カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『きょとん』

2007-11-29 08:46:54 | Weblog
 「すみません。缶コーヒーについてのアンケートをおねがいしているのですけど、○○○○でしたら、図書カードが出ますので、10分くらいお時間いただけますか。」


 新宿の街中で、アルバイトのおばさんに声をかけられた。


 この手のモノは基本的にお断りをしているのだが


 ランチに食べた坦々麺が微妙に満足度が高かったことと


 「図書カード」というキーワードに親バカは


 「オッ、娘がよろこぶ。」って発想になって


 タイミングもあるのでしょうか、いままで何度もお断りしている事柄なのに足を止めた。


 ただ気になってたのは


 よく聞き取れなかった「○○○○でしたら」の部分。


 でももうコミュニケーションがはじまっちゃってるんだから今更どうしようもない。


 ああ、それからこの寒空に身も心もカチカチになっている人たちに声をかけている年配の女性達に家族の姿がダブって、「それが仕事じゃん。」て感情よりも、なんだか違う気持ちがわきあがった。というとカッコつけすぎだろうか。


 まあイイや。


 年配の女性は「ありがとうございます。」といってアンケート用紙みたいな台紙を見ながらぼくに質問をはじめる体勢に入った。


 「まず年齢を聞かせてくださ~い。」


 そのアンケート用紙みたいな紙にはA~Dまでのそれぞれに二十歳代、三十歳前半、三十歳後半、四十歳以上と書かれていた。


 ぼくは迷うことなく


 「四十歳以上です。」と答えた。


 ウソではないし、というかウソつく必要ないし、「実はこう見えても六十歳こえてるんですよ。」とか言ってウケならう必要も無いし。


 「あ~、そうでしたか~、それでは残念です。ありがとうございま~す。」





 きょとん。。。。。





 確かに音がした。


 「・・・・・」


 年配の女性は、そう言い残すとそそくさとぼくの近くから離れていって、他の男性に話しかけた。


 (ちょっと、「残念」の意味がわからないんですけど)


 まぁ、しょうがないんだけど、やっぱりちょっと納得したくて、足を止めている男性とのコミュニケーションに聞き耳を立てた。


 「「まず年齢を聞かせてくださ~い。」


 なんで語尾から二番目の言葉を伸ばすのかなぁとか、まあそれはさておきだった。


 「はぁ、35歳ですけど。」


 「はい、では、別会場でアンケートをご記入いただきますのでお願いします。」


 そうだったんです。アンケートを取りたい対象者の条件に「年齢」っていうのが設けてあったってだけのことですけど、ぼくが最初の「対象年齢の条件を満たされているようでしたら」の部分が聞き取れなかったからなんだけど


 ぼくの見た目が40歳代に見えなかったとかをオチにするってんでもなく。


 とにかく


 慣れないことはするものではないのである。





 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488 

『ことばと脳』

2007-11-28 08:51:36 | Weblog
 最近仕事柄というか以前にも増して


 「ことば」


 について様々なアンテナがニョキニョキと伸びている。


 心理学や行動心理学なるものがからんでくるのでおもしろい。


 しかし、知らないうちに誘導されたり、脳みそに刷り込まれたりしていると思うとちょっと怖いような気持ちにもなる。




 「欲しくない結果の否定形」という言葉。


 自分や相手に得たい結果を知らせ伝えるときの表現が「欲しくない結果の否定形」という形で肯定文を作ると逆効果になってしまうらしい。


 人間の脳はそうできているらしい。


 例えば


 自動車でどこかに出かけようとしている相手にこんな風に声をかけてしまう。




 「事故を起こさないように気をつけてね。」



 分解してみると


 「事故(欲しくない結果)を起こすな(その否定)、だから気をつけろ(肯定文)」


 そういわれた相手は、人間の脳の構造上


 「事故を起こしているイメージをしてから、それを否定文で打ち消す」というプロセスを経て、この言ってもらった言葉を理解するのだそうだ。


 そうなると思考の焦点が前半部分の否定形のほうに当たってしまい、行動がそれに引きずられてしまいやすくなるということ。


 これを原理原則としてわかっていたら「事故らないように」「スリップ注意」「事故多発」「わき見運転注意」といった言葉遣いや標識も危険ということになる。


 「スリップ注意」と書かれていれば、スリップしている状況を想像してしまうし、「わき見運転注意」という標識を見たら、思わずわき見したくなるものなのです。もともと人間の脳はそうできているのだそうです。


