カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『ワールドカップのバカ』

2010-06-22 22:33:44 | Weblog
 勝てば官軍 負ければ賊軍


 Might is right


 ゲームでミスをしたある国のゴールキーパーは


 本人だけがマスコミに叩かれるのではなく


 付き合っている彼女のことまでけなされてしまったりする。


 イングランド代表の監督の報酬が9億6000万円と聞けば


 その良し悪しではなく


 やっぱり重さとか名誉とか


 積み重ねてきた時間や思いが違うのだ。


 サッカーというスポーツのその国でのポジションや歴史


 付随して形成してきた文化


 民族や


 もしかしたら


 DNAのレベルでの違いがあって


 経済と同じように


 先進国と後進国があって


 いっしょうけんめいに


 ヨーロッパのエポックメイキングをなぞりながら


 真似しながら


 アジアやアフリカなどでも


 その国にあわせた工夫や努力によって


 追いつけ追い越せと躍起になっている。


 あの「バスケットボールとベースボールとアイスホッケーとアメリカンフットボール以外は認めない。民族的にフィットしないから。」とふんぞり返っていたあの国でさえ何年か前にプロフェッショナルのリーグが作られ、今回のワールドカップにもナショナルチームが出場している。


 「ドーハの悲劇」などと呼ばれ、十数年前にとっても嫌な思いをした記憶があるが


 無敵艦隊と呼ばれているスペイン代表チームの歴史を紐解けば


 笑ってしまうほどの苦難のオンパレードである。




 準備期間においてスマートとは言い難かったわが国のナショナルチームは


 期待感の薄さをあざ笑うかのように


 不屈のライオンを倒し


 それまで酷評をしていたマスコミも手のひらを返して


 やっぱり現監督の戦術が良かったとか


 どちらかというとネガティブなイメージでビッグマウスと呼んだ若者を


 ヒーローへ押し上げた。


 まさに絵に描いたように


 勝てば官軍なのである。




 ちょっとサッカーに詳しい人が言う


 「これでまた、にわかサッカーファンが増える。」


 そう言っているあなたもヨーロッパの歴史と比較すれば


 「にわか」なんですけど、と突っ込みたいところだが


 そんなこと関係なく


 純粋に応援したいし


 前向きに応援している。


 調子に乗って、お祭りに積極的に参加したらいいと思う。


 負ければ気分が悪いし


 ハラハラ、どきどきしているのもストレスになると思えば


 傍観者を装っていたほうが楽だけれど


 理屈抜きに


 応援しよう。


 楽しんでしまおう。





 もちろん生きていくことは大変だし


 それどころじゃないよって


 人それぞれ様々な状況に直面しているし


 ただ単に興味が無いってこともあるから


 どうでもいいことではあるのだけれど


 そう、例えば


 試験勉強しなければいけないときに、机に向かうんだけどなぜか日頃やりもしない机の中の整理をはじめちゃったりする。


 たしかに机の中は整理整頓されるっていう結果は生み出されるのだけれど


 机に向かう目的が違う。


 そう、メリハリが必要なのだ。


 もちろんサッカーの応援じゃなくても良いのだけれど。





 ぼくも「にわかファン」だし


 ブラジルの背番号10番の息子さんの名前が「ルカ」だと知ってから


 スペシャルに応援している


