カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『肩まで』

2005-02-27 02:42:16 | Weblog
 「ザッブ~ン」
 
 はじめはピリピリしていて

 次はゾクゾク、寒気に近い感覚が頭の先まで通り抜け

 今度はおなかの底からジンワ~っと心地よい暖かさが押し寄せてくる

 「ヒフィ~~~」何語かわからない言葉が思わず口から漏れる

 今日のお風呂はなんて気持ちがイイんだろう

 このままどこかに落ちていくというか舞い上がっていくというか、自宅の小さな湯船なのだけれど気分は豊島園「庭の湯」の五右衛門風呂です。
 
 ちゃんと『肩まで』入って、もう出たくないというか、欲を言えば「足をギュ~ンとのばしてはいりたい~」などと思いながら「ぬくぬく」「ぽかぽか」。もしかしたら母の胎内にいる時にはこんな感じだったんじゃない?なんて大袈裟に表現したいくらい気持ちがイイ。

 「プファ~、極楽、極楽」と思いながらもキリスト者としては「天国、天国」かな?なんて思っちゃえるくらいリラックスできている。

 あまりにも「フ~フ~」「ハア~ハア~」騒ぐので娘が一緒に入ってきた。こうなると1時間コースのバスタイムとなる。クイズ出し合ったり、歌をうたったりした。

 そろそろ茹で上がりそうになって出ようとすると娘が言う「まだ出ないで。ほら、もう一回『肩まで』しっかり入って暖まらないとダメでしょ」と。

 「もう、勘弁してくれ~。スパゲッティだってアルデンテくらいの茹で具合がいいんだから。」と思いながらも、また「ザップ~ン」

 そういえばフォークソングにこんな曲があった。
♬「僕の髪が、『肩まで』伸びて、君と同じになったら、約束どおり、街の教会で結婚しようよ、ウウウ~」♪
 
 「教会」って歌詞がなにげなく入っていたんだなと。カトリック高円寺教会での結婚式はそれはもう素敵です。

 ほんとうにもうあがらないと。頭がボ~ッとしてきたから。

 「先に出るから」
 「まだダメだよ」
 「エ~!ブクブクブク・・・」

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『「ムギュ~」って』

2005-02-24 22:49:18 | Weblog
 その日、家に帰ると、なにやら妻から話があるらしい。我が家の天使(娘)ちゃんはベッドの上で毛布をかぶって隠れているつもりらしい。眠っているのかもしれない。

 話というのは、娘がポツリつぶやいた言葉
 「ママには、いつも「ムギュ~」ってハグしてもらって、チュッチュされたりするんだけど、パパはあまりしてくれないんだ~」
 妻が「パパにもして欲しいんだ?」と聞くと、うつむいたままコクッとうなずいたのだという。

 うれしかったのだが同時にイタイところを突かれちゃったような複雑な気持ちになった。

 たしかに妻と娘は、よく「ムギュ~」ってしている。単純に甘えたいときや叱ったあとなんかに。そうじゃなくても頻繁にじゃれあっている。
 
 そんな光景を見るのが好きだ。抱きしめてあげることは、なによりのコミュニケーションだと思うし、なんてったって素敵だ。きっとその瞬間天使たちに囲まれているいるのだろう。

 さあ、そこで父親の出番!となれば良いのだが、その辺の表現がうまくできなくて・・・。
 うらやましいのだがチョッと照れくさい。
 ウ~ン、出遅れちゃったようななんとも説明しがたい状況。