 だから声をかけるときは


 「安全運転で!」という言葉にして、安全に運転しているイメージを無意識に植えつけてあげるこが良いアドバイスになるのだそうです。


 良かれと思ってかけている言葉も


 言葉を発した側の意図とはある意味関係なく、知らず知らずのうちにギャップとなって、ミスリードとなってしまっている現実。


 いまの時期だと「かぜをひかないようにね。」とか。





 ことばにはチカラがあります。




 今日、誰に、何て、話しかけましたか?




 ことばを話せるという人間だけに与えられた選択肢を




 唯一人間だけに与えられた選択肢を




 どんな風に




 使ってますか。




 「だいじょうぶだよ。」っていうひとことを




 神さまのひとことを




 今日もだれかに言えたのだろうか。







 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488 

『正当化』

2007-11-27 01:56:04 | Weblog
 「お前だよ、お前が気にいらねえって言ってんだよ。」



 彼は語気を荒げて、いまにもそばにあるパイプイスを振り上げんばかりの勢いだった。



 ぼくにはわかっている。



 彼には破壊的なことは何ひとつできないことを。



 油断したり、見くびっているんじゃ無くって



 それが彼のSOSだから。



 そんな風にしか表現できないだけだから。



 怒りをコントロールできない心の病を抱えているだけだから。



 突然暗闇で金属バットで殴られるかのごとく、というか、こちらの準備がちゃんとできていないと恫喝されるとビックリして危うく力でねじ伏せるという選択をチョイスしそうになる。でもそこはグッとこらえる。そこで生きてくるのが経験値なのだろう。



 そんな現実に直面しながらパラパラ開く本にこんなことが書いてある。本とか読んですぐに影響されることも無いが、響く部分だけ、そう美味しいとこ取りすればいい。


 「『正当化』とは何でしょうか。『正当化』とは真の理由を認めずに、都合のイイ理由をつくりあげてしまうことです。


  『正当化』はあまりにも頻繁に行われるので、正当化できないとなったら、何もしゃべることができなくなって、じれったくなるかもしれません。

  
  正当化は、あることをなぜやったか、またはなぜやらなかったかを他人に話すときに、もっともな理由づけをするために行うだけではありません。


  口に出さずに心のなかで正当化することのほうがはるかに多いのです。

  
  そんなときは、正当化していることに自分で気づいていない場合も、しばしばあります。


  私たちは何かを隠そうとして正当化します。何かを認めることができないときも、もっともらしい理由を考えて、真実と向かいあわなくてすむようにするのです。

  真実を認めることができないと、問題を解決するために必要なステップを踏めなくなってしまいます。


  解決に向かって何らかの行動を起こすためには、そこに問題があることをまず自覚しなければなりません。


  いいかえれば、何がコントロール不能になったということを認めなければならないのです。」


 「私たちは人生全体や人生のある局面がコントロール不能になったのに、絶対にそれまでのやり方を改めようとしないことがあります。こんなことでは、自滅的な行為をやめることはできないでしょう。