 そんな程度。




 ピッチに入っていく選手が


 十字を切っている姿が


 なんともカッコウいい。




 ポジティブな気持ちは


 どんな状況でも


 どんなに離れていても


 必ず伝わる。




 結果は


 神さまだけが


 知っている。




 神に感謝。
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『キリストを飾る花』

2010-06-21 23:23:23 | Weblog
 日曜日のごミサの後に


 初聖体に与ったちびっ子たちを中心にした


 侍者講習会のお手伝いをしました。


 二週間前から準備をして


 役割分担なども明確にしていたし


 「もし自分が小学生で、講習を受ける側だったら」という目線でプランを練ったので


 とてもバランスの良い内容になったと思う。


 もちろんぼくらにも「はじめて」があったのです。


 しっかりと教育をしてもらえる環境があって


 どぎまぎしたり、とちったり、失敗したりしながら


 少しずつ経験を積み重ねて


 そして


 自らを省みるきっかけのひとつとして


 教える側に立つ機会を与えてもらったりしながら


 ほんのちょっとずつ


 成長していければイイな、など思っているのだけれど


 それは自己都合で


 ごミサ(典礼)というのは


 常にフォーマルであると意識して


 緊張して臨んでいる現実もあります。


 参加したみんなは、はじめてということもあって緊張しています。


 その向き合い方がとっても新鮮で、清々しい。


 「そうだなぁ、動きはゆっくりと、焦らなくていいから、美しくやろう。」


 実践に勝る学習の場を作りだすのは容易ではないけれど


 侍者用の服(アルバと言います)を着て


 その暑さを実感し


 約1時間歩き方の練習やお辞儀のしかたなどをして


 ちょうど、いつものごミサの時間と同じくらいの長さで講習会を終えました。


 「アルバって、着てると暑いね。」


 「あ~、疲れた。」


 こんな感想を聞いていると


 「そうだよ、そうなんだよ。今日は、上手にできたね。」って言葉が自然に口から転げ出します。


 講習会のおわりに林神父様が言われました。





 「侍者って、神さま、イエス・キリストを飾るお花なんだよ。」






 キリストを飾る花


 凛として


 みずみずしく


 美しい


 派手ではなく


 いっしょうけんめいに咲いている


 花


 そして


 こころをあわせて


 一致している


 花





 少し前に


 「ちょっとハードな侍者講習会」という研鑽の場がありました。


 そこでの学びが


 そこでの講師をつとめたくれた方の気持ちが


 ぼくらの心の中に


 アツく伝わって


 静かに燃えていたことは


 言うまでもありません。






 神に感謝。
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『祈りのちから』

2010-06-20 23:23:23 | Weblog
 ごミサの中で


 さまざまな病と向き合っている方々を思い祈ります


 日々の生活の中でも


 いろいろな困難と立ち向かっている人を思い祈ります


 自分自身のことだけではなくて


 周りの人


 もう一人の誰かのために祈ります


 いま


 とても近しい人が


 重い病と向き合っています


 祈ります。


 

