カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『愛、あい、AIは』

2008-10-27 23:23:23 | Weblog
 「愛(あい、AI)とは

  
  あなたといたい。


  あなたといっしょにいたい。


  あなたにいっしょにいて欲しい。


  の


  頭文字をとったものなんです。」




 愛


 あい


 AI





 神さまは


 そう


 口を開きました。



 だから



 もう一度


 
 味わい深く


 
 そのキーワードを噛みしめて、飲み込んで



 自分にあった



 自分ができる



 アウトプットを



 しなくてはなりません。



 何ができて



 何ができないかは



 十人十色



 千差万別



 でも



 「あなたといたい。いっしょにいたい。いっしょにいて欲しい。」



 という言葉の上に


 
 それぞれみんなが



 自分という出来事を


 
 生きているという



 リアル。






 神に感謝。
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『目的意識』

2008-10-26 23:23:23 | Weblog
 高円寺教会周辺は

 日曜日、朝8時半ころから9時15分くらいまで

 パラパラとにわか雨が降りました。

 年に一度の

 「教会まつり」という名のいわゆるバザー当日にです。

 しかし

 9時半からのごミサで第二朗読をさせていただき

 聖体拝領を終えて、聖堂を出る頃には

 不安定な顔をした灰色の空が

 なんとか泣き出すのを我慢してくれました。

 昨日の土曜日に

 今年も新鮮野菜を収穫に行きました。

 かぶを引き抜いたりして

 三年目になった野菜の仕入もコツというか、システマチックにできる部分があって、ずいぶん楽になりました。去年と比較しているせいかもしれません。去年は雨、風、夜の暗闇三点セットで大変でしたから。

 お手伝いをお願いしたら、こころよく力を貸してくれる人がいて、大助かりでした。



 さてさて、今年の教会まつりでは


 大きな目標が2つありました。


 1つ目は、毎年収益から地域にある体の不自由な方々の作業施設(健常者の方と同じ環境で仕事ができることを目指して、本当に必死に作業しているのです)に寄付をするのですが、その金額を史上最高額にしよう。


 2つ目は、カトリック高円寺教会は、ここにあります。と近隣の方やはじめて教会に来られる方々に、教会って建物のことだけを言うんじゃないんだよってことをもっともっと理解してもらいたい。


 9時半のごミサが終わるのを待ち、11時に販売開始です。


 ちょっとだけ心配していたお手伝いも救いの手がたくさんあらわれて(お手伝いいただいたみなさん本当にありがとうございました。)


 教会の表門では、今年も入門係が色とりどりの風船を配っています。


 天使の森(教会にある売店)の横では、毎年大人気の綿菓子製造器が開始早々オーバーヒートし、発火の懸念があるので早々店じまい。

 
 野菜の販売も大盛況と言っていいでしょう。


 当日、当教会主任司祭の素晴らしい発案で、急遽、晴佐久神父デザイン&直筆サイン入りのかわいらしい赤ちゃん天使が描かれた色紙を販売することになりました。急遽といってもさすがに準備は万端です。長蛇の列ができています。


 教会関係者、外部団体あわせて31のお店が、それぞれの特徴を遺憾なく発揮し、おもてなしの心を忘れずに「はじめまして。」「いらっしゃいませ。」を繰り広げてくれています。