  このような行動パターンの人は、「成功するのが怖い」のだとよくいわれます。なぜ成功するのが怖いのでしょう。失敗するより成功のほうがいいに決まっているのに。


  なぜなら、失敗は不快なことかもしれませんが、一つだけ救いがあるのです。


  成功するとあらたな責任が生じますが、失敗すると責任がなくなることがよくあるからです。


  仕事で失敗した人には、誰も仕事を頼まなくなりますし、本人も自分にあまり期待しなくなります。成功すれば、当然、引きつづきうまくやるように期待されるでしょう。」


 アメリカの精神科医で、ユダヤ教の正式な先生だというエイブラハムJ.ツワルスキー氏が「まにあうよ、いまからでも」というスヌーピーを題材にした本の中で書いていた。


 何度も言うが、これらをすべて鵜呑みにしてだれそれさんはきっとこれに当てはまるなどということを言いたいのではない。


 ただ不思議なタイミングで、いままでずっと読むことの無かった本を開くリアルになにがしかの意味があるのだろう。


 そのことの意味なんてすぐわからなくてもイイ。というかわかったふりすることなんてない。


 とにかくこの文章に出会ってしまったのだ。


 それこそ目の前で起きていることの正当化に躍起になってはいけない。


 今回はそこだったのかな。





 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488  

『ただゆったり』

2007-11-26 01:17:39 | Weblog
 少し熱めのお湯を張って


 湯船に身を沈める。


 ピリピリするような


 寒気のような


 感覚が気持ちがイイ。


 そのまま少しの間、あれこれアタマに思い浮かんでくることを


 ちょっとづつ、ちょっとづつ立ちのぼる湯気に薄めながら拡散させて


 ぼんやりと


 そしてまどろむ。


 アロマライトをともした部屋で


 冷たいお水をゴクリと飲む。


 ジャージとかはダメ。ちゃんとパジャマに着替える。


 もこもこのふとんにすべりこんで


 スタンドのあかりで本を読む。


 ほっかほっかですぐにまぶたがおもくなってきて


 おなじページの同じ箇所を何度も何度も読んでいる。


 もっと読みたいという気持ちとこのままフワフワと眠りにつきたい気持ちがほんの少しだけがっぷり四つに組むが、一秒にも満たない時間で眠気に軍配があがる。





 日曜日のごミサで侍者をやらせてもらいながら祭壇の上のロウソクの炎から立ちのぼる陽炎のむこうに光り輝くステンドグラスを見ながら





 そんなことを考えていました。





 そんな状況でなぜそんな風に考えたのか?




 不謹慎じゃないかって?




 なんとなく




 わかりやすく例えてみようかなと思った




 ただそれだけ。




 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488 

『プライスレス』

2007-11-24 17:24:17 | Weblog
 ご存知の方も多いと思うが、「プライスレス」というのは値段が無い=0円=価値が無い、という意味ではない。


 
 そうそう、そもそも値段がつか無いから、価値が無いという考え方からして変だということに気がついているだろうか。



 「プライスレス」というのは値段がつけられないくらい価値が高いということを表す言葉です。



 そこで考えてみよう。



 10円で他人をよろこばせることができるだろうか。10円玉を物理的に使ってって意味じゃなくてコストとして10円分使ってってこと。



 何が思い浮かびましたか?



 献金や寄付。



 10円で電話をかけて、誰かを励ますこともできる。



 コンビに行って何かの情報を10円分コピーして誰かに教えるために手渡すこともできる。



 他にも何か思いついたことでしょう。



 それでは100円ならどうでしょう。



 50円のハガキを買って手紙を書いてあげることもできる。



 ポリオから子どもを守るためのワクチン7人分。



 げりで体から水分がなくなって命を失うことをふせぐ経口補水塩15人分。



 1000円ならどうでしょう。



 電車やバスに乗って会いに行くことができるようになりました。




 イラクの白血病の子ども達に医薬品を1週間分、提供できます。




 ミャンマーで救急箱に医薬品を揃えられる。




 10000円ならどうでしょう。



 いっしょにお食事に行くこともできます。



 花束をあげることもできるかもしれない。



 さあ、ここでもう一回考えてみましょう。



 ほんとにうれしいことってどんなことですか。



 自分でしてもらってうれしかったことって



 もらったモノの価値じゃなかったんじゃないですか。



 ほら、そうでしょ。そうだったでしょ。



 たしかにもらったモノ自体が欲しかったものだったりすれば、それはそれで満足感はあるのだけれど



 自分の欲しいものをリサーチしてくれて、いっしょうけんめい用意してくれた事がうれしいんでしょ。



 有名パティシエの作ったケーキもたまにゃあイイけど、やっぱりうれしいのは手づくりケーキでしょう。美味しいとかまずいとか、不格好だからとかじゃなくてさ。



 そうなんだよね。値段が付かないモノの方が圧倒的にうれしいだよね。



 さあ、0円で人をよろこばせることってなんでしょう。



 シンプルに考えましょう。


 



