カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『それってカトリック?』

2006-10-12 08:54:50 | Weblog
 最近言わなくなったというか



 言えなくなった言葉



 「それってカトリックじゃないんじゃないの。」




 これを言う事自体ある意味「囚われ」ではないかと。



 ようやくそういう境地というかコツみたいなものがうっすらと垣間見えてきたような見えてきそうな感覚。



 もちろん否定をするというのではなくて



 やっぱり目の前で起きている「現実」だけをできる限り「しっかり」見て、見極めて、受け止めて、租借して



 自然に「カトリック」なココロに落としこむ



 「落としこむ」だと読んだイメージが良くなかったら



 「昇華」させる。





 人のうわさ話が好きな人はこんな風に考えられたらどうだろう。



 「いま「その人のことを、その出来事のことを」私に話させようとしているのは自分自身の良い悪いという判断ではなくて


  「悪い霊」


  が巧妙に、意地悪く、わからないように、自分に働きかけて


  この舌を動かそうとしているのではないか。」と。



 それでも口を開いて、何かを言えるだろうか。



 その口は「神の国」で行われている



 「神の業」を告げ知らせるために有効に活用するべきではないだろうか。



 もちろん「だって人間なんだもんしょうがないじゃん。」ってのも素直だし事実。



 そんな人に限って「偽善」という言葉を良く使う。



 「偽善」って何でしょう?





 あとは、「信仰と善意があれば「何でもできる」」ということを都合良く曲解したくないというところか。



 可能性を否定しているのではない。前向きなのはウェルカム。



 「神の業」の働きを感じられているのか



 なんでもかんでも手を出し口を出し、結果すべてが中途半端になって、関わったお互いがハッピーでなくなってしまっていることがないか。



 期待をさせられて、はしごをはずされたときのショックは大きい。



 面倒を見るのなら出来うる限り最後まで(どこまでが最後かは、なかなか難しい)



 もしどうしても手を引いかなきゃならなくなったり、集まりから抜け無きゃならなくなったら



 「自分が身を引いた」などと思わないことじゃないかな。



 妙な敗北感のような後味の悪さだけが残って、これからやろうとすること全部が中途半端になっちゃうと思う。



 「ここじゃなかったのなら、つぎはどこで「神の国」の実現に奉仕しようか。」って感じでいいのではないか。





 「そんなこと言ったら何も出来ないじゃん。」




 自分の理想を「良い悪い」のものさしにして人に押し付けなければ




 何やったってイイし、何でもできるのではないだろうか。




 すべては神様がなさっていることなのだから。



 
 気楽に



 普通に







 神に感謝。
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