カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『「心」から』

2006-10-13 08:19:48 | Weblog
 「心」というお店で



 「心尽くし」た



 ときに「心憎い」ほどの料理とお酒を



 とてもあたたかい「心遣い」のなかで



 「心ゆくまで」堪能した。



 招待という形を「心苦しい」と思うことなく



 二人の「心根」とありがたく甘んじて



 あなたたちのような「心丈夫」になりたいと



 『「心」から』そう思う。



 「心意気」をいつもありがとう。





 ささくれ立ってた「心」が



 いつのまにか



 赤ちゃんのほっぺたのように



 ふんわり、ふわふわになりました。



 ごちそうさま。



 やさしさをありがとう。



 我が「心の友」たちへ




 これからもずっといっしょに。








 神に感謝。
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『それってカトリック?』

2006-10-12 08:54:50 | Weblog
 最近言わなくなったというか



 言えなくなった言葉



 「それってカトリックじゃないんじゃないの。」




 これを言う事自体ある意味「囚われ」ではないかと。



 ようやくそういう境地というかコツみたいなものがうっすらと垣間見えてきたような見えてきそうな感覚。



 もちろん否定をするというのではなくて



 やっぱり目の前で起きている「現実」だけをできる限り「しっかり」見て、見極めて、受け止めて、租借して



 自然に「カトリック」なココロに落としこむ



 「落としこむ」だと読んだイメージが良くなかったら



 「昇華」させる。





 人のうわさ話が好きな人はこんな風に考えられたらどうだろう。



 「いま「その人のことを、その出来事のことを」私に話させようとしているのは自分自身の良い悪いという判断ではなくて


  「悪い霊」


  が巧妙に、意地悪く、わからないように、自分に働きかけて


  この舌を動かそうとしているのではないか。」と。



 それでも口を開いて、何かを言えるだろうか。



 その口は「神の国」で行われている



 「神の業」を告げ知らせるために有効に活用するべきではないだろうか。



 もちろん「だって人間なんだもんしょうがないじゃん。」ってのも素直だし事実。



 そんな人に限って「偽善」という言葉を良く使う。



 「偽善」って何でしょう?





 あとは、「信仰と善意があれば「何でもできる」」ということを都合良く曲解したくないというところか。



 可能性を否定しているのではない。前向きなのはウェルカム。



 「神の業」の働きを感じられているのか



 なんでもかんでも手を出し口を出し、結果すべてが中途半端になって、関わったお互いがハッピーでなくなってしまっていることがないか。



 期待をさせられて、はしごをはずされたときのショックは大きい。



 面倒を見るのなら出来うる限り最後まで(どこまでが最後かは、なかなか難しい)



