カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『お膳立て と 覚悟 と 自己満足』

2005-11-29 23:18:46 | Weblog
 「誰かのため」にやっているのか、「誰のためにもならない」ことなのか。

 誰かのためにやってることじゃないこと・・・。

 ん~、わかりづらくなってきたっていうか、わかりづらくしている。




 
 最近、というか、とにかく頻繁にぶち当たる壁。


 乗り越えられそうでいてまだその足元にすら立ってない壁。





 自己満足 という壁。



 その壁の前でどういやってこの壁を攻略してやろうかと考えている自分。

 ただただ壁を目の前にして飛び上がってみようと考えることすらしない自分。

 壁とかじゃなくてそれも含めての自分。



 「見返りなんて求めてない」

 「好きでやってるだけ」

 「頼まれたからというだけじゃない」




 「やるならちゃんと」





 意地。




 ムキ。




 求めているものはなにか。


 達成感?


 自己表現?


 賞賛?

 
 評論?

 
 何も求めてない?




 そんなこんなをひっくるめて、いまの段階でのひとつの妥協点みたいなものが見えるときがある。



 「『覚悟』の強さを感じる瞬間」



 これがシンクロしたときに、うれしかったり、つながりを実感して、ほんのチョッと天国が垣間見える気がするのが気持ちイイんだな。と。


 『覚悟』というととてもヘヴィーなイメージになっちゃうとすれば「意志の強さ」というキーワードでもイイだろう。


 何かをプロデュースしたり手伝ったりするのって大袈裟かもしれないけどその期間は対象となるヒトやモノの人生みたいなレベルまで背負う位の『覚悟』を持って真摯に向き合っているつもりだし、そういう気持ちでいたい。


 ひとりよがりな言い方をすれば『お膳立て』するから、それなりの『覚悟』を見せてくれ。みたいな。



 いま、ポジティブにムキになって探し物をしている。

 もしかしたら成就しないかもしれない。

 ぼくのこの程度の『自己満足』などとは比較にならないほどの大きくて完全で普遍的な愛で守られ導かれているのだから心配することは無いのだけれど。






 彼らがみんなで2階の祈りのスペースで毎日祈りを捧げている。

 その場所から、寒い冬、怠惰という闇と戦い打ち勝って毎朝教会に向かっている。

 そして時が満ちたら、求道者として新たな旅路に旅立っていく。

 そんな姿をイメージして夢見てポジティブに意地になっている。



 『自己満足』

 そんなにワルくないか。



 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『異邦人』

2005-11-28 10:55:45 | Weblog
 キリスト様は度々『異邦人』の中に入り込んで福音を告げ知らせた。

 時には、別の国のそれぞれの言葉で同時に福音を告げ知らせた。



 いまさらながらであるが、ただただ、うらやましく、感嘆し、できるうることであれば、ぼくにいま、その術(すべ)を教えて欲しいと思う。



 待降節の初日、神父様の説教はカトリックの信仰生活を営んでいる者であれば、たぶん誰でもビンビン、ドキドキ、そして静かに深く心に突き刺さった内容だったのではないだろうか。

 救いの言葉だったと思う。


 侍者をやらせていただいていたぼくには「ココロを空にしてゆるし合うこと。そんなお互いの気持ちをこの待降節がはじまる今日からはじめてみなさい。」と聞こえた。




 
 どうやっても「ことば」も「気持ち」も「思い」も何もかも伝えられない。



 
 ぼくは、話の途中で、いまこの瞬間も共通言語で話せている実感が無くて、思わず、こう聞いた。


 「カトリックの信仰で、神様で、つながっている者同士で、いま、話してるんですよね?」


 目の前の『異邦人』はこう答えた。




 「そんなのタテマエだから。」



 
 聞き間違えかも知れない。


 もう一度だけ聞いてみようと思った。




 「ぼくたち、つながってますよね?」


 

 答えはまったく変わらなかった。



 
 その後のことはここでは書きたくない。




 ぼくは石を投げつけられようと丸太でなぐられようとイイと少し覚悟めいたものを持っていた。


 ココロは最後まで折れることは無かったけれどカサカサにササクレダッタ。


 