 気遣い。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488  

『かもしれない』

2007-11-22 17:56:54 | Weblog
 自動車の運転免許証を取るときに必ず聞く言葉。


 「かもしれない運転」


 この言葉は


 「だろう運転」の対極に位置し


 危険予測をしながら運転をしなさいと教えている。


 「あの車のカゲから、人が飛び出してくるかも知れない。」


 「つぎの交差点で前を走っている車が曲がるためにスピードを減速するかもしれない。」


 これに対し


 「横断歩道を渡ろうとしている人は、自分の車が通り過ぎるのをきっとまってくれるだろう。」


 「交差点で右折したいのだけれど、反対車線を走ってくる車はきっと止まってくれるだろう。」


 助手席に乗っていて足元にあるはずのないブレーキを目一杯踏み込みことがある。


 危険予測ができない人の運転に同乗しているときがそんなときだ。


 自分が運転していなくても、話しなどしていても無意識に乗っている自動車の前方の情報は視野に飛び込んでくる。


 運転している人の反応のタイミングと自分のそれがズレているとコワイ思いをする。


 いわゆる運転がヘタに感じる。場合によっては車酔いの素だったりもする。





 会社でも家庭でも「危機管理」しましょうって言われる。


 目標持ったり、計画したり、保険に入ったり、健康診断受けたり、カラダ鍛えたり、クスリ飲んだり、貯金したり。おいしいもの食べたり、お酒飲んだり、本読んだり、映画見たり、リラックスすることもココロの危機管理だろう。




 「きっと○○だろう。」っていう生き方をしてしまうと


 頻繁にいろいろな障壁が立ちふさがってくるのではないか。


 自分ができうる仮定の範囲(悪く言うと「ひとりよがりな自分だけの世界」)を超える状況に直面し続けることになるから。


 予測、想定していないことに直面した時にヒトはたじろぐ。焦る。イライラする。もちろん「サプライズ」などと言われる感動も反対側にはあるが。


 
 
 駅の改札で「キンコ~ン」て出口のゲートがしまっちゃうヒトがいる。朝の通勤ラッシュの時だったりするとカチンときたりする。


 こんなときこそ『かもしれない』です。ほんの少しだけ前の人と間隔をおいて何かあるかもしれないと想定してみる。もちろん混んでいて後ろの人からのプレッシャーも相当なものがあるかもしれないけど、それくらいの空間は自分で作り出そうとしてできないことはないはずだ。


 あとは、「不安そうに、ダメもとで改札口に突入している。」とか「お年寄り」とか「荷物の多さ」とかちょっと気にすれば気づく情報が満載のはずなのに


 「キンコーン」って閉まっちゃった人の後ろに突入していって「チッ」とか舌打ちしてる(実際態度に出す人もいるが心の中でやってるひともたくさんいる)。


 「お前この忙しいのに、なにやってんだよ。」って。


 このストレスは回避できたかもしれない。


 そう


 『かもしれない』って発想で。






 じゃあ人とたずさわる時にもこれが応用できるかというと


 どうだろう。


 こんなこと言ったら、こんな態度取ったら、「嫌われるかもしれない。」


 わたしが想うほど相手の人はわたしのことを「想っていないのかもしれない。」


 仲間に入りたいのだけれど「受け入れられないかもしれない。」


 


 『かもしれない。』の軸が自分になっちゃった。





 みんな自分の事がいちばん好きで


 こうありたいと描く理想の自分の姿がいちばん好きで、それを「自分が嫌だ、変わりたい」というポジションに置き換えたりしている。





 いま凹んでいるのは


 いま悩みのタネになっているのは


 自分が中心軸ですか?


 相手が中心軸ですか?


 冷めていろとか傍観しろとかおっかなびっくりでいろってことじゃなくて




 ほんの一瞬の距離感というか


 一息つく余裕というか


 そんなひととき。




 聖霊のはたらくとき。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488 


『上出来』

2007-11-20 08:23:18 | Weblog
 オレンジのさざなみ。


 つむじ風のイタズラ。


 落ち葉のダンス。


 ピ~ンと立ったコートの襟。


 首に巻きつくマフラー。


 そして


 冷たい雨。


 いつもの公園にも駆け足で北から冬がやってきた。


 寒くなったねぇ。





 日曜日、我が家の天使(娘)ちゃんのフルートの発表会だった。


 本人は、自信なのか、慣れなのか、当日の朝まで妙に落ち着いていた。


 それなので、イイ意味で緊張していただこうと


 ごミサの終わった教会からお友だち数人に観に行っていただいた。


 環七をバスで15分くらい。


 目指す会場は微妙に近かった。


 「ミュージション」冗談みたいなネーミングなのだけれど、音大生の方々にターゲットをしぼった、ある意味立地も考慮に入れた素晴らしいマーケティングの上に成り立っているマンションの1階の小ホール。このミュージションの住人の方が介在すればきっとリーズナブルに借りられるみたいなゴキゲンなシステムなのだろう。


