カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『いろいろお世話になりました』

2008-12-30 07:07:07 | Weblog
 「今年もいろいろお世話になりました。」


 「こちらこそ、いつもいつも、たすけていただきました。」


 年末に交わした短い一言。


 そして一献。


 こうして


 一年を締めくくって


 新しい一年を


 迎えます。


 けじめ。


 アクセント


 メリハリ


 きっかけ


 今年携わったこと


 出会った人


 すべてに感謝します。





 神に感謝。
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『教会で年越し』

2008-12-29 07:07:07 | Weblog
 大晦日に


 忘年会をします。


 Live『VOICE』実行委員会が用意する


 今年最後の


 「愛」の告白。


 12月31日(水)19:30開演予定。


 この忘年会では


 アルコール類を出しません。


 熱々おでんや


 愛情の一杯詰まったおむすびなどを用意しています。


 その後に


 高円寺教会では


 何年かぶりに


 2009年1月1日00:00ジャスト


 夜半ミサが執り行われます。


 幸い


 地下鉄は動いています。


 どんな年越しになるのか


 いまから


 楽しみです。


 ちなみに


 ごミサの後には


 盛大な乾杯が待っています。


 ごミサまで


 あたたかくて


 安心できて


 何の気兼ねもいらない


 カトリック高円寺教会のマイエホールで


 ゆる~く


 音楽などを聴きながら


 教会で年越し。


 「あると思います。」





 神に感謝。
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『万感の想いを込めて』

2008-12-25 01:01:01 | Weblog
 一年ぶりに聞く

 あの調べ。

 この日にだけのために用意された

 スペシャルな曲。

 響く

 オルガンの音。




 今年は

 入祭の先頭で

 香炉を持って

 ゆっくり

 ゆっくり

 ゆっくり

 この日を

 この瞬間を

 味わうように

 歩いた。



 神さまにほんの少しだけ近い場所での

 典礼奉仕。

 

 心から祈った。

 様々な思い、願いを

 すべて

 神さまに手渡すように。



 前のめりになるくらいに

 この

 神聖なる緊張感を

 楽しんでいた。



 この日初めて教会に来た人は何人いたのだろう。

 お生まれになり

 馬糟(まぶね)に横たわる 

 おさなごイエスさまのように

 両手を広げて

 「ようこそ

  よくぞここまで

  はじめまして。」と

 お迎えしたい。

 愛で

 神さまの愛が

 包み込むように。

 

 メリークリスマス



 神に感謝。
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『クリスマスの夜には』

2008-12-23 12:00:00 | Weblog
 スペシャルな夜がやってきます。

 ぼくの原点。

 神さまとの

 ファーストコンタクト。

 

 「クリスマスの夜は」


 クリスマスの夜は やさしいこころで 迎えたい
 
 いつも おこってばかりいた
 
 いじわるで つめたかったから
 
 迎えたい この夜だけは ほほえみとあったかいことばで


 クリスマスの夜は キャンドル灯して 祈りたい

 いつも 自分のことばかり

 住む家も ない人のために

 祈りたい この夜だけは わたしにも何かできるはずと



 クリスマスの夜は このプレゼントを 贈りたい

 いつも なにもできないけど

 たいせつな あなたへの想い

 贈りたい この夜だけは とくべつのありがとうをこめて



 クリスマスの夜は 天使といっしょに 歌いたい

 いつも 自分を責めてきた

 生きていく 元気をください

 歌いたい この夜だけは この星に生まれてよかったと



 クリスマスの夜は ゆるせない人を ゆるしたい

 いつも 相手を責めてきた

 自分だけ 正しいつもりで

 ゆるしたい この夜だけは ごめんなさいわたしもわるかった



 クリスマスの夜は いやしの力を 信じたい

 いつも あきらめていたから

 いつの日か 笑顔になれると

 信じたい この夜だけは つらくても生きていけるんだと



 クリスマスの夜は 心やすらかに 眠りたい

 いつも あしたを心配し

 過ぎし日を 後悔していた

 眠りたい この夜だけは ぐっすりとやわらかな馬ぶねで



 クリスマスの夜は 天国の夢を 見ていたい

 いつも この世のことだけで

 親ごころを忘れて生きてた

 夢見たい この夜だけは きよらかなこどもに還って (晴佐久昌英)