 『異邦人』がいまもぼくの目の前にいる。

 
 たまに、誰かのところを指差して「あいつの信仰はおかしい」と陰で囁いてる民衆もいる。

 
 そうかと思うと大人の話を聞きかじった子供のように「人は人を裁けない」等と声高に叫んで存在をアピールしている。

 
 「オレはそういう人間だから」

 「だから」なんだというのだろう。

 「だから」自分だけゆるされる。とでも言いたいのか。

 「だから」自分だけ酷い目にあう。とでも言いたいのか。



 「同じハカリでハカリ返されることになる」などという「たとえ話」もなにもかも自分の都合のイイように自分の都合のイイ時にだけ振りかざすのだろう。


 自分の「ものさし」が全てじゃないって事にいつになったら気づくのだろう。


 なんでこんな。




 ぼくはひとつの確固たる人格を持っているだろう大人の人に

 面と向かってあんな酷いことを言える人は





 申し訳ないけど







 『異邦人』としか思えない。







 キリスト様は度々『異邦人』の中に入り込んで福音を告げ知らせた。

 時には、別の国のそれぞれの言葉で同時に福音を告げ知らせた。



 いまさらながらであるが、ただただ、うらやましく、感嘆し、できるうることであれば、ぼくにいま、その術(すべ)を教えて欲しいと思う。



 でも



 ぼくも



 『異邦人』かもしれない。




 いまいちばんだいじなことって。





 やさしいきもち。



 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『いくつになっても誕生日は、ね。』

2005-11-25 20:38:43 | Weblog
 我が家の天使(娘)ちゃんが朝のバス停で話しはじめた。

 「昨日見た夢、なんだか、すごく覚えてるんだっ」



 それはこんな話だった。



 目を覚ますと、ぼくと妻がニコニコ笑って立っていて、その二人の足元には、こたつがある。



 「あ~、こたつだ、こたつだ。」と思って足を突っ込んだら、何か硬いものが足先に当たる。



 「なんだろ~?」と思って覗き込んだら



 欲しいゲームソフトが入っていた。



 のだという。



 そうなんです。もうじき娘の9回目の誕生日なのです。

 『いくつになっても誕生日は、ね。』スペシャルですよね。

 期待に胸膨らませている子供をなんとかして喜ばせてあげたい。カタチあるモノに頼るのではなくてもっと大切なものがあることわかっているのだけれどうまく伝えられない。

 親の努力が足りませんね。



 教会の仲間の30回目の誕生日会に顔を出した。

 新宿の焼き鳥屋さんの二階が貸切となっていた。

 たくさんのおいしい料理とお酒。

 たくさんの楽しい仲間と会話。

 主賓をそっちのけで恋愛観や結婚観を話したり。

 神様と結婚したいという男の子が、お酒という魔法で気持ちよくなった女の子に、もう大蛇に巻きつかれたウサギのようになりながらも、しっかり折れないハートを語ったり。

 

 でもやっぱりお誕生日のお姫様がうらやましくなるほどのプレゼント山にうずもれたり。


 なんか久しぶりに「ザ・お誕生日」を堪能させていただいた。


 お姫様の相方はやっぱり王子様になれるようなあたたかいヒトだよ。


 まあ、結婚の話は追々やろうよ。


 「自分達の子供が出来てわかること」なんてのもあるから。


 いろいろね。




 こたつに足を突っ込んでコツっとあたったのが「新しい家」や「かわいい子犬」じゃなくて助かりました。


 子供は、わかってるんです。




 「無理言っちゃいけないんだ。」と




 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『中華丼』

2005-11-24 15:11:42 | Weblog
 ぼくには二回目のカトリック神学院。

 「第37回ザビエル祭」

 カトリックの司祭(神父)を志す求道者が学び祈る学校。

 今現在高円寺教会にもここに在学中の濱田神学生(はまちゃん)と倉田神学生(くらら(ブログ「小道を歩けば?」))が研修みたいなカタチで派遣されてきていて「信者講座」などで活躍されています。

 うちの教会学校の小中高生会もみんなまとまって大勢参加しています。



 今回もカトリック高円寺教会は屋台を出店しました。

 そうそう、このブログで告知できなかったのだけれど、われらの「BENNY 16th(ベニー・シックスティーン(ス))」も野外ライヴステージで控えめにシャウトしたのでした。

 天気も良く、たくさんの人出で賑わう中庭。

 去年は主食となる屋台が当教会のラーメンしかなく長蛇の列となった。

 ぐるっと見てまわると今年は激戦だ。お隣のカレーライス、焼きそば、たこ焼き、トルティーヤ、おしるこ、韓国ブランドのラーメン。(いろいろな教会がそれぞれ出店)

 準備をしているとごミサがはじまった。

 御聖体を拝領する。

 いよいよ本格的にお祭りが始まった。



 ぼくとえっちゃんパパは新メニュー『中華丼』の担当となった。



 ヒトにモノを買っていただく難しさを毎日実感しているクセに




 ナメテイタ。





 となりの『坦々麺』は好調だ。今年4回目の出店ともなるとそこはもうスタッフも勘どころを完全に手の内に入れていてバンバン売りさばいていく。今年も行列のできるラーメン屋台となった。