 福引き大抽選会では、当選した方、残念だった方悲喜こもごもでしたが、楽しく、あたたかく、ちょっとのため息も混じってそれはそれは盛り上がりました。


 14時の終了予定時間を過ぎてもなんとなく後を引くような感覚で


 さっさと片付けをはじめてしまうような雰囲気では無かったことが


 今回の教会まつりを物語っているようでした。


 さてさて、今度の日曜日に心からの感謝とよろこびの成果を報告できるように現在準備中です。


 史上最高。


 素敵な響きです。


 ややもすると毎年やってくるイベント1つに成り下がるところを


 「目的意識を持ってやろう。」と


 アドバイスをしてくれた


 教会の仲間にも感謝です。


 これで満足することはありません。


 ちょっとづつ前進。ポジティブに。




 神に感謝。
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『もうほとんど恒例』

2008-10-24 07:07:07 | Weblog
 雨が降っています。


 雨雲がどこで発生して


 気圧配置がどんなことになっていて


 風がどこから吹いてきて


 海面温度が上がったり下がったりして


 様々な要因が複合して


 雨が降っています。


 教会まつりが近づくと


 毎年、週末は雨です。


 もう、ほとんど恒例です。


 でも


 心配はいりません。


 すでに


 先週の日曜日に確認した週間天気予報よりも


 ちょっとづつ前倒しになってきています。


 明日は、教会まつりで販売する


 野菜の収穫に行きます。


 新鮮野菜を売りたいので


 こだわって、前日に自分たちで杉並区の農家さんへ収穫に行くのです。


 神さまは


 毎年、雨を降らせて


 ちょっとだけ、やきもきさせてくれます。


 週末は


 抜けるような秋晴れです。


 「秋の実り、天の恵み、教会へ行こう。」


 何だかわかんない不景気感や


 もやもや感


 まとめて


 教会に持ってきてください。


 待ってますよ。




 神に感謝。
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『準備中』

2008-10-23 23:23:23 | Weblog
 このところ家に帰り着くと


 そこは、稽古場の様相を呈している。


 台本のコピーは3冊。


 娘と妻とぼくの分。


 メインを演じるのは娘


 相手役は妻


 イイとこ取りの演出家気取りは、ぼく。


 「それって、宝塚みたいじゃん。」とか


 「意味を理解して言葉にしないと、抑揚すらワンパターンになるから気持ち悪い。」とか


 「お~、いまのイイねぇ~。」とか


 なんだかちょっと楽しい。


 この前、教会の仲間に


 「どうですか、主役の父の気持ちは。心の準備できましたか?」と言われた。


 それまでは、それほど意識していなかったというか、まだちょっと早いから意識の外に置いておこうと思っていた感情が押し寄せてきてしまった。


 「ビデオちゃんと撮れるんですか?涙で目がかすんで・・・」


 「ビデオとかやばいよねぇ、もともと俯瞰で撮らないで、娘ばっかり撮っているから、全体の流れがわからないパターン派だからね。」


 このような「メインが自分ではない微妙な緊張感」も含めて今回はセットで楽しめるのだからやはりありがたいというものだ。


 「そんなツッコミをしている君もそのうちわかるようになるさ。新米パパさん。」という言葉を飲み込んで、彼なりの励ましをありがたく頂戴した。




 40人くらいの「はじめまして。」の前で、お話しをさせてもらう機会を得た。時間にして30分くらい。いわゆるプレゼンというやつ。


 一ヶ月も前からスケジュールが決まっていたのだけれど


 たいした準備もしていない。


 でも、自分の仕事、自分の考えた新しいサービスだったりするので、極端なことを言えば、ぼくさえその現場に行けば事は済む。


 それにしても楽観的すぎるのだろうか。


 自信というおごりは


 必ずどこかで


 ペシャンコにされることを知っているクセに。


 ヘンなのかもしれないのだけれど


 この準備不足感が


 また、心地よい緊張感に思えたりする。


 この図太さは、まだまだ伝えることは無理かもしれないけど


 娘はたのしそうだ


 
 娘のほうが


 ずっと、ずっと


 ちゃんと準備している。


 ぼくも初心を忘れてはいけないなと。


 いろいろな意味でね。


 


 神に感謝。
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『あなたはもしかして』

2008-10-21 07:07:07 | Weblog
 会社の帰りに


 銀座一丁目から銀座二丁目の交差点に向かう途中の


 フカヒレ専門店の


 外のちょっとした暗闇に


 もうなんともいえない


 明と暗のコントラストの狭間で


 ごそごそと何かが動く気配がある。


 目を凝らしてみると


 そこに置いてある


 ゴミの袋をいっしょうけんめいに開けようとしている


 汚れた毛布をマントのようにはおり


 白髪交じりの髪の毛はボサボサに伸び放題の


 浮浪者(不労者)のおじいさんらしき人が


 地面にべったりと座り込んで


 暗闇に溶け込んでしまいそうになりながら


 おぼつかない手際で


 ゴミの袋を開けようとしていた。


 ぼくはその光景を


 不謹慎だったかもしれないが、正直に言ってしまえば


 レンブラントの絵画のような配色だなと思った。


 と同時に


 何とも言えない感情が湧き上がってきた。





 先日上海に行ったときにも


 地下鉄の階段に小さい子どもの抱えた母親が、真っ黒な顔を上げて、生ビールを飲むプラスチックカップみたいなものを差し出して、物乞いをしていたのを思い出した。


 上海は、平均月収が4000元(約64000円)。もちろんこれはあくまでも平均値であって、貧富の差は無くなってきたと言えども日本のような一億三千万人総中流家庭(意識)とは程遠い。


