カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『コツ』

2007-06-29 08:33:30 | Weblog
 「理解はできないけど


  信じることならできる。」



 
 神さまって本当にいますか?




 「目に見えることは、それ自体が「現実」なのだから



  「信じる」とか、「信じない」とかで論じることではない。」




 これでイイと思う。




 「理解はできないけど


  信じることならできる。」




 いつでもシンプルに。




 めんどくさくしてるのは




 自分たち人間。




 神さまは、いるよ。






 神に感謝。
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『親戚のおとこの子』

2007-06-28 07:37:33 | Weblog
 母宛てに、田舎に住む母の実の妹から電話が来たのだという。


 ものごころついてからしか知らないけれど、第三者のぼくから見ていても、とても仲が良い姉妹で、互いに支えあっているのが良くわかる。


 二人とも「つれあい」に先立たれている。


 そのおばさんは、いまにして思えばというか、いまさらながら実感しているのだが


 カトリック的な香りがする。


 数年前に亡くなったご主人、ぼくのおじさんはその昔、水泳のインストラクターをしていた。お酒が好きで、シャイで、ぶっきらぼうだけど「愛」のある人だった。


 脳の病気で倒れ、奇跡的に生還したのだが、それではおじさんの試練は終わらなかった。


 腎不全(じんふぜん)。


 腎臓(じんぞう)の機能が低下してくると、腎臓は老廃物や水分を十分に排泄できなくなり、人体に不必要な物質や有害な物質が蓄積してしまい、死に至るようなさまざまな病を発症させてしまう恐ろしい機能不全です。


 生きるためにおじさんが選択した方法は


 「透析」でした。


 選択したというよりも、すでに選択の余地がなかったのかもしれません。


 血液透析。1回の治療は通常3~5時間を要し、1週間に2~3回治療を受けます。


 もと看護婦さんだったおばさんは、先の脳の病気で半身不随になったおじさんをそれはそれは献身的にケアしていました。


 カラダの自由がきかない上、生きるために背負わされた「透析」という重荷に耐え切れないおじさんは一時期荒んでいました。


 二十年以上おじさんはいっしょうけんめい生きました。


 おばさんも必死にそばにいました。


 おばさんはそんな状況なのにいつもニコニコしていて、話す言葉もやわらかくて、ぼくの父の会社が連帯保証問題でピンチの時にも、ぼくがどん底に沈んでいる時にも、本当に親身に助けてくれた。


 昔、たまにおばさんの家に遊びに行くと、台所でぼくの母と二人きりになったときにいつも涙を流していたのが印象深い。


 おばさんはおじさんを亡くしてから、縁日で買ってきて三日目になる風船のように元気がなくなりました。楽になって、さびしくなった。でも、ぼくの母が困っていると必ず救いの手を差し伸べてくれていたのをぼくは知っていました。


 おばさんはいまはヘルニアとお付き合いしながら、息子夫婦と孫に囲まれて暮らしている。


 そんなおばさんからの久しぶりの電話の内容を聞いてぼくはいま考えています。何ができるのか、何もできないのか。


 ぼくも何度か会ったことのあるおばさんの孫、そうぼくの『親戚のおとこの子』。小学生の元気な男の子。その彼がピンチに陥っているらしい。


 昨日初めて聞いたのだが


 彼が学校で「いじめ」にあっているらしい。


 原因は彼が「吃音(どもり)」という障害を患ってしまっているからだという。


 言いたいことが瞬間的に言えない。おともだちとも円滑にコミュニケーションが取れない。結果的に勉強も遅れ気味。そしてバカにされ、いじめられる。負のスパイラルで苦しんでいる。




