カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『パコ~んと』

2009-09-14 22:22:22 | Weblog
 日曜日の朝ミサの侍者奉仕に復帰した


 初日の第二朗読部分で


 アタマを


 パコ~んと叩かれた。


 アタマの中では、ドンピシャ~って音に聞こえた。



 「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、

  行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。

  そのような信仰が、彼を救うことがでくるでしょうか。

  もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

  あなた方のだれかが、彼らに、

  「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」

  と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何に役に立つでしょう。

  信仰もこれと同じです。

  行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

  しかし、

  「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」という人があるかもしれません。

  行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。

  わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(ヤコブ2・14-18)


 神さまは、聖書を通して


 そして十字架のその向こうに


 いまの目の前で


 福音を告げ知らせてくれている。


 それに気づけるのか


 それに気づけるほんの少しの静寂に包み込まれることができるのか


 一瞬でも心おだやかになれるのか


 叩かれたアタマは


 痛みなど無く


 軽くてかわいた音がした。


 この音は決して、騒がしい銅鑼(ドラ)の音では無かった。





 神に感謝。
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『グググって』

2009-09-12 18:18:18 | Weblog
 自転車の後輪が


 何かに引っかかって


 ブレーキを握っているかのように


 グググって


 動かなくなった。


 わかっていた。


 わかっていた結果。


 三週間ぐらい前から後輪のスポークが1本外れていた。


 ある日、とても手早くて、自転車のことを大切にしている近所の自転車屋さんの前を通りかかったので状況を見てもらうところまでは進んだのだけれど


 時間がなかったことと、なんとなく歩く元気がなかったので


 先送りした。


 その後も自転車に乗るたびに後輪を見ながら


 車軸を中心にして蛇行がはじまってしまっていたが


 タイミングを逃し続けて


 結局は、4本のスポークが外れるに至って


 走れる状況ではなくなった。


 「たった一本程度ならまだ走れる。」


 「そのうちに直そう。」


 そんなわかりきっている


 こんなにも想定内に


 導き出される結果。


 もっといえば、判断ミス。


 結局、2000円程度の修理代で済んだモノが3500円にもなったし。


 つまらないことのようだけれど


 やっぱりそこから何かを考えろと


 問いかけられているような気がする。


 ここに至るまでのプロセス


 油断や


 めんどうくさいや


 いろいろなことが重なったにしても


 ただただ


 やるかやらないかの


 単純な選択だったということ


 実は


 毎日、毎時、毎分、毎秒


 そんなことを繰り返しているのだけれど


 すべては、生きていくためのの営みにつながっている。


 例えば、心臓の鼓動は、意識して動かしていないし


 呼吸も意識していない。


 意識してやることの方が、悩ましいとが何と多いことかとあらためて思ったりする。

 優先順位や


 思惑や


 バランスや


 これらを考え選択しているから実はおもしろかったりもするのだけれど


 浅はかさが露呈して


 凹む要因にもなっている。


 たぶん


 本当にモノやヒトを大切に思い、大切にする人は


 そもそも


 先送りしていない。






 宇宙船が、未知の星の未開の土地に着陸した。





 神に感謝。
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『17年ぶり』