 同様の物乞いがすべての地下鉄の階段にいるといっても過言ではないくらいだった。


 お金のことを軸にして書くと本質から外れてしまうかもしれないけど


 日本で生活しているとき、例えば、コンビニエンスストアのお釣り、そう、なんとなく5円玉以下を募金箱に入れるようなことを


 なんとなく日本にいたらできないようなことを


 海外に行ったら、それこそポケットにある低額のコイン(余っても円に換金できないレベルであると認識した上で)をその人たちのカップに入れたりする。


 もちろんそこには、「少ないけど、何かの足しにして。」という気持ちがあるのだが


 このへんがなんとも微妙なところだったりする。


 アタマの、心の奥底からだんだん近づいてくる


 「偽善」という文字。


 小学校のころ、いらなくなったエンピツや消しゴムを自分たちより貧しい国の人たちに寄付しようといわれた。


 当時、シャープペンシルなんて子どもたちの間では、そんなにメジャーじゃなかったし、疑うことも知らないし、物事の本質もわからないから、先生の説明不足を指摘することもなく


 本当に長さ5cmくらいになったエンピツや欠けた消しゴムを寄付用の箱に入れた。小学生ながらに良かれと思い、人助けができたような、なんだか誇らしい気分になったりしていた。


 いまにして思えば、ある意味ゴミをゴミ箱に入れていたのと何ら変わりないことに気づき後悔する。


 自分たちより貧しい人たちってものさしも曖昧だった。





 意識を銀座に戻そう。


 ぼくは、その人を見た瞬間に


 「1000円渡したい。」と思った。ウソ偽り無く、そう思った。


 なんで「1000円」だったのかは、わからない。考えてもきっとずっとわからない。


 そして同時に


 「1000円を今後も同じシチュエーションになったら、常にどんな人にも渡し続けられるのか。」


 それよりなにより


 なんで


 無難に


 1000円って思っちゃったのか、自問自答がはじまった。


 何度も同じような光景を目にしてきたはずなのに


 今日だけ、具体的な金額をともなった行動欲求が湧き上がってきたのだろう。


 自分の気まぐれか、気分の良さか、なにかの罪滅ぼしの意識が形を変えて襲ってきたのか


 理由なんてどうでもいい、とりあえず手渡しちゃえ。





 おじいさんの側を通り過ぎる


 ほんの短時間にいろいろなことを思いめぐらした。


 そして


 具体的な行動には結びつかなかった。


 結局、なにもできなかった。





 ここでだ


 ここで


 「何もできないけど祈ろう。」


 というのは


 それこそ


 偽善なのかな。


 そんなこととは関係なく、祈るのだけれど


 なんなんだろう。このモヤモヤ感は。

 
 金品が絡むからなのかなぁ。


 赤い羽根の共同募金も


 経費を差し引いたら


 実質、本当に募金として使えるお金が、集まったお金の20%以下になると聞いて、それ以来ちょっと気が引けている。


 もちろんゼロはゼロだから


 やらないよりはましなのだけれど。





 とにかく何もできなかったという事実だけが


 業務用の青いゴミ収集用のポリバケツの中で


 カラスに


 突っつかれて


 ボロボロになったとさ。





 こんなことをぼくに考えさせる


 あなたは


 もしかして







 神に感謝。
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『今度の日曜日』

2008-10-20 05:05:05 | Weblog
 10月26日日曜日11:00スタート!


 新番組の宣伝ではありませんよ。


 今年の


 カトリック高円寺教会


 「教会まつり」


 の開始時刻です。




 一つ困っていることがあって


 「今年は、例年に増して盛り上げましょう。」と何度かお願いをしてきました。


 その結果、出店グループが増えました。


 そしたら


 当日のメイン


 新鮮野菜大販売会の


 販売のお手伝いをしてくれるスタッフがいなくなってしまいました。


 どなたでも結構です。


 救いの手を。




 それから、いろんなところで


 「教会まつり」のことを取り上げたり、書いたり、話したり、誘ったりしてください。


 教会まつりの収益金は


 杉並、中野区にある


 カラダになんらかの不自由を持つ方々が、希望に満ちあふれていっしょうけんめい社会復帰のための軽作業などをしている訓練所に寄付をします。


 「年々国や地方自治体からの補助金が削減されていて、運営していくことが、困難な状況になってきている。」


 これが、リアルです。


 ですから、今年は


 史上最高の寄付金額を目指します。


 もちろん


 初めて教会に来られる方のために


 精一杯のおもてなしの気持ちでお迎えもします。


 人ごとではありません。


 あなたにできることは


 まず


 当日


 教会まつりに参加をすることです。


 福引き大抽選会もあります。


 