 もしどうしても手を引いかなきゃならなくなったり、集まりから抜け無きゃならなくなったら



 「自分が身を引いた」などと思わないことじゃないかな。



 妙な敗北感のような後味の悪さだけが残って、これからやろうとすること全部が中途半端になっちゃうと思う。



 「ここじゃなかったのなら、つぎはどこで「神の国」の実現に奉仕しようか。」って感じでいいのではないか。





 「そんなこと言ったら何も出来ないじゃん。」




 自分の理想を「良い悪い」のものさしにして人に押し付けなければ




 何やったってイイし、何でもできるのではないだろうか。




 すべては神様がなさっていることなのだから。



 
 気楽に



 普通に







 神に感謝。
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『準備』

2006-10-11 06:16:14 | Weblog
 「しっかり『準備』をして」



 海外で活躍する日本人が常に、口にし、実践し、肉体も、精神も、私生活も、練習も「その場所」でベストなパフォーマンスを披露できるように



 なおかつ、その『準備』すること、そのプロセスを大切にして、楽しんで、もちろん苦しんだりもして



 結果は後からついてくるって感じで。



 今年もメジャーリーグで最多安打という途轍もないパフォーマンスを披露した



 イチロー。



 この人の極め方というか、ストイックさというか、何となく「ちょっと鼻につく」時期があった。



 成功者への羨望か、憧れの裏返しのやっかみか。



 具体的には現時点でもうまく表現できないが



 「感情を抑えすぎてるんじゃねえか。若造がさぁ。ちょっと気持ち悪いぞ。」



 「どうせ説明しても「わかる人にしかわからないから話さない」ってスタンスやめないかなぁ」



 マスコミが慇懃無礼な質問したり、逆に「伝説のヒーロー」創出したいが為に妙に気を使ったり。



 もちろん有名になると利権やイメージやプライベート等、守ったり管理したりしなければならないものも大きく膨らむのでたいへんではあるだろう。



 正直、今年はじめに開催されたWBC(ワールドベースボールクラシック)に彼が出場し喜怒哀楽を前面に出し、チームを引っ張ろうとしている生身の人間らしさを見るまであまり好きではなかった。海外に行った日本人の挑戦者だから応援するというような特別視は一切してなかった。