 まぁ、それはともかく


 会場についてぼくら集団の顔を見るなり


 彼女は言った。


 「なんでこんなに知ってる人多いの。すっごい緊張してきた。」


 でもなんだかちょっと誇らしげなんだよなぁ、余程自分の演奏の仕上がりに自信があるのだろうか。それならそれでイイですけど。


 いままでの4年間で、初めてです。家族以外の方に見に来ていただいたのは。


 やっぱり、嫌だ嫌だと言いながら見て欲しかったんだなと。





 親バカかもしれないが、娘のフルートは素敵な音がする。


 娘の吹くフルートはイイ声でさえずる。


 それで十分なんです。






 帰り道。


 いつもの公園の落ち葉たちも


 リズムにのって、ダンスしてましたとさ。





 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488 

『Hope is Love』

2007-11-19 23:31:39 | Weblog
 ぼくの目の前で神さまが言った。


 「「希望の人」になろう。」って。


 間違いなく


 そう言ったのさ。





 「人は反省や後悔が大好きなのさ。


  もちろん必要不可欠だけど


  何を反省して


  何を後悔しているんだろう。


  それは


  きっと


  自分の「傲慢さ」にだね。


  他人の言った他愛もない一言が


  たまたま自分の地雷のスイッチを入れる事になっちゃたかもしれない。


  タイミングか、話しの流れか、雰囲気か、空気ってヤツか、そりゃ様々な要因がある。


  もちろんデリカシーのカケラも無いことばやしぐさ、思いやりの無い態度はたしかにあるけど


  どんな風に解釈するかってことは、ほとんどが受け取り手の問題なんじゃないかな。


  大概の場合が、「えっ、そんな事言ったっけ。ぜんぜん覚えてない。」というのがオチでありリアル。


  だから


  いつまでも


  ウジウジ、ネチネチ、メソメソしてちゃダメだよ。


  他人と関わるってそういうことのくり返しなんだよ。


  「わたしと付き合うのなら覚悟しなさいよ。」とかさァ


  傲慢だよね。


  自分が経験していないことは、人には伝わらないから。


  逆に経験という刻印は消すこともできないから






  だから


  今日から


  「「希望の人」になろう。」


  人に希望のある体験をさせられる


  人間になろう。」





 ぼくの目の前で神さまが言った。


 「「希望の人」になろう。」って。


 間違いなく


 そう言ったのさ。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『気がつく』

2007-11-14 08:13:33 | Weblog
 気づき。


 これ違ってたかな。とか、こっちの方が簡単だったな。とか、早くおしえてくれればよかったのに~。とか。


 気づき。


 ビクっとしたり、ギクッとしたり、ホッとしたり、ハッとしてみたり。


 たまには気づいていたのに知らんぷり。


 「自分で気づけ」と放っておいたり。


 きびしさだったり、やさしさだったり、いやらしさだったり、天然だったり。


 ルールだったり、モラルだったり、スキルだったり、成長だったり。





 朝早い中央線でデカイ声で話をして自分をアピールしている徹夜遊び明けの女の子二人。


 いまどき、歩きながらたばこを吸っているOLさん。


 学校帰りに塾への移動時間に電車の中で牛乳やらおにぎりやらを食べている小学校低学年の男の子とそれすら急かす母親。


 満員電車の中で、どうしても読まなければいけない本や新聞を広げているサラリーマン。


 スーパーのビニールの買い物袋をず~と丸めたりのばしたりしているような音を出し続けているあなたの耳に吸い付いているヘッドホン。


 「しかりかた」も「ほめかたも」を知らない親。


 自分の心が傷つけられたくないために、他人を目に見えるカタチで傷つけるこども。




 もう少しだけ顔を上げて、自分のまわりを見てみることをしてみたらどうだろう。


 きっと、何かが見える。


 かならず、何かに気づく。


 鏡で自分の顔ばかり見ていたら


