カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『灰の水曜日』

2009-02-25 23:34:45 | Weblog
 一週間の中ごろの水曜日


 仕事の調整をして


 教会に向かう


 頼まれていた侍者での奉仕には間に合わず


 灰を受けた。


 「回心」


 「嘆きのしるし」として


 聖書にも書かれている


 シンボリックなこと。


 灰であり、塵のような存在である我が身の


 はかなさ。


 同時に


 なくならない価値とは何かというようなことを深く考えさせられたりします。


 神さまは言われます。


 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。

  衣を引き裂くのではなく、お前の心を引き裂け。」


 神さま

 四旬節を迎えたわたしたちを回心に導いてください。

 福音との出会いを思い起こし、深く生き方を見つめ直すことができますように。


 断食の解釈は、


 わたしたちを本当に満たし生かす存在はキリストご自身しかいないという信仰なのですね。 


 だから悲壮感を漂わしての食事抜きとはおもむきがことなるということですね。





 神さまの訪れを待ち望む姿勢。




 神に感謝。
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『騒いでないでお医者さんへ行って』

2009-02-24 07:07:07 | Weblog
 目のかゆみ、くしゃみ、鼻水


 花粉症とやらが


 今年もやってきた。


 あいさつもなければ


 遠慮もなく


 春一番とともにやってきた。


 もう十年以上のおつきあいになる。


 もう、すぐにでもお別れしたいのだけれども


 思うようにはいかない。


 マスクしたり、メントール系のキャンディーなめたり、新製品の目薬さしたり


 やっぱりもったいないので


 まだ2月だけれど


 夜もくしゃみと鼻水、鼻づまりで寝た気がしないので


 家族にもイイ迷惑なので


 耳鼻咽喉科に行くことにした。


 「体質改善」すれば、などと自分自身を評論しながら結局真剣に向き合わず


 喉元過ぎれば熱さ忘れるかのごとく


 まぁ、たしかにこの春先だけのことだからとシーズンがオフになると優先順位がガクンと下がる。


 毎年、同じことの繰り返し。


 そしたら、こんなニュースをキャッチした。


 「子供を花粉症にしないための9か条」

 
 どれどれ


 発信元は


 理化学研究所・アレルギー科学総合研究センターのセンター長さん。


 ○生後早期にBCGを接種させる

 ○幼児期からヨーグルトなど乳酸菌飲食物を摂取させる

 ○小児期にはなるべく抗生物質を使わない

 ○猫、犬を家の中で飼育する

 ○早期に託児所などに預け、細菌感染の機会を増やす

 ○適度に不衛生な環境を維持する

 ○狭い家で、子だくさんの状態で育てる

 ○農家で育てる

 ○手や顔を洗う回数を少なくする


 読んでたら、ぼくらが子供だった昭和中期の世の中の様子そのままだったので、ちょっとなつかしい感じすらする。


 幼児期に大事にしすぎるから、アレルギー体質になってしまうのだという。


 過保護に育てられた子供が親になるのだからいたしかたないところか。


 除菌とか消臭とかを訴求する商品も山のようだし


 住環境も


 食生活も


 変化してきてしまった。


 引っ越してきてから


 花粉症が加速したような気がしていたが


 そりゃあそうか


 なんてったて


 杉並区


 だもの。


 お医者さんで処方してもらった薬は効く。


 やっぱり効くのだ。


 妻が言う


 「具合悪いとか、すべったとか、ころんだとか騒いでないで、お医者さんへ行って。」


 耳が痛いが


 結果、それが正解。


 それが、ほんとうのやさしさ。


 単純にそういうこと。





 人生の処方箋


 人生の体質改善


 心にやすらぎ


 神の愛


 愛は神


 キリストのからだ




 神に感謝。
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『あたらしいうたを』

2009-02-23 07:07:07 | Weblog
 「新しい歌を主にうたえ


  新しい歌を主にうたえ」





 神さまは言われた


 さっきまでの自分と


 いまの自分を


 比較すると


 あたらしくなっているのです。と


 反省はする必要があるけれど


 グジグジと、いつまでも後悔しているのはやめましょう。と


 新しい朝を迎えられた尊さ


 意識しなくても、努力しなくても


 動き続けている心臓の鼓動


 この時間


 このパワーの源


 すべてが新しい。


 ごミサに与り


 強められ