 ぼくらが他人の断片しか見ていないことの典型的な例だな反省もした。





 「ちゃんと『準備』をしよう。」



 このイチローと同じ誕生日の当教会の主任司祭もよく口にする言葉です。



 高円寺教会には教会にはじめてくる方のために「入門係」という人たちがいます。39人。



 現在も実施されている「カトリック入門講座」が11月から本番を迎える。



 ぼくらははじめて教会に来られる方、例えば「洗礼」に導かれている方、純粋にカトリック教会について知りたい、学びたいという方、晴佐久神父に直接会いたい方


 そして、そんなこととは全く関係なくたまたま教会に来られた方の



 道案内役をしている。自信を持ってお手伝いをしている。



 「教会って信者じゃないと入れないところなんじゃないの。」とか



 「なんだか「洗礼」「洗礼」って言われて気持ちが良くない。」とか



 「わたしなんかが「洗礼」を受ける資格があるのだろうか。」とか




 そんな囚われやわだかまりや思い込みを



 経験者として



 少しでもわかりやすく



 「伝えたい」と思っている。



 「伝えてあげる」などと高いところから言っているのではない。






 神父様は言う



 「ひとつひとつのことを大切にしよう。


  伝わる、つながる、「その瞬間」に


  宝がかくれている。


  もう一人の誰かにふれる瞬間に


  聖霊の働きを感じることができる。」と。




 「そのために『準備』をしっかりしましょう。」と。



 先週の土曜日『おやじの会』でほんの少しだけ早いお誕生会をしました。ほんとはイチローと一緒だからもう少し先なんですけど。



 「ちゃんと『準備』」をして



 シャンパンで乾杯して、♪ハッピーバースデートゥユー♪と歌い


 
 ケーキのロウソクを吹き消して



 99SHOPで買える素材だけで試行錯誤しながら鍋を作り、みんなで食べて



 お茶の間で



 トロリとし



 澤田神父様からミッションを受け取り



 それでもやっぱり「ただの飲み会」であって



 でも「ちゃんと『準備』」はします。片付けもします。大人だから当たり前。



 そこが「おやじ」の真髄。



 「おやじ」は,めんどくせ~とこもあるよ。



 小平教会や横浜の雪ノ下教会からも集まってくるそんな集まり。



 ぼくら信者が意識過剰にならないで



 普通に続けていれば



 なにか新しいことが起きることでしょう。



 何度も書く


 
 神さまがはじめられたことをぼくら人間のくだらない思惑や好き嫌いでやめられる訳がない。



 もう頭で考えて論議するのはイイや。



 
 だから「ちゃんと『準備』する」ことだけを毎回している。



 ただそれだけのこと。






 神に感謝。
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『フライヤー』

2006-10-10 07:55:40 | Weblog
 『フライヤー』という言葉をご存知だろうか。



 簡単に言うと



 チラシ。



 もともとはDJのタイムテーブルや流す曲のジャンルやその他にイベントの詳細や告知などが掲載されているものをそう呼んだのが音楽関係の業界用語的に広まったらしい。



 リーフレット、パンフレット、POPなどという場合もある。




 ライブに行くと受付などで様々な『フライヤー』を手渡される。




 昨日の夜




 「集まれ飲んべぇNight ~赤坂L@Nの飲むなら飲まねば編~4杯目」




 というライブに行った。



 
 ライブのタイトルに乗っかってプラス1000円で「飲み放題」選択です。



 
 ビールを飲みながら




 手渡された『フライヤー』を見てたら感動しちゃって




 ブログの掲載順を全面変更することになった。(笑)




 その『フライヤー』のタイトルは



 
 「びゃっきープレス」




 妹の結婚を大々的に、大きな写真を使って(新郎新婦が教会の祭壇を前にしたツーショット)祝福している。




 文章の中では、誉めたり、皮肉ったり、なでたり、つねったりしていておもしろいのだけれど




 ぼくはとにもかくにも




 家族愛、兄弟愛に直接ココロをつかまれて




 「ほんとうに妹思いのお兄さんなのだな~。いっしょによろこんでるんだな~。これが兄妹ってものだな」って


 
 知ってはいたけど純粋にあらためて




 感動したのです。




 だって東京の赤坂のライブハウスで配られたモノだよ。情景を想像してみてくださいよ。様々なバンドの様々な告知やらアピールやらの中で




 「祝妹結婚」ですよ。バーンて。ドカーンて。




 愛があふれてるじゃないですか。




 ぼくは兄妹がいないから、一人っ子だから




 「「キョウダイ」ってどういう感覚なの?」とよくみんなに質問する。




 みんな様々に答えてくれるのだけれど




 こんな瞬間に出会うと



 
 「なるほど、こういうことなのか」とちょっとだけお裾分けみたいなものをいただいて共感させてもらっている。




 当の妹さんは「それってネタがないからじゃないの。」って言いながら満面の笑みですよ。『フライヤー』しっかり持ち帰ってだんなさんとしみじみしたことでしょう。




 それから「びゃっきーさん」これは




 立派な福音宣教ですよ。そんなつもりはないだろうし、変な宗教評論みたいなこと言わないでくれといわれるかもしれないけど。ごめんなさいね。




 それからぼくは音楽評論家でもなんでもないのだけれど



 
 昨日の演奏がぼくの中では「びゃっきーベストパフォーマンス」でしたよ。





 おかげさまで





 朝からずっと




 頭の中をぐるぐるぐるぐる




 ♪「うらみノートを買うんだ。うらみノートを買うんだ。」♪




 ってリピートしまくってますよ。




 トリの渡辺都さんもよかったです。





 ♪「うらみノートを買うんだ。」♪


 ♪「うらみノートを買うんだ。」♪


 ♪「うらみノートを買うんだ。」♪


 ♪「うらみノートを100円で買うんだ。」♪



 すてきな休みの夜をありがとうございました。






 神に感謝。
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『境遇』

2006-10-07 07:58:48 | Weblog
 ぼくは彼女のことをほとんど知らなかった。



 ぼんやりしていて、計算も得意ではないらしい。



 およそ現金を扱う接客業には向いていないと思っていた。



 ぼくは、何も知らないくせに、30歳過ぎてるおばさん的にはいろいろあるのだろうなあ、なにやら大変なのだろうなあと思っていた。(30過ぎたらおばさんという意味ではないので)



 ハリセンボンという女性二人のお笑いコンビをご存知だろうか。



 めがねをかけて太ったほうに似ている。(あくまでもイメージしてもらいたい為の例えです)



