カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『病んでいる人』

2007-03-31 20:58:13 | Weblog
 年度末の日だからって訳でもないのだけれど、なんとなく最近というか、たまに頭に浮かんでくることで、結構気にしていて、自己消化を試みるんだけど、なかなかうまくいかないことを書きます。


 受け取りようによっては非常にデリケートなことかもしれないので、最初におことわりをしておきます。これから書くことは問題提起では無いし、皮肉でもありません。どこかの誰かに向かって要求しているのでも無く、しいて言えば、ぼくの頭の中を整理する事が目的だということにしておいてください。



 まあ、ブログ書くこと自体、いつもそういうスタンスですから、今更何をってことでしょうけど。


 この前置きが、かえって良くないかもしれない。


 実は表現方法を考えていままでも何度か書いてきたことです。




 「教会って病んでる人しかいないんじゃないですか?」




 という質問に集約されるかもしれません。


 「病んでる」というのはココロやカラダになにがしかの病(やまい)を患っているということを言われてるのでしょう。


 「障害者」(表現がよろしくなくてごめんなさい)


 身体障害者(ぼくの母もそうです。)、精神障害者、知的障害者、生活が苦しいとかいわゆる一般社会生活に馴染めないとか何らかの危機的な状況に置かれているなどの別の意味での障害を抱えている方々。