 その話しを聞いて憤っているぼくが、母に発した最初の言葉はこんなものだった。




 「みんなで苦しいんだったら、学校行かせなくてもいいんじゃないかな。他の選択肢だって沢山あるんじゃん。今の状況では誰もハッピーじゃない。」




 母は言った。



 「田舎は都会とは違うんだよ。」



 「可能な限り、普通の学校に行かせたいと思うんだよ。」



 ぼくは、あたりどころが母ではないことを承知で語気を強めた。



 「「普通の学校」って何だよ。」



 この後に、口にした言葉は取り消せないものだろうか。非常に後悔しているから。



 「お母さんもさぁ、信仰もってんだからさぁ、何かさぁ、救いの言葉っていうか、そういう発想にならないとさぁ・・・。」



 ぼくは何様のつもりなんだろう。まぁ、いまは、自分の事なんてどうでもイイや。





 彼のためにできること。



 祈ること。



 心から



 祈ること。



 神さま、御ひとり子は

 すべての人の弱さと貧しさをご自分の肩に背負われ

 神秘に満ちた苦しみに価値を

 わたしたちに示してくださいました。

 病に苦しむ兄弟姉妹を

 おばさんと小さくて弱いおとこの子とその家族を祝福してください。

 不安と苦しみの中にあって

 孤独に打ちひしがれることがありませんように。

 心と体をいやしてくださる主イエス・キリストに結ばれて

 苦しむ人々に約束されているあなたの慰めと励ましを得ることができますように。

 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。






 神に感謝。 
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『どこから』

2007-06-27 06:49:10 | Weblog
 「いつものパフューム終わっちゃったんだけど、これちょっと甘すぎるんだよね~。」



 娘の鼻先に、いつもとは違うパフュームを垂らした右手首を近づけた。



 「う~ん、そうだねぇ


  ホストチックな


  香りだねぇ。」



 ぐっ、うっ、う~ん。



 おまえ様のその感性は『どこから』いらっしゃるのでしょうかしら。



 「イメージとはそんなものなのか」と。






 ホストで思い出したが、こんなことをどこかで読んだ記憶が鮮烈によみがえった。


 hostは英語で「おもてなしをする者」という意味。


 それに対してguestは「お客さま」


 両方の言葉の語源を遡ると


 ghos-ti(よそ者、外人)に由来して、そこからラテン語のhostes(客)もhostis(敵)も由来するのだそうだ。


 病院は英語でhospital。


 ほらほら、こじつけのようにたどり着きましたよ、出てきましたよ、大好きな、大事な大事なキーワード。





 「hospitality」(ホスピタリティー=親切に心からもてなすこと)





 かと思えば、おやおや、こんな言葉も登場しましたよ


 「hostility」(敵意を持って、敵対関係にあること)


 guestも含めたこの3つが同じ語源なのが何を示唆しているのでしょうか。





 guest(「お客様」や、「外来者」や、もっといえば「自分ではない他人」)との関係は


 「おもてなし」な関係にもなれれば、「敵対」関係にもなっちゃうってこと。あたりまえっちゃぁ、当たり前なんだけど、言葉にはちゃんとした意味が潜んでいてそれが縦横無尽につながっているのだなと。




 ホスピタリティー。



 おもてなし。



 気づかい。


 
 おもいやり。



 思ったり、考えているだけじゃない「アクション」することを含めた



 カトリック者の



 生きざま。



 福音を宣言する力。



 ありゃりゃ、『どこから』こんな話しに、ころがってきたんでしたっけ。






 神に感謝。
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『ずっと見て』

2007-06-26 10:33:05 | Weblog
 不覚にも昨日の月9ドラマで


 涙を流した。


 山ピー(山下智久)演ずる「ケンゾー」の結婚披露宴でのスピーチに泣いた。


 過去をやり直そうと妖精だか天使だか(ゴメンナサイ。)の力を借りて試行錯誤を繰り返す。


 そのプロセスで自分の弱さを痛いほど思い知らされる。


 そして最後に、いままでどうしても出来なかったその一歩をリアルな「今」として踏み出してみる。


 ありがちなストーリーだったが、微妙にクリスチャン業界用語をセリフ回しに使っていたり(真意をくんでいたかどうかって論議はこの際どうでもイイ)なんだかわからないが『ずっと見て』いた。長澤まさみちゃんがかわいらしかったこともあるし。


 さてさて、前置きはここまで。


 今日はあなたに手紙を書きます。どうしても書きたいから。きっと届くことを信じて。




 「その言葉で傷ついてしまったあなたへ


  こんにちは。

  梅雨のどんよりした雲が垂れ込めていて気分までどんよりしそうだけど、明日にはカラッと晴れるらしいよ。カラッとね。

  あなたが傷ついてしまった話しの経緯を聞いたよ。

  痛い思いをしちゃったね。



  その気持ちすごくわかるよ。



  ほんとにやさしくて、ピュアで、ナイーブなあなたにはつらい出来事だったね。

  

  言葉は時として突風のように吹き抜けて、大切に育ててきた稲の穂を根こそぎ倒してしまったり、無慈悲な怪物のように平和だった街を踏み潰してしまうことがあるんだよね。


  ぼくは今回の言葉には「ぼくたち家族じゃん。」「本当の家族になりたいんだよ。」っていう「目に見えないやさしさ」がとびきり美しくひそんでいると思うんだ。


  それを伝えるシチュエーションが良くなかったのかもしれないけど。


  彼らは、あなたと同じく悩んで、試行錯誤していたんだよ。いまもそうかも知れない。自分たちはそうやって、ようやく身も心も「裸」になれて、ほんとに、ほんとのほんとにつながっていることを実感したのだと思う。