 本当の歳は16歳だった。



 彼女は中学までしか行けてないのだそうだ。



 これにも理由があった。



 1人っ子らしいのだが両親が両親揃ってギャンブル狂。



 ありとあらゆる賭け事をやるのだという。



 子供を高校に行かせることが出来なくなるほどに。






 「子供は親を選べない。」






 「大金持ちの家に生まれてこれればよかったのに。」ぼくらの世代くらいまでは一部の人を除いて誰しもこんな風に一回くらい思ったことがあるのではないか。



 
 そして今度は自分が親になって現実と向き合う。



 子供にはこうしてあげたい。あんなこともこんなこともさせてあげたい。



 自分が出来なかったことを子供で「自己実現」したい。



 子供はあやつり人形ではない。親はみんな「そんなことわかっている。」と言う。



 でも選択の意思の無い、分別のつかない子供をレールに乗せる。




 選択させたような形をとっているが




 良かれと思っているが




 どうなんだろう。




 すべてはある段階での結果論であって、途中経過の評論なので




 正解など無いに等しい。




 とどのつまり、物欲や名誉欲を満たすに過ぎないのではないかと思いながらも自分の子供のためだから必死になる。




 キリキリ、ギスギス、ハラハラ、ドキドキ、プンプン、カンカン




 様々な選択肢を目の前にぶらさげられて



 隣の芝生が真っ青に見えて



 焦って、うらやましがって、いきり立ってるのは



 親だけ。






 16歳の彼女は



 いまもしかしたら精神的にすっごくしあわせで、満たされているのかもしれない。



 それは、彼女にしかわからない。



 


 何がマッチして、どうやって才能が開花して、イイところが伸びていって



 どうやって、なにによって、ココロが満たされた状態になれるのか。



 親としてフォローしてあげられるのか。



 悩ましいです。





 ただし、ぼくらがラッキーなのは



 「信仰はすべてを救う」という



 共通認識を持てていること。



 だから今の『境遇』すら



 ラッキーなのです。






 神に感謝。
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『「謝罪」の軽さ』

2006-10-06 07:06:30 | Weblog
 いつからだろう。




 バブルがはじけて、浮ついて本業以外で金儲けをして調子に乗ってた企業の化けの皮がはがれ始めて



 
 国民の税金の垂れ流しで、必要もない道路やクアハウスなどの一見地域住民のためみたいな顔した政治家の力の誇示と勘違いした公務員と一部の関連業者の満足のために作られた負の遺産の数々。




 「まあまあまあまあ」で済まされてきたことが




 コンプライアンス(法令遵守)や




 単純に「ムダの低減」という意識の高まりなどで




 「それってやっぱりおかしいじゃん。」という基本的な疑問がパンパンに膨らんで




 「ごまかし」が利かなくなってきている。




 そのせいか




 マスメディアで




 組織のトップが毎日一列に並んで




 「大変申し訳ありませんでした。」と頭を下げている。



 
 過失を認めて謝罪するのを決して否定するものではないが




 あまりにも形骸化しているというか




 ひとつのセレモニー化してしまっていて




 「軽い」




 日本人の好きな「潔さ」をうまく利用しちゃえ、みたいな感じすらする。




 まあ「ごめんなさい。」「すみません。」すらちゃんと言えないヤツらは問題外だから、まだましか。




 何年か前のドラマで女の子を妊娠させてしまって責任が取れない息子と父親が一緒に謝りに行くというシチュエーションがあった。



 田舎で生活している父親はかぼちゃをカバン一杯に詰め込んで



 「とにかく謝っちゃおう。」といって息子を連れて土下座をする。



 相手の親族が言う



 「誠意ってなんですか?」





 小学校4年生の時から「いじめ」がはじまっていて去年の9月、6年生の時に自ら命を絶つ選択をしてしまった女の子。



 マスコミに目をつけられて、事実が白日の下にさらされて、2000通に及ぶ抗議を受けて



 ようやく重い腰を上げて



 事実を認めて



 すまなそうな顔をして



 土下座をする。



 ひとつの大事な小さな命がその炎を消して



 一年後に。



 責任の所在、着地点を探してただけで



 自分の経歴に傷を付けないように試行錯誤してただけで



 「傷ついた心」のケアなどは優先順位で最下位に置き



 再発防止や原因究明などは学校の敷地の外を流れるドブ川にプカプカ浮かべておいて



 なんだかなぁ。





 「罪を憎んで、人を憎まず」



 