 先天的、後天的に体が不自由な方、自ら望まずに生まれるまま知的な部分だけが「ある指標」にちょっとだけ届かない方。


 そして何らかの影響でココロを痛めてしまった方。


 いわゆる一般的社会生活(誰かが、どんな「ものさし」かで計っているらしい)が難しい、というかフィットしないであろう方々。


 「専門分野は専門家に任せる。」正論だけど、これは極めてリスクヘッジをした発言です。しかし、大局観(たいきょくかん)からすれば間違ってもいない。


 「素人さんには手におえないでしょ。」「最後まで責任を取れますか。」


 「すべての事柄や個性までもが、何かのマニュアルに当てはまるのであれば」という前提において。


 民主主義や議会政治における多数決の理論ですべてが割り切れるのであれば。



 「五体満足」ってなんでしょう。


 「アタマが良い悪い」って成績や学歴だけじゃないでしょう。


 「ある枠」に収まりきれないから落ちこぼれですか。異端といえますか。


 今の世の中で「自分のココロは病んでいない。」って断言できる人いますか。


 「満たされた生活とは程遠い」って誰との比較ですか。もしかしたら自分の理想との乖離(かいり)を嘆いているのではないですか。




 不完全だから人間。



 何と比較して不完全なんでしたっけ。



 不完全でありがとう。



 もう一度質問を書きます。





 「教会って病んでる人しかいないんじゃないですか?」





 どんな気持ちがこういう質問をさせるのでしょうか。


 弱い人にほど、弱い時にこそ大いなるお恵みをいただくことを信じます。


 様々な個性を積極的に喜ぶべきではないでしょうか。


 怖がらず、恐れず、一歩踏み出して、少しでも元気がある方から手を差し伸べて


 経験して、スキルアップして


 理想を書いてしまえば


 ここにいるときは、自分の目の前、神さまの御前にいるときには


 安心して、自由で、気兼ねななど無くて


 ありのままでいられるような、そうあっても誰もがわかっていてくれるような


 そんな場所が


 もしかしたらその入り口が、そのプロセスへの最短距離が


 たまたま教会だったらうれしいと思う。


 高齢の方や体の不自由な方については、なんとなく知識も経験もあるから、いたわったり、助けたりしやすい。もちろんとっても大切なことです。


 自分の知らないことや経験の無いことは怖いし、恐ろしいのは誰しも否定できません。むやみやたらに手を差し伸べて取り返しのつかないことになるかもしれないし。


 人間はどうやって救われているのでしょう。


 人間はどうやって癒されているのでしょう。



 人間はどんな状況もって「満たされている」というのでしょう。



 教会の秘密はこの辺にありそうじゃないですか。



 近くの教会に行って



 確かめてみてはいかがでしょう。



 「信じること」


 
 そこからはじめたことを忘れない。



 そして誰でもいつでも



 そこからならはじめられる。



 ここまで書いてやっと気がつきました。



 すべては自分自身に向けての確認だったんじゃん。って。






 神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『ポッカリ』

2007-03-29 12:46:58 | Weblog
 我が家の天使(娘)ちゃんはお友だちに誘われて、教会学校主催じゃないキャンプに出かけている。


 富士山の裾野にある「東山荘」という宿泊施設をベースに野山をかけまわり、富士山に登ったり、満天に広がる星空を眺めたりする三泊四日の日程。


 今日戻ってくるのだが、いまごろになって「東山荘」が日本YMCA同盟國際青少年センターだということをネットで調べ、知った。いや、たしか妻がそう言ってたね。


 娘たち小学校4年生が最上級生になると聞いた。全体で25人編成。企画も盛りだくさんのようだ。どんな体験をして帰ってくるのか楽しみです。


 娘のいない三日間。


 やっぱり、なんだか、ちょっと


 『ポッカリ』


 母も妻も


 『ポッカリ』




 今回、この三日間でつくづく実感したこと。



 何だかんだ言って



 手が掛かってるのは


 
 誰だったか



 ということ。



 それは



 ご主人様づらしている



 図体のデカイ



 どこかの誰かさんだということ。







 風が



 桜色に



 やわらかく



 あたたかく



 吹きはじめました。



 もうそこまで



 手の届くところまで



 来ています。



 よし、



 ほぼ充電完了。





 神に感謝。
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『「ダサい酔っ払いのおやじ」』

2007-03-27 16:28:44 | Weblog
 飲んで、勢いづいて、調子んのって、くそったれなおやじに成り下がっている。




 「それじゃあ、新橋辺りにいる『「ダサい酔っ払いのおやじ」』みたいじゃん。」



 「お~、そうだよ。そうそう。そんな評価をして欲しかったんだよ。」


 天邪鬼なヘタれおやじはそれでも強がる。心の中でそっと。



 何を聞きたいのか


 何をハッキリさせたいのか


 どんな答えを求めているのか


 足を引っ張ってるのか


 励ましてるのか


 巻き込まれた人たちは


 まったくもってイイ迷惑だ。


 なんだかんだ言いながら


 ぐにゃぐにゃだけどようやく実体の見えてきた


 自分の足元を踏みしめ、踏み固めたいが為の


 自己投影か。


 なおかつ酔っ払ってるみたいなおやじは相手にとって「イヤ~な事」ばかり聞く、問い詰める。意外と核心をえぐってたりする。


 つながっている仲間という信頼関係の中だから、


 いまよりハッピーな状況になって欲しいから、


 「何でそんなことヒトに話さなきゃいけないんですか。」って事をあえて突きつける。


 ほんとに大きなお世話ってもんだ。自己満足選手権大会準決勝だよ。


 まあ、「うるせ~な~。」って顔して露骨にエスケープしていく人もいるけどね。


 だってさ


 「酔っ払ってるみたい」だけど


 ぼくは酔ってないもん。


 でも自分に酔ってんじゃないのと言われると


 返す言葉も無い。


 ただ


 ひとつ


 ぶれない軸は


 目の前にいるあなたのことを


 あなたが思っている以上に


 真剣に想っているということ。たぶんね。





 「な~んだ、結局、言い訳したかったんじゃん。」




 その通りです。



 「初めからのことを思い出すな。

  昔のことを思いめぐらすな。

  見よ、新しいことを私は行う。

  今や、それは芽生えている。

  あなたたちはそれを悟らないのか。

  わたしは荒れ野に道を敷き

  砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ43.18-19)



 信じています。


 昨日までも


 そして今日からも。





 神に感謝。
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『こどもの頃住んでいた街』

2007-03-26 08:15:16 | Weblog
 ミニバンに荷物を詰め込んで



 「さ、そろそろ行こうか。」って



 口にした瞬間に



 ちょっとさびしい気持ちになった。



 田舎の住み家を引き払いに行った。先週の土曜日。



 日帰り弾丸ツアー。



 父と母が汗水流して、零細ながらも自営業をしていた工場兼住居。



 倉庫を改造したような、外見はとても「家」とは思えない借家。



 ここで母は、父が亡くなってから7年もの間、一人で住んでいた。



 ぼくの結婚を機に少し離れた所に二世帯住宅を建てた。建設中にぼくの東京赴任が決まり、そのまさに「夢」のような新居には十年間で多分、夏休みとお正月と仕事で滞在した延べ二ヶ月くらいしか居ることが無かった。