 恵み豊かな神よ、わたしたちの生涯はあなたの手によって導かれています。


 御子イエスは私たちの苦しみを負い、悲しみを担ってくださいました。

 
 病の床にある方々のために祈ります。


 苦しみの中でキリストと共に十字架を負う人を、キリストの力によって強めてください。


 あなたの恵みによって健康を回復し、

 
 教会の集いの中で心からの感謝を捧げることができますように。


 私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。





 祈りのちからを


 心から


 信じます。





 神に感謝。
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『ダウトという映画』

2010-06-15 05:06:07 | Weblog
 いまさらながらというか


 偶然とも思えないタイミングで


 「ダウト~あるカトリック学校で~」という映画を観た。


 妻と二人で鑑賞することとなったのだが


 エンドロールがはじまっても


 二人ともしばらく言葉が出てこなかった。


 あまりの衝撃にとかそういう感じではなくって


 理解というか、腹に落とすのに時間を要したというか


 なんだかもやもやしながらも


 それぞれの着地点みたいなものを模索していたのかもしれない。




 厳格なカトリック学校の校長であるシスターの役をメリル・ストリープが演じている。


 このシスターが、厳格こそが、管理手法であるというがごとくに


 すべてのことを疑ってかかれば間違いないという生き方を貫いているように描かれている。


 先進的で生徒たちに人気のある神父に「ある疑惑(疑念)」がもちあがる。


 証拠ともいえないようなわずかな情報から、その疑念を確信に変えたシスターは、神父を問い詰めていく。


 これ以上は、ネタバレになってしまうので興味がある方は、それぞれの方法で情報を得たらよいと思うのだけれど


 「神の意に沿う行為を為すためには、神より遠ざかる手段をとることも辞さない」との信念を持つそのシスターは自らの信念を貫く。


 この


 「神の意に沿う行為を為すためには、神より遠ざかる手段をとることも辞さない」


 という設定というか考え方をどのように理解したらよいのかというのがハードルのひとつ。


 映画の中の人物像の設定のことなので、正しいのか、間違っているのかを論じることも変な気がするが


 カトリック信者の立場で、この問いかけを考えてみるのもなかなかおもしろいと思う。





 そしてもうひとつのハードルが、神父が疑われた内容についての考え方。


 表現が適切ではないかもしれないが


 例えていうなら


 神さまから資格というか


 「思い」とか「考え」とか「手法」とか書き上げることが不可能なほどのいろいろな教えを得た、いや、得続けている


 神父という人間が


 それぞれの人として


 それぞれのミッションを与えられているお医者さんだとする。


 総合病院のようだったり


 専門医だったり


 医療行為(神さまのみ業を行うことという意味)には


 西洋医学があったり、東洋医学があったり、分類が明確にならないものがあったりするのだけれど


 病を治す(癒す)ためにそれが行われるという基本的な部分には「神のみ旨」というぶれない芯棒が貫き通されている。


 そしてこのお医者さんに診てもらうのにお金はかからない。


 勘違いしてもらうと困るのだけれど


 神父様をお医者さん、自らを患者と思って、今後対応してほしいということ言っているのではなくて、あくまでもこの映画を良く噛んで、飲み込んで、消化するための例えとして書いている。


 自分が、お医者さんにかかるときのことを思い出してみるとさらにおもしろい。


 具合の良くないところを治してくれるそうなお医者さんをさがす。


 もちろんそんなこととを考えている余裕が無いほどの、緊急事態が襲ってくることもあるけれど。


 その上、行動を起こすのに自分自身を納得させたくて、そのお医者さんのことを知っている人から情報を得ようと試みる。


 最近は、インターネットなどでいろいろな情報が提供されているのでありがたかったりもするが


 情報を提供する側には、いろいろな人といろいろな思いがある。


 1回の診療で劇的に効果が現れた人


 あきらめずに何度も通って治った人


 治療中の人


 なかなか効果が現れない人


 効果の有無だけではなくて、担当した受付けの人や看護士さんやお医者さんとのコミュニケーションが良かったり良くかなったりで評価することもある。


 そしてさらにややこしいのが


 「治った」というものさしが


 それこそ十人十色、千差万別であること。


 「痛くなくなった」というのも


 立ち上がることができないほどひざが痛かったけれども立てるようになった


 歩ける程度になった


 走れるようになった


 「痛い」にも段階というか、とにかく人それぞれなのである。


 だから「やぶ医者」などというのは本来存在しないはずである。


 多くの人を治すから名医かというと、まぁそれすら評価する側のそれぞれだから。


 話しを映画のことに戻して


 ここの登場する神父は、ある少年に救いの手を差し伸べる。


 さっきまでの例えに乗っかれば、その少年に合わせて処方箋を出す。


 シスターは、その処方箋には未認可の薬、いや、毒薬が含まれていると


 疑う


 ひたすら


 徹底的に


 疑う。





 この映画では


 ゆるし


 といういわばカタルシスのような部分が最後まで明確には描かれていない。


 ただし


 疑う


 という人間のもって生まれた弱さ


 アダムとエバが食べてはいけない果実に手を出してしまったことの根っこをチクリと思い出させられるような


 人ごとのように思いがちな、ぼくらの身近で起きている日常をリアルを浮き彫りにしていると思う。


 ただ単に、シスターと神父、カトリックという切り口、そこに存在する閉鎖性やヒエラルキーなどを含めた人々の心の葛藤を描いているだけなのかもしれない。


 そんなことを考えさせられながら日曜日を迎えた。


 ごミサでの福音朗読が


 「あなたの信仰が、あなたを救った。」(ルカ8-50)