  それが、すべての人にあてはまるかどうかなんて考える余地も無いほど「裸」になって救われたんだよ。

  
  酷い言葉は絶対に消えない、消せないものだろうか。


  言って良い事と悪い事、言わなければ絶対に伝わらないこと。その判断は難しい。




  どんなことがあっても、ぼくたちは、いま、この瞬間も「信じるもの」の仲間です。




  
  家族です。


  話しをしたいなあ。


  この手紙が届いたら連絡してほしいです。もちろん無理することないし、連絡が来ることを信じてぼくは、ずっと祈ってるし、待っているから。


  だいじょうぶ。


  兄弟げんかは大きいお兄ちゃんが収めてあげられると思うから。


  それから最後にこの前、結婚式の披露宴でみんなに話したマザー・テレサの言葉をあなたに、いまのあなたに伝えようかな。




  「もし本当に愛したいと願うなら、許すことを知らなければなりません。」




  また手紙を書きます。


  そして近いうちにあなたの顔を見られるのを楽しみにしています。じゃあね。」





 思い出して


 神さまはあなたのことを


 ずっと見ていてくれてることを。






 神に感謝。
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『濃厚ミックスジュース』

2007-06-25 08:58:11 | Weblog
 圧倒的な「宣言力」に強められた主日のミサの後、「信者のためのカトリック講座」を聞いていて、ピタッとジグソーパズルの一片がフィットした。


 講師は、ぼくが勝手に、密かに「心の友」というか、「霊的チーフサポーター様」と位置づけさせていただいているシスターでした。


 このところメッセージカード等に好んで書いている言葉。


 「生きるとはキリストを生きること。」


 この究極のキーワードを深く、明確に味わうことができるような話しを聞くことになるのですから、偶然ではない「必然の妙」というか、カトリックのアンテナの不思議というか、共鳴しあうタイミングが愛おしいほどに気持ちが良かった。


 「イエス・キリストのリアリティー、イエス・キリストの出来事は、いま、わたしに起こっているんだな。」


 ゾクゾクッ、鳥肌が立った。


 そしてたたみかけるように、晴佐久神父様のお母様が言われた言葉が紹介された。




 「わたしは、わたしという出来事を生きるんです。」




 間違いなく以前にも聞いたことのあるこのフレーズの輪郭が


 そのときよりもクッキリと、ハッキリと浮かび上がります。


 ありがたいとしか言いようのない瞬間。


 この感動を、そう、ブレることのない軸でしっかり咀嚼して栄養分にして最終的にはアウトプットするのです。


 