 わかっちゃいるけど。





 「赦しあい。」




 信じているのだけれど。




 う~ん。







 神に感謝。
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『お返事』

2006-10-05 19:12:23 | Weblog
 メールの返事が来ないのってどうなんだろう。




 まぁ、いろいろと要因は考えられますよね。




 忙しいとか



 
 気づかないとか




 国内にいないとか




 問いかけに対する答えが直ぐに出ないから考え中とか




 近いうちに会うからそのときに話しようと思ってるとか




 やっぱりメールだけじゃフンギリがつかなくて電話来るの待ってるとか




 その人にしてみれば優先順位が低いとか




 興味が無いとか




 実は好まれてないとか




 めんどくさいとか




 バックレてるとか




 いずれにしても




 どんな理由にしても




 『お返事』しないのは




 失礼だと思わないのでしょうか。




 気持ち悪くないのでしょうか。




 「今検討中」とか




 「考え中」とか



 「今度会ったときにね」とか



 「YES」とか



 「NO」とか



 「メールを返信しない主義だ」とか



 「お前が嫌いだ」とか



 コミュニケーションが成り立たないで済むのなら



 なあなあで、曖昧に過ごせるなら



 二度と相手にしない。



 みたいなこと言ったら



 「そりゃあね、あなたが返事の期日をきらないからいけないんだよ。」って言われた。



 たしかに一理ある。



 でもそんなものか。



 「ごめんごめん遅くなっちゃって」で済むことじゃん。



 手を抜いて



 気を抜いてると



 だれからも



 反対に



 返事が来なくなるかもしれないという不安感ないのかなぁ。




 最近、コミュニケーション系のこと書くこと多いなぁ。







 「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42)


 
 この言葉は、「私は自分で選びません。」という意味ではないはず。






 神に感謝。
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『受け皿』

2006-10-04 13:26:09 | Weblog
 最近のお説教で教会学校の「中高生会」の部屋での話があった。




 「集まってるけど、何もしない。」




 「とにかく何もしない。けど集まってる。」




 高円寺教会は赤ちゃんからご老人に至るまで様々なコミュニティー、組織が存在し、有機的にリンクしあいながら活発に活動をしている。




 たとえ「何もしない」状態でも、集まって「何もしない」活動をしている。これまさに教会。




 それぞれの場所で世代交代を繰り返している。




 このところ教会学校で言うところの「リーダー世代」(18歳~30歳くらい)で成人洗礼を受け教会の新しい仲間になる人も多くなってきている。




 みんな様々な不安を抱えて、ストレスの中生きてきて、親のリストラなどを目の当たりにして先行き不安感が更に加速したりして。不自由も無いけど満たされもしないみたいな感じ。