 そのとなりのカレー屋さんも好調だ。どこにいってもバザーでの「カレー」は存在感がある。食べたくなる。



 『中華丼』



 すっごく美味しいのだけれどうまく伝えたれてない。

 う~ん、もどかしい。

 「トロットロッで、具だくさん、おいしい、おいしい『中華丼』はいかがですか~!」

 そんな美辞麗句を並べても伝わるわけがない。

 うちの教会の提供する食べ物はおいしいのが当たり前で、どこでも誰にでもすぐ受け入れられてどんどん売れるものだと思い込んでいた。

 「お手伝いだから」などというふざけた甘えも目の前に突きつけられた。


 もちろん売れましたよ。

 「おいしかったです。」なんてお褒めの言葉もたくさん頂戴しましたよ。



 消化不良。




 教会に戻りプチ打ち上げでプチ営業会議が開催される。


 「『中華丼』は今日何杯売れたんだね」


 「は、はい、え~とだいたい68杯ぐらいだったと思うような気がします。」


 「な、なんなんだ!そのあいまいな報告は!」


 「す、すいません。」


 「数字が全てなんだからね、きみ。」

 
 「わ、わかっております。」


 「今日の販売担当は誰だったのかね?」

 
 
 「わ、わたしです・・・。」
 



 勘違いしてはいけません。

 もちろん教会屋台に営業部なんて無いし、笑いながらふざけてやってるんだけど案外、的外れて無いんだよね。



 すべては神様がなされていること。手や足や口を使っていただくのだから流れに身を任せていればなるようになるし、なるようにしかならない。

 でもね

 だからこそ

 やっぱり

 ちゃんとやらなくては。



 いつも全開じゃなくても

 とりあえず自分のできる範囲で

 がんばれそうなときはハードルをチョッと上げて

 得意なことはクオリティーにこだわったり

 得意じゃないけどチャレンジしてみたくなったり

 そんなことは関係なくやらなくちゃいけなかったり

 やる気があったり、うすれたり






 ちゃんと。






 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『カバンの中の歯ブラシ(三人分)』

2005-11-23 23:43:39 | Weblog
 「この部屋、あったかい。」

 

 初めてお邪魔をした部屋。

 その部屋は、ぼくたち家族をあたたかく迎えてくれた。

 居酒屋さんの小上がりにあるような木の机。

 使い込んだ茶箪笥。

 

 そして本日のお料理の「お品書き」。

 この部屋の住人の二人は、ぼくらの期待のハードルは軽々と飛び越えていく。



 美味い。



 呼んでくれた人の「あたたかさ」がヒシヒシ、じんわり気持ち良くて、温泉にでも入っているような気分だった。



 だから途中で寝ちゃった。

 娘じゃなくて、



 ぼくが。



 おなかがふくれて、お酒に飲まれて眠っちゃったんじゃない。


 とにかくあったかくて気持ちが良かったから。ってことにしといて。


 ぼくのその約一時間の休憩時間に「マーボー豆腐」が出され、起き上がったら、お皿が舐めたようにカラになっていた。


 妻も帰れなくなることを想定していたらしくカバンの中には三人分の歯ブラシが入っていた。

 娘とは「カードゲームをみんなでやって盛り上がろう」と約束していたのだが、その役目をシュビ君に押し付けることになっちゃった。ふたりともごめんね。

 興奮冷めやらぬ娘は午前二時過ぎまで起きていたが、その日の八時半に教会に集合して神学院のお祭り「ザビエル祭」に行くことになっていたのでこのへんで「おやすみなさい」となった。



