カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『和解の手』

2010-02-18 00:00:00 | Weblog
 灰の水曜日。




 洗礼にあずかった


 あの日に


 まばゆいほどに燃え上がった


 信仰という名の炎が


 か細く、靄にかすんでしまっていることに気づき





 その存在を信じるがゆえに


 時には願いがかなえられないとがっかりしてみたり


 疑ったり、時に忘れてしまいそうになったりする


 神さまへの思いを


 色で表現したら


 どす黒いともいえるような

 
 日ごろは意識的に隠しておくために


 心の奥底に追いやり、しまいこんでいる


 信頼するからこその裏腹な


 ダークサイドのそのリアルな思いを





 額に十字に塗られる


 灰によって


 自らが塵のような存在であることを


 あらためて、静かに、深く


 そして、強烈に


 思い起こし


 立ち返る場所を


 もう一度認識することを


 目に見える形で


 アシストしてもらえる


 恵みのとき。


 それはまさに


 神さまが自ら


 和解の手を


 浅はか極まりないぼくにむかって


 差しだし


 じっと


 ぼくが握り返すのを待ってくれているかのような


 そんな恵みのとき。


 和解といっても


 もちろん一方的に


 こちらがよろしくないことは


 言うまでも無い。


 日々の暮らしの中で


 自らに都合のイイように


 解釈してしまっているかもしれない


 そんなぼくの最も弱いところに


 それでも


 そっと


 いつでも、いつまでも


 和解の手


 救いの手は


 差し出されている。


 四旬節に入るこの日に


 塵に戻り


 炎は


 決して消えることのない


 信仰という名のその炎は


 再び


 キリッと


 燃え上がった。


 こう思えたことが


 手を握り返したことになればいいなと思う。





 神に感謝。
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『何もできない』

2010-02-12 00:08:00 | Weblog
 少し前の出来事。 


 なんとなく3年くらいかなぁと思っていた。


 会いたくないと言えばウソになるかなぁ


 積極的に会うために出かけて行くのは


 やっぱり3年くらい経ってからなのかなぁと思っていた。


 そんな距離感なのかなぁと勝手に思っていた人に


 平日の午後


 それもいつもの活動エリアではない町の


 混雑した人ごみの


 それこそ何十通りもある路地の


 偶然チョイスしたあるひとつの路地の途中で


 それこそ突然


 大げさに言ってしまえば、約1億3000万分の1の確立で


 出会った。


 思わず、抱きつきたいような衝動にも駆られたが


 ぼくは、そういう可愛げはないし、キャラでもない。図体もでかいし。


 たぶん、そういう行為は歓迎されないであろうことも間違っていないと思うし


 妻と娘もいっしょだったということもある。


 そんな混乱したような冷静だったような状況で


 思わず口をついて出た言葉は

 
 「あ~、お久しぶりです。お元気そうですね。」


 まったくもって、凡庸な言葉だったけれど


 実は、精一杯だった。


 相手の方も、ぼくらを認識してくれた。


 当然のことのようだけれど


 その当たり前が


 とんでもなく


 ありがたかった。


 でもそれ以外


 何もできなかった。


 たとえば、「立ち話も何なんでちょこっとお茶でも。」とか「今度、おいしいワイン持って行きますね。」とか 


 久しぶりに


 どぎまぎして