2009-09-09 23:23:23 | Weblog
 ぼくの知りうる範囲の中の


 「歌」というカテゴリーの総合ランキングで


 トップ3に入っている


 歌姫が復活した。


 実は、めちゃめちゃファンというワケでもないのだが


 彼女のCDは、いまでもぼくの中ではヘビーローテで


 癒しとか、パワーとか


 とにかく気持ちがイイ。


 たしか、ゴスペルがベースにあって


 彼女のおばさんも歌手で、過去に大ヒットを連発していて


 旦那さんも一世を風靡した歌手。


 17年前に彼女自身も出演した映画のサウンドトラック盤は


 全世界で3000万枚のセールスを記録した。


 その後は、あまり良いウワサを聞かなくなった。


 薬物依存、家庭内暴力、激やせ。


 彼女は46歳になっていた。


 最新の歌声は、TV越しにしか聞き取ることしかできないが


 ここまでの歴史が


 これまでの出来事が


 その歌声に見え隠れしている。


 こういう復活って素直にイイなと思う。


 ぼくらの住む国では


 一度でも失敗しちゃった人にやさしくない、気がする。


 もちろん、やってはいけないことってことは、最低限ルールに則って生活していかないといけなくて、それが無くなったらなんでもありのめちゃくちゃな世界になっちゃうから


 みんな様々な欲求や不安を我慢して、それらと向き合って、折り合いをつけて生きている。


 だから、社会的な制裁という目に見えるカタチで


 お灸をすえられる。反省する、更生する


 考える機会を与えられる。


 でも「また同じことをしでかすんじゃないか。」とか


 危機管理とか


 自己責任とか


 いろいろな大義名分があって


 次なるチャンスは、与えられない。ほとんど。


 ここをゆるくしてしまうとすべてがぐずぐずになってしまうかのごとく


 管理され、従っている。悪いことではない。


 こういうパターンがしっかりしているから


 日本はある面で平和だったり、道徳心が高いといわれるのかもしれない。






 罪を憎んで、人を憎まず





 復活という言葉は


 ぼくらにはスペシャルです。


 でもどこでもいつでも復活は起こっていて


 小さな奇跡みたいなことも気がつけばたくさん起こっている。


 そこまで行ったから気がつくこと


 そこまで行かなきゃ止まらなかったこと


 


 そして




 いま。





 復活は


 華々しくないかもしれない


 ほかの人にはわからないかもしれない


 でも


 今日も


 目の前で起きている。


 見えるか


 見えないか


 ずっと昔から


 目の前で起きている。






 神に感謝。
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『それでもいいのか』

2009-09-08 23:23:23 | Weblog
 このところ、何らかの行動を起こすときに


 妙に腰が重い。


 太ってしまったとか、判断や反応が鈍くなったってことではない。


 モチベーション(動機づけ、やる気)が、上がりづらいというか


 「とにかくやってしまえ。」という感覚ではなく


 そのことの本質というか


 例えば、どうして、どのような理由や目的で「あること」がスタートしたのかとか


 なぜ、やめようとするのか、やめたのかという


 以外とわかったようでいて、実は、納得しきれないこと


 がわかっているところ周辺で


 足踏みをしてしまう。


 理屈っぽいってのとはちょっと違っていて


 「それって、趣旨と違っている。」と思うとそれを打ち消してまで、ある意味勢いやノリだけで乗り切ってしまおうという風にシフトチェンジができない。


 それが、責任ある立場であればあるほど強くなっている。


 「むずかしく考えること無いじゃん。」


 そう言われたら


 いまのぼくの答えは簡単。


 「だって、つまんないだもん。」


 それが、きっと、責任放棄や自分勝手となるのだから


 動かない方が良い、というところに収束していく。


 これは、燃え尽きたとか、目標を失ったとかそういう類(たぐい)ではないから困っている。


 正論を振りかざして、ないしは押し隠して


 そこにいるということが


 すさまじく


 苦痛というか


 イヤなのだ。


 「じゃあ、何もしないでいいんじゃない。」


 そこがまた悩ましいところで


 考えることまでやめることができない。


 「それって、歳とったってことじゃない。」


 そこに軟着陸できるほど歳もとってないし、人間もできていない。


 何かのプロセスであることを期待するが


 そうやって上手にエスケープすらできない。






 ねぇ、それって、なんでやってんだっけ?





