カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『ほいじゃ』

2009-06-26 12:42:18 | Weblog
 ちょっくらロシアまで行ってきます。


 いま、久しぶりの上越新幹線に乗って新潟駅にむかっています。


 新潟空港からウラジオストクまで行ってトランジットして今回の最初の目的地であるヤクーツクに着くのが午前1時すぎくらい。


 さっき妻が、東京駅まで見送りにきてくれたのだけれど、なんかちょっと泣きました。新幹線の隣の席には誰も座ってないので、恥ずかしい姿を見られなくてよかったけどね。


 インターネットの環境がどの程度かわからないので微妙ですが、メールのやりとりやブログの更新はしてみようと思っています。


 今回時差は最大で2時間。ロシアのほうが早いようです。


 ほいじゃ、いってきます。


 お祈りください。


 あ~、おなかすいた。



 神に感謝。
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『ほんとうにあった話』

2009-06-25 07:07:07 | Weblog
 このことは、最近ぼくの身に起きた本当の話で、大騒ぎにすることでもないので家族以外には誰にも話さなかった出来事です。





 そこにいてくれるはずだったのに


 影も形もない。


 最後に見かけたのは


 雨の降る地下鉄の駅の近くのドラッグストアの前。


 ここでずっと待っていてくれるのだと思っていた。




 突然の別れ。





 何か手がかりがないのかと待っていてくれるはずだった場所周辺をウロウロしてみる。


 「もしかしたら」ふと思いつくが、あわててもしょうがない。落ち着こう。





 一晩モヤモヤしながら過ごした翌日は、梅雨の切れ間だったのだろう、太陽光線が容赦なく降りそそぎ、湿気も多いハードな環境だった。この先に起こる出来事を物語るかのように。


 少ない手がかりを頼りにいつもは乗り降りをすることのない駅で地下鉄を降りる。


 地上に出るとスーツの上着を羽織っていることが罰ゲームのような暑さと湿度だ。一応、ややこしい交渉事などがあるかもしれないのでラフな格好は選択しなかったので、いろんな意味で覚悟はできている。


 生まれて初めて歩く街並み。方向はこのままでいいのか。


 すれ違う人もいないので確かめることもできずに額の汗をハンカチでぬぐいながらすすんだ。


 駅からどれくらい歩いたのだろう。突然、その瞬間は、やってきた。


 立派な門構え


 その門の内側には何やらあやしいプレハブの小屋が建っている。


 都内でこれだけの広大な土地を保持しているということは、まあ、何をかいわんやというところだ。




 ここまで来たのだからもう引き下がることはできない。


 門に一歩近づいたその瞬間


 見たことのない青年がぼくの行く手を阻むかのように、しかし満面の笑みで話しかけてきた。


 一瞬身構えたが、ここは心を落ち着かせて口を開こうとしたその時!


