「誰かのため」にやっているのか、「誰のためにもならない」ことなのか。
誰かのためにやってることじゃないこと・・・。
ん~、わかりづらくなってきたっていうか、わかりづらくしている。
最近、というか、とにかく頻繁にぶち当たる壁。
乗り越えられそうでいてまだその足元にすら立ってない壁。
自己満足 という壁。
その壁の前でどういやってこの壁を攻略してやろうかと考えている自分。
ただただ壁を目の前にして飛び上がってみようと考えることすらしない自分。
壁とかじゃなくてそれも含めての自分。
「見返りなんて求めてない」
「好きでやってるだけ」
「頼まれたからというだけじゃない」
「やるならちゃんと」
意地。
ムキ。
求めているものはなにか。
達成感?
自己表現?
賞賛?
評論?
何も求めてない?
そんなこんなをひっくるめて、いまの段階でのひとつの妥協点みたいなものが見えるときがある。
「『覚悟』の強さを感じる瞬間」
これがシンクロしたときに、うれしかったり、つながりを実感して、ほんのチョッと天国が垣間見える気がするのが気持ちイイんだな。と。
『覚悟』というととてもヘヴィーなイメージになっちゃうとすれば「意志の強さ」というキーワードでもイイだろう。
何かをプロデュースしたり手伝ったりするのって大袈裟かもしれないけどその期間は対象となるヒトやモノの人生みたいなレベルまで背負う位の『覚悟』を持って真摯に向き合っているつもりだし、そういう気持ちでいたい。
ひとりよがりな言い方をすれば『お膳立て』するから、それなりの『覚悟』を見せてくれ。みたいな。
いま、ポジティブにムキになって探し物をしている。
もしかしたら成就しないかもしれない。
ぼくのこの程度の『自己満足』などとは比較にならないほどの大きくて完全で普遍的な愛で守られ導かれているのだから心配することは無いのだけれど。
彼らがみんなで2階の祈りのスペースで毎日祈りを捧げている。
その場所から、寒い冬、怠惰という闇と戦い打ち勝って毎朝教会に向かっている。
そして時が満ちたら、求道者として新たな旅路に旅立っていく。
そんな姿をイメージして夢見てポジティブに意地になっている。
『自己満足』
そんなにワルくないか。
神に感謝。
Copyright© 2005 Luke8488
誰かのためにやってることじゃないこと・・・。
ん~、わかりづらくなってきたっていうか、わかりづらくしている。
最近、というか、とにかく頻繁にぶち当たる壁。
乗り越えられそうでいてまだその足元にすら立ってない壁。
自己満足 という壁。
その壁の前でどういやってこの壁を攻略してやろうかと考えている自分。
ただただ壁を目の前にして飛び上がってみようと考えることすらしない自分。
壁とかじゃなくてそれも含めての自分。
「見返りなんて求めてない」
「好きでやってるだけ」
「頼まれたからというだけじゃない」
「やるならちゃんと」
意地。
ムキ。
求めているものはなにか。
達成感?
自己表現?
賞賛?
評論?
何も求めてない?
そんなこんなをひっくるめて、いまの段階でのひとつの妥協点みたいなものが見えるときがある。
「『覚悟』の強さを感じる瞬間」
これがシンクロしたときに、うれしかったり、つながりを実感して、ほんのチョッと天国が垣間見える気がするのが気持ちイイんだな。と。
『覚悟』というととてもヘヴィーなイメージになっちゃうとすれば「意志の強さ」というキーワードでもイイだろう。
何かをプロデュースしたり手伝ったりするのって大袈裟かもしれないけどその期間は対象となるヒトやモノの人生みたいなレベルまで背負う位の『覚悟』を持って真摯に向き合っているつもりだし、そういう気持ちでいたい。
ひとりよがりな言い方をすれば『お膳立て』するから、それなりの『覚悟』を見せてくれ。みたいな。
いま、ポジティブにムキになって探し物をしている。
もしかしたら成就しないかもしれない。
ぼくのこの程度の『自己満足』などとは比較にならないほどの大きくて完全で普遍的な愛で守られ導かれているのだから心配することは無いのだけれど。
彼らがみんなで2階の祈りのスペースで毎日祈りを捧げている。
その場所から、寒い冬、怠惰という闇と戦い打ち勝って毎朝教会に向かっている。
そして時が満ちたら、求道者として新たな旅路に旅立っていく。
そんな姿をイメージして夢見てポジティブに意地になっている。
『自己満足』
そんなにワルくないか。
神に感謝。
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