カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『ただ自転車をそこにとめただけ』

2007-08-30 00:23:05 | Weblog
 自転車をとめている。


 有料の駐輪場に。


 ぼくが現在、利用する時間には


 かなりの数の自転車が並んでいる。


 屋根がついているタイプといわゆる青空駐輪との2種類があって


 屋根のついているほうは二階建てになっていて統計を取ったのではないので定かではないが、この一階が一番の特等席だと思うし、一番先に埋まっていくはずだ。


 同じタイプを利用した人はわかると思うが、二階部分ににとめるのはかなりハードルが高い。もちろん都が運営しているので管理の方々がいる。高齢の方や非力な女性、子供がその難関に立ち向かおうとすると助けに来てくれる。しかし、お手伝いしている方々もシルバー人材の方々なのでキツそうだ。


 ぼくの利用開始時間もその特等席は空きが無い。元々入り口の近くに置きたくて奥までジロジロ探さないせいなのもありますけど。まあ、カッコウつけて言ってしまえば、「とめづらいところほど率先してとめようじゃないか。」みたいな考えもちょっとだけ、一瞬だけよぎったりして。たまたまそれが続いていたみたいな。


 夕方から雨予想のその日、偶然にも青空駐輪スペース(たいへんとめやすい)ところがぼくの到着を待っていたように空いていた。誰かのためにそのまま空けて置けばよかったのだが、ヒトは楽なほうに逃げ込む。「ラッキー」なんて思いながらちゃっかりとめてしまう。


 夜の10時をすこし過ぎた頃、仕事を終えて駐輪場に向かう。「そうだそうだ、今日は楽なとこに自転車とめてんじゃん。」地下鉄から地上に上がる階段を昇りながら、大した労力でもないそんなことにちょっとだけホッとして地上に出る。


 雨が降っている。「そうだ、天気予報雨だったんじゃん。」て思い出す。


 おもしろいでしょ、人生って。


 昨日までだったら、ちょっとチカラ使って屋根付きの二階部分にしょうがなくとめてたのです。雨の降る日が一日も無かった。


 楽してとめたその日に屋根なしで、自転車がずぶ濡れ。


 どんなにがんばっても、工夫しても、憎みあっても、いがみ合っても結局ぼくら人間レベルでどうしようもないことがあるってこと今回のことで浮き彫りになりました。なるようにしかならない。


 それを「なんだよツイてないな。」ってただただガッカリするのかどうかってこと。「この日に限ってなんで神さまは雨を降らすんだよ。」みたいな。


 実はこの雨すら涼しい寝心地の良い夜を運んできてくれている現実。

 
 そう、「信じる」ってことの本質が見えてくようなこの


 リアリティー。


 これこそ「カトリックのヒミツ」っぽい香りしませんでしたか。






 神に感謝。
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『走る、跳ぶ、投げる』

2007-08-27 21:39:08 | Weblog
 鍛え抜かれた肉体は美しい。


 ひと昔前は


 あやしいクスリや


 まやかしの食事や飲み物で


 作り上げられた人型のモルモットみたいなイメージの


 メダルの色や商業的な利害関係にズブズブに浸された


 パフォーマンスする本人には関係ないところでかけ引きされている


 エゴイズムがプンプン匂って


 興ざめした時期もあったけど


 チェックが厳しくなって


 本質に回帰している感がある最近のアスリートたちの繰り広げるパフォーマンスはおもしろいし


 感動する。


 もちろんイタチゴッコみたいな事実はあるのだろう。


 用具の進歩もある。


 ウェアやシューズ進化には、それに心血を注いでいるであろう人間や企業の努力を感じる。これが結局、商業的な成功につながることになるのかもしれないが、開発や改良に携わっている人の「人肌」を感じる。人間臭さ、トライアンドエラーしてる感じがする。


 インターネットという環境が普及して、TVゲームや携帯ゲーム機にのめり込んで、リアリティーがバーチャルに侵食され、飲み込まれはじめている。


 握手をするなどの人と人の直接的なふれあい、ツバが飛び合うような距離でのコミュニケーションが希薄になっている。経験が無いのだから上達もしない。人と携わることで傷つきたくないから「めんどくさい。」という最近便利に使われている言葉に逃げ込む。


