カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『標準体重』

2010-07-08 05:05:05 | Weblog
 おおよそ2ヶ月で


 4kg


 体重を落とした。


 積極的に


 健康的に減量した。


 外見は、ほとんど変わらないが


 スーツのズボンが


 きつかったジーンズが


 ホッと一息ついているのだから


 間違いないと思う。


 調子に乗って


 パソコンに向かっている娘に


 「ちょっとさぁ、4kg落ちたんだけど、標準体重ってやつ調べてくれるかなぁ」と頼んだ


 「え~っと、身長182?だっけ。」


 「いや、厳密に行きたいので181.5でお願いします。」


 身長が大きいほうが、たぶん標準体重が重く出るはずだけど


 ちょっと調子に乗ってたんで。




 ポキッ




 何かが折れる音が頭の中に響き渡った。





 「おとうさん、標準体重まで、まだ、あと10kg以上あるね。」





 計算方式が間違ってるとか、単純な計算ミスじゃないのかとか、自分は標準的な日本人の枠には入らないとか抵抗してみたが





 何も間違っていなかった。






 目の前に見えていたマラソンのゴールは


 ハーフマラソンのゴールですらなく


 そこは、名物コース箱根の山の登り口だった。





 のぼるしかない。




 ずっと登りの山っていのは無いからね。







 神に感謝。
Copyright© 2010 Luke8488

『結婚したいですか』

2010-07-07 07:07:07 | Weblog
 思いつきで話題をふった


 きっと盛り上がるのだろうなと


 軽い気持ちで口を開いた


 しかし


 思いとはうらはらで


 眉間にしわのオンパレード


 いつもの元気な集まりは


 沈黙の艦隊と化してしまった


 その話題とは




 「自分と結婚したいですか」




 異性だとしたら


 自分と結婚したいだろうか?というもの


 瞬間的に


 そこにいた全員が


 いままでの自らの生い立ちや


 現在の自分の状況や


 自慢できることや


 欠点や


 人には言えないようなことや


 とにかく自己分析をはじめてしまった


 そして


 結婚するというところを切り口にしたところで


 深く


 ある意味


 哲学的な


 なんとも表現しがたい


 重たいものに昇華していってしまった


 実際のところどうだろうか


 どんなに自分のことを客観視できる人であっても


 どれだけ相手のことを気をつけて観察して、気遣いしている人でも


 どんなにのたうちまわっても


 相手が、自分のことをどんな風に思っているのかは


 完全にはわからない


 どれほど気心の知れた間柄でも


 相手が、言葉として表現してくれたとしても


 それがすべてではない


 そもそも


 自分自身のこともどこまでわかっているのかと問われれば


 明確な答えなど出ない


 過去に研修やセミナーで自己分析とかプロファイリングなどを何度も学び実践してきて


 なおかつ40数年人生を歩いてきて、何がしかの経験を積み重ねてきて


 自分の「ものさし」みたいなものができてきて


 そのものさしの許容範囲ではかれない人にびっくりしたり、毛嫌いしたり、あこがれたり


 そのものさしに見事にフィットしてしまったりする人を好きになったり、似すぎている場合は徹底的にキライになってみたりしてきたのだが


 このものさしは、自分自身をはかりづらいかったりする


 まるで、昔からある、あの、身長を測定するあの装置みたいに


 装置に乗っかっている自分には目盛りが見えない


 まぁ、こんな風に理屈っぽくなることが、歳をとった証拠だといわれるし


 普段の人付き合いは、それほど面倒くさいことではないのだけれど


 結婚って切り取った途端に


 さまざまな「欲」が見え隠れしはじめたりするから、話しはややこしく、おもしろい


 ひとりの、その場にいた唯一の独身者が口を開いた


 「自分は、結婚しなくてもいいかなって思ってます。」


 ちょっと方向の違う発言だったけれど、これを合図に舌戦は繰り広げられることとなった


 「え~、それって、結婚したいけどできないってこと?それともただ単に結婚したくないって事なの?」


 「結婚したいと思う人と出会ってないってことじゃないの?」


 「せっかくだから、一度は経験したほうがイイよ。」


 まるで既婚者の総攻撃である


 「すみません。じゃあ、どうして結婚したんですか?」


 

 それまで、おもしろくて様子をうかがっていたずるいぼくは、質問に質問で切り返した


 「さっきの質問だけど、自分と結婚したいと思う?」





 「わかりません。」




 ここまでのプロセスを経て、極めて単純なことに気がついた


 ぼくらは、既に結婚していて


 明確な相手が存在するということ


 ということは


 結婚相手として


 ぼくらは、なにがしかのジャッジを受けるというプロセスを経てきたということ


 そうなると、「自分と結婚したいか」というのは


 なんだか愚問だなと


 もっと言えば、結婚した相手に


 「どうして、ぼくと結婚したの?」って聞いてるのと同じだなと


 この意外と聞いたことのない、今さらちょっとこわくて聞けない、とっても純粋な質問




 結局、話しは本題には戻ることなくフェードアウトしていったのだけれど 


 あらためて自分自身に問いかけてみた





 「自分と結婚したいですか。」




 最初に浮かんできたことば




 「恋人なら良いんだけど・・・」








 神に感謝。
Copyright© 2010 Luke8488

 