 いろいろな想いをこめて

 またこの日を迎えます。

 みんな

 いっしょに

 この日を迎えます。


どんな状況であっても


 みんないっしょなんです。





 神に感謝。
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『耳で読む』

2008-12-22 07:07:07 | Weblog
 ごミサに与った方々は、その存在をご存知だと思うが


 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所編纂)という小冊子が配布され、その日の主日(昨日なら待降節第四主日 B年)のごミサの案内書のように使われている。


 ぼくも洗礼を受ける前からずっとお世話になっています。


 朗読箇所やアレルヤ唱、共同祈願など


 文言がわからない部分や目で追いながら味わいたいところもあるので


 いつもありがたく使わせていただいています。


 ただし


 最近は、主に福音朗読については


 耳で読むようにしています。


 目を閉じて聞くこともあれば


 頭(こうべ)を垂れているときもあります。


 もちろん


 人それぞれで


 マイクの具合で聞き取りづらい方もいらっしゃいますから


 それこそ自由で良いと思うのですが


 「み言葉の典礼」という本質に立ち帰れば


 やはり


 神さまの声を聞くことに集中したいと思うのは


 それほど間違っていないのかなと思います。






 ペラペラ、シャカシャカと


 ページをめくる音が聖堂に響くたびに


 少しだけ


 こんなことを思い浮かべています。






 神に感謝。
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『なんか親近感』

2008-12-18 19:19:19 | Weblog
 妻が画廊で働いていた(店長さん)頃に


 もともと好きだった絵画との接点が増えた時期があった。


 見たことはあるけど作者など知るよしもなく


 デートで美術館に行くようなこともあった。


 カッコウつけてるのじゃなくて、その昔、田舎は行くところがなかった。


 いや、行くところはたくさんあった。どこ行っても観光地みたいなものだったから。


 車に乗って、あてもなく走り回っていた。


 ぼくの計画性の無さを隠すには、都合のイイ状況だったのかもしれない。


 バブルな頃に新婚旅行でパリに立ち寄り、イタリアにも行き、そうそう、なんてったって洗礼を受けるずっと前にバチカンに行ってた。


 サン・ピエトロ寺院にも


 システィーナ礼拝堂にも


 ノートル=ダム寺院にも入った。


 ミケランジェロ迫力があった。


 それはさておき


 その頃に

 
 有名どころ(モネ、ミロ、モディリアーニ、ロートレック、レオナルドダヴィンチ、マリーローランサン、ゴーギャン、ダリ、ピカソ、マティス、ドラクロア、あ~書ききれない)に出会い


 東山魁夷さんや


 ビュッフェや


 デペルトや


 平山郁夫さん


 横山大観さん


 トーマスマックナイト


 上村松園さん


 そして


 藤田嗣治さん


 などを知った。





 銀座の駅を降りたら


 レオナール・フジタというポスターが目に飛び込んできた。


 その大きなポスターの中に見たことのある漢字が四文字


 藤田嗣治


 ずっと「ふじたつぐじ」さんだと思っていたら(たしか妻はそう言ってた)


 ほんとは「ふじたつぐはる」さんだった。


 今日の日経新聞を見ていたら


 最終面に


 「礼拝堂に宿るフジタの魂」という記事が目に飛び込んできた。


 偶然なのか必然なのか


 日本藤田嗣治は、戦後に渡仏し、フランス国籍を取得後1959年にカトリックに改宗し(成人洗礼の意味だと思う)