 ベクトルが見えない。


 でも


 個人の思いなどとは、全く無関係で


 時は進み、出来事は起こり続け


 記憶の隅にどんどんと押しやられていく。


 このモヤモヤ感は


 いつしか


 消え薄れていくのだろうか。


 どうしたものか


 どうしようもない。






 神に感謝。
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『数字持つ意味』

2009-09-07 23:23:23 | Weblog
 仕事で年間購読しているあるビジネス系の雑誌の特集が


 新宗教


 だった。


 そこには、今回の衆議院選挙における宗教団体の影響力だとか


 全宗教法人信者数ランキングだとかが掲載されていた。


 たまには、こういう統計データも悪くはないなと思って、さっそくランキング表を開く。


 やっぱり気になるのは「カトリック中央協議会」のランキングです。


 「気になる」というのは、単純に興味があるということであって


 思ったより順位が上か下かで、一喜一憂する「気になる」ではない。


 この雑誌には、トップの神社本庁からいちばん少数の団体まで552が信者数の多い方から順位付けされている。


 信者数というのは、各教団が発表というか報告した数だろうからどの程度信憑性があるかはわからない。


 実際、11,000,000とか500,000とかキリのいい数字がいくつか並んでいるところをみると、数字に細かい日本人の集計したデータとすれば


 今回の数字は、今ひとつなような気もするが


 まぁ、お楽しみ程度ならばそれくらいで良いのかもしれない。


 しかし、このような雑誌という媒体の持つマスコミュニケーションのパワーを考えると、ちょっとこわい感じもある。


 ぼくらのアタマの中も「数字」にかなり影響され、ある意味支配というか、何かを測るものさしとしている。


 一応、調査対象は、文部科学大臣及び都道府県知事所轄の包括宗教法人全400団体、文部科学大臣所轄の単位宗教法人のうち単立宗教法人全430団体で


 神道系、仏教系、キリスト教系、諸派の4つに大きく分けられていて


 その中でも新宗教と伝統宗教に分けられている。


 調査への回答がなかった場合は、文化庁が編集している「宗教年鑑」からデータを引用したらしい。


 ちなみに現在の日本の宗教界は


 財団法人日本宗教連盟を頂点にして、おおむね五つの協力団体


 神社本庁、教派神道連合会、全日本仏教会、日本キリスト教連合会、新日本宗教団体連合会から成り立っているのだそうだ。


 かといって、なんだか1回くらいは耳にしたことがある宗教法人がどこにも属していないケースのも多々あるので、やはり括るのは難しいのだろう。
 

 


 「カトリック中央協議会」信者数452,136人、教師数(ここでは神父様の人数)1,579人






 現在の日本の総人口が約1億2,760万人らしいので


 計算すると約0.35%


  



 数字の意味。






 神に感謝
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『この日』

2009-09-06 23:23:23 | Weblog
 9月6日は


 ぼくの代親だった方が帰天された日で


 かつ、神さまの粋な計らいで


 ぼくらの結婚記念日だったりするので


 たいへん味わい深いメモリアルデー&アニバーサリーデーになっている。


 基本というか、根っこというか、初心みたいなものを見つめ直す


 ぼくにとっても大切な一日。


 日曜日とも重なって


 ごミサの中でも


 じっくりと祈ります。


 いろいろなことが浮かんでは消え


 浮かんでは消えします。


 そして


 ふんわりと


 ゆ~くりと


 ダウンジャケットに使われている鳥の羽が


 ふかふかの


 寝ころびたくなるような


 ふわふわの


 草原の芝生の上に


 降り立つように


 ぼくの気持ちも


 着地点を見つけます。


 そこには


 すごくシンプルな


 そして


 すごく透き通っている


 深い泉のような


 それでいて


 あたたかい


 場所が待っていました。





 感謝






 看板も表札もないその場所なのだけれど


 物理的な証拠や理由などが不必要なその場所には


 間違いなく


 感謝


 と記されています。


 17年という歴史に


 これからの未来に


 こころから感謝します。





 「ありがとう。」






 神に感謝。
Copyright© 2009 Luke8488

『読んでね。とか言ってないから』

2009-09-04 23:23:23 | Weblog
 いまでもたまに


 「あのブログ書いてるluke8488って、あなたなの?」


 と聞かれることがある。


 ぼくは、基本的には、肯定も否定もしないようにしているのだけれど


 どんな理由であれ


 「見つけてもらったこと」は、素直にうれしいと思うから、やっぱり最終的には肯定しちゃっていることが多い(笑)