 父の死を契機にして、その家は手放すことにした。



 このとき、ぼくは勝手に、自分勝手に田舎とは決別した。



 「お前、本当に身勝手だな。お母さん田舎に一人残して、何が決別だよ。」頭の中で、胸の奥でこの七年間いつもいつも囁きかけられていた、いや違う、ごまかし続けていた。



 そこから母のたった一人の生活が始まった田舎の工場兼住居。



 友だちが集まったところ。



 ある日、会社から帰ってきて車を降り、ドアを閉めた時に夕日を浴びる車内を振り返って見て、タバコの煙がゆらゆらしているのがなんだかすっごく嫌な感じがして禁煙した簡易カーポート(駐車場)。



 その簡易カーポート(駐車場)が大雪に押しつぶされて母がその下敷きになり幸運にもフレームとフレームの間に上半身が位置していたから骨折だけで九死に一生を得た場所。



 とってもかわいがっていた子犬の「ドン」が、替えたばかりの首輪をすり抜けて道路に飛び出して不運にも、タイミング悪く、走ってきた車とゴッツンコしちゃって、見た目には無傷だったのに二度と息をすることが無かったあの道。



 工場では何度も手伝いをした。もちろんバイトとしてお金目当てに。一つ加工して利益が一円以下などというものもあって正確さとスピードを要求された。バブルな時期もリアルに経験した場所。



 妻にプロポーズした部屋。



 父はお酒が一滴も飲めなかったが宴席が大好きで、盛り上げ役だった。毎日誰かが来ていた居間。



 一度、車に乗り込んだんだけど



 もう一度降りて



 十字を切り



 一礼した。



 田舎はその瞬間に



 ぼくたちが『こどもの頃住んでいた街』に昇格した。



 じゃあね。



 ありがと。



 やっと言える。素直に言える。



 素敵な想い出。



 ぼくのルーツ。






 神に感謝。
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『いま、書きたいんだ』

2007-03-25 22:34:07 | Weblog
 このなんとも言えぬ魂の共振をブログにホットなうちに刻みたかった。



 日曜日の主日のミサの後にこの春、高円寺教会で時を同じくして、同じ空間を共有した三人の神学生の壮行ミサが執り行われたのです。



 題して「ありがとう おかえりなさい いってらっしゃい ミサ」



 い~いミサだったのです。



 ごミサにいいも悪いもないことなど承知の上で言わせてもらいたい。



 「い~いミサ」



 ごミサの終盤に神学生三人がそれぞれの、そう、信仰告白をしたのです。



 リアルに泣きました。



 泣かされました。



 
 「ぼくは、こういう世界で、こんな環境で生きて行きます。安心してください。」



 涙ながらに、顔をくしゃくしゃにして、でも顔を輝かせて



 家族に報告をする姿に



 じ~んとしたのです。



 ありがとう。



 おかえり。



 いってらっしゃい。



 初ミサには天国にいても駆けつけるよ。



 あなた方が愛を語って



 ぼくらを、ぼくを救ってくれたことは生涯忘れないから。



 清々しく



 凛として



 いってらっしゃい。



 いってきます。



 帰ってくるの楽しみに



 ほんとに楽しみに



 待ってるから。



 ありがと。




 教会は



 い~いところだね。






 神に感謝。
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『しがみつく』

2007-03-22 12:20:03 | Weblog
 休日の前日ということもあって、午前四時ごろまでホームパーティーは続いた。 


 最近どうもレッドゾーンに突入するのが早くて、自らお客様を招待しながら、途中で休憩させていただくことが多い。失礼な話しだ。ゴメンなさい。



 三十分だったか一時間だったかくらい「まどろみ」戦線に復帰する。



 久しぶりに最前線に復帰して興奮気味にマシンガンをぶっ放している母が怒っている。



 「お前、お客さんをよんでるんだから、ちゃんとお取り持ちしなさい。」



 母の田舎の家は、父が亡くなるまで、それこそ毎晩のように宴会だった。大袈裟に聞こえるかもしれないが、田舎のコミュニティはそういうものだ。もちろん個人差はあるけど、逆にそれ以上の娯楽が無かったりするし。