 みなさんの信仰で


 素敵な秋晴れと


 多数の参加と


 たくさんのお手伝いという


 恵みがあることを信じています。





 「誰かがやるからいいや。」じゃなくってさ。




 神に感謝。
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『お会計は別々で?』

2008-10-19 00:00:01 | Weblog
 新宿で妻と娘と待ち合わせをして食事をしました。


 いわゆるところの「アイスクリームとかは別腹」理論を振りかざされて


 食後のデザートを食べたいと


 コールドストーンクリーマリージャパンさんが展開するルミネエスト新宿店に行くはこびとなりました。


 自分もアイスクリームは大好きなので、内心、密かにこの流れにガッツポーズです(笑)


 ちなみにこのチェーンのお店に行くのは初めてではありません。



 知っている人もたくさんいると思いますが


 お店の名前が表すとおり


 -9℃に冷やしたコールドストーン(石板)の上でアイスクリームとミックスインとやらをクルー(店員さん)がミックスしてくれます。


 しかもハッピーな雰囲気の歌をクルー全員が大きな声で楽しそうに歌いながらミックスのプロセスをみごとにエンタテインメントしています。


 妻は、「行列はイヤだ、でも食べたい。」と少し離れたソファーに座り待つこととして、娘と行列に並びます。



 「ここからだとどれくらい待ちますか?」


 行列対応の女性はとってもにこやかに



 「はい、30分はお待ちいただかないと思います。」



 う~ん、うまい言い方したなと思いながら、渡されたメニューとにらめっこです。


 少し行列が進んだところで


 先ほどの女性が注文を聞きに来ました。


 オーダーは、娘の役割です。


 「え~と、チョコレートデヴォーションをLike itでカップで、それからココナッツクリームパイをLike itでカップで。」手馴れたものです。



 「お2つでよろしいですね。」



 「いえ、もうひとつで・・・」



 「あ、ごめんなさい。二名様かと思っていました。もちろん二名様で3つ注文されてもいいんですよ。すみませんでした。」


 などとやりとりしながら、とりあえず注文は伝えました。



 そこでその女性が言った。




 「お支払いは、別々でよろしいでしょうか。」




 「???」




 娘と顔を見合わせて




 めずらしく、数秒間、声が出なかった。


 ハッと気を取り直して



 「いっしょでお願いします。」



 でもやっぱりヘンな空気なんで、ちょっぴりおどけて聞いてみました。




 「もしかして、ぼくたち親子に見えなかったですか?」




 今度は、目の前の女性が数秒間、目を見開いたまま、声を出さなかった。




 「え~、お嬢さんオトナびて見えるので。」




 「は~ん、それってぼくが若く見えるって事じゃないんだね。」




 「いえいえ、ごめんなさ~い。それもありますよ、それも。」


 そんなことで遊びながら女性は後ろの行列に注文をとりに行った。



 ところが、なんともいえない違和感が心の中で広がっていく


 その違和感が、薄暗い沼の底から、その実態を現わした。


 それは


 自分と娘のカップルがさっきの店員の女性にはどんな間柄に見えたのかという疑問。



 娘も敏感なので



 「ねえねえ、お父さん、親子に見えなかったってことは、何に見えたんだろうね?」




 「そうだよなぁ、もしかして援助交際とかに見えたのかなぁ、それってやだなぁ。」



 娘は笑いながら



 「こっちだって遠慮するよ~。」と言った。



 「違う、違う、お前とそういう風に見られたのがイヤなんじゃなくって、第一印象で、そういうことする人間に見られちゃったお父さんのイメージってことさ。」



 「あはははっはは~。」




 そんなやりとりを知ってか、知らずか


 目の前では、あのハッピーな雰囲気のエンタテインメントが素敵な歌声とともに元気よく繰り広げられていましたとさ。





 神に感謝。
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『リーダーだよ、リーダー』

2008-10-17 07:07:07 | Weblog
 いつのことだったか覚えがないが


 ごミサの最中に子どもたちが、ずっとおしゃべりをしていて


 管理者というか、保護者というかが近くに誰もいない状況の時があった。


 ぼくの近くの人が


 「いまの教会学校のリーダーって誰がやってんだよ。」って小さな声だったけれど、口調は穏やかではなかった。


 彼もきっと教会学校に所属していたり、もしかしたらリーダーを務めていたのかもしれない。


 まぁ、たしかに「おりこうさん」という状況からはほど遠かった。


 最近、障害者の方々の席が説教台の前になったこともあって(聖堂への出入りが便利になるようにと)いままで若干隔離されていた感のある子どもたちが、大人たちに混じるようになった。


