カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『TAMEIKI』

2009-03-30 03:03:03 | Weblog
 このところの2週間くらいで


 何度


 ため息をついているのだろう。


 その間、ごミサに与っていながら


 このていたらくだ。


 いろいろなモノに


 押しつぶされそうな感覚に陥り


 はけ口すら


 自らの手ですべてふさいで


 逃げ場を失う。


 そして


 また


 ため息をつく。


 わかっていることが


 何も見えない。


 わかっているのかすら


 曖昧で


 口を開いても


 聞こえてくる


 自分の声も気持ちが悪い。


 そうして黙っていると


 バランスはさらに悪化し


 何か


 よどんだモノが


 どんどん、、どんどん溜まっていく。


 我慢できなくて


 また


 ため息をつく。


 そして


 この文章も


 かなり


 酷いと思いながら


 淡々とすすんでいく時の流れに


 順応できず


 それでも


 ただ惰性で歩き続けている


 自分に


 本当に嫌気がさす。


 何をしているのだろう。


 ぼくは


 何をしているのだろう。


 やらなければならないことは


 容赦なく


 積み重なって


 のしかかってくる。


 そんなことは


 わかっている。


 わかっている。


 でも


 なにも


 わかってない。








 神に感謝。
Copyright© 2009 Luke8488

『卒業する』

2009-03-21 23:24:25 | Weblog
 規定された履修科目やテスト、出席日数などをクリアして


 学校を卒業する。


 数年前に亡くなったシンガーソングライターは


 支配や戦いからの卒業と歌っていた。


 卒業していったい何がわかるというのかと問いかけていた。


 自由を得るためのプロセスだと叫んでいた。


 小学校の卒業式は


 問題提起や社会批判みたいなメッセージ性は無い。


 いくら時代が変わろうが、公立だろうが、私立だろうが


 地方だろうが、首都圏だろうが


 冷めていようが、感激して涙していようが


 すごくピュアで、感謝に満ちている。


 ほんの一瞬だけの、開放感がある。


 その開放感が清々しい。


 人生は続く


 入学があり


 卒業があり


 入社があり


 退社があり


 弟子入りがあり


 独立があり


 はじまりがあり


 続きがあり


 いつの日にか


 マイルストーンが置かれ


 次々にゴールが設定されていく。


 卒業はひとつのけじめ。


 おめでとう。


 だから卒業祝いに


 渋谷でデートをしました。


 もちろん娘とだから二人で出かけたってだけのことです。


 映画館で指定席を取り


 ランチをして


 UFOキャッチャーをして


 指定の時間になったので映画を見ました。


 ぼくは、娘と見るなら「ハルフウェイ」と決めていたのですが


 娘のチョイスは「フィッシュストーリー」でした。なかなかのチョイスです。


 この映画は、「無意味なことなんて何ひとつ無い。」ってことを1975年のパンクバンドのレコードから2012年の彗星衝突による地球滅亡の危機までのプロセスで伝えている(と思う。)


 「すべてのことには意味がある。」とこのブログでも何度も書いてきたけれど


 こういうアプローチの仕方もおもしろいと思う。


 FISH STORY(フィッシュストーリー)の意味が


 「ホラ話」っていうのもなんだかこのタイミングで出くわしちゃうのかって感じがする。


 卒業したことや


 映画を見に行ったこと


 なにひとつ


 FISH STORY(ホラ話)じゃないのに。


 こんな休日も


 たまにはイイ。





 神に感謝。
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『終幕は』

2009-03-16 07:07:07 | Weblog
 2005年9月3日に1回目

 2005年12月25日に2回目

 2006年5月7日に3回目

 2006年11月19日に4回目

 2007年2月18日に4.5回目

 2007年9月23日に5回目

 2008年7月6日に6回目

 2008年12月31日に年越しライブ

 2009年3月14日に7回目

 約3年半で9回

 参加バンド数 20組(複数回出演は含まず)