 
 レオナルド・ダ・ヴィンチから


 レオナール・フジタとしたのだそうだ。


 彼は


 フランスのシャンパーニュ地方ランスの小さい村にある


 ノートル=ダム・ド・ラペ(平和の聖母という意味)という礼拝堂のデザイン、ステンドグラス、彫刻など全て計画し、3ヶ月で仕上げたのだそうだ。


 建設を全面的に支援していたのは


 地元のシャンパン会社だったという。


 彼の作品を好きかどうかは個人の好みとなるが


 なんだか急に


 親近感が湧いてしまった。


 カトリックつながりで。


 まあ、勝手にしろってコトなんですが


 おかげで


 新婚旅行のことや結婚する前のことまで思い出すに至った。


 神さまの粋な計らいです。





 神に感謝。
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『主役という役割』

2008-12-16 18:18:18 | Weblog
 ぼくが手を振っているのに気づいた娘は


 ステージの上から


 大きく手をふりかえしてくれた。


 ぼくは、スタンディングオベーションのつもりで


 手を振っていた。


 学校のクリスマス会のステージ。


 サンタクロースという、この舞台の


 主役。


 今日がその発表の場。


 決して出しゃばりなタイプではない娘が


 めずらしく


 自ら手を挙げて


 引き寄せた


 この時間と空間。


 「主役が、その舞台を引っぱるんだから。多少のことがあっても、堂々と振る舞え。」


 「そのためには、台本全部アタマにたたき込んで。」


 「スラスラと流暢にセリフを言うのと、文章の意味を理解して言葉にするのは違う。」


 「一本調子じゃダメ、抑揚、メリハリ。」


 「小さい声の時も腹から声を出さないと聞こえない。伝わらない。」


 「ノド先で歌ってるから、イケてないアイドル歌手みたいになってる。恥ずかしがるな、宝塚みたいだって笑われてもいいから。」


 いろいろな要求をしてきた。


 何でもイイから


 いっしょうけんめいに向き合って


 プレッシャーも飲み込んで


 ズッコケようが、声が裏返ろうが


 とにかくやり遂げて欲しかった。そういうふうにリードしてあげれればいいのかなと思っていた。


 周りの出演者のお友達も見事にその役割を


 キラキラ輝かせていた。


 そして 


 立派にやり遂げた。


 素直にほめてあげたいと思う。


 よくやった。


 上出来だった。


 イケてなかったのは


 三脚まで買って


 充電にも万全を期して


 当日のセッティングもバッチリした


 HDDビデオカメラのモニターの右上の隅の表示が


 赤い文字のRECではなくて


 緑色の一時停止になっていることに


 30分以上気がつかなくて


 やっぱり失敗したこと。


 でもね


 ちょっとドキドキしながら見てたんだ。


 肩がこわばってたんだ。


 いっしょうけんめい


 応援してたんだ。


 このところアタマに浮かんでくるメロディーは


 娘のソロパートの曲だったんだ。


 ごくろうさま。


 そして


 ありがとう。



 一足早い



 最高のクリスマスプレゼント。





 神に感謝。
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『距離感について』

2008-12-15 20:20:20 | Weblog
 苦しんでいる人がいる。


 どうしたものかと思案する。


 言葉での表現のしかたというか、英語を使って微妙さを出したいのでもないが


 Bestな解決策などあり得ないと思った方がイイ。


 運が良くて


 Better程度。


 人間が想定できるのはその程度なのだと


 開き直るのではなく


 あきらめるのではなく


 ちゃんと理解しなければ


 いっしょに苦しんだつもりになって


 苦しいやら、うまくいかないやらで


 受け手側がパンクしてしまう。


 そうなると


 どうしても途中で投げ出したようなカタチで


 その物事から離れなければならなくなり


 相手にしてみれば


 「最後まで面倒を見てくれなかった、何て冷たい人。」と


 かえって逆恨みまでされてしまったりする。


 この距離感が


 人間関係のコツというかヒミツだったりします。


 同じ痛みが共感されるところには


 同じ痛みを持った人が集まったりもします。


 その痛みから、完全に解放された人も


 まだされていない人も


 共感してくる人にはわかりません。


 自分自身のこともパーフェクトには理解できないように。


 頼られることは、人間誰しも悪い気はしません。


 逆に自分の現状があまりよくないときには


 ダメ無理オーラを出しているので


 頼られることはありません。


 でも


 まさに渦の中、現実問題として苦しい人には


 相手のことが見えません。


 どうしようもなくキツイから。




 ぼくもたまに言われることがあります。


 「あなたは、最後までたずさわってくれないから、冷たい人だ。」と。


 もちろん「それでいいじゃん。」といって開き直ることもしないし、逃げもしない。


 その言葉には、ちゃんと意味があるから。