 そして、夕方。もうひとつのミサ。


 ミサそのものが「贈り物」となったミサ。


 それぞれの「思い」が、まごうことなく「一致」していたミサ。


 ベクトルが同じ方向に集中することによって、その「思いの強さ」が全部自分たちに「お恵み」となってはね返ってきた、圧倒的に降り注がれたミサ。


 聖霊来たよね。


 ね。


 すっごくやさしい気持ちになれました。


 しばらくの間


 「やさしい気持ちでいられそう」な確信めいたものがあります。





 これぞ高円寺教会謹製


 『濃厚ミックスジュース』なのです。





 神に感謝。
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『ライアーゲーム』

2007-06-22 15:37:57 | Weblog
 ギリギリの瀬戸際で


 まさに断罪を受けている針のムシロの上で


 それでも現実逃避したい状況の中で


 往生際の悪さに周りみんなのストレスが爆発しそうな


 そんな刹那に


 天使がささやいた




 「お父さん、今までよくがんばってきたんだから、もうイイよ。正直に話して楽になろうよ。心から謝ろうよ。ぼくがいるじゃないか。」





 嘘というのは


 どんなに上塗りをしても


 幾重に積み重ねても


 どんなに取り繕っても


 それが時として相手のためになることであったとしても


 嘘は






 必ず破綻する。






 「嘘もつき通せば、それは真実になる。」なんてことを言う人もいるが


 それは真理を逆手に取った陳腐な詭弁なんじゃないだろうか。


 弱い人間のための逃げ道なんじゃないかなと思う。





 「やさしい嘘」は時として人を助けることがある。


 でもそれはやっぱり


 ほんの一瞬だけ。





 この状況でまだ、のたうちまわっている、あがき続けている罪人に


 ぼくは不謹慎かもしれないが、シンパシーを覚えた。


 TVの中で繰り広げられる記者会見という名の公開処刑みたいなのを見ながら


 ひと昔前の自分のありさまがフラッシュバックしてくる。


 それはそれは生々しく


 リアルに。


 当時のなんとも言えない、あの真っ暗で、水あめの中歩いてるみたいな感覚がよみがえる。


 冷めていながらニヤリとした表情の鉄仮面をかぶって


 何事も無かったように


 ライアーゲームを続ける毎日。


 「上がり」の存在しないすごろく。


 当たり目の無いルーレットにベットし続けていた。


 そんな人生。




 やがて否応無しに迎える


 大カタルシス。




 ぼくはこの期におよんでも


 そう、十字架の上ですらこう言ったんだ。


 

 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と。



 
 そのとき天使がささやいた。


 「あなたは神さまから特別に愛されているし、私にとってもかけがえのない存在であることをこの先どんな時にも忘れないで下さい。

  あなたが苦しい時は神さまもわたしも共にあなたの内にいます。

  今度は転ばないように、しっかり支えてあげるからいっしょに歩いていこう。

  同時にあなたはわたしを支えていることを忘れないで。」



 奇跡はおきるものなのです。


 だっていまのぼくの存在そのものが


 奇跡です。あ~あ、自分で言っちゃったし。




 だからさ「恩返し」


 そう、掛け値なしのね。




 まやかしの『ライアーゲーム』から降りましょう。


 そして



 ミサに行ってごらんよ。



 必ず救われるからさ。



 ほんとだよ。







 神に感謝。
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『ピンポ~ン』

2007-06-21 14:34:30 | Weblog
 どうして彼らがやってくると


 いつも途中で寝てしまうのだろう




 どうして彼らがやってくると


 ウキウキ、ワクワクするのだろう




 どうして彼らがやってくると


 話しに耳を傾けるのだろう




 どうして彼らがやってくると


 誇らしいような気分になるのだろう




 どうして彼らがやってくると


 華やいだ感じになるのだろう




 そんなの簡単さ




 ぼくが彼らのことを




 すきだからさ







 どうして彼らはやってくるのだろう



 それはね



 えっと、それはね



 おしえてあげないよ







 ごめんごめん



 ほんとは



 そんなこと



 どうでもイイのさ



 あははは



 またカッコつけちゃったね



 ホントの、ホントはね



 わかるわけないじゃん



 わかんなくってもイイじゃん。






 「あ、もしも~し、どうもどうも。あと3分くらいで、おたくんちに着きますから。」


 「はいは~い。待ってますよ~。」






 『ピンポ~ン』







 こんなふうに



 そう、こんなふうに



 ず~っとね






 神に感謝。
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『ちょっと行ってもイイ?』

2007-06-20 20:00:20 | Weblog
 「今度ゆっくり、じっくり話ししたいなぁ。」


 先週の火曜日だったかな、こんな風に思って口に出したのは。


 その時は「それって、自己満足じゃないんですか。」などとツッコミを入れられたが、期せずして、というか、やっぱり偶然じゃなくって、機が熟す。


 朝、見慣れないアドレスからケイタイメール着信です。

 「実は近々、友人の結婚披露パーティーの司会をすることになってしまいました。前に教会でやった披露宴の司会の資料があったら見せてください。」


 早速返信

 「ありますよ。いまならもれなくアドバイスもついてきますが、ああ、それはいらないって。とにかくご飯も食べにお出かけくださいな。」


 ということで彼女はやってきました。


 そういえば、初上陸、じゃなかった初訪問だったんだね。


 司会のコツとか流れとか、ちょこっと確認しあって、ま、とりあえず乾杯でしょう。

 ビールがすすみます。話はもっともっとススみます。


 教会の話しはもちろん、恋バナも盛りだくさん。


 彼女は口癖のように「わたしは理屈っぽいから。」って言うのだけれど、そんなことは全然無い。イイ意味で「前置き上手」というか、ストーリー展開が雄大というか、しいていえば、もしかしたら会話中での単語が多いのかもしれない。


