年度末の日だからって訳でもないのだけれど、なんとなく最近というか、たまに頭に浮かんでくることで、結構気にしていて、自己消化を試みるんだけど、なかなかうまくいかないことを書きます。
受け取りようによっては非常にデリケートなことかもしれないので、最初におことわりをしておきます。これから書くことは問題提起では無いし、皮肉でもありません。どこかの誰かに向かって要求しているのでも無く、しいて言えば、ぼくの頭の中を整理する事が目的だということにしておいてください。
まあ、ブログ書くこと自体、いつもそういうスタンスですから、今更何をってことでしょうけど。
この前置きが、かえって良くないかもしれない。
実は表現方法を考えていままでも何度か書いてきたことです。
「教会って病んでる人しかいないんじゃないですか?」
という質問に集約されるかもしれません。
「病んでる」というのはココロやカラダになにがしかの病(やまい)を患っているということを言われてるのでしょう。
「障害者」(表現がよろしくなくてごめんなさい)
身体障害者(ぼくの母もそうです。)、精神障害者、知的障害者、生活が苦しいとかいわゆる一般社会生活に馴染めないとか何らかの危機的な状況に置かれているなどの別の意味での障害を抱えている方々。
先天的、後天的に体が不自由な方、自ら望まずに生まれるまま知的な部分だけが「ある指標」にちょっとだけ届かない方。
そして何らかの影響でココロを痛めてしまった方。
いわゆる一般的社会生活(誰かが、どんな「ものさし」かで計っているらしい)が難しい、というかフィットしないであろう方々。
「専門分野は専門家に任せる。」正論だけど、これは極めてリスクヘッジをした発言です。しかし、大局観(たいきょくかん)からすれば間違ってもいない。
「素人さんには手におえないでしょ。」「最後まで責任を取れますか。」
「すべての事柄や個性までもが、何かのマニュアルに当てはまるのであれば」という前提において。
民主主義や議会政治における多数決の理論ですべてが割り切れるのであれば。
「五体満足」ってなんでしょう。
「アタマが良い悪い」って成績や学歴だけじゃないでしょう。
「ある枠」に収まりきれないから落ちこぼれですか。異端といえますか。
今の世の中で「自分のココロは病んでいない。」って断言できる人いますか。
「満たされた生活とは程遠い」って誰との比較ですか。もしかしたら自分の理想との乖離(かいり)を嘆いているのではないですか。
不完全だから人間。
何と比較して不完全なんでしたっけ。
不完全でありがとう。
もう一度質問を書きます。
「教会って病んでる人しかいないんじゃないですか?」
どんな気持ちがこういう質問をさせるのでしょうか。
弱い人にほど、弱い時にこそ大いなるお恵みをいただくことを信じます。
様々な個性を積極的に喜ぶべきではないでしょうか。
怖がらず、恐れず、一歩踏み出して、少しでも元気がある方から手を差し伸べて
経験して、スキルアップして
理想を書いてしまえば
ここにいるときは、自分の目の前、神さまの御前にいるときには
安心して、自由で、気兼ねななど無くて
ありのままでいられるような、そうあっても誰もがわかっていてくれるような
そんな場所が
もしかしたらその入り口が、そのプロセスへの最短距離が
たまたま教会だったらうれしいと思う。
高齢の方や体の不自由な方については、なんとなく知識も経験もあるから、いたわったり、助けたりしやすい。もちろんとっても大切なことです。
自分の知らないことや経験の無いことは怖いし、恐ろしいのは誰しも否定できません。むやみやたらに手を差し伸べて取り返しのつかないことになるかもしれないし。
人間はどうやって救われているのでしょう。
人間はどうやって癒されているのでしょう。
人間はどんな状況もって「満たされている」というのでしょう。
教会の秘密はこの辺にありそうじゃないですか。
近くの教会に行って
確かめてみてはいかがでしょう。
「信じること」
そこからはじめたことを忘れない。
そして誰でもいつでも
そこからならはじめられる。
ここまで書いてやっと気がつきました。
すべては自分自身に向けての確認だったんじゃん。って。