 キッチンに場所を移して延長戦。

 飲んで、語って。

 とろりと眠くなって、





 ありがたい時間でした。




 また行かせてもらいます。


 
 この次は是非、当方へお出かけください。



 「いや~、この部屋、あったかい。」


 「それ、さっき聞きましたから。」


 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『じぶんち(自分の家)、ひとんち(仲間の家)』

2005-11-22 09:03:54 | Weblog
 今朝、フッと思ったというか気づいちゃったことがある。

 「最近、『ひとんち』行ってないなぁ」と。

 『ひとんち』って知り合いの方のお宅の意味なんですけどね。

 「ピンポーン、こんにちわ~」

 「どうぞ、どうぞ、さあ、あがってあがって。」みたいなやつ。


 仕事柄、毎日『ひとんち』には訪ねて行ってるんです。

 自分の会社が「ホーム」なら外は全て「アウエー」状態の中で毎日戦っているような状態(笑)ですけど。



 『じぶんち』が増えたというか、教会という『じぶんち』ができた。

 いまでも司祭館のお茶の間に行くと「おかえり」と迎えられる。

 休みの日は高円寺の『じぶんち』にいることが多くなったこともあって、いっしょうけんめい思い出してみるけど『ひとんち』に行ってないと思う。

 召命ハウスを引き続き探しているので、不動産屋さんといっしょに『ひとんち』を良く見に行くけど、それも違う。



 今晩、久しぶりに『ひとんち(仲間の家)』に行く。

 招待されてというか、無理やり押しかける。



 わくわくしている。



 ビール持って、ボージョレーヌーボー持って、家族そろって初めて降りるバス停で降りて、キョロキョロしながらたどり着きたい。




 「ピンポーン こんばんわ~」なんて言いたい。



 「どうぞどうぞ、あがって、あがって」なんて言われたい。



 酔っ払って、イイ気持ちンなっちゃって、泊まっちゃってもイイですか。

 あ~、楽しみだ。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『話すこと』

2005-11-21 09:16:25 | Weblog
 我が家の天使(娘)ちゃんの反応がどうも良くない。

 妻は、「ぼくの話すタイミングが悪いのだ」とか「わたしが注意した事と同じ事に上乗せするからだよ。」などと言う。



 『話すこと』



 コミュニケーションの一手段。

 ヒトに与えられたある意味、特別な才能。



 ほめたり、ほめられたり

 叱ったり、叱られたり

 癒したり、癒されたり

 傷ついたり、傷つけられたり



 歌ったり


 叫んだり



 「無言」でいることが、時には『話すこと』だったり



 「口は災いの元」だったり

 「口から先に生まれたの」って言われたり

 ホントだったり、嘘だったり



 何を言っても通じなかったり

 何を言われてもしっかり受け止められたり

 
 
 子供の「聞く耳」というアンテナは敏感だ。

 親のココロに吹き込んでくるぽかぽかした春風や台風のような海の波立ちなんかをみんなキャッチしてしまう。

 まあ、それだけ情報を発信する側、話しかける側に余裕があったり無かったりするということの鏡みたいな存在なのだろう。

 だから「子供を見てると親がわかる」と言う。


 
 最近、娘を叱っていると涙が出る。



 しゃべりながら後悔していたりする。

 「いま、ここで、こんな風に、こんなこと言わなくてもイイじゃん。」

 

 信頼関係ってなんだろう。

 遠慮ってなんだろう。

 思いやりってなんだろう。



 神様でつながっていることから離れていることに気がつかない。



 きっと


 ちゃんと


 『話すこと』ができて無いだけなんだよね。





 『話すこと』




 すごくシンプルで、とてもむずかしい。



 娘は成長している。

 生まれて初めて親やってるぼくらも成長しなければいけないってことだろう。



 神様、ぼくたちの口をお使いください。思いやりの無いことばが溢れ出ることの無いようお導きください。ひとりでも多くのヒトに福音宣教をすることができますように。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『ゲ・ン・キ・ノ・ミ・ナ・モ・ト』

2005-11-15 14:51:32 | Weblog
 完全復調といってイイような状態に入った。

 カラダからチカラが漲ってくる久しぶりの感覚。

 これをキープしようと守りに入ったらいけないのだろう。

 こんな時は「元気ビリビリビーム」をネガティブモードに入っているヒトに分け与えてあげようって位にアグレッシブに行動しようと思う。



 『ゲンキノミナモト』になって周りを刺激したい。

 「自己満足も程々にしとけよ」とささやく声が聞こえるがそんなものも気にしない。



 元気は小出しにした方が長持ちするとか、そんなにハイじゃ、すぐにエネルギーが切れるとか、そんな風に考えはじめることがマイナスを積み重ねるモトだ。

 もちろん体調とか感情とか体力とか気分とかによってメリハリをつけるのだが。

 そもそも神様からのお恵みや慈しみが圧倒的に常に降り注がれている。ヒトの都合でそれを分割払いにしてもらうことなどできない。

 そんなの受けて側の問題にすぎないということだろう。



 この状況を加速してくれる仲間がいる。

 よっちゃんいわく「怪しげな飲み会」。



 久々開催「めがねの会」。



 いつもよく見る顔の集まりのようだけど微妙に話の切り口やテーストが違っておもしろい。

 無論、よく飲み、よく食べる。

 そしてよく語る、よく笑う。

 おもしろい集まりなのだ。

 みごとに9人ともめがねをかけている。(コンタクトも許容範囲としときましょう。連絡遅かったしね。)

 神学生のあっちゃんはコンタクトをわざわざめがねに掛け替えてくるほど「こだわって」くれている。

 そのせいで視野が狭くて電車で座り損ねたんだって。


 おもしろい。


 チョッと美味しい店、お気に入りの店を紹介しあうグルメツアー的な要素もあったりして。

 気持ちよく酔ってしまいました。

 さあ、またパワー充電して「元気ビリビリビーム」でいきます。

 
 「ただ飲んでるだけじゃん」って?