 キリストのからだであるご聖体をいただき


 またあたらしい一週間がはじまります。


 いろんな人に出会って


 いろんな出来事に直面して


 いろいろな話を聞いて


 いろいろな考えが浮かんで消えて


 いろいろな思いを巡らせる。


 劇的に何も変わっていないようでいて


 それに気づかないだけ


 それに気づかないようにしているだけ。


 いまこの瞬間も


 新しい。


 目新しさだけが


 新しいではない。


 経験していないことだけが


 新しいではない。


 ルーティンの中の新しさ。


 変わり映えのしない毎日だと嘆いている中にも新しさ。


 過ぎ去る時間


 刻一刻とやってくる


 新たな瞬間。


 やってくる不安も新しければ


 十字架越しに見えてくる


 復活の希望も


 日々新しい。


 普遍であることも


 普遍であるからこそ


 今日が新しい。


 その一歩


 新しい一歩。


 新しい一日のはじまり。


 新しい物語のはじまり。


 ハッピーエンドかどうかは


 誰にもわからない。


 だから人生は


 楽しい。





 「新しい歌を主にうたえ


  新しい歌を主にうたえ」



 新しい朝に感謝。






 神に感謝。
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『ビックリ』

2009-02-22 00:12:34 | Weblog
 何日か前に


 サプライズパーティー企画の連絡が入った。


 土曜の夜だというので


 土曜の夜の交流会担当者としては一肌も二肌も脱ぎましょうと企画に参加した。


 基本的には、こういう趣旨ってのはキライじゃないし。


 二年間高円寺教会にアポストラートス(司牧研修)に来ていた神学生さんの送別パーティーがそのメイン。


 今回は、主力ではなく、サブ的に携わることになったのだけれど


 サプライズパーティーが


 グダグダ過ぎて


 ある意味ビックリした。(笑)


 まぁ、そこはおもてなしの教会、高円寺らしく、そのグダグダすら丸ごと飲み込んで、盛り上がっちゃうんだけど。


 内容は、ワインを飲みながらのクラッシックコンサート(文夫くん、うさぴ~おつかれさまでした。)からはじまり


 求道者さんたちとの交流はもちろんのこと


 その場に様々な理由で訪れた


 他のカトリック教会の人たちや


 プロテスタントの牧師さんの飛び入り参加などもあって


 小さな天国が


 またひとつ繰り広げられた。


 「教会って想像していたところと違ってました。イイ意味で、こんな雰囲気だとは思ってもみなかった。」


 これがサプライズパーティーの持つ、本当のチカラ。


 大義名分があろうがなかろうが


 ただただ飲んで食べて騒いでいるだけだとしても


 すべては神さまが集められ


 神さまがはじめられたこと。


 ぼくら人間が手伝うべくは


 心の門を開けておくこと


 敷居をバリアフリーにしておくこと


 とにもかくにも参加している人が楽しんでいること。


 テクニックじゃなくて


 リアルを伝えること。





 神に感謝。
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『きらめく星たち』

2009-02-20 07:07:07 | Weblog
 興味のない人にはアツく盛り上がっている人って


 ときに異物感だったり、滑稽に見えたり、でも実はそれって評論というカタチを借りての認識だったり、自分は違うんだっていう自己主張だったり、自己の存在の確認だったりする。


 いちばんさびしいのは


 全くの無関心って状態。


 昨日の夜


 NBAのオールスターゲームを観た。


 小学生の時にミニバスケットボールのチームに部外者であったにもかかわらず引っ張り出され、中学校での部活もバスケ。


 田舎では、中学校対抗の球技大会というのがあって、一発勝負のトーナメント。


 県大会につながる地方一次予選みたいな位置づけ。


 何年間かどうしても勝てない相手が一校だけあった。


 ぼくらが3年生になり、チームを引き継いだ。


 一年生の頃から言われていたのだけれど、「バスケ部はずるい。」と。


 ぼくらの世代の運動ができる人材が、すべてといっていいほどバスケ部に集中していた。


 いわゆるオールスター状態。


 指導者の先生にも恵まれた。素晴らしい先生だった。だから練習もハンパではなかった。


 チームでいちばん身長の大きかったぼくは、ポイントゲッターで、キャプテンも任されていた。


 この頃は勉強もせず、夏休みになれば、午前中陸上の大会(これも学校対抗)の練習、午後からバスケの練習。そして夕方からリトルリーグから所属していた野球の練習と、よくまぁコンディションを維持できたものだと今更ながら、我ながら感心するような運動量だった。