 そして、自分のしてきたことにも意味があることを信じているから。


 キリストのように考え


 キリストのように話し


 キリストのように行い


 キリストのように愛そう


 ぼくは、ただの媒体の一つなだけです。


 ほんとうに正しいこと


 なんて


 その時、その人のためになること


 なんて


 一生涯わからないと思います。


 それこそ


 神さまじゃないから。


 間違った伝え方で、方法で


 ひとときの現実逃避のお手伝いをしちゃってるかもしれない。


 ずっとぼくの自己満足なんじゃないのかなって


 ずっとずっと


 堂々巡りをしていたりするし。


 最近こんなことも聞かれた。


 教会に来るようになったきっかけの話しになったときのことだ。


 「どうしてluke8488さんのような人が、ここに来たんですか。」 


 「のような人」っていうのが


 その人のぼくの評価なのだろう。


 彼にはそう見えたのだから誰にも文句は言えない。


 ぼくは気がつくのに39年間を要した。


 取り返しのつかないような大きな失敗もしてきた。


 「のような人」がどのようなものさしかは別にして


 いまポジティブに見えるのならば


 それこそが


 ぼくが救われている証だと思う。


 ぼくは


 この気づきを


 もうひとりの誰かに


 伝えられたらイイなと。


 でも自己満足との闘いは続きます。






 神に感謝。
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『はなすこと』

2008-12-12 12:12:12 | Weblog
 ちょっと気になったフレーズ


 


 「「話す」 ことは 「離す」 こと





  悩みを 「話す」 ことによって、





  自分から




  悩みを 「離す」 ことができる。」




 弱音だって



 愚痴だって



 たいしたことじゃないとか関係なく



 思いの丈を



 ぶつけてしまおう。



 人に言うのがむずかしかったら



 ミサで。






 神に感謝。
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『石が転がるごとく』

2008-12-11 07:07:07 | Weblog
 「THE BIG ISSUE JAPAN」(ビッグイシュー日本版)108号を京橋の交差点で、おじさんから買って


 ランチタイムにパラパラめくっていたら


 65歳のロックンローラー


 あのザ・ローリング・ストーンズのボーカリスト


 ミック・ジャガーが


 こんな風に答えていた。


 質問は、こうだ。


 「ジャンプできなくなったり、ステージを縦横無尽に動き回れなくなったり、エネルギーが枯渇する時がくる日を不安に思ったりすることはある?」





 「もちろんあるよ。

  
  だけど、まだそんなことは現実に起きていない。


  “今日の陽射してを浴びながら


   明日の曇り空を心配するな”ってことさ。」


 
 どこかで見聞きしたフレーズに似ていることに気づく。


 「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。

  命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。

  空の鳥を見るがよい。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。

  それなのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていてくださる。

  あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
 
  あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

  また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。

  野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

  しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

  きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上によくしてくださらないはずがあろうか。

  ああ、信仰の薄い者たちよ。
 
  だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

  あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

  まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

  だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。

  一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6.25-34)