『しなちくラーメンのお客様』

2010-07-03 05:05:05 | Weblog
 思い出し笑いは


 薄気味悪い


 思い出し笑いは


 とめどもなく場所を選ばない


 思い出し笑いは






 3~4ヶ月くらい前だったと思う


 吉祥寺に妻と娘と3人で出かけた時のこと


 いやもっと前だったかな


 たしか娘がはじめてのメガネを作った時のことだった


 フレームを決めて、検眼して


 一時間半くらいで出来上がるというので


 夜の8時も過ぎていたこともあって


 ラーメンでも食べて時間調整をすることにした


 ぼくは十何年か前に一度試したことのあるお店だったのだけれど


 妻と娘は初めて、ぼくの記憶ももやもやしていたので


 そのお店に入ることにした


 カウンターに3人で並んで、お水が出てきて


 さてさて、なにを食べしょうかねとメニューをみていた


 妻とぼくの間に娘が座っているというシチュエーション


 お客さんは他にもいた


 新しくは無いけれど、清潔感のあるL字型のカウンターだけの店内


 換気扇がまわっていたりで、決してうるさくはないのだけれど


 片方の耳の聴力が著しく低下している妻には


 ぼくの声は届きづらい状況だったのかもしれない


 ぼくはメニューを見ながら


 「しなちくラーメンっていうのもなかなかそそられるな


  でも、しなちく乗るだけでこの値段って


  どんだけ、しなちく、てんこ盛りなんだろう。」と口にした。


 となりに座っている娘は


 「あははは、ほんとだ。」と言った。


 妻からはリアクションが無かった。


 ところで決まったのかとか、餃子も注文しようとか、あ~だこ~だやり取りがあって


 じゃあ注文しようということになった


 このときになぜかカウンター越しにいる店員さんに


 妻が注文することとなった。


 ふだんは、注文役は、ほとんどがぼくで、口火を切るのも当然ぼくなのに


 いま思い出しても不思議なのだけれど


 妻が注文することになった。


 もしかしたら店員さんが妻に近い側にいたからかもしれない


 あ、それから我が家は、同じものを注文をしないという暗黙の了解があって、それは、みんなでいろいろなものを食べたいからで、フォーマルな食事以外は、くるくるとどんぶりが入れ替わっていたりする


 妻が開口いちばん


 「え~と、しなちくラーメンひとつと」といった


 ぼくは、内心「へ~、かみさんにしては、めずらしいもの注文したな」と思っていた


 「さっきのぼくの発言が影響したのかな、まぁ悪い選択じゃないな」などとほくそ笑んでいた


 その後の娘の注文を確認して


 「あと、普通のラーメンでいいんじゃない。」とぼくが言うと


 もちろん自分の注文のつもりで言ったのだけれど


 妻が、「じゃ、あとラーメンひとつお願いします。」と言った


 ぼくは、以前にもこのお店に来ていたが、めずらしく味の印象がほとんど残っていなかった


 ほとんどというのは、お店に入ったときの匂いで、記憶の扉が少しだけ開いていたから


 でも基本的なラーメンを食べることで、そのお店の実力というか、姿勢や方向性が伝わってくると確信しているので


 自分のものさしに乗せるために今回も普通のラーメンを注文したのだ





 程なくしてカウンターの内側から出来上がったラーメンのどんぶりを持って店員さんが言った



 「しなちくラーメンのお客様!」



 その瞬間


 娘を挟んで座っている妻とぼくが


 お互いに向かって


 「こちらです」とばかりに


 ほぼ同時に


 手を差し出した


 まるでダチョウ倶楽部の「どうぞ、どうぞ」というギャグのように


 一瞬


 妻とぼくと店員さんはほんの少しだけ目を見開いて、互いに顔を見合わせながら凍りついた




 タイミングと思い込みと勘違い



 そして



 てんこ盛りの



 しなちく



 ごちそうさまでした








 神に感謝。
Copyright© 2010 Luke8488

『買わなきゃ』

2010-07-02 22:33:44 | Weblog
 むかし


 あるところに


 ジンゴロベエ


 という名の男がいた。



 ひたすら金持ちになりたいと思っていた彼は


 来る日も来る日も教会に通って


 宝くじを当選させてくださいと祈った。



 何年経っても


 いっこうに当たらない。


 ジンゴロベエもとうとう堪忍袋の緒が切れ



 「神よ、あなたにはほんとうに失望されました」と言ってしまった。



 すると突然


 沈黙を破り


 神の厳かな声が響いた。




 「ジンゴロベエよ。お前はわたしに手を貸すべきだ。


  お前は、少なくとも


  宝くじを買えるのだから。」



  