 玄関で靴を脱ぎながらの大勢で、なんども眠ってしまった。


 そんなこんなでバスケ大会当日。


 正直、負ける気がしなかった。


 抽選のイタズラで、ライバル校とは決勝戦ではなくて、準決勝で雌雄を決することになった。


 結果は、圧勝。


 よくこんなパターンで、決勝戦で足元をすくわれるなんてパターンがあるが、ぼくらには余計な心配だった。


 その後の大会に向けての調整中、次の大会での優勝候補と練習試合をし、撃破。


 自信満々、意気揚々と県大会への出場権をかけて地区大会へ参加。


 どうやら練習試合のことが知れ渡っていたようで、ぼくらの初戦は、みんなの注目の的だった。


 スポーツを小さい頃からやってきて


 はじめて


 手も足も出ない


 っていう屈辱的な敗戦を味わった。


 ゾーンディフェンスの外からの相手のシュートが、まぁ、おもしろいように決まった。


 相手のマンツーマンディフェンスに為す術がなかった。


 中学校でのバスケが幕を閉じた。


 今回のNBAのオールスターは


 EASTもWESTも結構真剣に試合をしている。だからおもしろい。


 Dr.Jやマジック・ジョンソン、マイケル・ジョーダンはいないけど


 きら星のような才能が、火花を散らしている。


 オールスター。


 オールスターと言えば


 LiveVOICEも常にオールスター戦のよう。


 LiveVOICEは今回で幕を閉じます。


 入場料もいただきません。


 テレビ中継もありません。


 でもそこには


 愛があります。


 2009年3月14日(土曜日)カトリック高円寺教会マイエホールにて

 14:00開演


 きらめく星たちの


 心の叫びを聞きに来てください。


 the FINAL


 いつかやってくるその日


 ぼくらのけじめ。


 最後の本気。


 最後も本気。


 本気。



 神に感謝。
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『変わってしまうもの』

2009-02-18 07:07:07 | Weblog
 変身で思い出したんだけど


 子供の頃


 仮面ライダーや


 ウルトラマンやウルトラセブン


 に


 変身したいなと


 変身できたらいいなと


 憧れというか


 結構真剣に思っていた。


 ピンチを救う正義の味方。


 それも地球規模だったり、日本国規模だったりしたので


 すごいなぁ、カッコウいいなぁと。


 いまにして思えば(というかいまですらですが)


 正義ということについての本質を理解していたわけでもなく


 心から誰かを助けたいと考えていたわけでもなく


 ただただ変身したかっただけのような気がする。


 ある意味、現実逃避。


 現状とは違う、想像もできないチカラを手に入れて勧善懲悪。


 ヒーロー願望。


 もちろん学校にいても、家にいても


 宇宙から怪獣がやってくるはずもなく


 悪の秘密組織が、怪人を作り出してぼくらに襲いかかって来ることもなかった。(まぁ、違う意味での攻撃にはいつもさらされているようなものか。)


 そんなことを思い出していたらタイミング良くある人がこんなことを言った。


 「ウルトラマンがさあ、怪獣を全部、それこそ根こそぎ退治するじゃん。そして地球に平和が訪れる。もちろん国家間紛争とか宗教戦争とかそんな概念は抜きにしてね。

  やっぱり地球が襲われていたわけだから、こんな時は、人類が一致団結して戦ったわけです。


  そしてみんなが安心した途端にウルトラマンが豹変する。


  「おまえたち、オレ様の言うことを聞かないと全員スペシウム光線で破壊してしまうぞ。」って。」(たまたま例えがウルトラマンだっただけですので、カン違いのないように。円谷さんごめんなさい。)


 こういうのをブラックジョークというのだけれど


 案外


 こういうことって


 普通に身の回りで起きていて


 気づいているのだけれど、どうしようも無くってあきらめてスルーしている。


 信じていたもの、信じていたことに裏切られたときのインパクト。


 何を例えにしようかと考えていたらまず最初に思いついたのが


 自衛隊。


 自分の国が外から攻撃された場合のみ、自国を守るために存在する。


 戦争放棄。


 それが、物資運搬とか、燃料補給という大義名分のもとに、いつのまにか間接的に自国の防衛に全く関係のない他の国の国家間紛争に荷担している現実。


 おそろしい豹変ぶりだ。


 憲法や制度の改革というのも弱者救済とは思えないものが沢山ある。




 普遍


 普遍性


 変わらないこと


 信じきれること


 心のよりどころ


 立ち帰る場所。


 サンクチュアリ。




 そういえば


 ウルトラマンも


 3分間しか


 地球に居られなかったんだ。


 