 「いまの気持ち」なんかを小出しかもしれないけど素直に出せる。

 お互いの気持ちをわかり合い、分かち合い、そこには天国がちらっと垣間見えたりする。

 

 「集まって食べたり飲んだり」これ教会の基本ですよね。

 
 神様。すばらしい時間を与えていただきありがとうございます。この糧をうまく使うことができるようにお導きください。



 
 我が家の天使(娘)ちゃんが一言。

 「パパ、朝からお酒臭い」

 どうもすみません。




 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『マイエホール』

2005-11-14 08:54:21 | Weblog
 聖堂の真下のスペース。



 『マイエホール』

 

 今日も若手画家のタケくんの展覧会が開かれている多目的ホール。

 太平洋戦争中の焼夷弾にもビクともしなかった当時地下シェルターの役目もした。

 最近では、日曜日の9時半のミサ後のプライムタイムに通称「信者講座」も行われている場所。(ちなみにこの講座は未信者、他の教会の方も自由に参加できます。)



 ギュスターブ・マイエ神父様。



 日曜日の講座のテーマでした。

 講師は永島教会委員長。

 今回はまさにこの講座の目的である「教会関係や信仰生活を営んでいく上で、知りたいけど誰に聞いたらイイかわからないこと」を聞けるというところから言えば非常にシンボリックな話だったと思う。

 最近この教会の信者になってこの日不参加だった人は大きなチャンスを逃したと悔しがって欲しい。(笑)っていうか少し反省しなければいけない。


 38歳でフランスから高円寺に派遣され今のこの土地に教会を建てられた。これが現在の『マイエホール』。

 その後現在の場所に聖堂を建てられ、教会の敷地内に幼稚園(現在の聖心幼稚園)や診療所、となりの光塩女子学院の仮設教室などを作ったり場所の提供をされた。

 地域住民にも人望が厚く、太平洋戦時下でも日独伊同盟の中でも捕虜として収容されなかったのだから(当時の外交官今井さんの尽力も多大だった)人智を超えた存在であったのだろう。

 戦時下には現『マイエホール』の裏側で寝泊りされていたことや胃腸を悪くされて寒さしのぎに体に新聞紙を巻かれて暖をとっていられたこと、ワインと葉巻を愛されていた神父様の告解室に漂う素敵な香りなどなど。

 となりに座っていた神学生の濱ちゃんとうなづきあいながらとても興味深く聞くことができました。

 聖堂が現在の場所に移りフリースペースとなった現ホールを当時から文化の発信基地にしたいと考えられていたそうです。「すごい」等という言葉では追いつくことのできない感性、感覚の持ち主でいらっしゃったようです。


 だれかマイエ神父様の生涯を映画にしてくれませんかね。

 

 メル・ギブソンにお願いでもしてみますか。

 
 『マイエホール』で文化の発信をして、いろいろ企画して、神様に預けられたタラントンを増やす努力をしましょう。預けられた自由を楽しみましょう。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『神様か何か出てきそうですね』

