カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『「謝罪」の軽さ』

2006-10-06 07:06:30 | Weblog
 いつからだろう。




 バブルがはじけて、浮ついて本業以外で金儲けをして調子に乗ってた企業の化けの皮がはがれ始めて



 
 国民の税金の垂れ流しで、必要もない道路やクアハウスなどの一見地域住民のためみたいな顔した政治家の力の誇示と勘違いした公務員と一部の関連業者の満足のために作られた負の遺産の数々。




 「まあまあまあまあ」で済まされてきたことが




 コンプライアンス(法令遵守)や




 単純に「ムダの低減」という意識の高まりなどで




 「それってやっぱりおかしいじゃん。」という基本的な疑問がパンパンに膨らんで




 「ごまかし」が利かなくなってきている。




 そのせいか




 マスメディアで




 組織のトップが毎日一列に並んで




 「大変申し訳ありませんでした。」と頭を下げている。



 
 過失を認めて謝罪するのを決して否定するものではないが




 あまりにも形骸化しているというか




 ひとつのセレモニー化してしまっていて




 「軽い」




 日本人の好きな「潔さ」をうまく利用しちゃえ、みたいな感じすらする。




 まあ「ごめんなさい。」「すみません。」すらちゃんと言えないヤツらは問題外だから、まだましか。




 何年か前のドラマで女の子を妊娠させてしまって責任が取れない息子と父親が一緒に謝りに行くというシチュエーションがあった。



 田舎で生活している父親はかぼちゃをカバン一杯に詰め込んで



 「とにかく謝っちゃおう。」といって息子を連れて土下座をする。



 相手の親族が言う



 「誠意ってなんですか?」





 小学校4年生の時から「いじめ」がはじまっていて去年の9月、6年生の時に自ら命を絶つ選択をしてしまった女の子。



 マスコミに目をつけられて、事実が白日の下にさらされて、2000通に及ぶ抗議を受けて



 ようやく重い腰を上げて



 事実を認めて



 すまなそうな顔をして



 土下座をする。



 ひとつの大事な小さな命がその炎を消して



 一年後に。



 責任の所在、着地点を探してただけで



 自分の経歴に傷を付けないように試行錯誤してただけで



 「傷ついた心」のケアなどは優先順位で最下位に置き



 再発防止や原因究明などは学校の敷地の外を流れるドブ川にプカプカ浮かべておいて



 なんだかなぁ。





 「罪を憎んで、人を憎まず」



 

 わかっちゃいるけど。





 「赦しあい。」




 信じているのだけれど。




 う~ん。







 神に感謝。
Copyright© 2006 Luke8488


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