで解決しなければならない。
日本は一度、国後島・択捉島を放棄している
とはいえ、日本の北方領土に対する権利が確固たるものだとは言いにくい。まず日本は1951年に調印したサンフランシスコ講和条約2条C項で、千島列島を放棄している。その際、当時の西村熊雄外務省条約局長は、「サンフランシスコ講和条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両方を含むと考えております。(中略)なお歯舞と色丹が千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました」(1951年10月19日)と答弁している。
つまり、日本は一同ミナミ千島(国後島(択捉島)を放棄しているのだ。
しかしその後、森下国雄外務政務次官は(この南千島、すなわち国後、択捉の両党は常に日本の領土であったもので、この点においてかつて些かも疑念を挟まれたことがなく、変換は当然である) (1956年2月11日)と答弁した。
1955年から日ソ国交正常化交渉が始まる中で、日本政府は「ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していない」という理由で、ソ連に対して国後島と択捉島を要求する立場を取ったのだ。この点は日本政府がすり替えたのである。
また1950年8月、モスクワで日ソ平和条約交渉に当たっていた当時の重光葵外相が歯舞、色丹の2島返還で妥協しかけた時、後に米国務長官となるジョン、フォスター・ダレスは「四島返還を主張しなければ、沖縄の変換もない」と恫喝したといわれている。いわゆる「ダレスの恫喝」だ。こうした経緯を経て、1956年10月に「日ソ共同宣言」で、平和条約交渉を継続すること、そして平和条約締結後にソ連が善意で日本に歯舞、色丹の2島を引き渡すことが決まったのである。
だが、東西冷戦となり、ソ連は「日本との間に領土問題は存在しない」という強硬な立場をとったものだから、売り言葉に買い言葉で、日本も「四島即時一括変換」という政府方針を掲げたのだ。
しかし1991年にソ連が崩壊して自由と民主のロシアになり、「北方四島は未解決の係争地域である」と領土問題の存在を認めるようになった。そこで日本も「四島一括返還」取り下げ、「四島に対する日本の主権が認められるならば、実際の返還の時期、態様、条件については柔軟に対応する」という政府方針に変更したのだ。
それ以降、日露両国は「法と正義に基づいて、話し合いで解決しましょう」という形で領土交渉を行っている。しかし政府はちゃんとこの方針転換を説明していないので、未だに政府方針は「四島一括返還」だと思ってる人が多い。
これまでの日露両国の領土交渉では、「東京宣言」と「イルクーツク宣言」が証明されている。1993年には細川護煕総理とエリツィン大統領の間で「東京宣言」が署名され、「北方四島の帰属に関する問題を歴史的、法的事実に基づいて解決する」ことに決まった。また2000年には森喜朗総理とプーチン大統領が「イルクーツク宣言」に署名し、日ソ共同宣言を出発点にして、東京宣言に基づいて四島の帰属問題を解決していこうということに決まり、現在に至っている。
「新しいアプローチ」は「2島先行返還」だ
そして今、安倍総理は(新しいアプローチ)に舵を切っている。現在日露両国は日ソ共同宣言を領土交渉の出発点にしている。この点は変わっていない。
しかし日本はロシアに東京宣言の確認を求めていない。東京宣言に基づく解決は、5つのパターンがある。日本4ロシア0、日本3ロシア1、日本2ロシア2、日本1ロシア3、日本0ロシア4である。しかし日本がひゃくてんまんてんでロシアが冷点という外交はありえない。その逆も然りだ。おそらく北方領土問題がこういう形で解決されることはない。
また日本は「四島に対する日本のが認められるならば」という政府方針に言及していない。さらに読売新聞(9月23日付)はこう報じている。
「政府は、ロシアとの北方領土問題の交渉で、歯舞群島、色丹島の二島を引き渡しを最低条件とする方針を固めた。・・平和条約締結の際、択捉、国後病棟を含めた「4島の帰属」問題の解決を前提としない方針で検討している。…択捉、国後については日本に帰属するとの立場を堅持する。その上で、平和条約締結後の継続協議とし、自由訪問や共同経済活動などを行いながら、最終的な変換につなげる案などが浮上している。」「新たなアプローチ」では、従来の政府方針にこだわらず、第一に日ソ共同宣言に基づいて平和条約を締結し、まず歯舞、色丹の2島を返還してもらう、第二に国後、択捉の2島に関しては継続協議を滲ませ、2島の施政権や潜在主権や経済協力について合意を得る、という方向なのではないか。