 見覚えのある姿が、目の前に立ちふさがる彼の右の肩越しのずっと先に見えたのだ。


 彼は「こんにちは。」と行った後、今回のいきさつを話し始めた。


 ぼくは、安堵と同時に、なんとも形容しがたい、もやもやした気持ちのはけ口をさがしたが、そう思う間もなく彼は微笑みながら、事務的に条件提示をしてきたのだ。


 要するにお金で解決しろということだった。


 勝手に連れて行った上に、返して欲しければカネをよこせと。


 これではまるで拉致とか誘拐と同じではないか。身代金というやつだ。


 プレハブ小屋にはあと二人くらいが潜んでいるようだ。チカラでねじ伏せる選択は賢明ではないことは明白だ。援軍もいない。


 理由がどうあれ、目的は争うことではない。正当性や、ましてや罵詈雑言を並べても状況は好転しない。


 しかたない、条件を受け入れよう。理不尽だが優先しなければならないことは理解している。


 「わかりました。」


 ぼくは、要求通りのお金を差し出した。










 「え~、それでは、撤去料金と保管料金合わせて3000円の領収書です。タイヤの空気のほうはだいじょうぶみたいですね。それではお気をつけて。ご苦労様でした。」


 ペダルを踏み込むぼくの背中に夏の太陽が容赦なく、そのチカラを誇示していました。


 あ~、もったいなかったな。




 神に感謝。
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『最後かも』

2009-06-24 02:11:00 | Weblog
 「今日のごミサで、しばらくごミサに与れなくなる。」


 たぶんぼくが今度の金曜日から行くロシアの極東地区には、カトリック教会が無い。


 いや、あるのかもしれないが、通訳の彼は、ロシア正教会である可能性が高い。


 一応、彼と現地で合流して最初に確認したいのが、カトリック教会の有無と日曜日のごミサの時間だけれど、反応がどうなのかわからない。


 少し前に、KARPOSさんにアドバイスをいただいた「イエズス会」に問い合わせてみようかなと本気で考えたりもする。というか、問い合わせよう。


 さいわいなことに月~金が仕事で、土曜日が移動日、日曜日は準備の日となっている。


 タイミングが合えば、可能性は無くはないが


 出向いていくにはヨーロッパに近いモスクワとかサンクトペテルブルクではなく、極東と呼ばれているヤクーツク、ハバロフスク、そして樺太と呼ばれていたサハリンなのだ。


 ロシアの地図を思い出してほしい。


 シベリア鉄道という名前を聞いたことがあると思うけれど


 ヨーロッパに近いモスクワから日本海に近いウラジオストクまで9259kmの距離を走る。


 9259km。


 日本の最北端から最南端が約3000kmといわれているから想像するのもむずかしいかもしれない。


 新幹線の東京、新大阪間の距離が556.4km。


 ちなみに丸の内線が荻窪から池袋までの距離が27.4km。


 だんだんわかりずらい方向にすすんでしまった。




 久しぶりの長期出張。


 まぁ、長期といっても一ヶ月にも満たない23日間、たかが23日間。


 やり残したことが無いのかとか


 やることなすこと「これが最後かも」


 そんな風に考えるのは大袈裟であるのだけれど


 そんな風に考えると


 なんだかイイことも、あま良くないことも


 すべてが愛おしい感じがするのは、気のせいだろうか。


 しかし


 出張に行っても行かなくても


 この瞬間は、「いま」しかなくて


 常にというか、すべてのことが実は


 「最後かも」なのだ。


 そんな感受性で毎日を暮らしていたら、疲れてしまうかもしれないが


 いや、純粋にその考えを持ち続けられたら


 身のまわりに起こるすべてのことに対して


 大切に、丁寧に対処できるのではないだろうか。


 最後かものごミサ


 最後かもの典礼奉仕


 最後かものおはよう


 最後かものいつもありがとう


 最後かものごめんね


 最後かものハイタッチ


 せつないイメージの最後かもじゃないこの感じ、う~んうまく伝えられない。


 そうそう、ちょっとニュアンスが違うかもしれないけれど


 澤田神父様のいわれた数多くの福音の中で、大好きなフレーズのひとつにこんなものがある。


 「新しい朝に目が覚める。そして常にその新しい日が、人生のピークなんですよ。」


 90歳に近い、カリスマの福音が味わい深く


 クロスオーバーしてくる。


 一期一会という言葉の本質に目を向けることになったりする。


 少し寝苦しい真夜中に


 こんなことを考えている。


 
 あぁ、そう言えば平日の夕方にごミサに与れたね。





 神に感謝。
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『あっ、そこです。』

2009-06-23 23:23:23 | Weblog
 「タイタニック」という何年か前に大ヒットした映画が


 TVのBS系放送で放映されていた。


 DVD的にいえば後編部分、そう、氷山と衝突し、浸水が進んで