 ぼくはいっこうに気にならない。


 いっしょうけんめい言葉を紡ぐ姿がかわいらしくてしょうがない。立派なレディーをつかまえてこんな表現は失礼かな。


 なんだか発言が「おやじ」っぽいが、事実だからご勘弁願いたい。


 彼女は


 いま素直に


 自分をみつめている。


 自分を見つめなおしている。


 相手のコトもしっかり見つめている。


 メインテーマだった「司会の話」は後日あらためてフォローすることとして、久しぶりにガッツリ飲んでパンパンにむくんだ手足にちょっと後悔しながら、でも楽しい会話に満足して、「家に帰り着いたら必ずメールすること。」を念押しして送り出した。


 程なくしてメールが来た。


 無事着いたと。


 最後にこんな風に書いてあった。


 「図々しい申し出ですが・・・また遊びに行かせてください♪ではでは、また!!!!。」


 こういうメールがなんともうれしいでしょう。


 教会家族。


 家族。


 楽しくないわけがない。


 またお話ししましょ。


 そして


 今度はあなたと話しがしたい。




 『ちょっと行ってもイイ?』ってメール来ないかなぁ。







 神に感謝。
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『いくらカッコウつけても』

2007-06-19 06:37:15 | Weblog
 昨日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われたオルガンのコンサートに向かうために最寄のJRの駅で待ち合わせをしていた。


 駅舎から表に出て改札口の方を向いていたら、セキュリティー会社の人たちがATMのメンテナンスか何かをしていた。


 ヘルメットかぶって、警棒みたいなものぶらさげて、二人一組でむずかしい顔というか真剣な顔をしてマジメそうに作業をしている。


 ここの駅前は、駅前にある車道までかなりスペースがあるのだがすべてが歩道になっていて車が入れるようなルールになっていない。許可を取った業務用車両は進入可能なのだろう、彼らが乗ってきたワンボックスカーが駐車してある。


 車にはよく目にしたことのある警備会社系のロゴ。彼らはマニュアルに沿って一生懸命仕事をしている。


 しかしだ、その車の駐車してある位置が良くなかった。


 高円寺教会内の敷地でも頻繁に注意が促される「あるモノ」の上にその車は止まっていた。


 「視覚障害者用誘導ブロック」の真上に。


 ぼくがハッとして作業をする彼らの方向に歩きはじめたときに


 「コツ、コツ、コツ」


 白い杖をもった男性が行く先の塞がれている誘導ブロックに進入してしまった。


 悔しいが、瞬間には声が出ないものだ。


 もどかしいが、足が動かないものだ。


 彼は誘導ブロックに安心して歩を進める。


 「ゴツン」


 車のドアについている大きいサイドミラーに左の頬ををぶつけた。


 ほんの一瞬顔をゆがめたが、ひるむことなく車をよけ、駅のほうにゆっくり足をすすめた。




 出遅れた悔しさでぼくはもう止まらなかった。




 作業中の彼らのところに急いで近づいて行った。当然彼らは微妙に表情をこわばらせて近づいてくる挙動不審者に身構えた。


 ちょっとこれまでの今日一日にイライラすることがあったぼくの口は、「穏やかに」等という日本語は宇宙のかなたに吹き飛ばしてしまっていたので、思うままに言葉を吐き出した。



 「お前らよう、一生懸命仕事してるとこ悪いんだけどさぁ、あの車で目の不自由な人に迷惑かかってるじゃねえか。すぐ動かせ。すぐに。」まるでチンピラのイチャモンです。



 瞬間的に状況を把握できない二人は、白い杖を持って歩く彼を目で追って確認するやいなや


 「あっ、すみません。すぐ動かします。」と言い一人を残して車に向かった。


 チンピラはダメ押しに口を開く。


 「このブロックの上に何か置いたらダメなのわかるだろ。会社のマニュアルに無くったって、ヒトとして気遣いしろよ。」


 「は、はい、わかりました。」


 TVコマーシャルなどでよく見る企業が、イメージ戦略よろしく『いくらカッコウつけても』末端のスタッフまでそれが浸透していなければ何の意味も無いってことの典型だろう。社員を指導するマニュアルに必ず「ホスピタリティー」って項目を盛り込んでもらいたい。