2島先行返還の場合、抵抗を感じる国民の方もいるかもしれない。しかし交渉を入り口で止めてはならない。まず入口に入った上で、しっかりと出口を見定めて一歩一歩着実に進んでいく必要があるのだ。
世界一の技術力を持っている日本が北方四島に進出して、北方四島の島民の生活に大きく貢献すれば、島民の受け止め方も変わってくるはずだ。島民もそれを期待している。北方四島での共同経済開発は、必ず領土問題の解決につながると思っている。
とはいえ、まだ案が浮上している段階である。安倍総理は11月のAPEC、12月のプーチン大統領訪日に向けて、日露両国の叡智を結集して、最善の決断を下されることと信じている。
元島民の方々は平均年齢82歳である。70年以上もの間、再び故郷で暮らし自由にご先祖様のお墓参りができる日を待ちわびてこられたのだ。人生に残された時間は少ない。もうこれ以上は待てない。
人道的にも、そして歴史的にも、今こそ北方領土問題を解決しなければならない。そして政府と国民が北方領土問題でしっかりと信頼関係を築くことによって、その日が早まると信じている。
北方領土について我々は経緯を殆ど知らないが非常によく纏まっているので同氏の説を紹介したい。
北方領土問題の歴史
新党大地代表 鈴木宗男
外務省は領土問題の経緯を説明すべきだ
日ソ共同宣言から60年目の今年、北方領土交渉がスピード感を持って進んでいる。まさに政治のダイナミズムだ。このまま一機に平和条約の締結まで進んでほしいものだ。
とはいえ、日本国民はいささか置いてけぼりになってるのかもしれない。勿論国境を確定させる領土問題の解決はトップリーダーの決断にかかっているが、それを見守る国民の理解も重要だ。そうでなければ、メディアの風向きで交渉が頓挫してしまう危険性がある。
2002年当時、私は日本政府の方針に従って北方領土交渉に取り組んでいたが、メディアからは「鈴木宗男は勝手に「2島ぽっきり」で決着をつけようとする国賊だ」と激しくバッシングされた。官房副長官だった安倍総理は記者会見で「鈴木宗男議員は政府の方針通りに領土交渉に臨んできた」と言ってくれたのが、メディアや国民のバッシングは収まらなかった。
その背後には、政府や外務省が右バネを怖がって、国民にちゃんと説明をしてこなかったという事情がある。それでメディアや国民の正しい理解が得られず、私や東郷和彦さん、佐藤優さんなどが権力闘争に巻き込まれてしまった結果、領土交渉が躓いてしまい、日ロ関係は10年以上も停滞してしまったのである。
その反省も込めて、今回は北方領土問題の経緯や安倍政権の方針をお伝えしたい。
まず北方領土問題の起源は、第二次世界大戦である。1945年8月9日ソ連は日ソ中立条約を破って日本に侵攻した。
我々日本人からすれば、ソ連にアメリカなどとの和平交渉の仲介を頼んでいたのに、一方的に中立条約が破られて奇襲されたのだ。満州や千島列島に住んでいた同胞がひどい目にあわされ、さらにシベリア抑留では数十万人の同胞が殺されたのである。しかもソ連は日本がポツダム宣言を受託したあと思う南樺太と千島列島に進行して占領してしまった。断じて許しがたいことだ。
しかしロシアにはロシアの言い分がある。そもそも日本はナチス・ドイツの同盟国で、ナチス・ドイツのソ連侵攻に拍手喝采を送っていたではないか。それもは日ソ中立条約に優先するヤルタ協定に基づいて行動したわけだ。8月14日のポツダム宣言受諾後に攻め込んだというが、対日戦争が正式に終結したのは9月2日で、それまでは戦争状態だから問題はない、と。
もちろんロシアの言い分を聞いたところで、(そうですか)と納得することはできない。だが、日本は負けたのである。そしてサンフランシスコ講和条約で敗戦国として理不尽を呑んだのである。そうである以上、北方領土問題は平和的に話し合いで解決しなければならない。
日本は一度、国後島・択捉島を放棄している
とはいえ、日本の北方領土に対する権利が確固たるものだとは言いにくい。まず日本は1951年に調印したサンフランシスコ講和条約2条C項で、千島列島を放棄している。その際、当時の西村熊雄外務省条約局長は、「サンフランシスコ講和条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両方を含むと考えております。(中略)なお歯舞と色丹が千島に含まれないことは、アメリカ外務当局も明言されました」(1951年10月19日)と答弁している。
つまり、日本は一同ミナミ千島(国後島(択捉島)を放棄しているのだ。
しかしその後、森下国雄外務政務次官は(この南千島、すなわち国後、択捉の両党は常に日本の領土であったもので、この点においてかつて些かも疑念を挟まれたことがなく、変換は当然である) (1956年2月11日)と答弁した。