 自分が人間であることすらわからなくなっちゃうかも知れない。






 自分と向き合うことは


 自分の内なる神さまと向き合うということ。




 他人と向き合うということは


 神さまとのコミュニケーション。





 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『共同墓参』

2007-11-12 08:45:46 | Weblog
 日曜日のごミサの後、貸切バスに乗って、お寿司弁当などをほおばり、約1時間。


 到着したのは、カトリック府中墓地。


 ぼくは二回目、母は教会の代母さんに「あなたもいつかここに入るのだから一度見ておけば。」と誘われて参加した。


 雨模様の天気もバスが到着してから墓参中だけ薄日が差し込むという神さまの粋なはからいもあって順調にそして厳粛にみなさんにゆかりのあるお墓数箇所を全員でまわり「お元気ですか~。そのうちにわたしたちも行きますから、待ってて下さいね~。」とお祈りをしました。


 母は言った。「墓地なのにすっごく明るい感じがして、ここなら早く入りたいくらいだよ。」冗談とも本気ともとれないコメントで反応のしようもないが、たしかにカトリック墓地はスッキリ明るい。


 ちなみに高円寺教会の共同墓地は、いわゆる永代供養料が20万円だそうだ。


 


 天国のドア。




 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488





『観劇です』

2007-11-10 08:45:38 | Weblog
 プロフェッショナルが演じるナマの舞台演劇を観に行ったのは何年ぶりだろう。


 以前勤めていた会社の先輩から連絡をもらった。


 自分の奥さんにドタキャンされたのでいっしょに観に行こうよ。と。


 いっしょに観にいかせてもらった(もらったというのは文字通り一万円を超すチケット代はタダだったから)のは銀座に新しくできたシアタークリエという劇場のこけら落としの公演で


 三谷幸喜氏作・演出の


 「恐れを知らない川上音二郎一座」という喜劇だった。


 川上音二郎とは、実在の人物で、明治時代の演劇人であり、近代演劇の祖と呼ばれる人らしいです。その奥さんは、NHK大河ドラマの主人公にもなった貞奴。この川上音二郎に扮するのが、三谷作品初出演のユースケ・サンタマリアさん、貞奴には、同じく初出演の常盤貴子さんでした。


 共演者として、戸田恵子さん、堺雅人さん、堺正章さん、浅野和之さん、今井朋彦さん、堀内敬子さん、瀬戸カトリーヌさんら三谷作品経験者、阿南健治さん、小原雅人さん、小林隆さんといった TBS(劇団東京サンシャインボーイズ)のメンバー、そして三谷作品初出演となる、新納慎也さんと、多彩かつ豪華な顔ぶれだったようです。


 喜劇に辛口のぼくですが、今回は素直に「笑わせてもらおうじゃん。」と極力、先読みせず、フラットなキモチで席に着きました。


 瀬戸カトリーヌさんがぼくにはツボで、一度笑いの窓が開いてしまったので大爆笑の連続でした。


 笑う、大笑いする。


 すてきなストレス発散です。


 ナマの舞台の緊張感もビンビン感じました。


 なんかすっごく得した気分です。


 こんなサプライズならいつでもウェルカムです。


 絶妙な神さまからのプレゼント。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『ヘビーローテ』

2007-11-08 13:23:34 | Weblog
 パワープレイとも言いますが、ラジオ局などで、ひとつの楽曲を1日の放送時間中に何度も繰り返し放送することを


 へビーローテーションといいます。


 現在、我が家のヘビーローテは


 なんといっても


 Live『VOICE』5thのDVDです。


 前編、後編の豪華2枚組み。初版予約特典は、購入された方のみ楽しめる内容らしいです。(スミマセン、ほんとは特典などありませんので。)


 娘はすでに全曲覚えてしまったようです。


 ところで、来月12月に「クリスチャンLive in 高円寺ミッションズ」という企画を進めています。一応Live『VOICE』のチーフプロデューサーとして立案、参画をしています。