 述べ動員数 600人くらい

 これがLive『VOICE』の歴史です。

 「やろう」「やりたい」ってことを実際にカタチにする。

 大義名分や明確な目的が有ったのか、無かったのか

 まぁ、そんなことは後から追いかけてきてもらうことにして

 とにかく

 「やった」ってこと。

 「教会の入り口にライブ開催のポスターが貼ってあったので、初めて教会に入ってきました。」これがリアル。

 居場所

 思いのはけ口

 交流の場

 何でもイイ。


 誰かの心の叫びを


 歌詞に変換されたカオスの一番絞りを


 メロディーという風のそよぎを


 その空間で


 真正面から受け止めて


 何かに共鳴する。


 どこかが同調する。


 感動。


 終幕は


 すがすがしい


 そして


 新生への鼓動が


 もう


 うっすらと


 耳の奥底で


 心の真ん中で


 躍動し始めているのを


 感じる。


 出演者のみなさん


 スタッフのみなさん


 ありがとう。


 

 「ど~も、Benny16thです。」



 このひとことを聞きたくて


 毎回やってました。


 気が済みました。


 あ~、おもしろかった。






 神に感謝。
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『ゴロゴロと転がってきた雪だるまが、目の前でパカッと割れた』

2009-03-11 03:03:03 | Weblog
 Live『VOICE』ブログ本日更新中!!!

 Live『VOICE』7th The FINAL
 3月14日土曜日14時開演 入場無料
 カトリック高円寺教会マイエホールにて


 目を閉じて食べ物を口にした経験がありますか。


 情報が無くて、見た目で想像した味と全く違う味や食感だったりした経験はありますか。


 実は、すっごく冷たいモノを「熱いから気をつけて!」と急に手渡されたときに思わず「アッチチチ~。」と叫んでしまったことはありませんか。


 目が不自由な方と接したことがありますか。


 初めて顔を合わせた人が、目が不自由な人だったらどうしますか。


 たまたま、そんな話になった。


 大先輩のカトリック信者の方と二人だけで一杯やっているときにこんな話になった。


 もちろん例え話としてだったんだけど


 ポカポカと暖房の効くお店の中で


 ぼくだけビンビンと鳥肌が立ちっぱなしだった。


 そのゾクゾクが実はぼくの弱さだった。


 ぼくは、何もわかっていなかった。そんなことを実感させてもらった。


 「いまのあなたは、たとえば、目に不自由な人に対して


  目が見えないことってことの事実に対して


  「だいじょうぶですよ、安心してくださいね。」って言ってみたり


  何とかその状況を変えてあげようと、原因を探って、


  少しでも見えるようにしてあげたいなと必死に腕の良いお医者さんを捜してみたり

  そんなアプローチにしかたしかできてないんじゃないかなぁ。


  共感するってことはさぁ


  一見前向きに見える、あなたのような考え方は、ただのパフォーマンスでしかなくて


  ほんとうに共感するっていうのは


  目は不自由だけど、耳と口は丈夫だから、指先やほっぺたの感覚はだいじょうぶだから


  ひとつの大きなハンディキャップを補えるようにその他の健常な部分にいっしょうけんめい働きかけてあげることをなんじゃないのかな。


  理屈をこねていないで


  先ずは、このテーブルにのっている食べ物をその人の口に運びながら


  これは、鶏の唐揚げです。ここのお店は、これが看板メニューで、すっごくおいしいんです。


  ただし噛むときに肉汁が飛び出してくるので気をつけてくださいね。みたいに行動しながら必死に、できる限りのボキャブラリーを使って何かを伝えようとしたことがあるのだろうか。」