 変わってしまうモノ




 変わらないもの。







 神に感謝。
Copyright© 2009 Luke8488
 

『変身』

2009-02-17 07:07:07 | Weblog
 変わりたい。


 今までと違う人生を歩きはじめたい。


 こんな風に思っている人はたくさんいると思う。


 そんなときにどう考えるかというと


 何か新しいことをはじめてみようかなって思う。


 それもひとつの方法であって、新しいことをはじめてうまくいく場合もある。


 でもそれだけで、変わるのはなかなか難しい。


 結局、シーンが変わっただけで


 出演者、共演者が変わっただけで


 演出家が変わっただけで


 演じている物語の根本は変わっていなかったりする。


 もっと言えば、「新しいこと」をはじめようとするからなかなか変われないという側面もある。


 時間と言う「器」


 24時間という限られた「器」をみんな持っていて、これだけは平等に与えられている。


 いまの自分の持っている「時の「器」」は、ぱんぱんにスケジュールが詰まっている。


 会社行ったり、学校行ったり、友だちと会ったり、ゴロゴロしていたり、マンガ読んでいたり、寝るということもしている。


 この、いつもの、パンパンになってる「時間の「器」」に新しいことを入れようとしても入らない。


 そしたらどうするか。


 何かをやめる。


 捨てるという言い方もある。


 「器」から何かを外に出す。


 そしたらその空いた場所に新しい何かが入ってくる。それは、勝手に入ってくる。


 いまのこのご時勢でこの例えは良くないかもしれないけど


 たとえば会社を辞める。


 でも生きていける。


 案外、しぶとく生きていける。


 なんとかなるっていうのとはちょこっとニュアンスが違うのだけれど


 会社を辞めることで空いた「器」に何か別の「仕事」が入ってくる。


 これを「何かを得るためには、相応の代償を払う必要がある。」と言い表す人もいる。


 ただ、代償という言葉の持つイメージがあまりよくなかったりするので


 やっぱり


 「やめてみる。」というくらいライト感覚がイイ。


 そうそう、24時間に収まらないことは絶対に無い。ありえない。


 「器」に収まらないことは無い。


 これは


 「その人に背負えない十字架を背負わされることが無い」というのに近い感じがする。


 ただし


 「やめる。」ということと


 「やめようと思っている。」「やめたほうがイイと思っている。」ということは違う。


 テレビを見るのをやめようと思っていることと


 テレビのコンセントを抜いてしまうこととは違う。


 テレビを見るのをやめようと思っていることと


 テレビを捨ててしまうということは違う。


 勉強しよう!知識を得よう!自分を変えよう!って本を買ってきて何冊も積んである。


 本を買っているときには、自分に期待している。


 でも結局寝転んでスナック菓子食べながら


 テレビを見ている。


 意識を変えようとするのは難しい。自分の持って生まれた性格を変えようともがき苦しむのと同じくらい難しい。だから環境を変える。環境を変えてしまう。


 ここまで書いてきたことは「夢をかなえるゾウ」(著:水野敬也 飛鳥新社)で読んだこと、気になった部分を引用しながら自分なりの解釈を加えました。本もすごくおもしろいので是非読んでみてください。