 これは、ある人が言ったジョークだ。


 どんなときに言ったのかというと


 「すべてのお膳立てさえしてくれれば、ぼくは、実力を出せるのに。」と


 いわゆる「無い物ねだり」をして


 ある枠組みから離れようとしている仲間に向けて放たれたジョークなのだ。


 何度か読み返すと


 いろいろなことが読みとれてくる。


 ただの戯れ言かもしれないが


 なんてったて、教会や神さまが登場するから


 アンテナにひっかかる。


 ひっかかったのだから


 掘り下げてみたりする。




 宝くじは、買わなければ当たらない。




 これが、真意。



 「え~、なんで、違うでしょ。」とつっこまれそうだが


 まんざら、間違ってもいない。


 表現を変えれば


 当事者にならない限り


 成功(何かが変わること)することはない


 ということ。





 たとえば


 何かの組織のリーダーになろうと思ったら


 リーダーとしての役割を引き受けるということ。


 引き受けるということは


 自ら、自分に許可を与えるということ


 誰かに与えられるのではなく


 そう、ただ自分に許可を与えればイイのだ。


 この「自分に許可を与える」というのを違う言葉で表せば


 覚悟を決める


 というところか。


 それができたら


 組織の中に穴がないかさがす。


 自分が欲しいものを求めて見てみるのが近道な場合も多い。


 そして、自分のスキルと経験を活かせる方法を見つけてみる。


 そしたら、いち早く動こうとする。動く。


 プロセスの中で、過去の実績を乗り越える。


 実は


 チャンスや気づきはつねにあって


 見つけられるのを待っている。


 「チャンスや気づき」を「神さまのみ業や聖霊のはたらき」に置きかえてもイイ。


 誰かに声をかけられるのを待ちながら


 慎重に様子を見るのではなく


 チャンスはつかみに行く。


 がむしゃらに動いたり、働いたりしなければならないし


 エネルギーも使う。意欲も必要。


 でも、これこそがリーダーをリーダたらしめている資質なのだ。



 日本人は、謙虚、謙遜を美徳とし


 ぼくも否定はしないし、うつくしい文化であるとしっかり認めている。


 ただし


 これを上手く使って


 自らの自信の無さやうまくいかなかったときの伏線にしてはいけない。


 歴史や伝統や実績は、どのような過去であろうと


 リスペクトする。


 でも歴史や伝統や実績をハードルようにしてしまったり


 それこそ重石やマンホールにある重量感あるフタにしてはいけない。


 そんなことをしてしまうと


 成長も変化も進化も進歩にも


 つながらない。


 


 チカラの使いどころ


 その強弱





 うまくいかね~なぁ




 いやいや




 そこからでしょ。






 神に感謝。
Copyright© 2010 Luke8488

『違い』

2010-07-01 23:20:20 | Weblog
 ナショナルチームが


 激戦の南アフリカから帰って来た。


 「このチームでもっと戦いたかった。」


 チームワーク


 団結力


 選手のインタビューやマスメディアからも


 ここぞとばかりの繰り返される


 キーワード


 レベルの大小もあるし


 サッカーと野球との違いはあるけれど


 高校球児だったぼくも


 高校三年生のときに


 甲子園を目指して


 「負けたらそれでおしまい」という


 トーナメントを戦った。


 ワールドカップは、4年に一度やってくるけど


 高校三年生の夏の甲子園は


 一度きり


 もちろん


 ワールドカップに出場すること自体


 とてつもなく


 途方も無く


 大変なことなんだけれど


 切羽詰ってる感じはそんなに違いは無いと思う。





 高校三年生の夏


 ツーアウト、ランナー二塁


 4番バッターだったぼくに


 打順はまわってきた


 結果は


 三振


 いわゆる


 最後のバッター


 一人しか経験できない


 最後のバッターという


 痛くて、歯がゆくて、情けなくて、悲しくてという


 ある意味


 選ばれし者となった。


 当時、史上最強と呼ばれるほどの期待を背に


 戦っていた。


 ぼくは、キャプテンで


 チームワークは


 たぶんドイツワールドカップのジーコ・ジャパンのようだったと思う。


 個性の寄せ集め


 それでも


 やっぱり


 もう少しだけ


 このチームで戦いたかったと思った。


 こんな思いをしたから


 今回のPKのことも


 選手たちのコメントも


 とっても共感できるのだけれど


 これが


 ここで落としどころを見つけてしまうのが


 圧倒的な


 違い


 なのだ。


 「負けたくない」というのと


 「勝ちたい」というのは


 同じようだけれど


 ぜんぜん違うということ。


 今回のナショナルチームは


 「負けたくなかった」のだ。


 もちろん全員がそうだったとは思わないけれど


 勝ったチームとは


 圧倒的な


 差が


 あった。





 祭りの後のような


 なんとも言えない


 さびしい感じ。


 高校三年生の夏


 試合後に田舎の駅でぼくを待っていてくれた彼女は


 なぐさめられるのに慣れていないぼくをだまって見つめてくれていた。


 駅前の駐輪場で


 そのやさしさと


 いろいろなものがこみあげてきて


 三年ぶりくらいに声を上げて泣いた。


 その彼女が


 いまのかみさんです。



 違い



 その空気感、距離感が



 圧倒的な



 違い



 なんだったな~って。







 神に感謝。
Copyright© 2010 Luke8488