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萬古焼について

2023年03月19日 | 文化
今朝は、イッピンという番組で三重県の萬古焼を放送をしていたので興味深く見た。番組では、土鍋、醤油さし、ビアマグを紹介していたが、全く作風が違うので萬古焼のカバーする範囲は広いと思った。

萬古焼についてwikiで調べてみると下記の歴史があることが分かった。
以下はwikiをベースにまとめてみました。

萬古焼は江戸時代中期に桑名の豪商で陶芸家の沼波弄山(ぬなみろうざん、享保3年1718年〜 安永6年1777年)を始祖とする。弄山は作品に「萬古」の印を押したので萬古焼と呼ばれる。弄山の時代の作品は、古萬古と呼ばれる。
後継がなく古萬古がいったん廃絶した後、各地で萬古焼の再興が試みられた。

天保年間(1830年〜1843年)、桑名の陶器師森有節らによって萬古焼が再興された(有節萬古)。華麗な粉彩による大和絵の絵付と、木型成形法によって製造された斬新な急須は桑名の名物となり、桑名藩も製造を奨励した。
桑名では有節萬古を模倣・追随する陶芸家も多く現れた(桑名萬古焼)。
現在、桑名萬古焼は三重県伝統工芸品となっている。

四日市萬古焼は山中忠左衛門の尽力によって興り、明治時代には洋皿やコーヒーカップ等の洋食器の研究や地域住民への製作指導、海外輸出も行われるようになった。

陶土として使っていた四日市の土は赤土であり、輸出向けの白地の食器を作ることが困難であったため、日本各地から陶土・陶石を移入して対応した。昭和に入る頃には日本国内から萬古焼の陶土に適した土がなくなってしまったが、1936年(昭和11年)に開催された国産振興四日市大博覧会を通して朝鮮に適した陶土があることが分かり、取引の具体化が始まった。

第二次世界大戦前、生産額の60%は対米輸出が占めていた。対米輸出が途絶えた戦時期には、耐火煉瓦や、軍需優先で不足した金属製品の代用品の製造などを行った。1945年(昭和20年)6月18日の四日市空襲で、製造設備の8割と販売業者の施設のほとんどが焼失する大きな被害を受けた。
戦後、萬古焼の復興は速やかに進んだ。しかし家庭にガスコンロが普及していくにつれ、従来のかまどに比べてより高温なガスの炎に対し土鍋は割れてしまうことが多く、陶器業界の課題となっていた。そんな中で四日市萬古焼は1959年(昭和34年)頃には高熱を加えても割れない陶土の開発に成功し、「割れない土鍋」として国内シェアを伸ばし、土鍋の国内シェアは約8割を占める。
また、豚を模った「蚊遣豚」でも有名。またビアマグなどのカラフルな商品も制作している。