 家事的なことを何ひとつ、そう、それこそテーブルを拭く事やコップを出して並べるなんてもってのほかだった父にかわって母がバリバリに取り仕切っていた。



 それゆえ、ぼくの「ていたらく」が歯がゆいのでしょう。



 さっきまでいた仲間が帰って、忙しい仕事の合間をぬって新しい仲間が来てる。そしてまた乾杯して食べたり語ったり。なんかこういうのすっごくイイ。



 「ああ、ほんとに高円寺に住んでるんだなぁ」ってしみじみする。



 宴も終盤に差しかかった頃



 「明日の予定は?」って話になった。



 「がんばってるみんなには悪いけど、ぼくは少しの間リフレッシュ休暇だから何にも予定無いよ。」



 「そしたら、「ボルダリング」に行ってみない?国分寺の方だけど。」って提案があった。



 「「ボルダリング」って何?」好奇心小僧の胸は躍った。



 *ボルダリング(Bouldering)とは、フリークライミングの一種で2mから4m程度の岩や石を確保無しで登るスポーツである。(出典: フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」)



 「器具とか使わないで手と足だけでやるロッククライミングみたいなやつ。」



 「行く、行く!」



 「じゃあ、あした、じゃなくて今日の10時に高円寺駅で待ち合わせってことで。」



 予定を30分くらい経過したところで全員集合。みんながんばって起きました。






 「そこで、右足と左足を入れ替えて、そう。今度は右手を頭上のきっかけへ。」



 「あ~~~!!。」



 ドッス~ン。



 「くっそ~。もう一回チャレンジだ。」



 壁に打ち付けられた不定形の石を握ったりステップに踏ん張ったりしながらスパイダーマンのように落下しないようにしがみついてゴール地点を目指します。



 これがおもしろいのですよ。



 戦略性があるし、なんてったてすべては自己責任。自分の手と足だけが頼りだから。他人のせいになんてできるわけがない。



 いっしょにいったぼくより10歳くらい若くて20kg以上身軽な若者たちは、うらやましいほどに縦横無尽に切り立つ壁をまるで「虫のように」徘徊し課題をクリアしていく。



 ぼくは自分のカラダの重さとカタサをイヤというほど味わいながらも必死に「しがみつく」。



 でも、もうひとふんばりが利かない。



 何に「しがみついて」、何から「解放されたいのか」。



 スポーツやりながら人生感じちゃったりして。



 おかげで闘争心にちょこっと火がついた。



 筋肉痛というお土産も



 なんだか今日はちょっと気持ちイイ。







 神に感謝。
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『紅ほっぺ』

2007-03-20 06:13:04 | Weblog
 53個。



 我が家の天使(娘)ちゃんが「イチゴ狩り」で30分間に食べた



 『紅ほっぺ』という新品種のイチゴの数です。



 思いっきりリフレッシュすることにしました。



 やっぱり、おっかなビックリで中途半端はいけない。



 好きなことして、仕事に飢えるのを待つくらいの勢いで



 ダラダラしてみます。



 とりあえず、娘の振り替え休日を利用して



 静岡までイチゴ狩り。



 家族四人で140個くらい食べたんじゃないかな。



 当分イチゴは。。。



 今日は母の特製ホルモン焼きと妻の手作り餃子のハウスパーティー。



 お近くの方はどなたでもどうぞ。



 食べて、飲んで、語って



 とにかく発散系で。



 みんなが



 『紅ほっぺ』になって



 ニッコリできれば。



 いやいや、きっとなるよ。




 家族の食卓だもの。






 神に感謝。
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『6日と23時間』

2007-03-19 06:04:09 | Weblog
 日曜日の一時間。


 そこから始まる


 
 『6日と23時間』



 そして次の日曜日の一時間を迎える。



 これはただのローテーションやルーティンではなく



 「心して」というか、「ちゃんと」っていうか



 う~ん、ちょっと違うなぁ。



 こちら側が準備するとかしないとかじゃなくって



 なにもできない生まれたての赤ちゃんに戻る、いや、戻るっていうのもヒトの意識が働いちゃうから、とにかくそんな自分であること、



 そう、素っ裸になって



 「なって」じゃないな、



 聖堂に座ったら



 何も纏うことのない生まれたての赤ちゃんのような存在で



 神さまの問診を受ける。