1955年から日ソ国交正常化交渉が始まる中で、日本政府は「ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していない」という理由で、ソ連に対して国後島と択捉島を要求する立場を取ったのだ。この点は日本政府がすり替えたのである。
また1950年8月、モスクワで日ソ平和条約交渉に当たっていた当時の重光葵外相が歯舞、色丹の2島返還で妥協しかけた時、後に米国務長官となるジョン、フォスター・ダレスは「四島返還を主張しなければ、沖縄の変換もない」と恫喝したといわれている。いわゆる「ダレスの恫喝」だ。こうした経緯を経て、1956年10月に「日ソ共同宣言」で、平和条約交渉を継続すること、そして平和条約締結後にソ連が善意で日本に歯舞、色丹の2島を引き渡すことが決まったのである。
だが、東西冷戦となり、ソ連は「日本との間に領土問題は存在しない」という強硬な立場をとったものだから、売り言葉に買い言葉で、日本も「四島即時一括変換」という政府方針を掲げたのだ。
しかし1991年にソ連が崩壊して自由と民主のロシアになり、「北方四島は未解決の係争地域である」と領土問題の存在を認めるようになった。そこで日本も「四島一括返還」取り下げ、「四島に対する日本の主権が認められるならば、実際の返還の時期、態様、条件については柔軟に対応する」という政府方針に変更したのだ。
それ以降、日露両国は「法と正義に基づいて、話し合いで解決しましょう」という形で領土交渉を行っている。しかし政府はちゃんとこの方針転換を説明していないので、未だに政府方針は「四島一括返還」だと思ってる人が多い。
これまでの日露両国の領土交渉では、「東京宣言」と「イルクーツク宣言」が証明されている。1993年には細川護煕総理とエリツィン大統領の間で「東京宣言」が署名され、「北方四島の帰属に関する問題を歴史的、法的事実に基づいて解決する」ことに決まった。また2000年には森喜朗総理とプーチン大統領が「イルクーツク宣言」に署名し、日ソ共同宣言を出発点にして、東京宣言に基づいて四島の帰属問題を解決していこうということに決まり、現在に至っている。
「新しいアプローチ」は「2島先行返還」だ
そして今、安倍総理は(新しいアプローチ)に舵を切っている。現在日露両国は日ソ共同宣言を領土交渉の出発点にしている。この点は変わっていない。
しかし日本はロシアに東京宣言の確認を求めていない。東京宣言に基づく解決は、5つのパターンがある。日本4ロシア0、日本3ロシア1、日本2ロシア2、日本1ロシア3、日本0ロシア4である。しかし日本がひゃくてんまんてんでロシアが冷点という外交はありえない。その逆も然りだ。おそらく北方領土問題がこういう形で解決されることはない。
また日本は「四島に対する日本のが認められるならば」という政府方針に言及していない。さらに読売新聞(9月23日付)はこう報じている。
「政府は、ロシアとの北方領土問題の交渉で、歯舞群島、色丹島の二島を引き渡しを最低条件とする方針を固めた。・・平和条約締結の際、択捉、国後病棟を含めた「4島の帰属」問題の解決を前提としない方針で検討している。…択捉、国後については日本に帰属するとの立場を堅持する。その上で、平和条約締結後の継続協議とし、自由訪問や共同経済活動などを行いながら、最終的な変換につなげる案などが浮上している。」「新たなアプローチ」では、従来の政府方針にこだわらず、第一に日ソ共同宣言に基づいて平和条約を締結し、まず歯舞、色丹の2島を返還してもらう、第二に国後、択捉の2島に関しては継続協議を滲ませ、2島の施政権や潜在主権や経済協力について合意を得る、という方向なのではないか。
2島先行返還の場合、抵抗を感じる国民の方もいるかもしれない。しかし交渉を入り口で止めてはならない。まず入口に入った上で、しっかりと出口を見定めて一歩一歩着実に進んでいく必要があるのだ。
世界一の技術力を持っている日本が北方四島に進出して、北方四島の島民の生活に大きく貢献すれば、島民の受け止め方も変わってくるはずだ。島民もそれを期待している。北方四島での共同経済開発は、必ず領土問題の解決につながると思っている。
とはいえ、まだ案が浮上している段階である。安倍総理は11月のAPEC、12月のプーチン大統領訪日に向けて、日露両国の叡智を結集して、最善の決断を下されることと信じている。
元島民の方々は平均年齢82歳である。70年以上もの間、再び故郷で暮らし自由にご先祖様のお墓参りができる日を待ちわびてこられたのだ。人生に残された時間は少ない。もうこれ以上は待てない。
人道的にも、そして歴史的にも、今こそ北方領土問題を解決しなければならない。そして政府と国民が北方領土問題でしっかりと信頼関係を築くことによって、その日が早まると信じている。