 舞い上がって


 何もできなかった。


 そんなぼくの様子をとなりで見ていた妻がポツリとひと言


 しかし最大限のフォローをしてくれた。


 「会いたかったんだよね。」


 娘ははずかしそうにしていた。


 あまりにもドラマチックに表現をし続けてしまうと


 へんてこりんな誤解やらなんやらを生んでしまうかもしれないので


 このくらいにしておくが


 簡単に言うと


 プロ野球のスーパースターに出会った


 野球大好き少年が


 目をキラキラさせて、必死に話しに耳を傾けている


 そんな感じ。


 ぼくは、ユーミン(松任谷由実)にあったら


 やっぱりこんな風になるだろうと勝手に思っている。


 「それじゃあ、また。」と


 その方とわかれてから妻が言った。


 「今日の出会いの意味はなんだったんだろうね。」って。


 実は、自分も同じことを考えていたが


 「う~ん、とにかく出会ったってことだよね。意味はじっくり考えてみるけど。」


 たぶん答えは見つからないかもしれない。


 でも


 出会ったというリアルは


 ウソでも幻でもなく、何かに刻み込まれ


 カタチが無いというカタチで存在し続ける。




 そういえば、何もできなくなって


 神さまに出会ったんだったなって


 何もできないってことを受け入れてみなさいと


 開いているようだけれど見えなくなっている両目を


 にごりきっている心の窓のガラスを拭いて、大きく開け放ってみなさいと


 そんな風にささやきかけてもらったんだなと。



 立ち返る場所を



 しんみりと


 しみじみと



 考えた。



 すべてのことには



 意味がある。







 神に感謝。

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『誰のため』

2010-02-11 23:23:23 | Weblog
 たとえば、知人に就職についての相談を受けたとする。


 それが、ある程度の年齢の人の再就職の相談だったとする。


 瞬時に


 いまの世の中、仕事に就くことがなかなか難しいだろうとか


 いま目の前にいる人の仕事の適性とか


 どれくらいの期間、就職活動に費やせるのかとか


 何が得意なのかとか


 いままで何をしていたのかとか


 自分の経験であるとか


 自分の人脈で、紹介できるところはないのかとか


 いろいろな確認事項や状況判断など


 可能な限り、アシストできないものかと真正面から向き合う。


 「仕事情報誌を見て、今回、営業をやってみようかと思うのです。」と言われたとする。


 ぼくは、かれこれ20年以上営業畑を歩いてきた。現在もスタイルは若干変わったが、実質的には会社の看板として営業をしているようなもの。


 不毛地帯というドラマを見ていれば、そのリアルさに、経験してきた現場を思い出して、アドレナリンが噴出してくるし、胃がキュッと悲鳴を上げるような感覚がよみがえってくる。


 すごい営業マンに何人にも出会ったし、しのぎを削ってきた。


 何人もの営業マンに関わって、育成のようなことをし、適性などを判断して、別の道を選択させたこともある。


 だから


 「営業をやってみようと思っている。」と聞くと


 それこそ、ありとあらゆる情報を脳から引き出し、目の前にいる人とのマッチングをはかろうとする。


 そして、まじめに、良かれと思って言うのだ。


 「営業は、簡単じゃないよ。


  でもね、実は生きていること自体、日々、営業してることと同じだと思う。


  だから、営業は、誰でもできるんだよね。」


 なんだか、あきらめさせようとしているのだか、勇気を与えようとしてるのだかよくわからない、ツッコミどころが満載なのだけれど、逆にどんな風につっこまれても対処しやすいように