 ローリング・ストーン、「転がる石」でもう一つ思い出した。

 田舎に住んでいる頃

 近くの河原でよく遊んだ。

 その川の上流には銅山があったので

 川の石や砂がオレンジ色というか錆色をしていた。

 そんな環境だから魚もいなかった。

 飲めるような水質ではなかった。

 表面的にはきれいな水なんだけど。

 石でダムらしきモノを造ったり

 支流らしきモノを作って、湖らしきモノをつくったり

 山から広がる扇状地を流れる川。

 上流では、鉄砲水があったりして、被害にあわれる方もいた。

 当時、いわゆる灌漑治水が万全ではなかった。



 川底の石

 山奥から

 コロコロ

 何年もかかって

 ここまで転がってきた石

 大きさも

 その形も

 変わってきたことだろう

 角が取れて

 どんどん丸くなった

 そしたら

 必然的に

 コロコロ、コロコロ

 身軽になって

 摩擦や軋轢が無くなって

 ちょっとだけ自由に

 進むことができるようになった

 もちろん

 石は石だから

 自分では動けない

 でも

 石は石だから

 大きさが変わろうが

 形が変わろうが

 元から持ってる模様や

 構成している成分は変わることがない



 なんか

 人間が

 歳をとるというプロセスに

 すごく似てるんだなと。



 明日を思い煩って

 不安でとがって生きていたら

 そりゃ

 やっぱり大変だってところに着地しました。





 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

『うわさと真実』

2008-12-10 07:07:07 | Weblog
 気になっている人のことを


 気になってしょうがない事柄について


 もちろんそちら方向へアンテナが立っているので


 様々な情報が飛び込んでくる。


 その情報の発信源が


 どうなのか


 そんなものは吟味もせずに


 目先のおいしそうな話しにかぶりついて


 でも消化不良を起こしてしまって


 吐き気をもよおし


 なんだかムカムカして気持ちが悪い。


 こんなことの繰り返しから抜け出せずに


 いつも同じところをぐるぐるまわっている人がいる。


 ホンモノの食べ物だったら


 誰からもらったのか


 賞味期限はだいじょうぶなのか


 自分が好きな味なのか嫌いな味なのか


 食べきれる量なのか


 それこそ毒が入っていないか


 いろんなことを一瞬に考えられるのに。


 人間の発する


 うわさ話(特に良くないことや他人の不幸、いわゆる陰口のたぐい)は


 甘い蜜の味がするのかなぁ。


 もっと言えば、毒が入っていた方がイイみたいなところのあったりして。


 気にするなと言うのは無理な話かもしれないけど


 真実を確認しなくて


 どうして


 例えば当事者同士


 きりきりいがみ合わなきゃならないんだろう。


 真実を確認するのは


 勇気もパワーも必要だけれど


 そんなことで


 ストレスを溜めて、ジワジワと心のパワーをロストしていくのは


 無駄でしかないと思う。


 「そうは言ってもね、直接確かめるのは難しいんですよ。あなたみたいに強くないから。」


 もちろんその人それぞれのキャラクターがあって


 何をしても悪い意味で文句を言われちゃう人とか


 コミュニティーのリーダーとか


 コミュニティーのおこられ役になっちゃってる人とか


 目立っている人とか


 いろいろで


 様々な要素が複雑に絡み合っていることも事実。


 やっかみや羨望が姿形を変えたものがほとんどだし。


 いじめや


 過去の経験で


 そういうことに敏感でいないと


 こわくてしょうがないってこともあったりするし。


 結局


 それを発信している人の個人の意見であることがほとんどなので


 ぼくは、聞いているふりをして


 記憶に残さないようにしている。


 もちろん勘違いの場合は、本当のことをその場で教えてあげます。


 例えば三人で話していたとして


 自分以外の二人が同じ部分に共感や納得して正しい情報としてアタマに刻み込んでくれるとは限らないし。


 偶然の瞬間を切り取って


 「すごいことしてたよ。」ってのも


 前後関係を知らなかったりする。


 それくらい


 うわさというのは


 曖昧で


 いい加減だということ。


 ただし


 間違えや


 だらしなさや


 違和感などは


 しっかり受け止める準備も必要です。


 その受け皿を持ったら


 持てるように意識できたら


 うわさなんて


 なんともなくなります。


 もう一歩進んで


 「あんなこと言っちゃうことにもきっと何か理由があるんだろうな。」


 って考えることができたら


 そのときに発生する痛みにも耐えられるんじゃないかな。


 怒りのパワーを相手に向けることは


 イエス様がやってきたことでしょうか。


 それが無実の罪だとしても


 十字架につけられたということを


 「何であの場面でその大切なことを、信仰を

  忘れちゃったんだろう。」






 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

『どんなときにも』

2008-12-07 22:22:22 | Weblog
 日曜日に予定されていたこと。

 7:10パンの販売のためのパンを取りに行くための車を借り、教会まで移動。

 7:30のごミサでの侍者

 8:10からのパンの販売(12月31日開催のLive『VOICE』の資金捻出)