 問診のようだけど



 それは必ず、間違いなく、完全な、圧倒的な






 触診







 カラダにもココロにも直接触れていただく時。




 的確な例えではないが



 触診のクライマックスに処方箋をいただく。



 この一時間にたどり着くまでの



 『6日と23時間』の間に患った、痛んだココロとカラダにバシッとジワ~と効くおクスリ。





 「キリストのからだ」





 さあ、強められましたよ。癒されましたよ。



 実感して



 感謝して



 安心して



 だって、『6日と23時間』経ったら



 また帰っていけばいいのだから。



 帰る場所があるんだから。






 神に感謝。
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『玉鋼(たまはがね)』

2007-03-16 11:14:41 | Weblog
 日本刀の原料になる鋼鉄を


 『玉鋼(たまはがね)』というのだそうです。


 
 剛直な力強さ。



 そこから命名された



 大吟醸。



 早速、封を切る。



 フルーティーって一言ではもったいない。



 しいて言うなら



 「春の味」。



 



 郡山駅から新幹線に乗り、盛岡まで行った日帰り出張から家路につこうかと思ったらケイタイがブルブルした。



 「お土産持ってくよ。」



 うれしいメールが来たのです。



 お土産はもちろんうれしいのだけれど



 何がうれしいって



 彼と話ができるってことでワクワクした。



 軸がブレてない骨太を目の当たりにしたかった。



 チリンチリ~ンと彼はやってきた。



 紅茶の香りといっしょに



 「ほ~んわ~か」と流れるひととき。



 妹思いのお兄ちゃんという一面をチラリとのぞかせながら



 清々しくぼくのハートに何かを刻んでいく。



 そうか、ぼくは『玉鋼(たまはがね)』なんだな。真っ赤っかに熱せられて彼というハンマーで刀みたいなカタチに伸ばされてるんだ。



 「キン、キン、キン」って。



 それも絶妙なタイミングで、絶妙なリズムで。



 島根のおとうさん、おかあさん。



 おいしいお土産をごちそうさまです。



 ココロあたたまるひとときを



 ありがとうございます。



 ちなみに、次号の教会報に彼の原稿が掲載されます。



 彼の「一番絞り」はプレミアムなフレーバーがしますよ。



 乞うご期待。






 神に感謝。
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『物事に向かう姿勢』

2007-03-14 07:49:54 | Weblog
 宿題や勉強は、おもしろくない。



 ぼくも一時期、仕事を家に持ち帰って消化していた時期があったが、決して楽しくは無かった。



 だから最近は持ち帰らないし、そんな気にもならない。



 大人だってそんな状況なのだから、遊びたい盛りのこどもに「勉強しろ~」「宿題やったのか~」って口うるさく言うのはイヤだし、言われているのを聞くのも気分が悪い。



 しかし



 そんなに世の中は甘くなくて



 家に帰り着くと



 ダイニングテーブルの上に



 毎日



 書き込まれたり、間違い直しをしたらしき



 恐怖の白い紙の束が



 ゲゲゲの鬼太郎に出てくる「いったんもめん」のように



 無口だけど、その鋭い眼光をぼくに向けて突き刺してくる。



 いつも、そう、毎日「今日こそは穏やかに見てあげよう。」とココロに決め「いったんもめん」と向き合う。



 先ずそこにしるされた「ムンクの叫び」のような数字達を目にした瞬間に「カッチ~ン」と穏やかだったはずのハートマークに亀裂が入る。



 文字が「きれい」とか「きたない」とか、「じょうず」とか「へた」なんてことは問題ではなくて



 「イヤイヤ感」というか「めんどくせ~感」というか「やっつけ仕事」的なニオイがプンプンしてくることに腹がスタンドアップする。



 国語のプリント上に踊る文字は素敵に華麗なステップを踏んでいるのに、算数になった途端に「え~じゃないか、え~じゃないか」とヘンな踊りがはじまる。



 この勢いで先生に提出しているのかと思うと背筋が霜柱と化す。



 気持ちはわかる。不得意な事は気が乗らないし、早く済ませてゴロンとしたいものだ。



 内容も押して知るべしだ。ちゃんと考えようとしていないのが手に取るようにわかる。単純なミスのオンパレード。



 いっしょうけんめい考えてわからなければ、それはそれで悩ましいのだが、ともかくわからないのだからしょうがないし、「前向きにわからない」状態だから教えてさしあげようと思うが