 それまでは、子どもたちがかたまって座っていて、多少、集中力を欠いていてもそれほど気にならなかったことも事実。


 大体いつも教会学校のリーダーやシスターが子どもたちの近くにいてある程度コントロールしてくれていた。


 その日は、たまたまリーダーもシスターも子どもたちの近くにいなかった。


 親や周りに座っている人が注意というかじょうずに集中を促してくれればいいのだが、そもそも集中しろと言うのも無理な相談かもしれないし(教育や努力は必要)、「ごミサに与ってるだけましでしょう。」という考え方もある。


 ごミサ中、なおかつ聖堂というシチュエーションで


 叱るという行為すらはばかれるのも事実だし。


 日本中で、教会学校の存続不能とリーダーの枯渇が加速しているという。


 教会学校のリーダーは、「システマチックに、マニュアル通りにやればうまく行くというものではない。」という、なんとなくヘンな縛りみたいなものがあるような気がしてならない。


 実際そうかもしれないが、ぼくのような教会学校の経験が無いものにしてみれば、こんな現状が、もったいないとしか言いようがない。


 まぁ、未経験者だから黙っていろと言われるかもしれないが


 未経験者だから気がつくこともある。


 保護者の立場にもあるので、リーダーにはなれない。もちろんなるつもりもないけど(笑)


 高円寺教会には青少年委員会という組織が存在して、子どもたちにまつわる事を真剣に考えている。それは要理、リーダー教育から危機管理までに及ぶ。




 勝手にひとつだけアドバイスをしたい。



 「上級生に注意させる。」(ものの言い方、注意のしかたも含めて)