 ぼくがあまりにもひどい口調に自ら凹んでいると


 となりに立ってケイタイでしゃべってた若いお兄ちゃんが、ぼくに向かって言った。

 「ありゃあ、ひどいよね。」


 普段なら「そうだよねぇ。」とか何とか反応するところだけれど


 チンピラ化している脳細胞はその彼とのコミュニケーションを拒否し、その上


 「おめえよぉ、傍観者づらして、何、評論してんの。お前だって何もしてねえじゃねえか。」って思考を生み出した。もちろん口から漏れ出すことはギリギリ阻止したが。




 『いくらカッコウつけても』今の自分はこの程度なのにあらためて打ちひしがれて


 カテドラルの十字架に祈る。


 素敵なオルガンの演奏だったのだが


 記憶にあまり残っていない。


 ごめんなさい。



 きっと誰かが、ぼくの後ろから囁いてることだろう



 「さっきのチンピラみたいな口調の人、教会に入っていったよ。あれでも・・・。」




 おだやかに


 おだやかに。






 神に感謝。
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『電話のむこう側』

2007-06-18 08:54:17 | Weblog
 いわゆるところの「父の日」に、妻が実家のお父さんに電話をかけている。


 「あ、もしもし、お父さん。元気?調子はいかが?体調はいいの?」


 「うん、えっ、そうなんだ。」


 抑揚のある話し声のような、弾んでいるようなその話し声を聞いていたら


 電話に向こうの声は聞こえないのだけれど、なんだかせつない気持ちになった。


 最近、通信などネット環境とか、もうちょっとリアルに、交通などのインフラが整備されて、そう、高速道路が整備されたり、新幹線が開通したり、微妙に全世界的に身近な感じすら受けているが、他人の家に嫁いで来た者にとっては、その実家との距離は近いようでいてやっぱり遠いのではないのかな、などと思ったりした。


 物理的な距離片道222.4kmだけではない隔たり。


 ぼくも娘を持つ父親として、いまさらながら、なんだか身につまされるというかなんとも複雑な気分になった。


 新幹線に飛び乗ればもちろん行く事など簡単。


 でも、でもやっぱり近くて遠いのかなって。


 もちろん距離とかじゃなくって、いっしょに住んでいても地球と月ほど離れちゃってる場合もあるし、磁石のN極とS極みたいに引き合って、くっ付きたがっているくらいの関係性ってのもあるので一概には言えませんけどね。死別の場合もあるし、離別しちゃってる場合もあるし。




 「夏休みに帰るから。」




 お父さんは『電話の向こう側』でうれしそうに微笑んでいることだろう。


 しかし、やっぱり「母の日」のほうが盛り上がってる感が否めないんだよな~。いえいえ、ひがみじゃありませんよ。


 ぼくが親孝行したいお父さんはもうこの世にはいない。




 信じる者の希望である神よ、キリストのいのちに結ばれて祈ります。あなたの限りない愛に生かされたわたしたちが、すべての人の救いのために働くことができますように。そして毎日必死にはたらくことに疲弊しているすべてのお父さんたちに癒しとやすらぎの時を与え続けてください。





 神に感謝。
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『圧倒的』

2007-06-16 21:21:25 | Weblog
 もう、どうにもこうにも『圧倒的』な神さまの愛。


 サレジオ教会で執り行われた結婚式。


 聖霊に満ち満ちた素晴らしい挙式。


 司式された神父様はこの式のテーマを


 「安心」と言われました。


 人生で二度目の証人を妻と二人で務めさせていただくお恵みに与りました。


 まさに神さまからの「恩寵」。


 幸せに溢れた空間。


 カトリックの結婚の秘蹟の素晴らしさをあらためて目の当たりにして自分の小ささにチョッとへこみ、でもそんな個人の思いという些細なことなど考える余地も無いほど『圧倒的』な神さまの愛。


 夫婦とか家族とかそういったものの「絆」すべてを強めていただきました。


 パウロ知彦くん、マリア・マグダレナ敬子さん、そして海生くん本当におめでとう。うれしくて、うれしくてしょうがないよ。


 出会いは、これまでのお互いの人生は今日のために用意された助走路だったんだよね。


 さあ、これから楽しいことたくさんあるよ。いっしょに楽しもうね。


 神さま、いつも、そして世々とこしえに降り注がれているあなたの『圧倒的』な親心に感謝いたします。今日華燭の典に導いていただいた新郎新婦とご家族を心にとめ、祝福してください。あなたを信じます。二人の新しい門出が幸多いものとなりますように。アーメン。


 Tomくん、敬子ちゃん、海生くん本当におめでとう。


 そして


 ありがとね。



 