 9:30からのごミサで侍者(築地教会川口神父様司式)

 10:50待降節に教会入り口に設置した「馬小屋」の微調整(ひつじの人形を馬、牛に変更)

 11:10ころ教会に来ているちびっ子とボール遊び

 11:20パンの売上げ集計後パン屋さんにパン入れを返しに行く

 12:00ころ教会に戻り

 12:10に車を返して

 12:20頃家に帰り着く。



 ひとつみなさんにお祈りして欲しいことがあります。

 詳細は書くことができないのですが

 あるシスターの一つ年上のお姉様が重い病で苦しんでおられます。

 

 いつものようにシスターは、ごミサの後

 ぼくに声をかけてくださいます。

 「元気なの?」

 「はい、元気だけが取り柄ですから。」

 「シスターは?」

 

 最後に残った身内なのだそうです。


 
 「どうか、お祈りください。」



 「はい、お祈りさせていただきます。」とぼくは言いました。


 
 気丈にされていましたが、疲れているのが伝わってきました。



 どんな状況でも


 どこにいても


 その方のために祈ることはできます。


 いろいろなことで悩んでいる方々


 苦しんでいる方々


 ほんのひとときでも良いのです


 自分の状況が一杯一杯でも


 他の人のために祈ることはできるのです。


 今晩寝る前に


 ひざまづいて


 苦しんでいる


 もうひとりの誰かのために


 具体的に誰かを思いやり


 お祈りの時間を


 そんなひとときを過ごしてください。


 必ず


 世界のどこかで


 あなたのことを


 祈ってくれている人が


 いるのだから。





 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

 

『鍋です』

2008-12-06 23:59:59 | Weblog
 土曜日の交流会は

 告知をあまりしなかったのだけれども

 口コミや

 友だちの勧誘などもあって

 もちろんリピーターさんもたくさんいて

 「おやじの会」との共催ということもあって

 なんだか

 お茶の間がギッシリになったのでした。




 お鍋は

 イイですね。




 そうそう

 一応、入門係の管轄している土曜日の夜の交流会は

 今度の12月13日の土曜日と

 その次の12月20日の土曜日で

 年内は終了予定です。



 しかし、急遽12月27日、今年最後の土曜日も

 忘年会の開催が決定しました。

 またまた

 鍋を予定しています。

 ホワイト餃子も出るかもしれませんね。

 年末年始のお休みの初日にあたるその土曜日を

 ワイワイガヤガヤしちゃうのも

 メリハリのある人生の演出のひとつになるかもしれませんね。



 新しい出会いがあります。

 迷い、思い悩んでいたことに

 光が差し込むかもしれません。



 笑い声で


 つられて笑ってしまうかもしれません。


 居場所


 居てイイところ。


 いつも帰ってくる場所になるかもしれませんね。


 今年もたくさんの方々と「はじめまして。」をしてきたなと


 あらためて


 しみじみしています。


 そして


 また今日も


 新しい出会いをすることでしょう。


 その出会いが


 ぼくを救ってくれるのです。





 神さまの


 粋な計らい




 「そうだよね、その気持ちわかるよ。」



 そんな風に


 福音を伝え続けられれば。






 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488 

『ある朝、目覚めたら』

2008-12-05 05:05:05 | Weblog
 何の話しからこうなったのか


 まったく覚えていないが


 ヘンだったけど


 家族で盛り上がる話題としては


 まんざらでも?なかったので


 記しておこう。





 「ねえねえ、ある朝、目覚めたらさぁ・・・」とその会話は、はじまった。





 ある朝、目覚めて、どんなシチュエーションだったらすごく嫌か。




 午後11時過ぎに


 妻と娘と三人で、結構真剣に話している


 やっぱりヘンだ。



 ぼくは、たぶんいつも同じことを言い続けてきたと思う。



 「太平洋か大西洋かわかんないんだけど

  