 いつも本を手元に置いておいて


 たとえばテレビのCMの間に本を開くとか。


 忘れがちだけど


 毎朝、主の祈りで一日をはじめてみるとか。


 掃除してみるとか。


 それをやっている時間は、やっぱり他の事できない。


 何かをやめていることになる。


 何かをやめると言うと


 非常に禁欲的なイメージがあるが


 タバコをやめるとか


 ゲームをやめるとか


 ギャンブルをやめるとか


 ぼくも15年くらい前からたばこを吸わないことを続けているが


 タバコ代がかからない。


 ライター代がかからない。


 臭くない。


 ごはんがおいしい。


 タバコが吸いたくてイライラしない。


 たばこ臭いパチンコ屋さんで時間つぶしをすることがなくなったことで散財しなくなった。などなどやっぱりビフォー・アフターで人生は変わっている。





 変わること。


 意識を変えるのではなく、環境を変えること。




 変わること。


 もって生まれた性格は変わらない。


 でも考え方は変わる。



 変わること。


 未来は変えられない。


 でも過去は変えられる。




 試練ではなく


 プロセス。



 すべてのことには意味がある。





 神に感謝。
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『163』

2009-02-16 23:23:23 | Weblog
 数字を目の当たりにして


 ちょっとビックリした。


 毎日いっしょに生活しているから


 あらためて感じていないだけなんだけど


 そうかぁ


 そんなに


 成長したのかぁ。


 そうか


 だから最近


 おやじギャグへのツッコミが


 やたら痛く感じるのか。


 「もう、おかあさんと同じくらいになったんだな。」と言ったら


 すかさず妻は


 「わたしは、165だから、まだまだでしょ。」って。


 まぁ、そこ競うとこじゃないでしょって言葉を飲み込んで


 にまにまと笑いをこらえてだまっていた。


 そうこうしているうちに話が娘の小さいころの話になって


 どうやらぼくが娘が赤ちゃんのころに


 抱っこしてあげた機会が少なかったとか


 自分のかわいい子なのに、ほっぺにチュウとかほとんどしなかったということになり


 話のまとめとして


 そういうのは、愛情が少ないからだという結論に収束された。


 いろいろ言いたいこともあったけれど


 愛情の表現方法って人それぞれだし


 説明することでもなし、ましてや釈明することでもないので


 「そんなことないよ。人が見ていないところでベロンベロンしてた。」と言ったら

 娘が


 「もう、おとうさん二度と触らないで。」と言った。


 ナイスなツッコミだ。




 愛情表現かぁ。




 小さい棘が



 チクリと



 胸に刺さった。






 神に感謝。
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『普通のことかもしれないけど』

2009-02-14 23:23:23 | Weblog
 初めて行く場所だった。


 タクシーで15分くらいと案内をしてもらっていたのだけれど


 路線バスが走っているようなので


 駅のバスターミナルでバスが来るのを待った。


 インターネットで住所を検索して地図を必要な倍率で拡大したり、縮小したりしてプリントアウトし、おおまかに場所の把握をしているのだけれど距離を厳密に理解しているわけではないので結局行き当たりばったりだったりする。


 もちろん目的地は、どこかに逃げていくわけではないし、ケイタイもある。


 しかし、この曖昧さが


 はじめていくところでは、ワクワク感の源だったりもする。


 まぁ、仕事で時間の約束がある場合はそんなのんきなことも言ってられないのでけれど。


 約束の時間に25分くらい遅れて目的地に到着した。


 遅れる旨を連絡し、理解いただいていたので事なきを得て


 1時間半くらい話しをして帰路についた。


 都内だけれど駅周辺以外はちょっと田舎のテーストなのでバス停で15分ほど待つことになった。


 でも時刻表を見ると15分待ちなどラッキーの他の何者でもないくらい1時間に1~2本くらいの数字がそこには並んでいた。


 バスに乗り込む。


 後ろから二番目の二人がけの席が空いていた。


 そんなに混んでいない。


 一つ飛ばした二人がけの席に小学校低学年、2年生くらいかなな男の子が迎えに来たおかあさんと二人で座っている。


 男の子は窓の外をながめがら、時折おかあさんに何か話しかけている。


 おかあさんも面倒くさがる様子もなくちゃんと対応している。


 男の子の左手には、小さくて細長い野菜ジュースのパック。そこから伸びる白いストロー。窓の外を眺めながらジュースを飲んでいる。


 少しするとその男の子は顔を窓の外に向けたまま


 手だけをおかあさんの方に伸ばして


 さっきまで飲んでいたジュースのパックを差し出した。


 なんだか新聞読んでるお父さんが、何も言わずにおかあさんに空になった湯飲み茶碗を差し出すように。


 おかあさんは何も言わずそのジュースのパックを受け取ると


 ほんの少しそれを揺すって


 「まだ入っているわよ」みたいなことを口にしたんだと思う。


 男の子は


 窓の外を眺めながら


 ただ首を振った。


 その男の子は、無邪気な顔をしていて、ふざけていたり、やんちゃな感じはしなかった。


 逆にそれだからぼくのアンテナに引っかかったのかもしれない。


 たぶん毎回通学しているバスだろうから、そんなにハイな気分でもないだろう。


 もしかしたらとっても興味のある何かが、その瞬間窓の外にあったのかもしれない。


 親子のコミュニケーションの現場というか、リアルが垣間見えたのが記憶に残った要因かな。


 普通にというか、あっさりと、何事もなかったようにシーンが進んでいったから。


 バスの中だから親も我慢したのだろうって雰囲気が微塵もなかった。


 大黒柱で、稼ぎ頭のお父さんが湯飲みを差し出すのは、理解できる。まぁ、最近は共働きになったり、それぞれの家庭内で分業化みたいなのが進んでいたりするので、一昔前みたいにはいかないかもしれないけど。