 期せずして


 答えみたいなもの、いや、リアルが用意されていた。


 神さま以外の人間は、すべて不完全なのだと。


 これは、誰かを正当化するためのリアルではないのだと。



 
 信じたいがために


 疑う



 それこそが


 信じていないということ




 難しくしているのは


 自分自身の


 信仰を問われているような


 そんな気分だからだろうか。




 自己満足




 ぼくが永遠に付き合っていくテーマが


 そこにある。







 神に感謝。
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『時間』

2010-06-14 03:03:03 | Weblog
 「時間は貴重だ。


  でも


  無料で使える。


  しかも


  好きなように。


  ただし


  自分のものにはできない。


  自由に使えても


  止めることはできない。


  失った時間はそれっきり


  戻らない


  二度と。」


 ある外国のドラマから聞こえてきたセリフ。





 新聞を読んでいたら


 タイムトラベルが可能であると書いてあった。


 相対性理論とやらでは、「未来へ行くこと」は可能であると。


 光速より少し遅いスピードでどうのこうの、70年分未来に行くことになるとかかんとか。


 ただし、「過去に行くことは難しい」というか


 いわゆる理論的に成り立たないのだとも書いてあった。




 「二度と戻らない。」などと聞くと


 「取り返しがつかない。」と受け取れるときもあれば


 「時が解決してくれる。」と受け取れるときもある。




 「時間は貴重だ。


  でも


  無料で使える。


  しかも


  好きなように。


  ただし


  自分のものにはできない。


  自由に使えても


  止めることはできない。


  失った時間はそれっきり


  戻らない


  二度と。」


 ある外国のドラマから聞こえてきたセリフ。




 人生という時間は


 いま


 この瞬間も


 時を刻んでいる。


 いま


 何を考え


 何をしているのか。




 自分のために


 誰かのために



 焦っても


 焦らなくても


 
 時計の針のスピードでは計り知れない速さで



 だれにでもあわせることが可能な


 テンポで


 先に


 進んでいる。


 