 この辺を意識してみると


 自分の負担が減る。


 注意する上級生は、自らの行動をコントロールするようになる。


 下級生が、上級生の姿を見て、凛々しくてカッコウいいと思う。


 上級生の言うことをちゃんと聞くようになる。


 上級生は、そのコミュニティーの中での役割を理解する。


 それが、リーダーシップに育っていくのです。


 コミュニティーの絆が強くなるのです。


 「そんなに絵に描いたようにうまくいかないよ。」って言う前に


 やってごらんなさいな。


 ダマされたと思って。


 やってからまた考えればイイ。


 そして親や大人は


 支援、協力するけど、口は出さない。


 たまに方向修正をすればよい。


 リーダー経験のない大人に限って


 無駄にうるさかったりする。


 大人は環境を整備する。





 何だかんだ人間レベルで考えても

 神さまがやっていることだから

 何の心配もないのだけれど。




 ぼくが

 いま

 子どもだったら

 教会学校のリーダーに

 いつかはなってみたいなと

 あこがれたりするのだろうか。



 愚問だった。









 なりたいに決まっている。






 神に感謝。
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『加藤君』

2008-10-16 07:07:07 | Weblog
 高校の時の同級生に


 加藤君がいた。


 彼は、進学クラスの中でも常にトップクラスの成績で


 サッカー部のキャプテンで


 銀ぶちの眼鏡をかけていて


 ちょっとスケベで


 髪の毛が直毛で、なおかつ角刈りで


 ぼくとは、めちゃめちゃ仲が良かったわけではないのだけれど


 野球部のキャプテンとサッカー部のキャプテン同士


 彼は生徒会長、ぼくは体育委員長


 まぁ、そんな間柄だった。


 学部は違うけど同じ大学に進んだ。


 いまから25年前の冬


 彼はスキー場で事故に遭った。


 決して運動神経が悪かったわけではないのだけれど


 何の因果だったのか、わからないけれど


 本当に運悪く、運が悪いという言葉は好きじゃないけど、そうとしか言いようがない


 スキー場に生えている木に激突して


 下半身不随になった。


 その後、車いすの生活となったのだけれど


 心中複雑だったのだと思うが


 悲壮感など微塵もなく


 すっごく前向きに


 奪われた自由と向き合い


 心配しているぼくらが恥ずかしくなってしまうほど


 元気ハツラツに生きていた。


 ぼくらは彼を名前で呼んでいた。


 「清人(キヨト)。」と。





 昨日の夜


 高校、大学と仲の良かった友人から連絡が入った。


 きっと、すごくイイ知らせか、その反対かのどちらかであることは直感的にわかった。


 「清人(キヨト)が、アメリカで亡くなったらしい。」


 44歳の生涯に幕を下ろしたと。


 詳細は、情報として入ってこなかったのだけれど


 ポジティブな清人(キヨト)は


 アメリカに留学に行っていたらしい。


 車いすの生活で、体重が増えてしまっていたらしい。


 死因はわからなかった。





 人生の中で


 家族や友人の死に直面することがある。


 その人との想い出が目の前にフラッシュバックする。


 後悔のような


 喪失感のような


 何とも言えないさびしい気持ちがやってくる。


 悲しい。




 でも


 彼は後悔していない。


 彼は、彼という出来事を生きた。


 ぼくは彼と出会った。


 まぎれもなくいっしょにいた。


 そのリアルを


 忘れることはない。


 日に焼けた浅黒いあの顔が


 パソコンのモニターにオーバーラップしてくる。


 清人バイバイ。


 また会おうね。


 


 神さま、清人をよろしくお願いします。






 彼はいま


 車いすを降りて


 両足で立ち上がって


 神さまに


 抱っこされているのです。






 神に感謝。
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『上海バンスキング』

2008-10-13 23:23:23 | Weblog
 予定より23分早く日本時間19:22にぼくの乗っている飛行機は成田空港に着陸しました。


 三日ぶりに携帯電話のスイッチを入れて


 妻の携帯に連絡を入れました。


 「いま、成田に着いた。」


 「おかえりなさい。ちょっと電話替わるね。」


 娘が電話に出るやいなや


 「何で三日間も連絡してこないの、死んじゃったのかと思ったよ。おとうさんが死んじゃった夢を3回も見たんだからね。」ちょっと口調が怒っている。


 


 三日前の10月11日に


 そうそう、前日に応援しているプロ野球のチームが優勝した非常に心地よい余韻の中、社員旅行で上海に飛び立った。


 ぼくは十数年ぶりの上海。 


 まぁ、何と申しましょうか、外観はそれこそ劇的に変わってました。


 それはそれは、ウソ臭いくらいに。


 ユニバーサルスタジオ上海かよ、ここは、っていうくらいに。


 あの、ケンカをしているような口調とか


 ムスッとした接客とか


 最初は300元(日本円で約4800円)だった言い値が、交渉をしていくと10元(160円)になったり


 基本的な国民性ってのは変わりがなかったけれど


 とにかく


 人々の着ている服が変わった。


 日本で例えるのなら


 戦前と現在。


 地下鉄も整備された。シートはプラスチック製で硬いけど。


 マクドナルドにケンタッキーフライドチキン


 ローソンもあれば、サイゼリアもあるし


 ピザハットも。


 働いている人には、笑顔はありませんが。





 でも嗅覚はちゃんと記憶していて


 中国の匂いだけは


 何にも変わってなかった。


 


 全身マッサージを二泊三日の間に3回行きました。足の裏も。


 宿泊先のホテルの真ん前に上海最大のカトリック教会があって


 よっしゃ~と思いましたが、ごミサの時間が合わなくて残念。


 5年間で6回目の教会に行けない週末になりました。


 食べ物は


 ブランドモノの上海蟹や中国国家元首も訪れる5つ星ホテルのレストランでの四川、広東料理など、どれもこれも美味しいものばかりでした。


 あとビールやコーラなどの炭酸がすべて微炭酸だったですね。


 それから外資系のカルフール(日本にもある大型スーパー)に行ったときに便意をもよおして


 足を踏み入れてはいけないと心に決めていたホテル以外の公衆トイレに入ったら


 カギはなく


 隣との壁に穴が空いていて


 まぁそれでも我慢ができる状況でなかったので・・・。


 幸運にも知らない人にドアを開けられることもなくつつがなく終了したのですが、入り口で1元で売っていた(一応日本にあるような自動販売機で)ティッシュペーパーを使用して以来なんだかちょっと