2005-11-13 02:11:42 | Weblog
 目的地に近づくにつれて雨が激しさを増す。

 いつも入っているポイントを何箇所か廻ったが波の状態は最悪だ。

 そういえば千葉に来て「晴れてた」という印象があまり無い。



 鉛色の空に冷たい海水。

 いつもより閑散としている駐車スペース。

 ワイパーが行ったり来たりするフロントガラスの何メートルか先の海は、ここまでやっとたどり着いたぼくを拒絶するかのように恐い顔をしている。

 「今日はこんな感じなんですかね。どうします?」

 こんな状況でもすぐに海に入りたい衝動に駆られているぼくは「このあたりで妥協しませんか」口調になっている。

 「う~ん。どうしようか。でも時間もあるしもうチョット南下してみよう。あと15分か20分で昔行ってたポイントがあるから」



 そうだった。


 「・・・時間もあるし・・・」
 
 「Slow Life」忘れてたじゃん。

 「何しに来てるんですか?」海から吹いてくる風に問いかけられてハッとする。



 「独りよがりもいい加減にしろ」迷いか不安か、得体の知れないモノにほんの少し風穴が開く。



 「そうですよね。ここでヒヨって入ること無いですよね。」

 ギヤをバックに入れ方向転換し車を走らせる。


 「そうそうこの交差点左に曲がって。一瞬山道に入る感じなんだけどトンネル抜けるとビーチなんだよ。」

 山道を上り下りして短いトンネルをくぐる。

 目の前に九十九里とは違う景色が現れた。

 「ウワ~っ、ここなんかご機嫌な雰囲気ですね。波もイイ感じじゃないですか。ここにしましょう。ヤッフォ~。」

 たどり着いたのは「月の砂漠」もモデルになった海岸だった。

 ラクダが月に向かって歩いていくことを現した銅像なんかも建っている。


 車を止め、ボードを降ろし、着替えているうちに雨もあがった。

 なるほど、神様も粋な演出をしてくださる。



 予備運動のストレッチもそこそこに海に入ります。

 波も今度は笑顔で歓迎してくれています。

 沖に目を凝らしてイイ波が来るのを待ちます。

 空を見上げると旧約聖書かギリシャ神話にありそうな風景になっています。

 まばらな雲の間から何本もの太陽の光の筋が差し込んでいる。

 ぼくは一緒に波待ちをしている先輩に言いました。




 『神様か何か出てきそうですね』と。




 もう、どうにもそう言いたかった。




 三時間ぐらい連続で海に入っていた。天気も晴れて沖からやってくる波がキラキラ、ホントにきれいだった。

 チョット休憩してもうワンセット。でもカラダは正直だった。両足がツッた。

 悔しいけどギブアップ。



 とてつもなく疲れているがカラダに芯が一本確実に入った。



 「疲れた疲れた」といってマイナスに落ち込んでいたことがバカらしく思えた。

 閉じるのも開くの自分自身だったじゃん。

 閉じて硬くなってたら充電できなかったんだよ。




 二度と同じ波は来ない。二度と。

 同じ日が、同じ時が二度と無いように。

 人生も一度だけ。


 神様。素晴らしい時間と抵抗なんてすることのできない大きな大きな自然をありがとうございます。気づきとエネルギーをありがとうございます。


 今日のミサが楽しみです。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『海、行ってくれば』

2005-11-11 08:57:56 | Weblog
 きっと海は、ぼくを冷たく迎えてくれることだろう。


 先週教会で弱音を吐いていた。



 「海、行ってくれば」



 もうすぐ(11月12日)誕生日を迎える仲間(ももさん、大台(笑)おめでとう!)が肩を押してくれる。


 「そうじゃん、海じゃん。」って。

 司祭館に向かって歩いているとケイタイが鳴りました。

 偶然というかお導きとでも言うのかいつも一緒にサーフィンに行っている先輩から電話です。

 「来週の土曜日久しぶりにどうですか?」

 「ぜ、是非お願いしま~す。」

 不摂生でウェットスーツ、パッツンパッツンにキツイだろうし、カラダ筋肉痛でボロボロになるだろうし、そうじゃなくても低気圧ボーイ状態だけど。



 行かなくてはなりません。



 今度の土曜日は天気予報も良くなくて、天気図なんかを見てみても波のコンディションは期待出来そうにありません。

 でも今回ばかりは行かなくてはいけないのです。


 なんだか確信めいたものが自分の中にあります。

 ミサは別格として

 それ以外で現状を打破できるものが、きっかけになるものにきっとなるであろうことを。

 寝不足も運動不足も何もかも、まとめて、かかってきなさい。

 おぼろげながら、芯が、わすれかけていたカラダの芯がパワーで満ち溢れてきそうな予感がする。



 『海、行ってくれば』


 神様がボソッとつぶやいてくれた一言に乗ってみます。


 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『ennui(アンニュイ)』

2005-11-10 15:04:02 | Weblog
 ちょっと死語っぽいけど『ennui(アンニュイ)』

 フランス語で耳ざわりの良い音感だけど意味は

 「倦怠感」

 この歳になって、秋から初冬にかけてのセンチメンタリズムの大波が押し寄せてくるようになった。

 今年は後ろ向きのセンチメンタリズムでどちらかというと「倦怠感」っぽい。

 そんなこととはお構い無しに時間も周りも淡々と進んでいく。




 「自由、平等、博愛」の国、フランスで暴動が起きている。

 失業や貧困、教育や文化の相違などに対する不満や不平を一気に噴出させている。

 アラブ、アフリカ系の移民が多いパリ郊外では若者たちが職を求めに行っても、移民と分かる名前や住所を口にしただけで、求人はなくなってしまうのだという。フランス国内のアラブ、アフリカ系社会には、失業率が30%(国内失業率約10%)に達する所もあるとのことだ。

 そうした地区は治安が乱れる。そんななか警官に職務質問をされ、あわてた若者二人が変電所に逃げ込み感電死した。政府要人(大臣クラス)がこの件について「ゴロツキ」とか「社会のくずを掃除する」などという発言をする。

 次期大統領選を睨んだパフォーマンスかなんだか知れないがなんなんだろう。

 フランスでは聖職者の数が減少しているという。教会に行く人も10人中1人に満たないらしい。

 早期の沈静化と弱者救済が行われるよう祈りたいと思う。


 パフォーマンスで思い出したが、どこかの国の新人代議士さんも言葉は悪いがイイように振りまわされている印象だ。

 ニート(NEET)と呼ばれる人達との集会。


 NEET(Not in Employment, Education or Training)