 いつのまにか、娘も毛布から顔だけ出してこちらの様子をうかがっている。

 妻が目くばせをする。「今すぐ「ムギュ~」ってしてあげれば」と。

 わたしはニコニコしながらフリーズしている。
 普通に抱きしめてあげればイイだけなのに。

 カッコつけるな、自分。

 「ほら、パパのところにおいで」

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『スッと』

2005-02-23 20:28:12 | Weblog
 電車のなかで『スッと』席を立ち譲る。

 階段などの段差のあるところで『スッと』手を差しのべてアシストする。

 言いたいことを言葉にして胸が『スッと』する。

 さっきまでここに居たのに『スッと』移動している。

 背筋を『スッと』伸ばして自分をリセットする。

 この『スッと』する刹那に、空気が動く、心が揺れる。
 こんな瞬間にパワーを使ったり、ガスを抜いたりしている。ココロの。

 膨張してパンパンで今にも破裂しそうな状態から少し、ほんの少し楽になったりする。

 きっと天使が肩を『スッと』おしてくれているのだろう。

 そしてまた『グッと』がんばって、もうひとふん張りして
 また『フ~ッと』一息つきにミサに行こう。

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『DNA』

2005-02-23 00:34:48 | Weblog
 「人間はいまだ大腸菌ひとつも作れない」

 なんのことやら?と思いながら読み進んでいただきたい。

 「人類は依然として、わずか細胞一個の生命体である大腸菌ですら、設計図に基づいて最初から合成することはできない。どんなに優秀な頭脳を集めて、世界中の富を投下しても作れない。
 このようなことに気づけば、ヒトはもっと謙虚になれるはず。」

 「ヒトの誕生も最初は1つの細胞だった受精卵が、お母さんのおなかの中のなかで細胞分裂を繰り返し、およそ38週間のあいだに何十兆もの細胞をもつヒトになっていく」

 「地球上に生命が誕生してこれまでおよそ38億年分を、赤ちゃんはお母さんのおなかの中で、38週で駆け抜けて生まれてくる。もちろん、赤ちゃんもお母さんも、自分で意識して何かをやっているのではない」

 「ヒトの場合、核の中にある染色体は23本で1セットになり、この1セットを1ゲノムと言う。そして、1ゲノムの重さは1グラムの2千億分の1、幅は1ミリメートルの50万分の1。ここに約30億の暗号が書き込まれている。この情報量を本にたとえると、仮に1ページに1000字、それが1000ページ集まった本があるとして、その約3000冊分に相当する。これだけでも驚異なのに、ヒトの体は60兆の細胞から成っているといわれているので、3000冊の本がぎっしり詰まったこんな書棚が60兆個存在することになる。」

 ちょっと難しいけどもう一息。キーポイントはここからです。

 「研究者たちは、遺伝子の暗号をひとつひとつ解読していくわけですが、暗号をこうして読めるということは、これを書いた何者かがいるはず。」

 「極微の空間にこれだけの膨大な情報を蓄積し、しかも、それを一刻の休みなく作動させている遺伝子は、人間の理性や知性をはるかに超えたものの働きによってつくられたのではないかと。」

 *以上の「」内の文章は遺伝子研究の世界的権威、筑波大学名誉教授村上和夫氏のコラムから抜粋・要約させていただきました。ゴメンナサイ。

 この文章に出会ったときに『人間は神様がお作りになられた』というキリスト教の信仰を受け入れられない人たちに聞かせてあげたいと即座に思った。(村上先生のご意思に反する事お許しください。ちなみに村上先生は文章中で「サムシング・グレート(偉大なる何者か)」と表現されています)

 キリスト教の信仰をアタマで理解したい方々もこの辺から興味を持って聖書を読んでみたら面白いのではないでしょうか。

創世記(2.7)
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」

 ちょっとだけ謙虚になって自分の『DNA』に身をゆだねて。
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『プライド』

2005-02-21 03:19:34 | Weblog
 PRIDE。プライド。誇り。
ある時から私の中でメジャーになった言葉。

 何年か前からハリウッドなんかの映画賞の受賞コメントの日本語訳によく出てきて気になっていた。「私はあなた(たとえば両親や映画監督だったりする)を誇りに思う」必ずそして普通に出てくる最大級の賛辞。日本語で言うと「両親に感謝します」かな。

「お前にはプライドってものがないのか」
「プライドを傷つけられた」

人に誇れるコト。もの
自分自身に誇れるコト。もの。

『こだわり』に近い感じもあるけどちょっと違う。
『頑固』なんてのもちょっと違う。

 実はここまで教会でメモ帳に書き綴っていたのですが行き詰った。そもそも『プライド』って?みたいなところで。

 しかし、福音は当然のことのようにすぐに告げ知らされた。

 メルセス会の「祈りのスペース」一周年記念のトーク&コンサートの中の晴佐久神父様のメッセージ。ピタッとジグソーパズルの欠けていた一片がはまったように。言葉に出会った。