 これ以上はやめておきましょう。


 いまどき社員旅行かよ、という風潮に風穴を開けようと


 思いっきり楽しむことを目的にしましたが


 スタッフ全員の笑顔を見れば


 何も言うことはないでしょう。


 ベトナムにいって以来の6年ぶりの海外でしたが


 おもしろかった。


 ちなみに「バンスキングを」借金王と訳すケースが多いけど


 本当の由来を知っていたら


 「夢の先取り」


 って訳せる。


 夢の先取り


 天国の先取り





 神に感謝。
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『抜擢とつかみ取ること』

2008-10-09 23:23:23 | Weblog
 遠慮をしていると得られないことがある。


 努力しても達成することのできない目標もあったりする。


 仲間の支援をもらわないとたどり着けない場所がある。


 評価者の評価基準や期待感を満たさないと認められないことがある。


 積極性や


 執念や


 願望や


 タイミングや


 ラッキーや


 様々な事が


 一瞬融合してスパークする瞬間。




 ウチに娘は自分の周辺をよく見ている。


 空気を読んでいるという事に該当するかもしれない。


 遠慮深いというか


 人を押しのけてっていうのが得意じゃない。


 イイ面もあるのだけれど、損をしてしまうことも少なくない。


 もちろんそれは小学生の年相応であって


 環境や


 家族の影響や


 お友達との関係性や


 生い立ちや


 それこそ性格や


 思考能力や


 信仰や


 なんじゃらかんじゃらが複雑に絡み合って


 彼女のいまの立ち位置があるのだろうけど。


 自分の娘のことを書くのは微妙なのだが


 まぁ、親バカを公言しているからたまには良いでしょう。


 

 
 めずらしく、ほんとにめずらしく


 挑戦を自ら口に出して


 ま、一通り準備をして


 ある事に挑戦した。


 選考会というかオーディションというかの当日の朝、何と言って送り出してあげようかと考える前に言葉が口から飛び出していた。


 「おまえより表現力豊かな人いないから自信持ってやればだいじょうぶさ。」


 「わかんないよ~。」と娘はおどけて家を出た。





 午後妻からメールが着信した。


 良い知らせだった。


 娘は教会のお姉さんで、その存在感に、憧れているというか、カッコウいいなと密やかに思っている人がいる。


 学校の先輩だったりするし。


 そんなこんなで


 最上級生になって


 あるカテゴリーの


 いわゆる「主役」的なポジションに


 抜擢された。


 これからの約2ヶ月


 素敵なプレッシャーと仲良くしていくことになったが


 彼女はやり遂げるだろう。


 結果は、なるようにしかならないから。


 うらやましいな、ちょっと。


 選んでいただけたことに


 自らしっかり手を伸ばしてつかみ取れたことに


 応援してくれた仲間のみなさんに


 心から感謝したい。






 神に感謝。
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『生きることと死ぬこと』

2008-10-04 23:23:23 | Weblog
 「人は




  いつ生まれてくるのか




  わからないように




  いつ死ぬかもわからないのです。」



 知人の納骨式で聞いた神父様からのお説教。


 死について漠然とした恐怖や不安感を持っている人がたくさんいる。


 死んでしまうことが


 人生のフィナーレというか


 どうしようもなく、逃れられない事実として待ちかまえている最後の試練というか


 そうなったら全て終わりみたいな。





 死ぬことがこわい。




 生きているのもにはDNAか記憶かどこかの奥底に


 死への恐怖みたいなものが潜んでいる。


 明日の朝、目が覚めなかったら


 通勤通学電車の中で突然意識が無くなったら


 歩いている歩道に突然車が突っ込んできたら


 大きな地震がやってきたら


 シチュエーションを考えればキリがない。


 そこで


 そんな漠然とした生活の中で


 そんな人生の中で


 出会う


 神さまからの言葉


 「人は




  いつ生まれてくるのか




  わからないように




  いつ死ぬかもわからないのです。」




 思い悩むな。


 いままでの人生が何事もなかったかのように全てのことから消去、抹消されてしまうことはない。


 ぼくらは


 自分という出来事を生きている。


 いまを


 いっしょうけんめいに生きている。


 それぞれ環境も立っているところも違うけれど


 呼吸をして


 意識しなくても


 トックンと


 心臓が動いて


 カラダを動かすのに必要な血液を送り出している。




 こんな風に考えてくると


 死ぬことを各人の選択肢の範囲のように


 扱ってイイわけがないのが良くわかってきたりする。


 ましてや人様の生き死にを同じ人間が主導権を握って良いわけがない。




  「人は




  いつ生まれてくるのか




  わからないように




  いつ死ぬかもわからないのです。」



 今日


 いま


 何を


 していますか?





