カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『お祈り』

2005-03-31 06:42:46 | Weblog
 毎日のあわただしい生活の中での『お祈り』の時間(とき)について考えてみた。

 朝起きて着替え終えたら「主の祈り」、3回ある食事の前に手を合わせ十字をきります。会社を含む日常生活では罪深く、回心しきりで、寝る前の『お祈り』で、またあした。

 『お祈り』は「共同祈願」などありますが根本的にはパーソナルなもの。

 ただ、あまりにも自分本位になっていないのかなと不安になったりします。

 『祈ること』と『願うこと』は似ているしどちらにも互いを含みあうようなところがあるけどやっぱりちがう。

 こんなこと考えていると必ずなにげなく読んでいる本に書いてあることにハッとさせられる。

 カトリシズムは、何というのか、宝物殿のようだ。 

 「生活の中にいろいろのことが入り込むので祈れない、という言い訳をする人たちがいます。

  そんなことはあり得ません。

  祈るために、仕事を中断する必要はないのです。

  仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。

  黙想をいつもしている必要もなければ、神と語らっていることを意識することもありません。

  どれほどそれがすばらしい体験であるにせよ、大切なのは、

  神と共にあり、神と共に生き、神のみこころを自分のものとして行うことです。

  清い心で人々を愛し、すべての人、特に貧しい人々を愛することが、間断ない祈りになるのです。」          
 マザー・テレサ

 本の話つながりですが、晴佐久神父様が著された最新刊『恵みのとき』(サンマーク出版)を読みました。森雅之氏の絵とあいまって読めば読むほどというか読むたびにいろいろな感動と出会えます。「カラダの病」、「ココロの病」の全ての人に教えてあげたい一冊です。

神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『聖土曜日 be reborn』

2005-03-29 08:53:04 | Weblog
 暗闇から、ひとすじの光。
 
 聖なる光。

 そして聖堂に広がるキャンドルの光。

 わたしたちの希望とともにイエス様は復活された。

 受洗者の額から洗礼盤に流れ落ちる水の音。

 一年前の高揚感とはまた違う幸福感。

 ニコニコしながら前に身を乗り出して新しく生まれ出る光の子たちをながめている。

 感動、感激、うれしい気持ち。

 地球が丸かったりするので日本が一番早く復活徹夜祭をはじめられるようだ。

 カトリックは普遍的だ。今日ここで行われていることが同じようにして全世界で行われる。

 それも二千年以上脈々と続いている。

 カトリック高円寺教会では今年76名の光の子が生まれ出た。

 おめでとうございます。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488
 

『聖金曜日』

2005-03-26 11:45:47 | Weblog
 静寂。

 聖堂の十字架には紫色の布が掛けられている。

 祭壇の前で神父様がうつ伏せになられた。

 静寂。

 イエス様がイスカリオテのユダの裏切りによってとらわれ、裁判にかけられる。

 わたしたち群集は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ。

 ペトロは三度イエス様を知らないと口にする。

 総督ピラトは責任を放棄し手を洗う。

 ゴルゴダの丘。

 「渇く」。

 「成し遂げられた」。

 
 イエス様はわたしたちの全ての罪を背負い無言で罪のない刑に処されました。

 
 復活を心待ちにし静かに夜明けを待ちます。

 明日にはたくさんの光の子が新たに生まれでます。

 復活徹夜祭。
Copyright© 2005 Luke8488

『聖木曜日・洗足式』

2005-03-24 21:59:06 | Weblog
 今日、イエス様に足を洗っていただいた。

 イエス様は自ら、わたしのいちばん「弱い」、「情けない」、「醜い」、「汚い」ところに直接触れ、洗い清めて下さいました。

 「弟子たちは前に並んで」と言われ、全てを曝け出し、ゆだね、そしてつながっていた。

 つめたい水、あたたかい手。

 今日、わたしはイエス様に足を洗っていただいた。

 ココロの真ん中に触れられ、洗い清めて下さいました。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

 

『満ち足りる』ということ

2005-03-20 02:47:28 | Weblog
 『満ち足りる』

 ヒトは
 何によって?
 どうすれば?

 物欲、名誉欲、性欲、食欲、征服欲・・・

 金銭、精神、ココロ、癒し、安心感、恐怖、現実、まぼろし、夢・・・

 計画性や具体性の無さ、不安感、虚栄心、虚脱感、躁鬱、希望・・・

 「いつも同じところで壁にぶつかり、同じところをグルグル回っているだけ。」

 きっと彼女はこんな風に思っているはず。僕は答えを出せずに立ち尽くすだけ。

 そんな時には必ず福音が告げ知らされる。

 神父様が言われます。

 「この世のモノを握りしめていたらいつかは無くなってしまう。この世のもので100%を作り上げようとする無間地獄。闇の底でバランスを崩した求愛を続け、それを得られなくて失望する。」