 とにもかくにもひたすら当時の超豪華大型客船が沈没していく様を描写していく。


 実話ではあるが、最初に観たときには、申し訳ないが、いわゆるハリウッド的な娯楽作品だなという程度の印象しかなかった。


 有名な、船尾で手を広げた女優(今年オスカー主演女優賞受賞した)を後ろから抱きかかえる男優のシーンを観ても


 ロマンティックのかけらも感じなかった。


 ところが、だ。


 ある場面を目にした途端に


 胸がしめつけられるというか、鳥肌が立って、アツいものがこみあげてきた。


 画面上では2秒に満たない、その一瞬。


 メインの芝居の後ろで、しっかりと、実にしっかりと行われていた


 その演技。


 浸水がはじまり、船が傾きはじめる。


 逃げまどう人々。


 老紳士は、自らの行く末を察知し、取り乱さず逃げようとしない。召使いも行動を共にする。パニックになっている船内で、イスに座り「ブランデーをくれ。」と叫ぶ。


 でもこの場面じゃない。


 この少し後にその場面はやってくる。


 傾き、浸水が進む船内、パニック人々


 その中で


 老夫婦が、ひとつのベッドで、手を握りながら横たわっているのだ。


 一縷の望みや可能性を塗りつぶしていってたどり着いたであろう


 最良の選択。


 ふたりにとっての最良の選択。


 ぼくは、妻のことを思い起こしていた。それも強烈に。


 もちろん破滅的な思想を述べたいのではない。


 無理矢理なこじつけになってしまうかもしれないけれど


 手に手を取って生きていくって


 この究極的な状況で


 こんな風に腹をくくれるっていうか


 夫婦の歴史って、いや出会いって


 こういうことだったんじゃんって


 なんだか、すっごく感じたというか、再認識したというか


 わかんないかもしれないけど


 とにかく強烈だった。


 じゃあ、日常生活で何かが劇的に変わるのかというと


 そうでもなかったりするのだけれど、まぁ、これはイイ意味でね。


 なんとも反省というか


 とにかく


 いろんなことがアタマをめぐったのです。


 こんなことがきっかけで。






 神に感謝。
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『あっちこっち』

2009-06-21 23:23:23 | Weblog
 日曜日のごミサのあとに


 「あっちこっちミサ」という全国規模で行われてきた企画の第4回目の東京教区のホスト教会のひとつとして(もう一カ所は千葉の松戸教会)高円寺教会の青年達がキッチリと準備をしてきたごミサに与った。


 前後に行われた分かち合いという名のレクリエーションでは、年齢的に、なかなか同じようにはじけ飛ぶことはできないが


 ごミサはとってもよかった。


 何度も言い訳のように書くけれど


 ごミサに良し悪し、優劣など無い。


 となると「とってもよかった。」という表現はおかしいことになるのだけれど


 相対評価(何かと比べて)という概念を取っ払ったということを前提に伝わって欲しいし


 逆に「個人のフィーリングが介在する余地だって無いでしょ」って突っ込まれてしまうかもしれないけれど


 まぁ、ややこしいことは抜きにして


 純粋にありがたかった。


 こういう言い方もちょっといやらしいかもしれないけど


 もっとたくさんのメインターゲットである青年層の人たちに知って欲しいと思ったし


 アクション(参加するという意味で)を起こしてもらえたらもっとつながりをそれぞれが実感するチャンスなのになと思った。


 これは評論ではないです。


 実行スタッフのみんなは大変だった。


 開催したことにも途轍もない意味やお恵みがあった。


 Next


 次が大事で


 大いに期待できるということだろう。





 ごミサの前に


 信仰告白のような、告解のような話をする機会に恵まれた。


 ほんの短い時間だったけれど


 これも大変ありがたかった。


 もう少し話したいというか、教えてもらいたい欲求もあるので


 ロシアから帰ってきたら


 そんなに遠くもないので


 訪ねて行ってみようかなと思ったりした。


 「あっちこっち」


 なんだかいろんな意味で象徴的な言葉だったのかもしれない。





 神に感謝。
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『だるまさんが』

2009-06-18 07:07:07 | Weblog
 「うん、モヤッとしていたものが、少し晴れやかになった。」


 19:00から23:30分少し前まで


 気がつけば4時間半


 二人だけで


 豊潤な時間をすごした。


 ビールと焼酎と焼き鳥


 久しぶりに


 気持ちのイイ


 アツくて


 なんともやさしくて


 ありがたい空気の中にいた。


 話を聞きながら


 ぼくの抱えているモヤモヤしたものまで


 まるで霧が晴れるかのように


 クリアになった。


 

 「だるまさんがころんだ。」




 一歩踏み出せた。


 