 つい先日、そんな世代の人に話しかけた。たまにしか教会で見かけないからってのもあって。



 
 「いっしょに何かやろうよ。教会学校のリーダーなんかもイイんじゃない。」




 「あんな風にできないですよ。普通。」



 
 「凄過ぎて入り込めないというか、ついて行く自身が無いです。」




 なるほどなぁ、と思った。




 「何かやろうよ。」ってのは、やっぱり違ったのかな。




 たしかに今バリバリに教会で動いてる青年たちは




 たたき上げというか生え抜きというか




 「職人芸の域」ですよ。



 
 精神的にも。すごいよ、たしかに。




 頼もしい。




 18歳から30歳くらいまでは、とりあえず「義務教育」的な束縛から解放されてやりたい放題、し放題。イケイケどんどんの時期だ。ぼくもそうだった。



 
 そんな時に「奉仕活動しませんか。」などと言っても無理っちゃぁ無理か。




 断り方も上手だしね。




 でも、だからこそ




 「何にもしなくてイイ場所」がホントは必要なんじゃないかな。




 それでも教会にいる。みたいな。




 ガッツリやる人、そうじゃない人。




 かといってその対象年齢の人が集まってると何か頼まれちゃうんだよね~。




 だからみんなの理解の上で




 『受け皿』を。




 それと同じユルイコンセプトではじまった30歳以上50歳未満の息抜きの場所。




 しぶとく続いてますよ。




 立ち位置が曖昧だったりして、いろいろみなさん思うところもあるでしょうが




 続いています。ガッツリやりたい人、やりたくない人。




 それでイイんです。




 だって




 神様がはじめたことだから。




 今度の土曜日午後7:30ごろ乾杯になります。よろしければ是非。




 土曜日の10:00からの入門講座も今週開催されます。



 
 マジで聞きに来たほうがイイですよ。




 本物ですよ。本物。







 神に感謝。
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『「待ってたんですよ~」』

2006-10-03 08:07:33 | Weblog
 びゃっきーさんの出演したライブに一緒(共演ではありませんよ)に出演していた女性弾き語りボーカリストさん。



 その圧倒的に独自な世界。



 観客をスル~ンと



 ある日の夕暮れの縁側に




 ある夜、ふと、ひとり空を見上げてる




 そんなシチュエーションに瞬間移動させる。



 ゆったりとした「いやし系」のギターのリズムに



 似つかわしくない(もちろん全部ではないですよ)



 「ちょっとした生活感」というか、普段の、日常の心の底の口には出せないコソコソ、ドロドロした「つぶやき」が歌詞で乗っかってくる。



 この歌を教会で、Live『VOICE』で



 聞いてみたい。と思いました。



 赤坂のライブハウスでの彼女のステージ後、物販(CDやグッズを販売している)スペースにいる彼女に話しかけました。Live『VOICE』の渉外担当としては当然の行動です。



 というか、ただのミーハーごころですけど。



 大ちゃんに作ってもらった名刺などを差し出し交換し



 もちろんCDも購入し



 「是非今度連絡させてもらうのでよろしくお願いします。」



 等と決して社交辞令ではありませんからという、この出会いを大事にさせていただきますからみたいな「つながり」を互いに意識しておきましょう。ってな感じでアプローチをしておいた。



 Live『VOICE』4thに正式オファーしてました。



 昨日の夜ケイタイ着信。



 「こんばんわ~、わかります~、正式なお誘いありがとうございました~。」






 『「待ってたんですよ~」』





 えっ、もしかしたら・・・




 「11月19日いかがでしょうか。」




 「教会で演奏するのってすごく興味があって・・・」




 ちょっとド・キ・ド・キ




 「先約と調整した結果



  今回



  出演



  でき



  そう



  に




  ないんですよ~。ごめんなさい。」




 「でも次回は優先してスケジュール空けますから、必ず誘ってください。」




 というわけで



 渡辺みやこさん Live『VOICE』5th出演(仮)決定!?。



 10月9日(月)の赤坂L@Nでの再会を約束して交渉は一段落。(びゃきーさんも出演しますよ)



 *Live『VOICE』はいつでも「オリジナル曲」で「愛の告白」をしたい出演者を募集しています。ちなみに4thのエントリー締め切りは10月29日(日)です。


 あなたの近くにイイ歌書く人いませんか?

 パフォーマンスの場所を必要としている人はいませんか?