神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488
受け取りようによっては非常にデリケートなことかもしれないので、最初におことわりをしておきます。これから書くことは問題提起では無いし、皮肉でもありません。どこかの誰かに向かって要求しているのでも無く、しいて言えば、ぼくの頭の中を整理する事が目的だということにしておいてください。
まあ、ブログ書くこと自体、いつもそういうスタンスですから、今更何をってことでしょうけど。
この前置きが、かえって良くないかもしれない。
実は表現方法を考えていままでも何度か書いてきたことです。
「教会って病んでる人しかいないんじゃないですか?」
という質問に集約されるかもしれません。
「病んでる」というのはココロやカラダになにがしかの病(やまい)を患っているということを言われてるのでしょう。
「障害者」(表現がよろしくなくてごめんなさい)
身体障害者(ぼくの母もそうです。)、精神障害者、知的障害者、生活が苦しいとかいわゆる一般社会生活に馴染めないとか何らかの危機的な状況に置かれているなどの別の意味での障害を抱えている方々。
先天的、後天的に体が不自由な方、自ら望まずに生まれるまま知的な部分だけが「ある指標」にちょっとだけ届かない方。
そして何らかの影響でココロを痛めてしまった方。
いわゆる一般的社会生活(誰かが、どんな「ものさし」かで計っているらしい)が難しい、というかフィットしないであろう方々。
「専門分野は専門家に任せる。」正論だけど、これは極めてリスクヘッジをした発言です。しかし、大局観(たいきょくかん)からすれば間違ってもいない。
「素人さんには手におえないでしょ。」「最後まで責任を取れますか。」
「すべての事柄や個性までもが、何かのマニュアルに当てはまるのであれば」という前提において。
民主主義や議会政治における多数決の理論ですべてが割り切れるのであれば。
「五体満足」ってなんでしょう。
「アタマが良い悪い」って成績や学歴だけじゃないでしょう。
「ある枠」に収まりきれないから落ちこぼれですか。異端といえますか。
今の世の中で「自分のココロは病んでいない。」って断言できる人いますか。
「満たされた生活とは程遠い」って誰との比較ですか。もしかしたら自分の理想との乖離(かいり)を嘆いているのではないですか。
不完全だから人間。
何と比較して不完全なんでしたっけ。
不完全でありがとう。
もう一度質問を書きます。
「教会って病んでる人しかいないんじゃないですか?」
どんな気持ちがこういう質問をさせるのでしょうか。
弱い人にほど、弱い時にこそ大いなるお恵みをいただくことを信じます。
様々な個性を積極的に喜ぶべきではないでしょうか。
怖がらず、恐れず、一歩踏み出して、少しでも元気がある方から手を差し伸べて
経験して、スキルアップして
理想を書いてしまえば
ここにいるときは、自分の目の前、神さまの御前にいるときには
安心して、自由で、気兼ねななど無くて
ありのままでいられるような、そうあっても誰もがわかっていてくれるような
そんな場所が
もしかしたらその入り口が、そのプロセスへの最短距離が
たまたま教会だったらうれしいと思う。
高齢の方や体の不自由な方については、なんとなく知識も経験もあるから、いたわったり、助けたりしやすい。もちろんとっても大切なことです。
自分の知らないことや経験の無いことは怖いし、恐ろしいのは誰しも否定できません。むやみやたらに手を差し伸べて取り返しのつかないことになるかもしれないし。
人間はどうやって救われているのでしょう。
人間はどうやって癒されているのでしょう。
人間はどんな状況もって「満たされている」というのでしょう。
教会の秘密はこの辺にありそうじゃないですか。
近くの教会に行って
確かめてみてはいかがでしょう。
「信じること」
そこからはじめたことを忘れない。
そして誰でもいつでも
そこからならはじめられる。
ここまで書いてやっと気がつきました。
すべては自分自身に向けての確認だったんじゃん。って。
神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488