 そう


 誰かにコントロールされること無く


 先に


 進んでいる。





 前に


 進んでいる。







 神に感謝。
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『その重さって』

2010-06-13 20:20:20 | Weblog
 雨が多い季節になる


 いま


 何百本もある


 善福寺川の周りの木々は


 その緑色を増して


 生き生きと生い茂っている。


 遊歩道を歩く人たちの


 行く手をさえぎるかのように


 重なり合って密度を濃くした葉っぱたちを支えるその枝は


 重量感たっぷりに


 ずっしりと枝先を地面に近づけている。


 向かいから歩いてきた散歩中のカップルが話をしている。


 「いつの間に、こんなに葉がついたんだろう。」


 「暗くなって、ちょっとこわいくらいじゃない。」


 でも二人の顔は


 笑っている。


 ぼくは


 重くて苦しいカラダをはずませて


 軽くジョギングをしながら


 純粋に思う。


 この葉っぱの重さ


 その重量感って


 生命力


 いのち


 そのものの重さなんだなって。


 価値とか人間のものさしとか


 そういう概念を含まない


 圧倒的に自然な


 その重さ。


 みずみずしい


 その重さ。


 いつか枯れ果てて


 風に舞い踊ることになることなど


 何も心配することなどない


 その潔い


 元気はつらつとした


 その姿に


 何事も無いような


 ありふれた風景に


 目をとめ


 思いをめぐらすことのできることに


 燦々と降り注ぐ日差しをさえぎってくれる


 心地良い木陰という空間に


 ありがたいなと


 素直に思ったりしている。





 こんなすてきな副産物を手に入れられるのだから。



 多少息苦しくても動き回ることは



 やめられない。



 やめたくない。






 神に感謝。
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『カギは誰でも持っている』

2010-06-12 03:03:03 | Weblog
 歩く

 
 そう決めてから


 まず心がけたことは


 時間を捻出する


 ということ。


 時間を捻出するということは


 できない


 理由をしらみつぶしにするということ。


 おおよそ25日間で


 200kmを走ったり、歩いたりした。


 雨の日に二の足を踏んだりしているので


 まだまだストイックさに欠けるのだけれど


 このモードに移行できたことや


 時間を捻出できているなどで前向きに調子に乗りながら


 なかなか落ちていかない、いままでのサボりが目に見えるカタチで現れている


 ダブついた体にへばりつく脂肪に


 漬物石のように重くなりがちの気持ちと腰に負けないように


 とにかく


 点が、線になっていくように


 続けることを


 結構いっしょうけんめいにやっている。




 なんだかうまくいかないときがある。


 もしかしたら


 うまくいかないときのほうが多かったりもするが


 そんなときには


 次への準備期間を与えられたのだと


 思い切って


 そう、思い切って


 何かをはじめたり


 何かをやめたり


 そうするのがイイ。


 何もしないことが


 休養だと思えるのなら


 そう思えるあいだは


 そうして誰にも迷惑をかけることなく


 暮していけるのなら


 そうしていればイイ。


 それが、次への準備なのだから。




 いつもの善福寺川沿いを歩いていて思う。


 何人もの人たちとすれ違いながら思う。


 何人もの人たちに追い越されながら思う。


 散歩したり


 走ったり


 ここにこうやって来ている人は


 来ることができている人は


 ポジティブなんだなと。


 恵まれているとも言えるが


 たぶん


 いずれにしても


 前向きだなと。




 気分転換にしても


 リハビリだったとしても


 部活の苦しいランニングだとしても


 ダイエットかもしれないけど


 やっぱり


 前向きだなと。


 そこには


 明確な


 目的みたいなものがあるからだろう。


 もしかしたら


 本当にやらなきゃならないことを先送りにして


 散歩とかジョギングが現実逃避になっていることもあるかも知れないが


 それすら目的意識がはっきりしている。


 嫌なことから離れたいという目的。


 しかしそこには


 行動を起こすといういわゆるテコが効いていて


 その動き出しのパワーが


 自動車やバイクのエンジンをかけるための


 セルモーターを起動させるための


 スイッチとなる


 カギを差し込んで回すという


 根っこの作業をしたということが


 なんてったって


 ポジティブなのである。


 そんな風に考えれば


 きっかけなんて


 ほんの少しのアクションなんだなって思える。


 変わるということのスタートが


 案外


 面倒なことではないことに気が付く。


 やろう


 と思ったことが


 今度こそ


 って思ったことが


 すべて目的の場所に到達できるわけではない。


 だから


 やっぱりダメか


 また同じ失敗の繰り返しか


 だったとしても


 こわがることなく


 カギをほんの少しのチカラで


 ひねってみる。


 カギは、誰もが持っていて


 無くなることも


 さび付くことも無い。




 天国の門を開くカギ



 自分の窓を開くカギ






 神に感謝。
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『押しつけ』