 いつも彼女が怒られてしまうポイントは



 『物事に向かう姿勢』が良くない



 というところである。



 最近はあまりにも同じやり取りが続くので



 二人して毎日、小芝居を繰り広げているようだ。



 涙を流しながら勉強をする姿はなんともかわいそうなものだ。



 もちろん泣かせたい訳でも、ストレス発散対象でも、いじめたい訳でもない。当たり前だ。かわいいかわいい我が娘だし。



 いまだけ、いまちょっとだけがんばれ。



 パパがついている。



 ママもついている。



 なんてったって神さまがついている。



 いつでもいっしょにいる。



 それにしてもこんなにやんなきゃいけないのでしょうかしら。とぼくが言ってはいけない。(笑)



 ちゃんと向き合わないとね。







 神に感謝。
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『「個性」と「感性」』

2007-03-13 06:30:09 | Weblog
 我が家の天使(娘)ちゃんが学校から文集らしきものを持ち帰ってきた。


 そこには一年間の活動記録のようなものが掲載されていて


 なかなかおもしろい。


 一年生から六年生のスパンで様々な作品が披露されている。


 掲載される作品についての選択権は児童側になく、先生方がバランスよく振り分けてくれている。 


 娘は遠足授業で某水族館に行ったときの感想を「五・七・五・七・七」、そう、万葉集で知られている「短歌」の形式で書き綴っている。


 全部はピックアップできないし、ぼくの選択も無作為だが、同じ欄に掲載されているお友達の作品も「個性」「感性」に溢れていている。


 「水族館 きれいな魚が 泳いでる 水泳名人 見習いたいな」


 「いつまでも 泳ぎ続ける まぐろたち ちょっとおくれて またおいかけて」


 「ペンギンが みんなの前で 泳いでる 海の中でも 空飛ぶ気持ち」


 「魚舞い 水そうの中を かけめぐり 海色に染まる 私の心」


 「魚って いろんな色や 形して おしゃれをしたり おどったりする」



 こどもから大人へ様々な面で進化、変化していくプロセスでの他愛も無い一コマかもしれないけれど、


 なんだか世の中すべて解かってしまった様なフリをして、微妙にあきらめモードに入っちゃって、それでもなんとか生活はできていて、めんどくさいことやよごれていること等から目をそらして、妙な「オトナコドモ」に甘んじているぼくらが忘れてしまっている「何か」を感じる。


 小手先のテクニックに走らない、溺れない「ピュア」な「感性」。


 「何言ってんの。いまのこどもは計算高くて、親の顔色見ていて、大人ウケするツボ心得てるのよ。」なるほど、それも否定できない一部分ではあるかもしれない。


 まぁ、そんな陳腐な評論はイイや。


 娘の作品を目にして


 「ふふ~ん」と、ほくそ笑んだ。うん、まさに、ほくそ笑んだ。



 



 「ペンギンは 心の中で こう思う じろじろ見るな 恥ずかしいから」







 娘よ、お前はたしかに、パパのツボを知っているのだな、と。ギブアップ。







 神に感謝。
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『いちじくの木』

2007-03-12 07:45:36 | Weblog
 やはり偶然ではなくて必然なのだ、と強く感じた。


 そこで語られる神の声。


 福音朗読。



 この内容が、いままさにど真ん中のストレート。




 『いちじくの木』



 どうしても自分を投影したくなる。



 キリスト者のセンスって「こんなところ」にあるんじゃないでしょうか。






 自分は「ぶどう園のオーナー」なのか。



 自分は「ぶどう園の管理者」なのか。



 自分は『いちじくの木』そのものなんじゃないか。





 「どうして実のならない木を植えてこのぶどう園の収穫量を落としているんだ。そんな木のケアをしている暇があったら成果の上がる木のめんどうをみなさい。」

 一般社会編訳:わたしはこの人を「使えない者」と判断したのでクビにするか、そういうレッテルを貼って置きなさい。そして「そういう人たち」ばかりの部屋を作って入れときなさい。