 ぼくは誰と出演交渉している時も同じようにドキドキしてます。




 これが気持ち良くてやめられないのです。




 さてと今度の日曜日からパンを売って運営費を捻出しますよ~。



 8時集合。



 パンといっしょに



 「元気な朝」も提供しようよ。






 神に感謝。
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『どうしようもなくもどかしい』

2006-10-02 09:40:50 | Weblog
 ミサの中で「病者の塗油」が行われ様々な病に直面されている方々のために祈り



 ミサの後に「敬老の集い」が開催され大勢のおじいちゃん、おばあちゃんたちが集まりくつろがれて



 「教会まつり」(2006年10月29日開催)の大抽選会の抽選券付きお守り天使ハガキの販売を始めて準備の悪さをみんなでフォローし合い



 Live『VOICE』4th(2006年11月19日開催)の第一回ミーティングを開催し、「熱」を感じあい共通認識し新たなパワーの導火線に火が付き



 ハンバーガー屋台企画のポスター作りに感心し



 外側の皮をむかれてツルツルになった高級メロンはぼくの思い切りの悪さという潤滑油でお皿の上でダンスを踊り



 ビールサーバーくんが金色に輝く泡の彼方からうっすらと、ぼんやりとその姿を見せ、手の届きそうなところに近づいてきて



 予定を変更してお茶の間に根をはりそうになりながらも「白い」餃子の手招きに誘われ仲間家族とガッツリ食べグビッと飲み



 一息つく間もなく



 午後九時から午前1時30分ころまで一仕事。





 冷たい雨が降る日曜日の夜更け



 老人用の手押し車を押しながらちっちゃいおばあちゃんが入ってきました。




 ゆっくりゆっくり動きながら気のせいかもしれませんが目は少しうつろな感じ





 「どうしました~?」と聞くぼくに



 そのおばあちゃんはこう言った 





 「あのねぇ、夜、ねむれないから、お酒一合でいいから売ってくれない?1000円持ってるからさぁ。」



 おばあちゃんはシワシワの手で確かに千円札をギュッとにぎりしめている。




 「おばあちゃん、ごめんね~、ここお酒置いてないの。斜め前のコンビニエンスストア、ほら後ろに見えるでしょう。あのお店に行って売ってもらってください。」



 「でも、お酒一合だけでいいんだよ。それくらい置いてるでしょ。」




 「ごめんね、おばあちゃん。ビールはあるけど日本酒は置いてないんですよ。だからコンビニで・・・。」



 おばあちゃんはあきらめきれなそうな顔をしながらゆっくりときびすを返すと手押し車を押しながらスローモーションのように出て行った。



 冷たい雨の中。




 しばらくすると入り口の自動ドアが開いた。



 ふたたび、おばあちゃんがゆっくりゆっくり近づいてくる。



 「おばあちゃん、買えた?」




 「あの~、お酒一合だけでいいんだけど売ってもらえませんか。1000円持ってるんで。」



 「おばあちゃん、ここには無いんですよ。あのお店で売ってなかったの?」



 「・・・」



 ぼくは胸がぎゅ~っと締め付けられた。



 せつなくなった。




 対応をぼくに任せてた中国人の女性が言った。



 「日本人は冷たいよ。中国、歳とると子供たちみんな、自分の親、大事に守るよ。日本、みんな、一人で置いてどこか行っちゃうね。」



 もしかしたらコンビニエンスストアにおばあちゃんの家族から連絡が入ってて「日本酒」は売らないで欲しいみたいな事になってるのかもしれない。



 いつも徘徊しちゃってるのかもしれない。



 でもほんとうに眠れなくて、寝酒を求めて彷徨ってるのかもしれない。



 目頭が熱くなった。



 でもどうしようもない。



 ぼくは店を出て行くおばあちゃんを追いかけて



 「おばあちゃん、もう夜も遅いし、雨も降ってるから今日はおうちに帰って寝よう。お酒は明日の朝買いに来ればいいじゃん。」と言った



 「明日じゃいらない。明日じゃいらないんだよ。」



 ぼくは仕事に戻るしかなかった。



 「病者の塗油」は「いやしの秘蹟」



 あのちっちゃいおばあちゃんにも神様のお恵みがありますように。







 神に感謝。
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