 『自分の心の中の聖域(サンクチュアリ)』

 これだったんだ。
 
 誰にも侵されない、安心して、無防備で、裸になって、じっと一人グッスリとねむったり、お祈りしたり。帰れる場所。

 歌い手の人が言う「わたしの大事にしている歌です」みたいな。

 『プライド』の押し売りをしていた自分が恥ずかしい。とんがって、ぶつかって、理論武装して、カッコつけて・・・。

 今日はコンサートのハシゴになった。前半は若者たちのほとばしる情熱に、一生懸命さに感動。後半はソプラノ歌手とピアノの音色に酔った。
 両方とも聖なる場所で、聖なる歌になった。神様の技を少しでイイから「感度」良く、感じられるようになりたい。

 そしていつの日か、上手に歌える(伝えられる)ようになりたい。
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『手をつないで』

2005-02-14 02:36:43 | Weblog
 ものを人に手渡すときに、手と手が触れる。
稀に父親の手指の感触にとても近い「てざわり」にハッとするときがある。
 
 私の父は若いころから糖尿病を患っていた。そして68歳の誕生日近くに膀胱に悪性の腫瘍ができて摘出手術。三日ほど順調な回復をみせたが、その後急変。入院から二十日足らずで亡き人となった。

 ジェットコースターに乗っているような感覚に近かった。そもそも自分の親は死ぬなんて当時は全然考えていなかった。というか怖くて考えられなかったのかもしれない。
 いや、やっぱりちがう。単純に、バカみたいだけど死なないと思っていた。信仰心もなかった。

 そんな状況は突然やってきた。当たり前と言えば当たり前だけど。

 気道を確保しないと生命の危険があるのでしゃべれなくなることを覚悟の上で(実は父の場合、家族の承諾なしに行われ事後承諾だった)気管支までチューブが入れられた。心臓が弱っていて、この時点で機械によって生かされている状態となっていたらしい。

 意識は混濁し呼びかけてもほとんど反応がない。苦しいのか数分おきに「ウーッ、ウーッ」と声をあげる。
 そんな状況の中、私たちは『手をつないで』「大丈夫だよ、お父さん」と話しかけることしかできない。父の手を握ったのなんて何十年ぶりだろう。いまは病気と闘ってむくんだ手だけれど、ごつごつ骨太な、そして親指の爪が大きくて、洗っても落ちない機械油の汚れが染み込んだ指。

 大好きだった孫(私たちの娘、当時幼稚園年中)がお見舞いに来た。娘は意識のはっきりしないおじいちゃんの手をにぎって、「おじいちゃん、私のパワーをあげるから、絶対元気になってね」と話しかけた。そのとき小さな奇跡がおきた。父のつぶったままの目からひとすじ涙がこぼれた。意識がないのに。
 ああ、なんでもっと逢わせてやれなかったんだろう、抱っこさせてやらなかったんだろうと後悔した。

 最近、娘がよく手をつないでくれる。どんな風に感じているんだろう。この手を。妻とも手をつないでないなとあらためて気づく。

 イエス様の手はどんな感じなのだろう。触ってみたい。いや、やっぱり衣服の裾だけでイイ。

きっとそんなレベルじゃなくて、既に、今も、いつも、圧倒的で、大きくて、やさしくて、ホッとできるような手でつつみ込まれているのだろう。

 今度の休み散歩にでも行こう。みんなで『手をつないで』
わがままも言っちゃおう「きょうはパパが真ん中だから」
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『ヒトのために人として』