 ブログは、日記みたいなものだし、押し売りするものでもないので


 「ねえねえ、今度ブログはじめたから読んでね」とかは言っていない。


 いや、書き始めの頃には、一部の人には言った。


 そんなこと言いながらブログの看板(タイトル)を、カトリック高円寺教会ANNEXなどとして掲げているので、矛盾していたりもする。


 実際、800回以上書いてきた中には、試行錯誤みたないものもあって、見てくれている人たちが増えていく過程においては、もっと、もっとと躍起になっていた時期もあったことは事実。


 ときには、必ず、ある誰かに届くことを信じてメッセージを送ることもしてきた。


 家族からは、そんなに家のことを赤裸々に表現しないで、と怒られた時期もあった。


 ブログに逃げ込むなと厳しいツッコミをされたこともある。


 しかし、いまでもこのブログは、ぼくにとって都合のイイはけ口だし


 今後もそうあり続けることだと思う。


 ただし、神さまとの出会いによるいろいろな変化を、成人洗礼に与ったものとして刻んでいくことをライフワーク的にやっていくにはすごくありがたい環境のひとつがこのブログだとも思っている。


 その中で、なにか1つの言葉でも、雰囲気でも何でもイイのでちょっとだけ気になって、きっかけのそのまたきっかけくらいの


 ちいさなチカラのようなものが


 まだ見たことのない


 どこかにいる誰かに


 そよ風にも満たない何かになって


 他の何かの働きかけをほんの少しでも後押しするような


 そんなことになったら


 ぼくの基本である


 恩返し


 になっていたりするといいなと思っている。


 ほんのちょこっとだけ


 先に気がついた


 そのよろこびや


 葛藤や


 インパクトを


 刻んでいこうと思っている。


 そして


 今日も


 救われている。







 つづけること。







 神に感謝。
Copyright© 2009 Luke8488

『大差負け』

2009-09-02 22:02:22 | Weblog
 競争や勝負では、できることなら負けたくない。


 かといって、常に勝ち続けられることなど無いということもわかっているつもり。


 ただし、まれに負けられない、負けたくない戦いというのもある。


 受験やオーディション、最近のネタで言えば、選挙などもその類といえる。


 もちろん負けたからといって、命まで取られるわけではないので


 そういう意味では、サムライが生活していた時代の「父の敵討ち(かたきうち)」みたいな状況ほど、切羽詰まってはいないかもしれない。


 「生きていること自体が戦いだ。」という人がいるが、あながち間違ってはいないが、食物連鎖によって草食動物が、肉食動物に食べられてしまうような逃れられない危機的状況でもなかったりする。


 そうは言っても、さまざまな場面で、競争原理は働いていて、やっぱり知らず知らずのうちにその渦の中に漂っている。


 ここ数年は、積極的に争うことから離れて歩いてきた。


 それは「逃げる」というのとは、ちょっと違って、いや逃げでもイイのだけれど


 なんとなくそんな風にしてきた。


 たまに、少しだけアツく議論を交わしていると「luke8488さん、この前、けんかみたいになってましたよね。」などと言われてしまうのだけれど、あはははってな感じで、言い訳もしないが、まぁ、取り方は人それぞれなので仕方がないが、ま、イイや。