 直訳すると

 「就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人」。英国で名づけられた。

 学術的・行政的定義は

 学生でもなく、

 就業者でもなく、

 求職「活動」もしておらず、

 主婦(主夫)でもない

 という人達のことらしい。

 「フリーター」はニートに含まれない。

 また、就業意欲があっても求職活動していなければ「ニート」になる。

 ただし,家事手伝いはニートに含まれる。

 従来の就業支援策からこぼれ落ちてきた存在であり、失業者としてもカウントされず、これまで把握されてこなかった。

 ニートは、働くという意味での社会参加に対する意欲を喪失し、または奪われている。現在、日本でも社会問題化しつつある。

 でもこの国では暴動は起こらない。もちろん暴動を煽っているわけではない。

 まだまだこの国は裕福ってコトだろう。実際は破綻寸前だけど。


 高円寺周辺でNEETしちゃってる若者達。

 日曜日にでも教会に来てみたらイイ。

 面倒臭かったら、12月24日のクリスマスミサや12月25日のLive『VOICE』2ndを見に来たらイイ。



 ぼくは支離滅裂なことを書きながらこの『ennui』倦怠感からの抜け出すモチベーションを模索している。



 いま、いちばん、だいじなこと。


 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『どうせ』

2005-11-09 11:57:09 | Weblog
 教会のお友達に「もう年賀はがき買ったの?」と聞かれた。

 そういえば11月に入ってコンビニエンスストアーの店頭販売がはじまってた。

 デパ地下にも一斉におせち売り場(予約コーナー)ができてたっけ。

 時間は年末に向かって着実に加速している。



 おせち料理といえば地域性があったり伝統の家庭の味があったりした。

 ほんの少し昔には、大晦日には大掃除をして、お風呂に入って、紅白歌合戦を見る前に家族そろって我が家のおせち料理に箸を伸ばしたものだ。

 もちろん今だって、今年だってこんな風にする家庭はあるだろうし、この国のデータを調べたらそうじゃないって人のほうがマイノリティ(少数派)かもしれない。

 昔は年間にある国や家庭内の行事は「こうじゃなくちゃならない」みたいな不文律があった。

 
 生活の多様化。

 選択の自由。

 
 テレビで見る歌合戦 と ライヴで観る年越しカウントダウンコンサート

 国営放送 と 民放

 歌 と 格闘技

 帰省 と 一人暮らし

 おせち料理 と カップラーメン

 窓からもれる家族団らんの明かり と コンビニエンスストアーの灯り

 門限 と プチ家出

 ものわかりの良さでしか防戦できない親 と 空気を読んでわがままを振りかざす子

 

 『どうせ』と『どうせ』


 この言葉の表わす意味は

 「ある状態や結果を、初めから定まったものとして認める気持ちを表す。いずれにしても。しょせん。」〔多く、投げやりなあきらめや、軽蔑の気持ちを込めて使う〕

 ネガティブだ。

 しかしこんな意味もある。

 「ついで。いっそ。」

 いっそ=いっそう=「おもいっきり」

 ポジティブだ。

 当教会内でよく言われるキーワード

 「どうせやるなら、ちゃんとやろう」

 いまもマイエホールで「おもいっきりちゃんとやった」絵かきのタケくんの個展が開かれている。

 彼のココロからの告白を聞きに行きましょう。



 「でも今年は年賀状出せなくなるかもしれないの」

 お友達のご家族が重い病と闘っている。

 あらゆる苦しみから解放されるようにお祈りさせていただきます。



 いま、いちばん、だいじなこと


 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488 

『知恵ってなんだろう。ベイベー』

2005-11-08 09:35:18 | Weblog
 「知恵は輝かしく、朽ちることがない。

  知恵を愛する人には進んで自分を現し、

  探す人には自分を示す。

  求める人には自分の方から姿を見せる。

  知恵を求めて早起きする人は、

  苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う。

  知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、

  知恵を思って目を覚ましていれば、

  心配もすぐに消える。

  知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、

  道でその人たちに優しく姿を現し、

  深い思いやりの心で彼らと出会う。」(知恵の書 6章12~16節)


 ヒトの世では知恵ってなんだろう。

 