2005-02-13 02:49:42 | Weblog
A:「じゃあお前は他人の気持ちをどうにかできるとでも思っているのか?」

B:「えっ・・・」
 
A:「かわいそう、大変だ、なんて言っている奴は心底では心配しちゃいない。本当は他人に優しい自分が好きなだけだ」

A:「人の気持ちを変えようなんて、地球を指で押すようなものだ」

B:「えっ・・・」

A:「ビクともしない。人がどうこうして動くようなものじゃないって事。」

B:「そんなことない。人はいろんなものを見たり、聞いたり、読んだりして、人から影響を受けながら生きるもの」

A:「表面上のどうでもいいことはそうかもしれない。でも肝心な心の中の大切な部分は自分の考え方と似ているもの、好きなものを選んでいるだけ。影響なんて微々たるもの。つまり人に動かされて自分があるのではなく、自分で自分を動かしている」

 自分が良かれと思って差し出した手を握り返してもらえない。

 時には何で手を出すのだと罵られることもある。

 「それって自己満足じゃん」なんて言われたりして。

 「ヒト」として考えると何となく納得できそうな理論も四旬節の今、全てのこだわりやあこがれや信念を手放して、すがっているロープすら放して神様に全てゆだねたい。


 そんな達人に早くなりたいと思う。



 今日の入門講座の晴佐久神父様のお話にもありました。

「グッスリ寝る」=神様に全てゆだねる。そうすると「スッキリ目覚める」(復活する)

 よく耳を澄まして(心の準備をして)いないと自分たちの「思い」ばかりで聞きそびれてしまう大切な言葉。

 天使ガブリエルがいつも耳元でささやいている。



「神にできないことは何一つない」と。



決して「ヒト」は「自分で自分を動かしている」のではないのです。


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『食べること』

2005-02-11 18:36:59 | Weblog
 出張で郡山まで行くことになり、朝、新幹線に乗り込んだ。

 2列ぐらい斜め前のサラリーマン。たぶん30歳の中ごろくらいでしょう。

 銀色に輝くその袋を左手で自分の肩くらいの高さに掲げ、空いた右手でその袋から、つまむ、つまむ、つまむ・・・。

 今は朝の8時過ぎだ。


 彼はポテトチップスを一心不乱に食べ続けている。


 たべる、たべる、たべる・・・。一気に食べつくした。


 
 会社の20歳前半のヒトたちも「朝食はコーラとスナック菓子です。」と普通に答えられたときには少なからず驚きもあった。


 「食欲」。


 少し前に「さびしい女は太る」と言う本が売れたり、「過食症」、「拒食症」、「肥満」、「断食」等々。

 「断食」といえば、2005年2月9日[灰の水曜日]から四旬節に入りました。これはイエス様が宣教活動に入る前に、荒れ野に退き、四十日間、祈りと断食を行った(マタイ4・2)ことにならって設けられた、祈りと断食の期間です。
 
 なにかをひとつだけでよいので我慢してみようと思う。

 「禁欲生活」文字にすると厳しい感じが出ますが。

 「人」として「肉」として好きなことばかりしている自分を省みます。

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『笑顔の土曜日』

2005-02-07 02:40:08 | Weblog
 今日、予定をすべてキャンセルして「まったりとした」土曜日。

 我が家の天使ちゃん(娘)は学校に行っている。

 妻と2人で娘が帰ってくるバス停までお迎えです。

 バス停のすぐ近くにはちょっとした広場のようなスペースがあってベンチが3つ。

 そこで2人、ベンチに座って娘の帰りを待っています。

 「どんな顔して降りてくるかなあ」と聞く私に、妻は

 「たぶん待っているのに気づくのだけど知らん顔して違う方向へ歩き始めるよ」
と。

 フフフフ、なるほどね、わかるわかると思いながら待つこと2、3分、バスは到着した。
 
 バスのドアが開くやいなや満面の微笑でこちらにかけだしてくる娘。 

 ありゃりゃ予想が外れたーと思いながらもその笑顔がとてもうれしくて、かわいくて、「おかえり」と言いながら家族みんなで笑顔のオンパレードです。

 こんな些細なことや、冬の寒い日に差し込んで来て気づく「太陽のあたたかさ」、季節が来ると「一生懸命咲いている花たちの美しさ」、夏の暑い日に木陰を通り過ぎる「風のさわやかさ」など、あげ始めたらキリがない『神様のお恵み』にいつも気づき、感謝できるようにしていたい。