 名称(仮)は大袈裟ですが、今回は手探りですので、小規模になります。パイロット版みたいなイメージで。


 高円寺教会からは、看板バンド「Benny16th」をエントリーしています。


 実現できるかどうか山口Bros.Bandさんと調整中ですので、開催にこぎつけたあかつきには、みなさん観に来て下さい。


 一足早い、いろいろな意味でのクリスマスプレゼントになればイイなと思っています。


 ところで、Live『VOICE』5thのDVDはどこで買えるんだろう。





 ワクワクは次から次へと創り出すモノでしょう。





 でも最後は「ヤーウェ・イルエ」ですから。





 そうそう、信じるものには


 「ヤーウェ・イルエ」すら


 ヘビーローテになるんですよ。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『ロマンスカーに乗って』

2007-11-06 08:12:19 | Weblog
 娘も妻も休みのウィークデーにぼくも休みを取って


 久しぶりに、ほんとに久しぶりに


 三人で日帰り旅行に出かけた。


 前日に箱根方面に急遽決定。急遽といっても我が家はいつもそうだから実は急遽じゃない。


 インターネットでロマンスカーの展望席をギリギリセーフで三席キープし、何となく「紅葉」や「温泉」というキーワードをイメージだけして、翌朝を迎えた。


 町田、本厚木、小田原そして箱根湯本。


 箱根登山鉄道に、ロープウェイ、そして海賊船。


 寄木細工、自然薯のざるそば、ワカサギの天ぷら、黒たまご、みたらし団子。


 紅葉にはまだ早く、娘にウケることを見込んでチョイスした「ユネッサン」は娘のストライクゾーンではあったが、妻のニーズは満たしていなかったり。


 贅沢とは程遠い小旅行。


 たまにはイイです。


 クセになりそうです。


 ちょっとした余裕を捻出することが


 そう捻出するから


 楽しさも


 倍増なんですよね。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『ミサ3連チャン』

2007-11-04 22:57:46 | Weblog
 この前(11月4日)の日曜日はスペシャルにお恵みをいただいた。


 朝7時30分のごミサの侍者。


 9時30分のごミサの侍者。


 そして締めは「コトバの呑み会」創世記まとめのごミサ。


 まさに一枚、また一枚、薄皮を剥がされるように


 ココロが丸裸にされていく、なっていく。


 もちろんそれぞれのごミサにはそれぞれの味わいがあって


 それぞれではない、圧倒的な一貫性のあるパワーがある。


 重なったことにはあまり意味はなく


 ただただ、ぼく自身のキモチの問題でしかないのだろうけれど


 タイミングはいつも絶妙なんです。


 そう


 普遍性という名の



 サプライズ。





 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『熊の惨劇』

2007-11-03 17:08:46 | Weblog
 パソコンで知りたい情報をあれこれ検索します。


 様々なキーワードを入力して、必要な情報にたどり着いてちょっと満足したり、たどり着けなくてがっかりしたり。


 先々週のこと。 


 朝ミサの侍者で奉仕をさせていただき、9時半ミサにも与り、今週末に迫った「教会まつり」の準備やらなにやらを終えての日曜日の昼下がり


 ちょこっと遅いランチを食べようということになった。


 教会の典○委員長ご夫婦といっしょです。(伏字にすることもないんですけど、っていうより伏字になってないか。まあ、一応。)


 ランチですがとりあえずビールで乾杯です。


 それぞれ注文したパスタがやってくる頃にはイイ感じで会話も弾んでます。


 なんの話からこの話になったのか定かではないのですが、ジェットコースターのはなしだったか、映画の話しだったか、う~ん思い出せない。


 ○礼委員長のパートナーさんが口を開いた。


 


 「この前、パソコンで『熊の惨劇』みたいなキーワードで検索したら、けっこう各地で起こった熊に襲われた事件やアメリカなんて、すっごくリアルに熊に襲われた人の写真も出てきて「ゾクゾク」しちゃった。」





 「・・・・・・」




 一瞬、アルデンテのちょうどイイ茹で加減のズワイガニのトマトクリームパスタが鼻の穴から飛び出すかと思うくらい吹き出しそうになった。

 

 だってそうでしょう。だいたい『熊の惨劇』ってキーワードで検索したことありますか。っていうか普通思いつかないじゃん!



 ぼくは、すかさずご主人に言いました。



 「きっと、熊に襲われるように、襲いかかって欲しい願望でしょ。」って。



 まあ、この後繰り広げられたアダルトな会話はここでは書けません。(笑)



 しかし



 『熊の惨劇』ってキーワードで検索して


 
 どんな映像が出てくるのか、ハラハラ、ドキドキしている姿って、想像しただけでちょっとチャーミングですよね。



 夫婦円満なランチでした。



 それにしても



 『熊の惨劇』ですよ(爆)






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488