 「うん、モヤッとしていたものが、少し晴れやかになった。」


 「こちらこそ、ありがとう。」


 そう言って


 家路についた。


 なんだかとても清々しい。





 神に感謝。
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『考えること』

2009-06-16 23:00:25 | Weblog
 結果として「できる」ということはとても重要だけれど


 どのようにしてできるようになったのかで


 その価値は大きく違ってくる。


 だから、考えてできるようになった人には、人のプロセスが見える。


 ぼくは、むかし野球をやっていた。


 練習はキライだったが、結構真剣に考えて野球をやっていた。


 ある日突然打球が飛ばなくなる。ウソのように突然に。


 いやゆるスランプというヤツだ。


 どれだけバットを振ろうが、走り込みをしようが、まぁ笑ってしまうほど思うようにいかない。


 いまだに原因は不明だけれど、それを通り抜けるとなんだか進化したような気がした。


 あがき、苦しみ、試行錯誤したことが血になり肉となったのだろう。


 野球の中継を見ていて


 「いまのは、イイ空振りですね。」というセリフを聞いたことがある人も多いだろう。


 「「イイ空振り」って、結局バットがボールに当たってないんだからイイも悪いもないじゃん。」と思うかもしれないが


 ぼくにはそのニュアンスがわかる。


 例えが良いかどうかわからないが


 「考えている大工さん」と「考えていない大工さん」がいたとする。


 考えていない大工さんは、何も考えずに設計図に忠実に材料を加工し、クギをひたすら打ってきた場合のことを言っているのであって、表現の上っ面だけをなめてヘンなイメージをしてはいけない。


 しかし、「考えている大工さん」と「考えていない大工さん」の建てる家には大きな違いが現れてくる。


 そう言うと、またまた早合点をして


 「どうせ考えている大工さんが建てた家はイイ家で、考えていない大工さんの家はダメな家なんでしょ。」と思ってしまうかもしれないけど


 ことはそんなに単純ではない。


 たしかに考えていない大工さんの家が「イイ家」になることはない。


 しかし、考えてきた大工さんが建てた家だからといっても、必ずしも「イイ家」だとは限らないのだ。


 なぜなら、どんな家になるのかは、その大工さんが何を考えてきたかによって違ってくるから。


 どうしたら熱効率のイイ家になるのかということを考えてきた大工さんの建てる家は、熱効率のイイ、あたたかい家になることだろう。


 どうしたらコストを抑えられるかと考えてきた大工さんの建てる家は、徹底的にコストを削減した家になる。


 どうしたら住みやすい家になるのかと、どうやったら儲かる家が建てられるのかと考えてきた大工さんでは、行き着く先は当然違う。


 極論をしてしまえば


 アタマがイイか悪いかより


 考えているかいないかが重要なように


 同じ「考えている」でも


 何を考えているか


 どこまで考えているかということが


 実はとても重要だったりするのだ。


 仕事をしていて軸がブレてしまうことがある。


 たいていの場合は、目線がどこかに偏っている。


 仕事の本質が見えなくなったり、忘れていたりする。


 お客様によろこんでいただくことと


 そのよろこびが社会の中でどう役立っていくのかということ


 この両方が見えていれば


 軸がブレることがないだろう。


 深く考えると言うことは


 さまざまな目線で


 ひとつのものごとを考えつくすことといってもいいかもしれない。


 行き詰まったり


 それこそスランプに陥ったら


 ちょっと立ち止まって、そのことから離れてみる。


 でも生きていくためには続けていかなければならないことの方が多くて


 立ち止まれない場合は


 誰かと話をしよう。


 カッコウつけずに、熱く語ればイイと思う。


 ぼくもいまよりもアツかったときがあった。


 だから、少しは、話が聞ける。


 そして、ハッと気がつく。


 そんな刺激的な話をしたいときもある。


 何を考えればイイのかわからないときは


 そういう時なんだとあきらめればイイ。


 考えるのをあきらめるのではない。


 「そんなときもあるさ」って感じで。


 でもやっぱり不安になるんだけど


 ぼくらには究極的な


 立ち戻る場所がある。


 だから安心は確保されている。





 だからこわくない。






 神に感謝。
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『酔ってたから』

2009-06-15 00:37:12 | Weblog
 「お酒に酔っていて覚えてないかもしれないけど」


 そんな風に話題を切り出されることがあるけれど


 ぼくは、そんなことはほとんど無い。


 もちろんどれだけアルコールを飲んでも酔わないと言う意味ではない。


 顔も赤くなるし、リラックスしているほど眠くなってしまったりもする。


 いっしょに飲んでいる相手が酔った勢いで話したり、行動したりしたことで、覚えていなくいてもいいこと、たとえばストレス発散をしている様子などは、「ぼくも酔っていたから覚えていない。」といってスルーすることは多々ある。