 「がんばりようのないときに信仰を思い出すこと。」

 「天の父にいつも抱きしめられているのだということ。」

 「神の愛は100%の愛。神に愛されていることを受け入れるのなら、神のモノは全てその人のもの」だと。

 洗礼を受ける方々のための入門講座が今日、最終回でした。約4ヶ月。とても『満ち足りた』時間でした。たくさんの出会いもあった。昨年の今頃は洗礼式を1週間後に控えワクワクしていたことを思い出します。

 「信じること」を教えていただいてほんとうにたすかった。

 「窓」が大きく開いた。

 今まで見えなかったことや聞こえなかったことがたくさんあった。考え方も変わった。

 寒かった冬が去り、ポカポカしてきて感じるあのなんとも素敵な春の香りのように「カトリックの香り」をなにげなくふりまきながら、「この気持ち良さ」を知らない人に少しでも知ってもらいたいとつくづく思います。


 彼女は知っている『つながっている』ことを。

 でも彼女は知らない。僕が心配していることを。

 それでイイ。神様はすべてを知っている。
Copyright© 2005 Luke8488

『愛は』

2005-03-14 02:20:01 | Weblog
 高円寺陸橋のバス停で降りるとその先にある横断歩道。

 「信号が青だ!急いで渡ろう。まだ教会学校の朝礼に間に合うぞ!」なんて言いながら我が家の天使ちゃん(娘)とダッシュしようとフッと顔を上げればそこには教会のお友達の姿。

 「おはようございます。」と挨拶を交わします。

 「アラ、今日ママは?」「病気?お風邪?」と気を使っていただいての問いかけです。

 わたしも娘も返答にこまって、娘がポツリ。

 「う~ん、心の病気かな・・・。」走り去る車の騒音にかき消されて聞こえなかったかもしれないけど。

 恥ずかしながら昨晩、妻と娘の教育について言い争いになり(四旬節にもかかわらず)しっかりフォローができずに今日は娘と2人で教会です。

 あとから来てもイイようにいつもの席はキープして待ちます。

 ミサが始まりました。いつものとなりの席に人の気配はありません。

 娘が待者をやらせていただいていたのですがあまり記憶にありません。

 聖体拝領になりました。並んでいる列に妻の姿を探しましたが最後まで見つかりませんでした。

 神父様が言われます「行きましょう。主の平和のうちに」

 みんなが声をそろえます「神に感謝」

 やっぱり隣には妻はいません。

 神様に「つながっている」ことを信じて祈りました。

 先週の金曜日に親戚のおじさんが亡くなりました。感謝し祈りました。

 『愛』(1コリント.13-4~10)
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、全てを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには部分的なものは廃れよう。」

 今日は早く家に帰ろう。きっと待っていてくれるから。
 Copyright© 2005 Luke8488

 

『直球(ストレート)』

2005-03-12 19:08:20 | Weblog
 「元気出してください」

 普通(気軽)に言えなくなっている言葉。

 色々な事を考えたり、気を使ったりして。

 相手の元気のない原因をわかってあげようなんて思ったりしてあたりさわりのない質問ばかりしていたりする。

 コミュニケーションにおいて、野球にたとえるのなら、豪腕投手の『直球(ストレート)』勝負ではなくノラリクラリかわす「技巧派」投手になりつつある。

 「しゃべり上手」から「聞き上手」になったってことか。

 子供の頃から男女を問わず相談相手に指名されることが多かった。カラダも声も大きくて元気が良かったからでしょうか。

 小学校4年生の時に「お山の大将」から「リーダー」に脱皮した(らしい)。

 素晴らしい先生との出会いがあった。その先生はわたしの資質を見抜きガマン強く指導してくれた。

 40歳を前にして今度は教会と出会った。神様と出会った。

 天国チームオールスターズ先発晴佐久投手から『直球(ストレート)』が来た。それも、ど真ん中のホームランボール。じっくり見逃してもきっと次もその次もず~っと同じ球。どんな振り方をしてもたとえバットすらもってなくても打とうと思っただけでみんなホームランになるような。

 いままで学校や社会生活では誰も教えてくれなかった事のシャワーにうたれているような感覚。ある日突然、知らなかった言語で話しかけられて、なんだか解らないけど一生懸命コミュニケーションをとろうとしていたらしゃべれるようになりかかってるみたいな。

 神父様の本を読んで教会まで訪ねてきて「元気出してくださいよ」と言って素直に励ましの言葉をかけられる二十歳のパブロ。『直球(ストレート)』を投げられるきみがうらやましい。

きみと出会えたことがうれしい。神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『現実逃避』

2005-03-08 15:52:44 | Weblog
 子供の頃、よくこんな風に考えた。

 実は、自分は、ずっと寝ていて(存在していなくて)、今、見えていることや起きている出来事は全て「夢」なんじゃないかと。いつかハッと気がついて目が覚めると裕福な家庭のベッドにいる。