2010-06-11 23:23:23 | Weblog
 過渡期とか


 成長期とか


 世代交代時期などの


 混迷や


 試行錯誤が


 おもしろい。


 それが、自らの手で携われなかったり


 そんな立場だったりするときに


 どんな風に自分の思いを伝えたらいいのかってところに


 伝えられきれるのかってところに


 懐の深さみたいなものや経験地の高さが見え隠れしたりするのが


 実におもしろい。


 例えば、何かのコミュニティーのミーティングなどに出席すると


 いろいろな人が


 いろいろな思いの丈を


 さまざまな言葉を操って


 人に伝えようとするのだけれど


 そこに


 責任の押し付けや


 自分のできないことの訴えが含まれたりしていると


 気持ちが良くない。


 いわゆる保護者会のような集いに参加することをためらうのは


 その気持ちの悪さが


 自分の口を閉ざしている閂(かんぬき)をいとも簡単にこじ開けてしまうからだ。


 最近は、齢を重ねたこともあって


 口調や語気のコントロールはある程度可能になったが、やはり本質を突き詰めたくなるので


 やさしい言葉を並べることにはならないことが多い。


 しかし、その言葉には


 その根っこには


 「愛」があるのか


 ということだけは意識している。


 親が自分たちでケアしきれないことを学校の先生に押し付けるような発言を聞いていると


 一見前向きそうだけれど、自分の責任回避以外のナニモノでもないではない考えに同意を求めようとしている詭弁だったり


 また、それの乗っかって囃し立てるだけの、実は明確な自分の意見など持っていない


 まるでポンティオピラトの問いかけにその場の雰囲気だけで呼応してしまう群集のような


 そんな空気感が生まれてきたりすると


 うんざりするのだけれど


 自分の思いや考えがすべて正しいわけではないことは言うまでも無く


 もしかしたら


 熱く語った人のほうが、口火を切った人のほうが、その事柄についていっしょうけんめい考えているのかもしれないと思ったりしながら


 冷静なのもいかがなものかなと思ったりして


 フツフツとしながら


 出番をうかがっている自分が気持ち悪かったりもする。




 口も出さないが、手も出さない。


 手は出さないが、口は出す。


 口は出さないが、手は出す。



 様々な立場で


 それぞれに役割があって


 時が経たないと変わらないことがあって


 その時間にも長短があって


 こだわりと


 身の丈とのせめぎあいの中に


 希望という


 試行錯誤がある。


 フィールドプレーヤーなのか


 サポーターなのか


 監督なのか



 何をしても


 何をしなくても



 時が刻まれる。


 

 テレビからNBAのファイナルが流れてくる。


 LAのスーパースターは


 ドリブルをしながらシュート態勢に入ってゴールに向かってジャンプした。


 空中にいる何秒かの間に


 いろいろなところから飛び出してくる防御を試みる相手の手を巧みにかいくぐりながら


 頭や肩や腕を叩かれながら


 ファウルをもらうことだけに満足するのではなく


 ゴールを決めている。


 華やかだけれど


 そこには


 地道な


 努力という


 試行錯誤が


 間違いなく


 存在する。


 そして、彼が十分なパフォーマンスを発揮できるように目立たない部分でスクリーンの役目をしたり


 その他の相手をガードしているメンバーが


 存在する。


 

 押し付けは


 存在しない。





 神に感謝。
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『聞こえてくる』

2010-06-10 23:23:23 | Weblog
 いまさらながら


 歩いてみると


 いままで聞こえていなかった


 さまざまな音や香りなどが


 耳や鼻や肌を経由して


 ぼくにアプローチしてくる。


 もちろん通りすがりの一瞬の情報だし、あえて聞き耳を立てているわけではないから


 ある一瞬の切り取りであって、前後関係がわかるわけもないので


 ただただ聞こえてくる情報から勝手に妄想したりしているだけなのだけれど


 そんな時間すら、一息つくために与えられたのだと考えられることが


 どれほどありがたいことかとも思ったりする。




 家の新築工事をしている大工さんが携帯電話で話している声。


 「そういえば、アキラが今度会長になることになってさぁ、そうそう、そうなったらヨシアキが辞めるって言ってんだよ。」


 小さい女の子を後ろの席に乗せた若いお母さんの自転車の後を追いかける自転車に乗り始めたばかりと思われる男の子。


 「ねぇ~、ねぇ~、先に行かないでよ。ぼくより先に行かないでって~。」


 お母さんの自転車の後ろに乗る妹の小さい女の子がたどたどしい言葉でひとこと


 「おにいちゃん、うるさいねぇ。マ~マ。」


 年配の女性が四人、立ち話で盛り上がっている。


 「あれね、そ~なのよ。まとめ買いで注文するじゃない。案外、お得じゃないのよね。」


 自転車が近づいてくる。若いお父さんが、小さい娘さんを後ろに乗せて、なにやら話しながら近づいてくる。


 「ため~息の出るような~♪ あな~たのく~ちづけ~に♪」


 それぞれに


 様々な背景やプロセスという人生があって


 悲喜こもごも




 もう少しだけ


 耳を澄ましてみたら


 天使のささやきが


 聞こえてくるかもしれない。


 いや、さっきから聞こえてくる


 耳に飛び込んでくる


 すべての音の中に


 その声は


 ある。




 神に感謝。
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