  朝、目覚めたら



  ちょっと大きい流木につかまっている状況。



  なんとも絶望的じゃないかなぁ。」


 娘が間髪を入れずつっこんでくる。


 「そうだよねぇ、嵐とか来ちゃったらいっかんの終わりだよね。」


 まぁ、嵐が来なくてもね、と思いながらも


 乗りツッコミ大歓迎です。


 興味が無さそうに


 聞いてたのか、聞いてなかったのかわからない妻がポツリ




 「人間がギリギリ動けるくらいの


  水道管みたいなところ。


  ずっと先に出口があるらしいのだけれど


  くねくね曲がっていて


  すっごい圧迫感。」



 ぼくと娘は、着ているシャツの首元をひっぱりながら


 「息苦しい~!」


 その後も幾つかシチュエーションは出てきたが


 これ以上のモノは無かった。


 破滅的な話しではあるが


 よくよく考えると


 人間がこの世に生まれ出てくるプロセスを象徴している。


 赤ちゃんは、おかあさんの産道をくぐり抜けてくるときは


 無呼吸状態だったはずだ。


 だから


 この世での第一声でもある「おぎゃ~」は


 大切な意味があるのだ。




 今朝、目覚めたら外はまだまだ薄暗かった。


 冬の朝


 ふとんのぬくもりが愛おしい。


 良かった。


 また新しい朝をむかえられた。


 大海原のど真ん中でもなく


 せまいせまい筒の中でもなかった。


 希望の朝


 今日を生きよう。


 いまを生きよう。


 さあ。






 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488

『評価』

2008-12-04 06:07:08 | Weblog
 評価というのは


 するほうも


 されるほうも


 悩ましい。


 自分の行動に対する


 例えば、仕事とお給料が対価であるかどうかの


 それぞれのものさしの


 付け合わせみたいなものだから。


 立場も違う、それは圧倒的な違い。


 もしかしたら


 その人との、その会社との関係性が無くなってしまう可能性を含んでいたりするから。


 評価はときに残酷で


 評価は何だか曖昧で


 評価は冷静で


 評価はまやかしで


 評価はうれしい。


 どんな都合があろうが


 評価をされるということは


 最低限、自分が取った行動について、その存在を認めてもらえた瞬間だから。


 ときには厳しいこともあるし


 自分のしてきたことはそんな程度のことだったのかと心折れそうになることもある。


 怒り心頭で辞めたり、投げ出したくなることもある。


 さてさて、こここそチャンス到来のときだ。


 自分は、上司や会社のために、その人たちに向かって仕事をしているのか。


 自分は、ほめられたり、自己満足を得たいが為に困っている人や弱っている人のために何か行動を起こしているのか。


 その起こした行動は


 お客様のことを真剣考え、目の前にいる人のことをいっしょうけんめい考えて自分のできる範囲で、自分の最大限(に近い)能力を使ってしたことなのではなかったのか。


 「ありがとう。」

 「助かったよ。」

 「楽になったよ。」

 そんな言葉すら無くたって

 「ニコッ」て

 「ホッ」って

 一瞬でも

 ココロの深呼吸をする

 その間合いを

 そのきっかけを

 そんな気づきを

 共有できたらイイな、みたいな。

 

 その結果

 自分自身が救われていることに気づく。


 ただし


 厳しい、悲しい評価にも


 必ず意味があります。


 反省しなければならないこともあります。


 そこをスルーして


 次のステップに進んでも


 同じ失敗、同じ評価をされてしまう可能性があります。


 仕事だけじゃなくて、人生って常にそういうことでしょう。


 頑固とか、ポリシーを貫くということと


 ちょっと違う部分なのです。


 逆に胸を張って主張できるくらい何かを成し遂げたのなら


 違う環境に挑戦、ステップアップしていくことはイイでしょう。


 なんてったって前向きだもの。





 こんな話しを


 先週の土曜日の交流会でする機会に恵まれました。


 その方は言いました。


 「luke8488さんて、コワイ人だと思っていたので、ちょっと話しかけるのためらってました。でも話せて良かったです。」


 こうして、ぼくも評価をしてもらいました。


 反省して、違う場所、シチュエーションでいかしていきます。


 それが


 よろこびの知らせ


 であるように。





 神に感謝。
Copyright© 2008 Luke8488