 神に感謝。
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『「今日何にする?』

2007-06-13 21:25:59 | Weblog
 今朝、妻がポツリと、それまでの話しの前後関係に余り関係なく、ふと、こんなことを言った。


 「そう言えばさぁ、「今日何にする?」とか「何が食べたい?」って聞いたこと無いよね。」


 不意を突かれて言葉に詰まった。


 「お、おう。」


 たしかに自宅で用意される食事について「聞かれた」覚えが無いことをあらためて認識する。


 だからといって我が家は「食べること」に無頓着というわけではない。


 共働きの両親に育てられたぼくは、今の妻と出会い、「都会生まれで専業主婦のお母さん(妻方の)」の手料理を初めて目の当たりにしてビックリした。


 「すげ~、今日は何かのお祝いでしたっけ?」って度肝を抜かれる思いだったのを鮮烈に覚えている。


 ぼくの実母の作ってくれた料理は大好きだったし、仕事の合間をぬっていっしょうけんめいに用意してくれていたことにはいまでも感謝しているし、比較するものでもない。


 しかし、繊細というか洗練というか、もう何から何まで違っていた。


 そして「美味しさ」の質というか、なんと言うか、カテゴリーが違うというか、軽いカルチャーショックだった。


 そんなベースもあって、妻は料理が上手だと思う。お母さんが厳しく仕込んでくれたからだろう。もちろん本人の好き嫌いとか、興味度合いなどが上達の度合いに結びついたりするし、まあとにかく上手にリード、育成していただいたことに感謝です。


 だから近年、「結婚する場合に必要な女性の条件」を聞かれると、迷わず


 「料理が上手なこと。」と答えてきた。


 料理はセンスも当然関与するのだが、ほとんどが経験値ではないだろうか。プロフェッショナルとしての演出や経営にはセンスが必要かもしれないが、なんと言っても裏打ちされた技術に勝るものは無いと思う。


 ぼくが積極的に「今日はそうめんチャンプルーが食べたい。」とか「油林鶏(ユウリンチー、漢字が違うかも)やってくれないかな。」ってリクエストという名のわがままを言うことはもちろんある。大概は要望がかなえられるが、冷蔵庫の潜む残り物の状況や懐具合などにより却下されること少なくない。これはどこの家でも同じだと思う。


 結婚してかれこれ13、4年経つが、「こりゃ明らかにやっちゃいましたね。」ってレベルの、そう「お世辞にも美味しいと言えなかった料理」は3回しかない。味の濃い、薄いってことはあるけど、チャレンジした料理ががっかりだったのは3回だけ。


 ぼくは料理を自らすることがほとんど無いので、黙って出されたものを食べていればイイのだけれど、営業という仕事をしていると「接待」という名目のグルメな環境に置かれることもあって、というかやっぱり食べることが好きだし、美味しいものに出会えるとうれしい。「食道楽」かもしれない。