 やってもしょうがないから、もう、あきらめろって。



 何やっても、何言ってもムダ。あの人は変わらない。






 「いやいやそう言わず、わたしたちも協力しますからもう一度チャンスを与えてやってください。」






 『いちじくの木』になる「実」は「回心」という「実」だろうか、もしかしたら「利益」という「味」がするのかもしれない。





 神父様はお説教で



 「来年の『いちじくの木』、どうなったでしょうねぇ。」とみんなに問われた。






 たまには



 じっくり



 考えてみよう。






 どんな場面でもどんな切り口を見ても



 ゆるされて



 生かされているのだということを。






 さあ、一週間のはじまりですよ。






 神に感謝。
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『ピンポ~ン』

2007-03-09 07:49:41 | Weblog
 小さい頃、路線バスに乗ると


 「次ぎの停留所で降ります」の押しボタンを


 『ピンポ~ン』って鳴らしたくて


 ドキドキ、ワクワクしていたものだ。


 でも、こどもだから、バスの窓から見える散歩中のかわいいワンちゃんや反対車線を走ってくるカッコウいいスポーツカーなどを見ていると


 タイミングを逸して


 『ピンポ~ン』って聞いてからハッとしてガッカリする。


 親がそのときに一緒に乗っていようものなら


 「ど~して教えてくれないんだよ~。プンプン。」不機嫌爆発。


 あるいはそんな親子の会話、雰囲気を感じ取って次の停留所のアナウンスが流れる前に押しちゃう意地悪な大人もいたりして


 親子揃ってガッカリしたり。


 最近はさすがにこだわらなくなったが、「やっぱり自分の娘に押させてやりたい」なんて親バカ爆発で結構、バスの中の空気読んでたりした。微笑ましいでしょ。


 田舎で小学生だった頃、友だち数人とスキーに行った帰りのバスで悪ふざけして、降りないバス停で、そう、ほとんどすべてのバス停で『ピンポ~ン』ってやってたら、次の日学校で大目玉を喰らったことまで思い出してきた。


 たまに、そのころのイタズラの虫がむずむず、ゴソゴソ動き出す時がある。






 先日、母を病院まで連れて行った帰りにJR山手線に乗っていた。


 母は、元来の方向オンチに加え、慣れない都会の生活。電車の乗り継ぎなど全く頭に入らない。当然だと思う。でもいっしょうけんめい説明してもどうにもこうにも理解していただくことがかなわないとちょっとイタズラしたくなった。


 「今度、どこで降りるんだっけ?渋谷?」


 「ちがうでしょう。も~、病院に向かう時にどこで乗り換えたっけ。」


 「え~っと、あ、新宿だったね。」


 そこでタイミングよく、車内アナウンスの声。


 「次は、新宿~、新宿です。」


 ぼくはとっさに母に言った。



 「あっ、しまった。『ピンポ~ン』押すの忘れた!」



 母は、あわてて後ろ向いたりしてボタンをさがして押そうと躍起になっている。



 ぼくは可笑しくて可笑しくてゲラゲラ笑った。



 母もようやく気づいて、わっはは、わっはは、ぼくの肩を何度も叩きながら笑った。




 イタズラは楽しい。(オイオイそういうオチかよ。最近内容がちょっと暗かったので。。。)