 少し大きくなって「輪廻転生」なんて言葉を覚えたら、自分は何度も生まれ変わって前世の因縁を背負って一生を繰り返しているからきっと不幸なのだ。だから「デジャヴ」みたいな感覚があるのだな。と。

 『現実逃避』。そんな言葉を知るまでは。

 わたし自身も『現実逃避』の王様のようだった。

 「仕事して金さえ稼いでいれば何してもイイ」みたいな。

 そして教会というところもそんな『現実逃避』の場だと思っていたし、神様も”頼るもの”と思っていた。何かに依存しなきゃいられない、情けないヤツの集まりだと。
 
 たしかにそんな入り方もあるし、否定もしない。実際、自分もそうだったのかもしれない。

 でも『現実逃避』には「救い」がない。

 教会には「救い」がある。

 悩んでいることや困難なことや重い病気等々が劇的に、奇跡的に解決したり治ったりする人もいるだろう。
 しかし、それは稀なことだ。

 「ならば、教会の「救い」ってなんなの?」という人もいるだろう。

 わたしが現時点で誰かに自分の言葉で伝えるのならば
 「困難、苦難を乗り越えられる力(チカラ)を与えていただけるところ。願いがかなうように信じて祈るところ。それも神様の御旨のままに。」となる。

 「なんだそんな事」。と思われた方、一度、カトリック高円寺教会のミサで晴佐久神父様のお話しを聞いてみることをお勧めします。
(「いきなり行くのは」という方は「福音の森」http://homepage2.nifty.com/immanuela/hoshi/index.htmをご覧いただきたい)

 一昨年何気なく訪れたクリスマスミサでの一言「もうだいじょうぶ、何の心配もいらない」

 この一言で少なくともわたしは変わりました。

 『現実逃避』するのでなく、「依存」するのでもなく、

 「信じる」ことをはじめられたのですから。
 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『立ち姿』

2005-03-05 08:24:33 | Weblog
 会社の前の交差点、国道1号線の先に今日も凛として立っている東京タワー。

 鉄骨のマトリックスが無機物の代表のように空に向かって伸びている。

 毎日、この交差点で見る同じ姿も、日々こちら側の頭の中や心の中のうつろいによって表情というか趣(おもむき)が違って見えたりする。

 その『立ち姿』が、ただの「冷たいヤツ」に思えたり、ビッとして「颯爽」と感じたり。

 『立ち姿』が「颯爽」としているといえば神父様だ。
入門講座でホワイトボードの前に立ちお話をされるのだが体調に関係なく(体調の悪いときは座 って話されるのでしょうが)ビシッときまっている。すべての角度がイイ。見ているほうが気持ちイイほど。

 冬の寒い日は手をポケットに突っ込んで肩をまるめて歩く。
 気持ちがモヤモヤするときにはうつむき加減になったりする。

 神様がいつもいっしょにいてくださることを思い出して、元気ハツラツでなくてもいいので、しっかり前を向いて、顔をあげて、颯爽としていたいと思う。

 もちろん、カラダとココロのバランスが良くないときは思い切ってゴロゴロしていたい。
 
 それでイイ。

 神様の御旨のままに。
Copyright© 2005 Luke8488

『待ち合わせ』

2005-03-03 22:07:07 | Weblog
 新橋のSLの前でみんなを待っている。

 『待ち合わせ』時間は、たしか、たぶん19:30。

 少し早すぎた。今は18:47。

 ビルの壁にある大きなテレビにダライラマが映っている。

 なんだか「あやしいB級映画」のようにみんなケイタイを耳にあてている。

 『待ち合わせ』のドキドキ感もはじめのうちは心地良かったりするのだけれど、そろそろ、そう24分位経つと「誰でもイイから、来てくれ~」って感じで心細くなってくる。

 となりの人のケイタイが鳴る。

 そんなに混んでいない京浜東北線の電車が何本も到着しては発車していく。

 大きなテレビは外為情報に変わっている。

 この「めがね」越しには今だ知り合いの姿を確認できない。

 ペンを持つ手も少し寒くなってきた。

 腕時計をチラリと見る。19:11。

 いよいよ「今日だったのか?」「時間が違ったのか?」「場所を間違えたのか?」不安になってきた。

 「めがね」。そう、今日は「めがねの会」の2回目の集まりだ。教会の若い人たちと教会の外で飲むのは、ほんとに楽しい。さらに仕事帰りだったりすると瞬間に浮世離れできそうで更にイイ。

 話もイイ。みんなジワ~っと熱いから。精霊に満たされてその場所がサンクチュアリになる。

 今日はどんな風に盛り上がるか楽しみだ。

 周りに人が少なくなってきた。

 そろそろ誰か・・・。

 知ってる顔が視野に飛び込んできた。シュビくんだ。ホッとしてメモ帳を閉じた。神に感謝。

Copyright© 2005 Luke8488