 ♬いつもよろこんでいなさい。たえず祈りなさい。どんなときにも感謝しなさい。♪
(1テサロニケ5.16)

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『Just The Way You Are』

2005-02-05 15:26:37 | Weblog
みんな「本物」を求めて「本物」に導かれて集まってくる。

 教会のミサ、神父さまのお説教、『おやじの会』などのコミュニティもきっと同じなのでしょう。


 ある一言で一瞬にして光が差し込んだり、ほんの少し浮世離れしてホッと一息つき、偶然隣り合った人と「飲んだり食べたり語ったり」して癒されることもあれば、何回も何年も飲み続けていると後からジワーッと効いてくる漢方薬や天然ミネラルみたいなときもあります。

「本物」(プロフェッショナル)といえば、知る人ぞ知るちょっと有名なエピソードを紹介しましょう。
 
 落語家の桂歌丸師匠が以前、腹膜炎を患って(余談ですが、「患う」って漢字、心が串刺しです)結構シリアスな状態になり集中治療室に入ったときのこと。

 「何か欲しいものがある?」。たずねる奥さんに歌丸師匠こう言った。


 「カ、カネ」。

 
 「わたしのこと誰だかわかる?」心配そうに顔を覗き込む娘に師匠、ちょっと目を開けて答えた。


 「・・・ブタ」


 たとえ病床にいようとも、落語家を貫くこの姿勢。こだわりと哲学を持ち、体現し、それを伝える“言葉”を持つ「本物」にあこがれすらおぼえます。

 「本物」が聞こえるように少しずつ日々準備をし、ときには勉強して自分のパラボラアンテナをグレードアップし続けていたい。

 そして時が来たら「本物」を人に伝えられるようになりたい。真意をどうやってうまく伝えることができるのかとか、自己満足で終わってないかなんて葛藤しながら。

みんなが知っている映画の台詞で「それを言っちゃあ、お終いよ」というのがある。たしかに“空気を読まなきゃ”とか“よく知らないくせに”そんな場面もある。


 でも、「それを言わなきゃ始まらない」事のほうが多い気がする。



『おやじ』になったりすると本音を語らないことが格好いいと思っちゃたりする時がある。格好つけたふりほど格好悪いものなのに。



ちょうどビリー・ジョエルがBGMで歌っている

『Just The Way You Are~♬』 

 “飾ることないのに”と。

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『赤ちゃんじゃないんだから』

2005-02-02 23:44:40 | Weblog
 カトリック高円寺教会で毎月第一土曜日19:30から開催されている『おやじの会』に参加するために夕方バス停に向かっている途中のことです。

 そのバス停は環七にあります。

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが環七は有名ラーメン店が軒を連ねており、私が向かっているバス停も某有名ラーメン店の先にあるのです。


 その日は暖冬といわれた2005年のシーズンの中では、かなり寒い日だったのです。そのお店には入店を待つ長い行列ができていました。


 そんな寒い日に。


 その行列から少しはなれたところで3、4歳くらいの女の子が泣いています。

 そばに寄り添う父親。

 よく見かける光景なのですがそのとき聞こえた父親の声が耳から離れません。


 「泣きやみなさい!もう赤ちゃんじゃないんだから!」


 それもおなじフレーズを繰り返す、針がとんだレコードのように何度も何度も。

 寒い中並んでいることが我慢できなくなってか何かの理由で泣き出した子供。父親も寒い中なかなか進まない行列に並んでいるイラダチ、言うことを聞かない泣きやまない子供、周りの目。抑えられない感情。


そんな状況から搾り出された言葉


『赤ちゃんじゃないんだから』


 泣いている理由も聞かない、優しく抱きしめることもできない。


 バスに乗っているあいだもずっと頭の中をぐるぐるまわっている『赤ちゃんじゃないんだから』。
 
 私たちもなにげなく言う言葉、なにかとなにかを、誰かと誰かを比較して、それも自分のものさしでときに自分に都合よく。「大人のくせに」「子供のくせに」「男のくせに」「女のくせに」「もうおねえちゃんなんだから」「○○ちゃんはできるのに」「カトリックなのに」「わたしなんかが洗礼を受けていいのか」
 