 「バリアフリーにしようとか、点字ブロックを充実させようとか


  目線が高飛車になってないのかな。


  もちろん、そんな風に考える人たちも必要だよ。


  でも、なんかやさしいようで


  やさしくない感じがする。」


 長い会話の中の一部だけを抜き取ったから、なかなか伝わりづらいかもしれないが

 一方的に責められている感じでは一切無かったし


 まあ、ほんとうに目からウロコというか


 目からボトッと丸太が抜け落ちたような感じすらした。


 目が見えない人というのは


 実は、ぼく自身で


 周りの人たちに


 いろいろと助けてもらっていることに気づいていなかったり


 心底感謝していないから


 頭でっかちで


 うれしかったことを


 もうひとりの誰かに


 自分がしてもらったことと同じように


 いやこの「同じように」ってのがくせ者で


 ヘンに加工しようとするからかっこつけてしまうので


 自分がしてもらってうれしかったこと


 そのままを


 素直に


 いっしょうけんめい


 誰かに伝えることをしなくちゃなって思った。


 上澄みだけをすくって


 わかったような顔をしてちゃダメなんだって。


 それは、真剣に向き合ってることにはならないんだって


 良かれと思ってやったことを


 否定されるのがコワイから


 何もしてないことと同じなんだって。


 そして


 たとえ否定されても


 何も恐れること無いんだよって


 そんなところに着地しました。


 そういえば、妻がぼくによく言う


 「あなたは、ほんとうにやさしいとは言えない。」と。





 神に感謝。
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『心から』

2009-03-07 22:49:39 | Weblog
 心から


 おめでとうと言いたい。


 教会で毎週土曜日の夜に開かれる宴。


 さまざまな人生が交錯して


 さまざまな考えが融合して


 化学反応が起きたりする。


 その化学反応こそ


 神さまの御わざそのものだと実感する瞬間。


 聖霊の働きが事実として目の前で繰り広げられる


 リアル。


 だからリアルタイムでブログに書き記したい。


 今晩の交流会で洗礼を受けると宣言した仲間がいた。


 その仲間は言った。


 「プロセスだったんですね。」


 「すべてのことには意味があるってことがよくわかりました。」


 入門係をやっていて


 神さまのお恵みを感じる瞬間。


 ほんとうに


 心から


 おめでとうと伝えたい。


 よろこびの知らせ


 これこそ


 福音。


 涙が出ます。





 神に感謝。
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『水になりきる』

2009-03-05 07:07:07 | Weblog
 Live『VOICE』ブログ更新中!!!

 Live『VOICE』7th The FINAL
 3月14日土曜日14時開演 入場無料
 カトリック高円寺教会マイエホールにて



 最近どうも「脳」に関する本が身の回りに集まってくるような感じがある。


 それが、また、おもしろい内容だったりする。


 たぶんアンテナがそちらに伸びているからだろうが、情報を取り入れているだけではバランスが悪くなるので


 ブログでアウトプットしてしまおうと思う。


 早く泳ぎたいのなら


 「プールの水になりきってしまえ。」


 水泳をしていていちばん邪魔なのは何といっても


 水の抵抗。


 だったら、自分も水になりきってしまえばいい。


 自分が水と一体化してしまえば、脳が水を「抵抗」とみなさなくなので、それが運動神経にも伝わって、抵抗感なく、より速く泳げる。


 この本を書いた脳神経外科医の先生は、記憶にも新しい、北京オリンピックの競泳日本代表チームのコーチをもしました。


 「そんなのモノの考え方ってことだろ。」って評論するのは自由。でも評論家をしている人は、いつまでも同じところで足踏みしてるだけ。


 0コンマ何秒を競っているアスリートにはかなりの効果があるようです。


 一般社会で、人間関係に置きかえればもうちょっとわかりやすいかもしれない。


 こどもの頃からずっと言われてきて、大人になってもなかなか実践できないことが多い考え方のひとつ


 「相手の立場になって考えてみよう。」


 「どんな相手でもまず自分から好きになりなさい。」


 わかりやすくなったけど


 「そんなこと言ったてさぁ・・・」という心の叫びがこのブログに降りそそがれているのが目に見えるようだ。


 人は、傷つきたくない。誰でも。


 自分から起こしたアクションに反応がないのは悲しい。(おやじギャグの場合は、これがいずれ快感に変わる(笑))


 自分から起こしたアクションへの反応が、自分の期待したモノで無いとさびしいし、ときには酷く痛かったりもする。


 これを憎しみで投げ返しちゃったりする。


 理解しがたいことに反発してしまっている。


 これを「戦争」というのではないだろうか。





 水になりきる。


 空気になりきる必要はない。


 相手の立場になって考える。いつもより真剣に、深く考えてみる。


 四旬節のいま


 我慢することばかりではなく


 やってみること。





 キリストのように考え


 キリストのように話し


 キリストのように行い


 キリストのように愛そう





 神に感謝。
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『前に進み出る』

2009-03-01 23:23:23 | Weblog
 志願とは

 [名]自分から進んで願い出ること。ある事を望み願うこと。


 洗礼志願式


 今年も神さまに導かれ


 自らあらたなる一歩を踏み出すこととなった方々が


 聖堂の前の席にずらり並んだ。


 清々しく


 初々しい。


 ごミサのあとは


 洗礼志願者と代親が昼食を取りながらの懇親会。


 聖堂の真下にあるマイエホールに用意した


 懇親会場の100席は


 あっという間に


 笑顔で埋め尽くされた。


 志願とは

 [名]自分から進んで願い出ること。ある事を望み願うこと。


 全世界の洗礼志願者のみなさんのためにお祈りください。





 神に感謝。
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