歌舞伎俳優の市川猿翁さんが、亡くなった。(13日)
猿翁さんというより、
私には猿之助さんと言った方がぴんと来る。
“歌舞伎界の革命児”と言われ、
「スーパー歌舞伎」というジャンルを作り上げ、
歌舞伎の世界に新風を吹き込んだ方。
猿之助の名を甥に譲り、
隠居名・猿翁となった後も、
私の中では猿之助として心に残っている。
なにしろ、49年間「猿之助」だったのだから。
「ヤマトタケル」も観た。
「オグリ」も観た。
「伊達の十役」も観た。
リヒャルト・シュトラウスのオペラ「影のない女」も
猿之助の演出というだけで観に行った。
リムスキー=コルサコフのオペラ「金鶏」も観たはず。
猿之助演出で、夫人の藤間紫が主演した「西太后」も観た。
脳梗塞で一線を退いてから(2003年)
随分歳月が経つので、
もっと高齢のような気がしていたが、
83歳だった。
最初の妻の浜木綿子さんとの離婚後、
疎遠になっていた息子・香川照之と和解し、
市川中車として歌舞伎界に迎え、
甥の二代目市川亀治郎(弟・四代目段四郎の一人息子)に
市川猿之助の名跡を四代目として譲り(2012年)、
一線を退いたまま、亡くなった。
息子・照之は大学卒業後、1989年に俳優デビュー。
それを機に25歳の冬、思い立って猿之助の公演先へ会いに行った。
その際、猿之助は
「大事な公演の前にいきなり訪ねてくるとは、
役者としての配慮が足りません」
と照之を叱責、
「私はあなたのお母さんと別れた時から、
自らの分野と価値を確立していく確固たる生き方を具現させました。
すなわち私が家庭と訣別した瞬間から、私は蘇生したのです。
だから、今の私とあなたとは何の関わりもない。
あなたは息子ではありません。
したがって私はあなたの父でもない」
「あなたとは今後、二度と会うことはありません」
と完全に拒絶し、突き放した。
父親としては、さぞ辛い思いだっただろう。
照之も辛かったろう。
その後、藤間紫の尽力で和解が進み、
照之の歌舞伎界進出発表の際には涙ながらに
「浜さん、ありがとう。
恩讐の彼方に、ありがとう」
と、前妻・浜に対して感謝の言葉を述べている。
そういう意味で、後に憂いはなかったはずだが、
香川照之があんなことでつまずき、
四代目猿之助も事件を起こし、
さぞ心残りだったろう。
今思えばだが、
猿之助の名は、三代目限りにすべきだった。
名跡の永久欠番。
そうすれば、
猿之助の名前が汚辱にまみれることにはならなかっただろうに。
「ヤマトタケル」の白い鳥になっての宙乗りで、
飛翔したまま客席後方に消えて行った姿、
「伊達の十役」で、
花道上での0.5秒の早替わり、
「義経千本桜」で、キツネの扮装で階段に忽然と現れた場面、
今も目に浮かぶ。
「天翔ける心」「夢見る力」。
蜷川幸雄なき後、
日本の演劇界は、
もう一人、世界に通用する演出家を亡くした。