 仲間と飲んでいるのだからある程度は自分のコントロールを意識することはないのだけれど、仕事での経験や性格上どうしても満遍なくケアというか、空気感を気にしているというか


 結果、陽気になって、調子づいているけれど


 酔って記憶を無くしたことは一度もない。


 それじゃあ、お酒飲んでる意味がないということをいう人もいるかもしれないが


 どうしようもない。


 ときには、酔っぱらったふりをして、ちょっと言いづらいうことをシラ~っと口にしたりすることもあるが、基本的に辛口なので、その違いに気づく人はいない。


 そろそろ、酔った勢いとか、その場のノリみたいなモノに気をつけないといけないお年頃にさしかかっている人もいる。


 「それが無くなったら、らしくないじゃん。」という意見もごもっともだが


 いい加減気づかないと


 暴走した言葉は


 発射した人の憂さ晴らしとは関係なく


 人の心を踏みにじる。


 言葉は人間だけが使えるもので


 決して軽くはない。


 そのうち、その発言に対して、責任や落とし前をつけなければならなくなる。


 酔ったときぐらい好きにしてイイし、ぼくもそうしている。


 でも


 その、この口から飛び出す言葉には


 品格、いやそんなに難しくなくてもイイや


 思いやりを欠かせてはいけないと思う。


 なぜ、人が動いてくれないのか。


 「もっと大人になりなさいよ。」というメッセージが


 言葉の後ろに見え隠れしている。


 間違えないで欲しいが、飲んで酔っぱらっているときにもたえず気をつかえと言っているのではない。


 言葉は残る。


 記憶にも


 心にも。


 問題提起をするのなら


 覚悟を持てということ。


 ただし


 間違っちゃたら


 素直に間違えを認めて謝ればイイ。


 などと書いては


 自己弁護をしているのか。


 だったら一人で飲んで酔っぱらっていることにしよう。





 神に感謝。
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『生きるということ。生きているということ。』

2009-06-13 09:27:17 | Weblog
 仕事が思ったようにすすんで


 夕方五時過ぎに、フリーな時間ができた。


 おひさまは随分西に傾いているけれど


 まだまだ元気で


 明るい光と、汗ばむような熱を届けている。


 こんなときは急いで家に帰って


 とにかく着替えて


 自転車で


 善福寺川沿いに広がる


 いつもの和田堀公園に向かう。


 サウナスーツは日々溜まった


 たぶん良くないであろう様々な何かを


 汗と一緒にカラダの内側から外側へ排出することを加速してくれる。


 この前の日曜日も


 ごミサにあずかった後に


 あまりの天気の良さに


 いてもたってもいられなくなって


 急いで家に帰って今日と同じ行動をとった。


 自転車を止めた丸太の柵の上に小さなアリがちょこちょこ歩いている。


 走り始める前にストレッチをする。


 地面には見たことの無い虫がもぞもぞと歩いている。


 ゆっくり走り始める。


 大型犬を散歩している人と三人連続すれ違う。


 ワンちゃんは毛の色が黒、白、黒の順番だった。


 走り出しはちょっと苦しい。


 鼓動が早くなるのがわかる。


 歩くのよりもほんの少し速いくらいのスピードでリズムが出てくる。


 

 何日か前に友人から連絡をもらった。


 「いい知らせじゃないんだけど。」


 鼓動が少し早くなった。


 共通の友が亡くなったという知らせだった。


 突然やってくる悲しい知らせ。




 走りながら彼のことを考えている。


 自分の中で消化しきれずに


 彼のことを考えている。


 遠くの教会で行われた葬儀ミサに行って、もしかしたら整理みたいなものができるのかなと思っていたけれど


 今回は、なかなか難しい。




 顔が上気してきて


 疲労感が襲ってくる。


 何で走ってるんだろうって思う。


 目的地まで歩いて行けばたどり着くのに


 何で走っているのだろう。


 そういえば、今日の走りには目的が無いかもしれない。


 スカッと汗をかきたいから?


 重くなってきたカラダからのSOSの具現化?