 そうはいっても、競争しなければならないときがやってくる。


 考えられる範囲で万全に準備して、最善まではいかないにしても可能な限りパフォーマンスを繰り広げ、予選をクリア。


 決勝レースで、最後の水壕を飛び越えて、後は最後の直線、何とか逃げ切ったかと思って、横を見たら何とかしのぎきったと顔を上げたら


 とっくのとんまにゴールした勝者が、国旗だかなんだかを肩からかけて


 ウィニングランで、すでに競技場の半分になるところを走っていた。


 と感じてしまうくらいの


 大差負け。


 その上、勝利者インタビューをしているアナウンサーの一言目が


 「いや~、さすがお家柄からして違いますね。」


 なんだそりゃ。


 まぁイイ、悔しくないと言ったら嘘になるし、


 闘争心に火をつけてもらうには


 十分すぎる一言だった。


 でも、やっぱり、そんなことまでしなくてもイイかって気持ちもあって


 ぼくのアタマの中で、その両者が、攻防戦を繰り返している。


 社会や仕事は、きれいごとだけでは済まされないし、常に競争を強いられる。


 勝ち組とか負け組とかふるいにかけられる。


 そしてここで信仰が、ぼくの信仰心がどのようにはたらき、何を思い、どんなアウトプットになるのか。


 なるようにしかならないが


 やはり、それはそれ、これはこれと切り離すことはしてはいけない、というか、理屈っぽいかもしれないが、そのヒミツみたいなところに


 求めている何かがあるような気がする。


 負けてもイイ


 いままでの人生でも、何度も負けてきた。


 でも


 負けることに慣れてしまいたくはない。


 糸口になれ。






 神に感謝。
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『イヤイヤ引率するのか』

2009-09-01 23:23:23 | Weblog
 日曜日の夕方、高円寺阿波踊りを軽~くひと蹴りして


 引率者として


 ライブハウスへ行った。


 引率者だろうが、内容が好みであろうが無かろうが、そんなこととは違う次元で


 ライブという環境はやっぱりイイ。


 全編スタンディングの設定で、娘たちは三時間半ノリノリだったことだろう。


 ぼくは、壁際の数少ないイスをゲットし、ちょっと冷めながらも評論家気取りにならないように雰囲気に紛れ込んだ。


 表現者と観衆の何かが交錯する瞬間、その、ほんの一瞬。


 どこであれ、誰であれ、その刹那が


 心地よかったりする。


 もちろんパフォーマーの力量と時間が比例していなければ、苦行のようなときを過ごさなければならなくなるのだけれど


 案外、自分の現状を推し量るものさしになったりする。


 今回は、全くもって人生初のジャンルに挑戦したような感じだったのだけれど


 まぁ、食わず嫌いはもったいない。


 良い勉強になったと思えば、この時間と空間にいたことが無駄にはならないし。


 非常にマニアックなライブだったけれど


 少なくとも300人近くの人が集まってきて、満足して帰路についているという事実。


 いつの日にか、ライブハウスをやってみたいという気持ちが、また一段と強くなった。


 他にもやりたいことがあるので優先順位が上位であるかどうかは別にして


 ライブには、そんな魅力を感じている。


 漠然としたゴールというか、スタートラインみたいなものが


 すごく遠くにぼんやり見え隠れしている。


 思いの強さがあれば


 いま何をしなければならないのかが


 明確になる。


 あきらめたくないこと


 あきらめなければならないこと


 舞台で演じる側


 その舞台を見ている側


 その舞台を支えている側


 さまざまなポジションがあって


 それぞれに役割があって


 必ず誰にでも満遍なく役割があって


 何もしないことすら役割だったりして


 いろいろな向き合い方があって


 適性や上手下手なんてのがあって


 妥協やら納得やらいろいろあって


 などと


 この大音響のライブの中で思いをめぐらせている自分が、


 なんだかんだ言いながら


 この空間の中で異物感を醸し出しているのが


 なんだか気持ち悪くなった。


 親という義務感で、イヤイヤ引率しているという根っこが腐ってる感がダサいなと思った。


 娘が帰りの電車で


 「つきあってくれてありがとう。」と言った。


 引率者という立場を持てあましている自分に


 ちょっと凹んだ。






 神に感謝。
Copyright© 2009 Luke8488