 聖書の「人を裁くな」(ルカ6 37-38)が頭をよぎります。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたもさばかれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
 本質に触れる、心をわしづかみにされる、ぐうの音も出ません。いつになったらたどり着けるのでしょう。

 そういえば大好きなユーミンの歌にもあったなぁ「あなたにふさわしいのは、わたしじゃないって、電話を切った後に思い切り泣いたあの日~♫」こういう感性はきらいじゃない。謙遜の美徳とはちょっとちがうセンス。

 深いですねえ。

 まだまだです。

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『雪の降りそうな日に』

2005-02-02 00:04:04 | Weblog
日曜日の御ミサのあと、小学校二年生になる我が家の天使(娘)が、おともだちといっしょになって空に向かって何やら願いごとをしている。

 「・・・・れ!」「・・・降れ!」

 「何をお願いしているの?」と聞くと

 「雪だよ、雪!」

 さっき耳に入ってきた叫び声は「雪よ降れ!」の連呼だったのです。

 教会学校の小学1,2年生(それも女の子だけ)が数人で空に向かって手を合わしている。何とも微笑ましい光景です。

 今日(2005年1月上旬)東京は北からの寒気団の到来を受け天気予報も雨のち雪。この状況を目の当たりにして、ふと、以前晴佐久神父様のお説教にあった「そんな祈りじゃ やまないよ」を思い出した。そのお話はこんなお話です。

 [晴佐久神父様がまだ高校生だったある雨降る日の事、ベランダに出て両手を広げ「雨よやめー!」と叫んだときのエピソード。神父様のお父様が後ろから近寄ってきて「そんな祈りじゃやまないよ。もっと本気で祈りなさい」と言われたのだそうです。親が子供をじーっと見るそのまなざし、目先のことだけを見ている目ではなかったはず。]という。

 あー、そのときもきっとこんなシチュエーションだったのだろうなと思いながら、さらに娘たちに確かめようと

 「ほんとに雪になりそうだね。雪合戦や雪だるま作ったりして遊べるじゃん」、 
 「ちがうよー、パパ」

 「えっ?!」

 「だって雪がたくさん降ったら明日学校お休みになるでしょ」

 なーんだ、そういうことだったのかと思いながら一瞬にして私自身も小学生時代にタイムスリップした。



 私は小さいころから野球少年でした。類まれなる(笑)体格と野球センスを神様と両親からいただき(当時は信仰も無くそんなふうには思えませんでしたが)小学校3年生から硬式野球のチームに所属し、毎週土、日曜日は野球に拘束(そう、たしかに「拘束」という表現があてはまる)されていました。同地区、同世代レベルからすればほんの少し「コイツできるな!」状態だったので、親に期待され、チームにも期待され。それなりのパフォーマンスは表現しました。

 しかし正直なところ「野球が好きで好きでしょうがない」という気持ちには高校野球最後の試合の最後のバッターになるまでの間に一度も思ったことはありませんでした。

 そんなことですからまさに「拘束」。

 もちろんいろいろな恩恵もありました。

 未来に奥さんになる人と出会ったり。

 でも週末になると遊んでいるみんながうらやましくてしょうがない。でも休めない。休むと気持ち悪い。雨(雪)が降れば練習は休みです。

 「雨よ降れ!」と何度願ったことか。

 娘たちの気持ちもわかるなーなんてちょっとノスタルジー。


 娘たちはほんとうに学校がお休みになれば良いと思っているのではなくて、今にも雪が降り出しそうな雰囲気に盛り上がっているだけなのだけれど。


 翌朝。「いってきまーす」いつもいっしょにバス停まで送っていく我が家の天使は、いまだベットで夢の中。
 
 「もしかして、願いがかなったのか?」って?。


 昨日みぞれ降る中「雪よ降れ!」をおともだちと連呼していた我が家の娘はインフルエンザともおともだちとなり学校をお休みすることとなりました。

 だって「そんな祈りじゃ 降らないよ」なのだから。

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