 神に感謝。
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『だだ』

2008-10-03 05:05:05 | Weblog
 ウィークデーの


 時計の針が、雨上がりの午後三時を少しまわったころ





 「あ  な  た  が  ウ  ソ  を


  つ  い  た  ん  で  しょ ~。」と





 銀座の中央通りとマロニエ通りの交差点


 銀座二丁目の交差点のすぐ近くで


 地面にべったりと座り込んで


 泣き叫んでいるのが


 女性


 だったりしたら


 ドラマや事件性まで考えてしまうが





 そこに座り込んでいるのは


 幼稚園の年中さんか年長さんくらいの男の子。


 とても甲高く、滑舌の良い発声で




  「あ  な  た  が  ウ  ソ  を


   つ  い  た  ん  で  しょ ~。」を




 連呼している。


 いわゆる


 ぐずってるってヤツだ。


 


 最近は、こどもが大人なのか、空気を読むのか



 親がやさしく(ぶってる)なったのか



 他人に迷惑をかける行為の発生源が自分の周りにあることを未然に防ぐために先手を打っているのか



 一昔前みたいに



 デパートのおもちゃ売り場とか


 近所のスーパーマーケットのお菓子売り場などで


 繰り広げられていた


 こどもの絶叫という名の欲求の意思表示の場面が


 ほとんど見られなくなった。


 あ、「ぐずり」じゃなくて


 「だだをこねる。」というドンピシャな言葉がありましたね。


 ぼくも全日本幼児だだこね連盟主催の長野県大会があったのなら(笑)常に上位争いしていたはずだ。


 ぼくは泣き叫ぶ派ではなく


 海にあるテトラポットのように


 欲しいものの前で


 微動だにしない派だった。


 ぼくのわがままは、イチローがヒットを打つ確率の2倍くらい、親の考えを押し切った。


 財布の中身の都合もあったことだろう。いい想い出だけれど、迷惑な話だ。


 でも微妙に


 「我慢すること」や


 「かけひき」や


 「親のありがたみ」や


 「お金」の持つチカラや


 いろいろなことを学んでいたのだと思う。


 ぼくは図体が大きかったので、「あらあら、大きいおにいちゃんなのに。」と周りから見れば滑稽だったことだろう。


 そして


 「わがまま」は通用しないという事態に遭遇し


 「わがまま」が言えなくなり


 「わがまま」を言えないという「わがまま」が


 自分の中で、へんてこりんな化学変化をおこして


 破滅に向かって行ったり


 自立に向かって行ったり。


 大人になってからもこんなことの繰り返しだったりする。




 人間の欲求は


 たとえば、赤ちゃんが


 「おっぱい飲みたい。」


 「おしめが汚れた。」


 「抱っこして。」とアピールすること


 と


 大人になっての欲求というのが何にも変わっていない。


 「ハラヘッタ。」


 「素敵な洋服欲しい。」


 「わたしにやさしくして。」


 やっぱり


 なにも変わっていない。


 ひとりっ子か


 兄弟姉妹がいるのか


 その何番目だったのか


 みんな健康だったのか


 様々な環境があるし


 時代背景ってのもあるので


 全てを同じものさしではかるのは強引だけど


 人間の欲求の根っこは変わらないと思う。


 


 生きるため


 生きて行くため





 そんな「だだ」や「わがまま」も


 人間が生きていくために


 生き延びていくために


 地球に対して


 人間以外の生き物に対して


 していること。




 そう思えば愛する我が子の「だだ」くらい何ということが無い


 

 ???



 ごろごろ転がってきたら


 へんてこりんな着地点に到達しそうになってる。



 これってある意味



 もしかしたら神さまの親心って感覚に近づいた?みたいな。(笑)






 何をいちばん言いたかったのかというと


 忠実に日頃聞いている親の口調を


 その男の子はみごとにリピートしていた。



 普通言わないでしょ、これくらいの年頃のこどもが
 


 「あ  な  た  が  ウ  ソ  を


  つ  い  た  ん  で  しょ ~。」って。


 やっぱり、子どもは親をしっかり見てるんです。





 天の父に


 どれだけ「だだ」をこねようが「わがまま」を言おうが


 すべて受け入れてもらえる。


 だから


 いつもしっかりと親の姿を見て


 そのマネをしなければなりません。





 ぼくらの静かなる絶叫は


 福音宣教


 なんだか無理のある


 わがままな文章ですこと。






 神に感謝。
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