 というか、反応によって、相手の思いの強さを推し量ろうとする、ちょっとずるいことを言ったりする。


 ぼくは、その人のことをどれだけ理解しているのだろう、って思いながら。


 やっぱり、現状では、営業職は難しいんじゃないのかなというぼくの頭の中のアポロ84号は勝手に軟着陸をして


 他の仕事をすすめる方向に軌道修正した瞬間に


 「以前に、中古マンションを何件か販売したことがあるんですよ。」


 まあ、それはそれは予想だにしなかったジャコビニ流星群のような言葉が降りそそいできた。


 「あ~、そうだったんだ。」


 なるべく苦労させたくないような勝手な思い込みで、ミスリードしなくて良かったのか


 いずれにしても、一度やめたものにしがみつこうとしている危機感を和らげてあげられたのか

 なんとも歯切れの悪い会話になった。

 
 働きたくても、様々な理由で働けない人がいる。


 目の前には、果敢にもチャレンジしようと意気揚々な人がいる。


 「応募しようと思った企業が決まったら教えて。」


 今回は、そこでコミュニケーションがいったん中断している。


 シチュエーションは違えど、こういう場面は日々繰り返されている。


 評論家にならないように


 自分の浅はかさを実感しながら


 それでも


 何かほんの少しでも


 プラス方向にアシストできたらと思うが


 誰のためなんだか。


 少なくとも、頭の中を整理するきっかけくらいにでもと思うが


 自己満足が


 群れをなして


 襲ってくる。


 そしてやっぱりシンプルに


 その人のために


 祈る。


 みこころのままにと。




 それでいい、これを責任放棄などと感じることないよと




 神さまが耳打ちしてくれたような気がした。




 自意識過剰にくさびが打ち込まれる。







 神に感謝。
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『こみあげる』

2010-02-09 23:23:23 | Weblog
 中途半端で向き合うことが許されない

 いや、実は、手を抜こうと思えばどうとでもできるかもしれない

 ある事柄の中間報告会。

 この「中間報告」という立ち位置がなんとも曲者(くせもの)で

 最終報告であれば、自分の中にある、ある程度のレベル感をクリアするとか

 報告相手の欲する、できることならイイ意味で期待を裏切るようなパフォーマンスを工夫したりするのだが

 中間という、微妙に中途半端なイメージに逆に押しつぶされ気味で

 ちょこっとだけ切羽詰まったムードに包まれた。

 先送りできない時間との闘い。それも自ら好んでそういう環境を作り上げ、楽しんでいるかのようだから、始末に負えない。

 約5時間ほど集中したファイルの上書きを間違えたりして

 いよいよ、イライラしたりしている。

 気分転換にと

 引っ越してきて、初めて近くの銭湯に行った。

 何の情報もなく、自転車で乗り付けたのだが、サウナも併設していて別料金も取られないというナイスな状況で

 動き回ることが少なく、ひとまわり分厚くなったかのように思える皮下脂肪を溶かし出すにも好都合だったりする。

 入浴料金が450円になっていることにも驚いた。ぼくが学生だった頃は、たしか250~260円くらいだったと思う。もちろん、5年くらい前に板橋区に住んでいたときにも何度か銭湯には行っていたので大袈裟かもしれないけど。

 頭を洗ったくらいのタイミングで

 それはそれは劇的に

 おやじのことを思い出した。

 何でこのタイミングだったのかは、サッパリわからなかったが、昔から比べれば料金が上がったことやらなにやらで、ノスタルジーのスイッチがドキンと入ったのかもしれない。


 そういえば、おやじと銭湯に行ったよなぁ。


 ぼくから誘うとすごくうれしそうにしてたよなぁ。


 ちいさい頃、近くの温泉へ行って、滑って転んで、後頭部をしたたかにタイルの床にたたきつけて寒気がするほど気分が悪くなったときにあわてたおやじはぼくに「寒いのなら湯舟に入って温まればいい。」などと、今にして思えばおそろしいアドバイスをもらったことや

 とにかく、一気呵成に

 思いがこみ上げてきた。

 急いでシャワーのコックをひねって、飛び出す方向が微妙に見当違いな水滴を頭からかぶりながら

 我慢ならずに

 泣いた。

 何とも言えない感情に

 逆らうことなく

 泣いた。

 人に気づかれることなく

 情緒不安定くんとも仲良しになることはなく。

 

 数日後、母が朝、起きてきて開口一番こう言った。

 「昨日の夜、久しぶりにお父さん(おやじ)の夢をみて泣いちゃった。」と


 ぼくは、銭湯でのことは、母には話していなかった。


 偶然かな。

 
 次の日曜日のごミサでもおやじのことを思っていた。

 
 無理に意味をさがすことはないなと思いながら。





 神に感謝。
Copyright© 2010 Luke8488