 食べるものの心配をしなくて良いということが、いかに恵まれているのかを痛感する。


 そして、この環境がいつか変化してしまう時が来るかもしれないということの実感の無さ、危機管理の無さにヒヤリとする。


 おじいさんがスーパーマーケットで一人で買い物をしてる姿に胸がしめつけられる。


 昨日の聖書講座でいただいた素敵なお祈りを最後に紹介しましょう。


 「夫と妻の祈り」

 「ああ主よ、わたしたちを小さな、狭い考えから救い、思い、ことば、行いにおいて、いつも大きな気持ちでいられるよう導いてください。

  偽りの振る舞いを捨て、おそれからではなく、深い信頼をもって互いに尽くすことができますように。

  また、欠点をさがしあうことはやめ、いつの場合にも、明るい前途を見い出させてください。

  わたしたちを短気や性急な判断から救い、やさしく、冷静になるために、ゆっくりと時間をとれるように導いてください。

  相手を傷つけることは、たとえユーモアにおいてでさえも、ことばにすることを抑えることができますように。

  沈黙という、冷たい殻の中に閉じこもることなく、親切なことばを第一に口に出すことができるように導いてください。

  愛の熱が冷め、おたがいの真の人格を失わせることがありませんように。

  相手を無視したり、傷つけたり、また、相手の親切を当然のものと思ってしまわないように導いてください。

  正義の精神をもって、相手の権利を尊重し、愛徳によって、配偶者を自分のように愛することができますように。
  わたしたちの心に真実の愛を刻んでください。

  アーメン。」




 今日の夕飯も大変美味しゅうございました。ありがとう。






 神に感謝。
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『届かないメール』

2007-06-12 07:33:07 | Weblog
 ぼくのケイタイの未送信メールボックスに一通だけ消去できないメールがある。


 随分前から何度か送信を試みたが


 着信拒否をされているのか


 アドレスの変更がされたのか


 とにかく相手には届かない。





 件名:なんの心配もない。

 「だいじょうぶ。神さまがついている。

  もしかしたら今が「信仰」についてとか、これまでの「生きざま」について自分の足元をもう一度見直してみる大いなるチャンスかもしれないよね。


  どこにいても、どんなときにも「信じること」だけは忘れられないこと。


  そうはいっても、逆に今は、あなたが好きではない理屈っぽいこんな言い方や理屈っぽいぼくからのメッセージでは、あなたをさらに傷つけてしまうかもしれないね。

  でもね、やっぱり、すべてのことには意味があるんじゃないかな。ぼくはそんな風に信じています。


  神さまから離れないでほしい。これは老婆心かな。


  教会ってさあ、それこそ、いつでもどこにでもあるし、時は必ず満ちるから。



  「生きるとは、キリストを生きること。」」luke8488



 特定の誰かに送ろうとしたメールなのか、もしかしたら自分自身に送信したメールなのか、そんなことはどうでもイイや。


 伝わることを信じています。





神に感謝。
Copyright© 2007 Luke8488

『迷い』

2007-06-11 08:19:01 | Weblog
 偶然入った古本屋で二冊ほど本を買った。二冊で210円。



 その一冊にこんなことが書いてある。






 「心より心を得んと心得て 心に迷う心なりけり」



 一遍という人が、言ったとされる言葉。



 ヒトが正しきことをなそうとする時、その正しきことがかえってヒトの心を驕らせるのだということを述べ伝えている。



 修行すれば修行するほど、泥沼の深みにはまるのだと。(遠藤周作「生き上手 死に上手」より要約引用)



 ぼくは修行僧ではないし、「正しきこと」を積極的に行っている意識も無いのだけれど、この言葉はいつもいつもぼくの周りをグルグル回り続けている「自己満足」と言う感覚に共鳴した。



 そんな状況で週末を迎え、教会にたどり着く。



 そして「正しきこと」ってなんだろう?などという、個人で理解したいレベルなんてどうでもよかったってことにあらためて気づかされる。



 福音は「よろこびの知らせ」だし



 アタマで理解するってことじゃなくて



 「信じる」ことの他のなにものでもなかったってことに。






 そして「ちゃんと向き合う」ということが



 相手の言っていることに注意深く耳をそばだてようとすることや自分の考えや意見みたいなものをぶつけることだけではなくて



 もちろんそんなことも大事なファクターだったりするけど、そんなカタチだけの、小手先だけのセレモニーよりも



 ただ抱きしめる



 そっと手をにぎる



 そんなことがコミュニケーションの原点であると、いまさらながらに強烈に認識させられる。



 ベタベタしたいってことを言ってるんじゃない。



 結局



 ぼくら信仰者は



 気づかないうちにしてもらっている、そう、してもらっちゃって、うれしいことや助かったことを



 「あの方」の真似をして、いや違うな、「あの方」に倣って



 もう一人の誰かに、自信を持って、伝えていけばイイだけのことなんだって。



 不安は



 信じきれない自分から湧き上がるんだって。



 ほらね、あんなに降ってた雨が止んで、どんよりとした雲の合間から



 眩いばかりのおひさまの光が差し込んできたじゃん。



 さあ、新しく、そして強められた、それぞれの人生劇場の一週間の幕開けです。






 神に感謝。
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『陳腐な野郎』

2007-06-06 07:29:53 | Weblog
 こんな素敵に清々しい朝なのに


 なにを思っても


 何を考えても


 なにを口から発しても


 ただただ


 陳腐な


 自分がいる。


 だから


 口をつぐむ。


 当然コミュニケーションが欠如することになる。


 動脈瘤になって


 流れを堰き止める。


 そして


 破裂。


 ダム決壊。


 そうすると


 ただただ


 醜い


 肉の塊になりさがり


 また


 ため息をつく。


 周りはたまったもんじゃないだろうと思うが


 くそったれは


 肥料になるクソほどの値打ちも無いので


 ただただ


 陳腐に


 ひねくれていく。


 整理できない。





 「なんにもわかってない。わかろうともしないじゃない。」





 トドメを刺される。


 結局自分の事しか考えてないジブンは


 簡単に、そう、あまりにも身勝手に、奈落の底に突き落とされたような気分になる。


 どうしてこんなにあっけなく「イラッ」とするのだろう。


 

 「はじめに、神は、天地を創造された。」




 昨日の聖書講座で確認したのに。


 「信じます」って。





 神さまお許し下さい。


 そして


 信じています。






 神に感謝。
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