 苦しい思いをして、生きていることを実感したいから?




 彼は、沖縄に行ってきたといって


 パステル画が描かれたスケッチブックを持ってきて


 「時間が無いんだけど、ぜひ見て。」と言った、そう言った。



 
 走りながら「このまま鼓動が止まったら、家族はどうなるのかな」と考えた。




 彼のスケッチブックには


 ぼくが行ったことの無い沖縄の暑さが、熱さが


 溢れんばかりに


 まばゆいばかりに


 ぎっしりと詰まっていた。




 もう止まってしまおうという気持ちと、まだまだ走れるじゃんという気持ちがバトルをはじめる。


 つぎの橋まで、まだいける


 もしかしたら


 闘争心に火がつかなくて


 不完全燃焼してるんじゃないのかって思いつく。


 「がんばらなくてもいいよ。」って言葉は


 「何もしなくてイイ」ということとイコールだったりイコールじゃなかったりする。

 たぶん生きていくためには


 嫌でも続けていかなければならないことだってある。


 もちろん好きなことだけやって生きていけるのが理想だけれど。




 彼とはもう、話しをすることができない。





 「いい知らせじゃないんだけど。」と連絡をくれた友人の電話の奥でもうすぐ1歳になるかわいい赤ちゃんが元気に泣き声をあげた。


 


 生きるということ。


 生きているということ。





 葬儀ミサで神父様は言った。



 「もっときれいな心になって


  いつか彼のいるところに行きたい。」と。




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『欲しいものと必要なもの』

2009-06-02 23:23:05 | Weblog
 欲しいものと


 必要なものは


 似ているけど


 全然違う


 やりたいことと


 やらなきゃならないことが


 やっぱり違っているように。


 このところ企画について、企画することについて考えている時間が多い。


 目的があって


 主たるテーマが与えられて


 予算などというものも必ずくっついてくる。


 結構、集中して


 いろんな情報をかき集めて、取り揃えて


 でもまったくの新しいアイディアなんてなかなかひねり出せずに


 過去のものの焼き直しだったり


 組み合わせの妙だったりを演出して


 「そうそう、そんなのもアリだったよね。」と


 ほんのちょっとの隙間に新鮮ぽい空気を送り込んだり


 髪の毛を切って、メイクも変えてイメージチェンジしてみたり


 でもやっぱりそんな小手先のまやかしがイヤになって


 いま、この企画ことを考えている本質に引き戻されて


 行き詰まり


 頭の中では、獣道を歩いてみたり


 ゲタを履いて歩いてみたり


 新幹線に乗ってみたり


 潜水艦でもぐってみたり


 いろんなことを


 試行錯誤している。


 王道っていう道は


 そこに存在するのだけれど


 見えるようで見えなくて


 そこを歩いていることもあるのだけれど


 気がつけない。




 全編80枚の企画書が完成した。


 与えられた課題へのアウトプットたちが


 ぼくの手から離れて


 もうどうすることもできない状態で


 古代ローマの円形競技場、そうコロッセオに


 まだ見ぬ強豪たちと戦うために入っていった。


 しかし、負けは、死ではない。


 しかし、「しょうがないよ、相手が悪かったのだから」とか


 「この次に、今回の反省をいかして」などという生ぬるいものでもない。


 なるようにしかならないことはわかっているけど


 負けたくないとかってのもちょっと違うんだけど


 うまく表現できない。


 根本的にこういうことをやっているの好きなのだから


 充実しているのだけれども


 目的のもっと奥底にある本質に


 なかなかたどり着けない


 浅はかさにジリジリもする。




 欲しいものと


 必要なもの



 できることと


 やらなくてもいいこと



 誰かのことを思ってやることとと


 自己満足



 リードしていくことと


 見守ること



 できることがあったら自分の持っている能力を可能な限りその場で発揮するということと


 口も出さないけど、手も出さないってこと



 やっぱり


 やりたいからやるんだけど


 軸がぶれないようにしたい。


 やることがゴールではなく


 その本質にこだわっていたい。


 「すべてのことには意味がある。」という言葉を


 逃げ口上に使いたくない。


 でも、「やってから考える。」というのもアリだったりするから


 なかなか悩ましい。


 だから


 おもしろいともいえる。





 神に感謝。
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