 「自分で立ってやってください。」って言われちゃったりして。妻だけではなくって、子供にまでも。


 そこはそんなに強調しなくてもイイんだけど


 「ごちそうさま。」とか


 「もう飲めないからおかあさん飲んで。」とか


 「残りは家に帰ってから飲むから、持ってて。」とか


 「ありがとう。」とか





 「それじゃあ、自分の家の子供はどうなんだ。」って言われそうだけど、いくらかはマシだと思っているのは親バカだからよくわからない。


 人前でしからないとか


 他のストレスがあるからそこは許容しているのか


 ただの傍観者のぼくには知るよしもないが


 それこそ大きなお世話なにだけれど


 なんか


 「そんなの当たり前」っていう雰囲気


 「へんてこりんな当たり前」っていうコミュニケーションの様子が


 とにかく気持ちが悪かった。





 「気をつけなくっちゃな」ってね。





 神に感謝。
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『本気の度合い』

2009-02-13 23:23:23 | Weblog
 仕事で八王子に向かうために


 東京駅から中央線の特別快速に乗った。


 通勤快速だったかもしれない。


 八王子まで行きたかったのだけれど


 乗り込んだ電車は、立川止まりで


 わかってはいたのだけれど


 時間的に次の電車では間に合わないと勝手に思い込み


 結果的に国立駅で


 後から東京駅を発車したヤツに乗り換えるはめになった。


 何となく時間に追われていると


 少しでも目的地に近づこうと試みるが


 こんなことはよくある。


 日野という駅を過ぎたころ


 金髪のショートカットで顔が小さい、ぼくのイメージの中では、アメリカングラフティーに出てくる少年みたいな男性が、ワイシャツにネクタイを締めて、ジャケットも着ないで、かなり乗客が減った電車の中を鼻歌を口ずさむかのようにちょっとリズミカルに歩いてきた。


 ぼくは移動中は本を読んでいる。


 三人がけのシートの電車の出入り口ドアの近くに一人で座っていたぼくのひとり分とばした連結器の近くで、ぼくの並びであるシートに軽々と彼は座った。


 ばくは本を読んでいる。


 「○○○○・・・。」


 彼は、何かを口にした。


 歌か何かか、独り言を言っているのだと思い、本に集中した。


 「○○○○ですか?」


 うっ、ぼくに話しかけているのか?


 顔を上げて、彼のほうに顔を向けると


 彼はにっこりしながらもう一度口を開いた。


 「何の本読んでるんですか?」


 ちゃんと聞き取れる日本語だった。


 ぼくは、その「日本語だった。」ということに反応して、あろうことか彼に本の表紙を見せた。


 そこにはカタカナで


 「レバレッジ・マネジメント」と書いてある。


 彼は、理解できていない様子だ。


 ぼくは、レバレッジ・マネジメントの箇所を指でなぞっていた。


 そして「レバレッジ・マネジメント」とゆったりとした口調で、カタカナを読んだ。


 彼は、ぼくの発音を真似して


 「レバレッジって何ですか?」と聞いた。


 そうか、日本語がしゃべれても漢字やひらがな、ましてやカタカナが読めるとは限らないという単純なことにこの時点で気がついた。


 そして手振りで「レバレッジ」(「てこ」って言う意味です。)を表現しながら


 「リヴェリッジ」とちょっとだけ英語に近い発音を口にしてみた。


 彼は、「お~お~、リヴェリッジですか。ビジネスの本ですか?」と更に質問をしてきた。


 ぼくは、「イエス、ディスイズ、ヴィジネスブック」と言った。日本語が通じるのに。


 彼はワイシャツのポケットに反対にしていた名札みたないものをぼくに見せた。


 そこには


 ある教会の名前と彼の名前、そして長老という文字が並んでいた。


 ぼくは瞬時に「アイム、カスリック」(ぼくは、カトリックです。)と言った。


 「ほ~、そうですか。」と彼は言った。続けて「ぼくは、モルモン教徒だ」と言った。


 短い間だったけれど、彼がロサンゼルスから一年半前に日本に来たこと。


 ぼくは五年前に家族でカトリックの洗礼を受けたことなどを英語と日本語のミックスでコミュニケーションをとった。


 「英語上手ですね。」と言う彼に、「あなたの日本語のほうがずっと上手だよ。」などと言っている間に目的の八王子駅に着いた。


 ちなみにぼくは英会話が上手ではない。15年位前にネイティブの先生に2年間英会話を習ったが、身についたのは臆することなく外国の方と向き合えることだけで(まぁ、これがキモだったりするらしいのですが)


 その何年か後に、妻と新婚旅行で行ったヨーロッパの最初の目的地ロンドンで二人で入ったイタリアレストラン(これも今にしてみればせっかくのロンドンでイタ飯かよ)で対応してくれたウエートレスさんの案内を聞いて、その彼女の後をついてきてと言ったように聞こえたので、彼女の後をついて行って厨房に入っていきそうになったという笑えないエピソードがあるくらい。