 神に感謝。
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『早く死にたい』

2007-03-08 21:57:38 | Weblog
 母の最近のマイブーム



 『早く死にたい。』



 もちろんこれには続きがあって



 「そして早く新しく生まれ出てみたい。」



 母は洗礼式を本当に楽しみに待ち望んでいる。



 妻に洗礼式で着る洋服を用意してもらってニコニコしている。



 あたたかくなってきてワクワクしている。



 うれしいですね。



 うらやましいですね。



 神さまは母を通して



 とってもとっても



 大切なことを



 ぼくにささやきかけてくれている。



 それが聞こえるとか、聞こえないとかってことじゃなくて



 いつも、どんなときにでも



 圧倒的に



 こちらの思惑など及びもしないスケールで



 話しかけている。



 「どうすればイイのかなんて



  わかってるんだろ。」って。



 鼻水とクシャミとゴロゴロかゆい目が思考力を鈍らせる。



 「こんなときに邪魔するなよ」って持って行き所の無い怒りがこみ上げ、そして自分の弱さというマイナスエネルギーをチャージする羽目になる。



 ぼくも四年前に一度「死んだ」



 清々しく「闇」に沈んだ。



 それは刹那であったけど、真っ暗で、深淵の底だった。



 次の瞬間



 目が眩むような



 でも、か細くて、それでいてとんでもなく力強い



 「光」が差し込んできた。



 ぽろぽろ泣いた。「おぎゃ~、おぎゃ~」って一生懸命泣いた。



 そうだったよなぁ。



 アンテナ折れ曲がってたな。



 直すのにちょっとめんどくさがっちゃってたな。



 そうだよ、折れ曲がってることにすら気づかないっていうか



 薄々わかっていながら自分自身、認められなかっただけじゃん。



 気遣ってくれる仲間のひとことが



 胸に突き刺さる。



 「そういう場合は、どうするんでしたっけ?」



 「一歩踏み出せ。神さまに抱っこされてるんじゃん。」



 母はワクワク、ニコニコしている。



 ぼくは



 また



 ため息をついている。



 荒野にいる。



 オアシスがあるのに一息もつけない。



 でも、「きっともうすぐだよね」って



 わかってる。



 いや~、今回はキツイ。



 くそ~。



 でも、復活は近い。







 神に感謝。
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『適所適材』

2007-03-07 19:39:15 | Weblog
 組織運営というのは、その所属するコミュニティーによってアジャストしていくものでどうしようもないことがある。これから書くことはアイロニーでも問題提起でもなくて、とにかく、もう、どうしようもないのです。



 例えば、小学校の学級会で、先生不在、生徒だけでクラス委員を決めちゃったとする。



 もちろん、クラス委員は決めなくていけないことになっているのは先生も生徒も認識していることで、クラス委員はいわゆる「誰でもイイ」というものではないことも何となくみんなわかっている。



 でもそれにちゃんとした定義みたいなものはないから、時に人気投票になったり、成績優秀者がチョイスされたり、ハキハキしていてとにかく元気がイイタイプが選ばれたりする。



 もともとそのポジションに向いている人もいれば、そのポジションがその人を成長させる場合もある。



 学級会に先生が戻ってきて、決まったクラス委員についてみんなにこんな風に問いかけます。



 「なんでこの人にしたの?この人クラス委員つとまると思うんですか?」



 「この子は成績も良くないし、カラダも弱い。みんなを引っ張っていけるような性格じゃない。」



 「あなたたち、どんな基準で選択したんですか?」



 「この人に決めようって言い出したの誰?」



 生徒たちはどう思うだろう。



 「なんだよ今更、クラス委員決めなきゃいけないってみんな一生懸命決めてたの知らなかったのかよ。担任のくせに。そもそも誰が適性があって、誰が適性が無いのかなんて、そんな「ものさし」あるんなら最初から教えとけってんだ。挙句に魔女狩りかよ。」



 「大体、今回選ばれた人の評価は誰がしてるんだ。」



 先生は言う。



 「この生徒は問題児として学校で認定されているし。」



 「これもクラスのためですから。」



 「万が一のことがあったら誰が責任を取るんですか。」



 これって「リスクヘッジ」?「危機管理能力」?



 お互いに言い分はあるだろう。どちらも間違ってない。



 何も起こって無いけど、何か起こってからでは遅い。



 生徒たちの能力が低くて心配するのなら、前もって「前例」や「決め事」やシステム作りをすべきであって「私の知らないところで何勝手にやってんの。」ってロジックを展開されるとみんな冷めちゃう。



 もう金輪際、生徒たちだけで何かを決めようとは思わないだろう。



 理不尽なことは組織運営上あります。何でも自分の思う通りには行かないなんて百も承知。



 でも、もし万が一その生徒に問題があるとしても



 先生はきっぱりと



 「じゃあみんなでフォローして盛り上げていきましょうね。」って



 いって欲しい。



 でもこんなの理想であって



 現実は



 ちゃんと選別された『適所適材』を配置してしまう。



 でも一見やさしいようでも



 「人が人を裁いている」ことになってないのかな



 っていうセンスをみんなが持っていることを



 ココロから望みます。






 神に感謝。
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