 難しいことを簡単にできるようにすること。

 困った時に絞り出すもの。

 生き延びるすべ。


 「戦争放棄」という世界に誇れる誓いがウヤムヤのうちに翻されようとしている。

 唯一の被爆国。

 敗戦国。

 戦後の復興は素晴らしいバイタリティと知恵がもたらしたもの。

 それは「戦争放棄」というポジティブなポリシーがベースにあったから。


 そういえば以前にこんな話を聞いた。

 引用が今回のテーマにマッチするかどうか微妙だがご容赦願いたい。

 旧約聖書のカインとアベル。

 アベルは狩猟、カインは農耕。

 狩猟の方が攻撃的なイメージがあるが、これは原始的なことで、実は農耕は原罪であるといわれている。

 農耕は地球、自然を変える。そして倉を建て備蓄保存するようになる。するとそれを略奪しようとするものがあらわれる。守ろうとする。争い(戦争)が起きる。という図式。

 これはあくまでも神話の解釈の話であって農業に従事される方を攻撃、非難しているのでないことをご理解いただきたい。

 
 ヒトの世で知恵ってなんだろう。


 あるミュージシャンが大学の学園祭のコンサートで学生たちに話しかけていた。

 「ベイベー。21世紀になったらこの世の中から戦争なんかなくなって、みんな仲良く暮らしている世界がおとずれると信じていたのに、どんどんひどくなってるじゃないか!ベイベー。」



 祈ろう。



 ひたすら祈ろう。



 みんなで祈ろう。



 「あなたを愛するのが遅すぎた、過去においても未来においても最も美しい、あなたを愛するのが遅すぎた。

 あなたは私の中にいたのに、私自身が外にいて、自分が探しているものがそこにあるのに気づかなかった。

 自分の醜さゆえ、あなたが創造した美しい物に溺れ、あなたが側にいたのに、私はそこにいなかった。」(聖アウグスチヌス)

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488

『小さな肩越しに』

2005-11-06 20:46:26 | Weblog
 居間の白い楕円形の足がたためるタイプのそんなに大きくないテーブルで我が家の天使(娘)ちゃんが何かを書いている。

 ぼくはその背中を見ながら木製のソファーベットに寝そべってその様子を見ている。




 娘の『小さな肩越し』に見えるTVではお笑い番組をやっている。

 そういえばいつからか娘はお笑い番組が好きだ。

 何年か前に好んで見ていた「ちびまるこちゃん」のビデオに出てくるキャラクターの「野口さん」の影響かもしれない(笑)。

 お笑いについてはかなりの知識人だ。それは言い過ぎか。

 人前ではかなりシャイな娘はそんな知識はうちに秘めアピールすることは無い。まあ、されてもちょっといかがなものかなというところだけれど。




 娘はたぶん何か物語みたいなものを書いているのだと思う。

 一生懸命書いている。

 そんなうしろ姿を見ていて「ああ、大きくなったな~」とか「ホントに自分の娘なんだな~」とか思いながらソファーに横になっている。

 基本的には何か他のことをしながらTVをたれ流しにしているのは我が家では「してはいけないこと」のひとつだけれど、今日は休みの日だし、楽しみにしている番組らしいので特別許可となった。

 たまに振り向いて「いまのひとおもしろかった?」と聞いてくる。

 ぼくは「お笑い」には厳しいので(笑)声を出して笑うことはまれだ。

 娘はぼくが「クスッ」とでも反応すると「わたしはこの人たちをパパより前から知っているのよ」と言わんばかりになぜか満足げだ。

 

 こんな単純なやり取りに癒される。ココロからそう思う。


 カラダの芯が抜けた感じに陥ってから数日経つ。


 体調が悪いのとはちょっと違う。


 気持ちの問題か。


 「招命塾」オブザーバーで聞きに行きたかったなぁ。




 TVがCMに変わる。

 お酒のコマーシャルだったかどうか良く覚えてないが、疲れたサラリーマン風の人が、家で1人日本酒かなにかの入ったそのカップに蓋を「パカッ」と開ける。それと同時に天使の格好をした太ったタレントが「ボン」と現れる。

 何度か目にしているCMなのだが、不意を突かれて笑った。

 娘と顔を見合わせて

 「そういえば天使ってさぁ、なんとなく綺麗な顔してるイメージだけど、あんな風に登場する可能性もあるのかなぁ?」

 「そうだねぇ。イケメンじゃないけど、カワイイ顔してると思っているもんね。」

 


 土曜日の夜だからと午後11時半を過ぎて起きていた娘もそろそろベッドに入る時間になった。

 寝る前にさっきまで書いていたノートを持ってきて見てくれと言う。



 そこには素敵な天使が出てきて活躍するファンタジーな世界が広がっていた。

 今だったら何のためらいも無くその世界に飛び込んでいける。




 たとえそれが現実逃避でも。




 あす教会のミサで浮世離れしたい。



 この「受け入れ難い気持ちの悪さ」から逃げ回りたい。



 弱いときほど、弱いときほど

 信じます。

 神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488