 しかし、いまでも駅で外国の方に道を聞かれたり、話しかけられることが多い。


 ただ単にメガネをかけたスーツ姿だからかもしれないけど。話せる話せないは別にして、コミュニケーションをとることは嫌いではないので、そういうのは相手に伝わるのかもしれない。


 電車を降りるときに彼は「わたしもこの駅です。じゃまた。」と英語で言った。


 ぼくも「じゃまた。」と答えた。


 エスカレータを上って、改札口に向かって歩いていると少し前に歩いていった彼が足を止めて小冊子をぼくに差し出して


 「英会話教えることもできますから。」と彼が通っていると思われるプロテスタント教会の紹介パンフレットを手渡した。


 ぼくはちゃんと受け取って彼に言った。


 3月14日土曜日にカトリック高円寺教会でLiveをやるので是非見に来てくださいと。


 ライブのパンフレットを持ってないことが悔しくて


 そのあとすぐにパンフレットとポスターを印刷した。


 競う訳ではないが


 なんか


 本気度で


 劣っていたようなきがしたから。



 神さまの粋な計らい。






 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

『もうすぐ、もうそこまで』

2009-02-12 07:07:07 | Weblog
 「今日、あたたかかったよね。」


 「また寒くなっちゃったね。」


 日々の変化を感じている


 ほんの少しの心の余裕。


 たぶん


 間違いなく


 春が近づいてきている。


 春がやってくる感じの


 あの独特な


 気配やにおい。


 お日さまの力強さを感じる瞬間。


 子供の頃の河原の土手のあたりのキンモクセイの香り


 グランドの土の匂い


 なんともなつかしくて


 なんだか胸がキュンとするような


 ワクワクしてた


 疲れを知らなかった


 あの気配。


 冬の寒さを痛いほど知っているからわかる


 この


 春の気配。


 まだまだ


 あたたかくなったり


 さむかったりするけど


 まちがいなく


 もう春はそこまで来ている。


 この季節に


 いつも


 「天の国は近づいた。」って


 こんなイメージだよなって


 しみじみ思ったりする。






 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

『発熱』

2009-02-09 23:23:23 | Weblog
 「熱」にうなされているんじゃないのか。


 いつまで「熱」に寄りかかっているんだ。


 もうずいぶん前に「熱」は「アツさ」に変換されたじゃないか。


 具合の悪さから戻ってくると


 ほんとうに健康なことのありがたさが身にしみる。


 同じことを何度も繰り返しているのだけれど


 やっぱり


 「ありがたいなぁ」としみじみ思う。


 発熱は、消耗性疾患とはよく言ったもので


 最近、年齢のせいもあってか


 回復に手間取る。


 そこに心配事やら、思い悩むことなんかが積み重なったに日は


 気力や胆力まで吸い取られて


 弱々しく


 カラカラになってしまって


 砂漠に強い駱駝のこぶの中身までスカスカになってしまいような感覚に陥る。


 その上


 教会にも行けないというダブル、トリプルパンチ&キックもあって


 とほほほってなものである。


 二週間ぶりに


 交流会で


 アルコールを口にした。


 一人で真っ赤で恥ずかしいけれど


 それもまたリアルだから。


 交流会でカッコウつけてもしょうがないし。


 とにかくその空間にいることがすごくうれしいってだけ。


 ごミサに与ったら


 聖書と典礼に引用されている箇所が「熱」がらみだったりする。


 神さまの粋な計らい。


 おもてなし


 その一声が


 その一挙手一投足が


 内なる炎を


 アツく燃え上がらせる。


 恵みという


 最大の


 おもてなし。


 もうひとりの誰かのために


 ぼくらの存在


 ぼくらの生き様こそが


 福音宣教でありますように。





 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

『集まって、飲んだり食べたり』

2009-02-08 07:07:07 | Weblog
 土曜日の夜の交流会は


 盛り上がっています。


 盛り上がっているというのは


 大騒ぎしているという意味ではなく


 洗礼について


 カトリック教会について


 いろいろな疑問や質問が


 なんの気兼ねをすることなく


 飛び交っている様子を表現したら、その言葉がいちばん的確だということです。


 もちろんそこには言葉のキャッチボールがあって(ドッジボールじゃなくて、ちゃんとしたキャッチボールです。)


