カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

支配と支配

2012-04-06 13:13:13 | Weblog
 主の晩餐のミサにあずかりながら

 使徒パウロが

 コリントの教会への手紙

 というカタチで

 語りかけてくださいます。
 

 

 「わたし自身、主から受けたものです」




 わたしたちは

 主キリストに由来していることを

 忘れずに思いおこしなさいと。

 

 神さまに

 支配されているのではなく

 依存するのでもないのだと。



 知らぬ間に

 支配者になってしまうことがあります。

 そして

 それによって

 苛立ちや

 さざ波が立って

 人と人のつながりが

 ほころびはじめることがあります。


 日頃の会社勤めや生活でも遭遇します。

 ある意味「相手の愚かさ」を

 自分の思い通りに支配をして

 変えてやりたい

 と思う気持ちが

 空回りし、打ち砕かれているような感覚が

 怒り

 という感情に変換されアウトプットされているのです。

 相手を思いやる気持ちが強いばかりに

 このような

 怒りのスイッチをオンにしてしまうとも言えます。

 もちろん

 相対している人との

 それまでの関係性や

 距離感

 さまざまな要因が複雑にからみあっていたりもします。

 自分も苦しんできたのだから

 なんとかしてあげたい。

 そんな風に前向きに思いを募らせていても

 相手にしてみれば
 
 余計なお世話とか

 おせっかい

 ってこともあったりします。

 ときには

 最後まで面倒見ることを拒否して

 「冷たい人」に変身して

 離れ離れになっていくことも少なくないでしょう。

 

 ぼくたちは

 神さまに支配されているのではないです。



 「わたし自身、主から受けたものです。」



 信じることを続けている

 弟子のひとりとして

 誰かを

 支配するようなことは

 神さまがお望みではないことは言うまでもないでしょう。

 もう一人の誰かのことを

 気づかい

 思いやることは

 尊く

 たいせつなことです。

 それが

 支配することに変化してしまわないように

 自分の思い通りに支配をして

 変えてやりたい

 という思い上がりに変わってしまわないように

 気をつけなければなりません。

 相手が

 友人だろうと

 恋人だろうと

 自分の子どもだろうと

 誰であろうと。

 でも

 こわがって

 何も言えなくなってしまうことも

 神さまは

 お望みではないでしょう。



 「わたし自身、主から受けたものです。」


 
 聖なる三日間

 味わい深く

 主のみことばを聞き

 思いを巡らせています。




 神に感謝。
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