 直接的に話しに参加していなくても


 自然と分かち合いができている感じ。


 イエスさまのいるところって


 きっとこんな雰囲気だったんじゃないのかなと思えるくらい


 盛り上がっているのです。


 何度も書いてきたけれど


 集まって、食べたり飲んだりしているこのリアルこそが


 教会の本質なんだと思う。


 プロテスタント教会の方々も何人も参加されているけれど


 みなさん同じことを言うのです。


 「カトリックって、もっと戒律みたいなものでがんじがらめなのかと思ってました。」


 「イイ意味で驚きました。」と。


 求道者の方々もたくさん来ています。


 この交流会が背中を押したってこともたくさん見てきました。


 実際運営というか、準備したり、おもてなししているのは人間だけれど


 みんなを集めているのは


 神さまなのだから


 不思議でも何でもない。


 おもてなししているようでいて


 話し相手、受け入れ側もどれだけのお恵みをいただいていることか。


 そして


 「また来週。」とか


 「明日、ミサで会おうね。」とか


 もちろん神父様ともリラックスした雰囲気で話しがしやすかったりもするし。


 こんなことをやっていることを


 もっともっと


 いろいろな人に知ってもらいたい。


 ただただ騒ぎ好きが集まっているわけではないのです。


 聖霊のはたらき。






 神に感謝。
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『書いたり、言葉にしたり』

2009-02-06 07:07:07 | Weblog
 わかっちゃいるけど、できないとき


 こんなときどうすればイイのか。


 なんとなく「いいもの」はわかっているのに実現できない。


 あれもやりたい


 これもやりたい


 自分はこんなもんじゃない


 なんでうまくいかないのだろう


 どうすればいいんだろう


 そもそもこの考え方でイイのか


 もう一度最初から考えてみよう


 自分では実現できない


 ああでもないこうでもない。


 「なかなか自分の納得できるカタチにならない。」


 こんな経験は誰しもあると思う。


 毎日こんな繰り返しかもしれない。


 最近、脳に関する本を読む機会がなぜか多いのだけれど


 脳の中には「感覚系学習の回路」と「運動系学習の回路」があって


 それぞれは脳の中で直接連絡をとっていないところに位置しているらしい。


 「感覚系学習の回路」とは、見る・聞く・感じるなどを通した「情報の入力」を司る領域


 「運動系学習の回路」とは、実際に手足を動かして情報を出力することを司る領域なのだそうです。


 感覚系と運動系にコミュニケーションをとってもらうには、一度、アタマの中の情報を出力しなければならない。


 「いいものがわかる。」のに「実現できない」のは、この感覚系と運動系のバランスが悪いことが原因。


 人間は、自分の脳の中にある情報を出力するには、必ず手や足、口などを使って「運動」しなければならない。


 「なにがいいものなのか」が、何となくでもわかるのは、感覚系が発達している証拠。


 しかし、「実現できない」のは、感覚系に対して運動系の発達が遅れているから。


 すっごく簡単に言えば


 「思い悩むな、やってみたらわかるじゃん。」


 ということかな。


 もちろん自分がこれからやろうとしている選択が正しいのか正しくないのかで悩んで考えて、極力、現時点で最良の選択、最良の結果にたどり着きたいと思うのは誰しも同じなのだけれど


 いくら黙って、集中して英会話のDVD見ていても


 実際に口に出してしゃべらなければ上達することはないと思う。


 すっごく良いアイディアをたくさん思いついても


 完璧な提案書の構想を練っているうちに


 どれから手をつけてイイのかわからなくなっちゃって


 結局何もできないまま沸々と悶々と発酵しちゃうんじゃないのかというがごとく積み重なっていって、そのうち優先順位が下がっていって忘れ去られる


 だから


 とにかく書いてみる


 とにかく一歩踏み出してみる


 とにかく誰かに話してみる


 これにすら勇気みたいなものがいるかもしれない。


 そんなことしたらだいじょうぶなのか・・・


 バカにされるんじゃないか・・・


 


 ぼくも、一文字書き始めたらすっごく楽になることがあります。


 一歩踏み出したり


 ちょっと聞く耳をもったら


 まったく違う世界が広がっていました。


 すべてのことには意味があります。


 きっかけみたいなものは


 実は、いまも身の回りにたくさんあります。


 変わることは、そんなに難しいことではありません。


 頭でっかちになってないのか


 せっかくだから


 知識や思いを出力しましょう。パフォーマンスしましょう。


 自分のバランスを保つために。


 それが、きっと誰かのためになっているのです。


 今度の土曜日は


 「おやじの会」はそんな場所。


 いろんな話しをしようじゃありませんか。


 「運動系」を鍛えようじゃありませんか。





 神に感謝。
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『満開』

2009-02-03 07:07:07 | Weblog
 すごく


 近くで

 
 桜が


 二つ


 夢と希望で


 目一杯に


 ふくらんだ


 そのつぼみを


 一足早く


 満開にさせた。


 ドキドキが


 ワクワクに進化した瞬間。


 めでたしめでたし。




 神に感謝。
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