 別に肉体鍛えて、競い合って何の意味も無いことかもしれない。


 「67億人の中のナンバーワン決定戦です。」と絶叫するアナウンサーの言葉さえ誇大広告と聞いてしまえばそれまでだけど。


 ナショナリズムふりかざして、日本人応援して、期待して、がっかりして。


 たぶん来年のいまごろは男子100mで勝った人の名前なんて覚えてなくて。


 でも


 こころざし半ばで、「世界の壁」に、はね返されて、悔しくもあり、達成感もあり、いままでの競技者という人生を振り返って感極まっているアスリートに感動するのです。


 「燃え尽きないでね。これからも人生だからね。」とココロの中でつぶやく。


 この経験はあなただけのもの。


 いまの心持ちもあなただけのもの。


 「お疲れさま」って


 神さまも


 背中をポンポンとなでてくれているのです。


 いっしょうけんめいって


 カッコウイイ。


 真剣に向き合っているのって


 うつくしい。


 人生の競技者としてイイとこ取りしていきましょうか。






 神に感謝。
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『勇気を出す』

2007-08-24 23:53:09 | Weblog
 「勇気」という言葉にどんなイメージを持っていますか。


 なんとなく、困難なことや、難しいこと、高いハードルを越える決意をすることとか。


 バンジージャンプでテイクオフする瞬間とか


 困っている人、弱っている人に声をかける瞬間とか


 上司に理不尽なことを訴える瞬間とか


 大好きな人に告白する瞬間とか


 仲間に苦言を呈する瞬間とか


 最近では、親が自分のこどもを叱るときにもそんな心持ちになったりするらしい。


 自信がないことや、勝てそうに無い状況のとき


 変わろうとするとき、未知の世界に一歩踏み出す時


 不安なとき。


 自分のチカラじゃどうしようもないとき。


 決断の瞬間に働くチカラか。


 こんな風に書くと「勇気」って、すっごく貴重な存在で、なおかつ、いよいよ追い込まれないと、切羽詰らないと到達できいない心の境地みたいな固定観念のようにすり込まれてしまっているような気がしてしまう。どうだろう。


 ところが


 『勇気を出す』


 という言葉をよ~く見て、ポジティブに、肩の力を抜いて解釈してみると


 「出す」ということは


 誰もが「勇気」を普通に持っているってことにはならないだろうか。


 「出す」か「出さない」か


 だけ。


 簡単にそれだけの違いじゃないのかと。


 やっぱり、神さまはちゃんと備えてくれているのだなと。


 ちょっとシンボリックっぽかったから「勇気」というキーワードを引き合いに出したけど


 多機能な電化製品みたいなもので(ちょっとニュアンスが違うかな、でもイイや)


 使う側に委ねられているというか


 めちゃめちゃ選択の自由が与えられている。


 だからといってぼくらに自己責任があるのかというと


 そんなことは決してなくて


 行き詰ったり、困り果てたり、選べなくなったら


 逆にすべてを委ねてしまえばイイのだ。


 「どうすれば良かったんだっけ。」て、わからなくなっちゃったことにすら


 ちゃんと「答え」という名の


 救いの手が


 いつでも


 用意されている。





 『勇気を出す』


 「出さない」のか


 「出す」のか 


 「勇気」を持ってない人


 「勇気」与えられてない人は


 この世の中には


 いません。





 神に感謝。
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『健全です。』

2007-08-22 23:36:51 | Weblog
 余裕が無くって


 やりたいことも山積みで


 でも焦ってなくて


 ワクワクしていて


 たぶん


 ようやく


 気づいてたのに


 気づかないふりしてた


 ことをやめられる心持ちになれたんだと思う。





 血行が良くなって


 梗塞の素になってた血栓までも溶けて


 隅々まで酸素が行き渡っている感覚。


 健康体。




 まったくもって『健全です。』



 
 お誘いやお休み中にスケジューリングしたことをお断りすることが多々ありますが、しばしお待ちください。


 そうです。


 乞うご期待ですよ。




 ああ、それから、今度の日曜日にごミサに与れるのを心待ちにしてます。




 そうそう、ウンウン。(ひとりでうなずいてる)





 神に感謝。
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『復帰』

2007-08-20 21:00:08 | Weblog
 修学旅行の前日


 運動会の前日


 ゴルフに行く前日


 波乗りに行く前日


 はじめて海外旅行に出かける前日


 洗礼式の前日


 はじめて侍者として典礼奉仕をする前日





 の夜。





 陸上の100m走の「位置について、ヨーイ」から


 「ドン!」までの


 合間。





 第一幕の最初の演技のポジションのまま真っ暗な舞台で幕が上がるのを


 息を整え、声を潜め待っている


 その刹那。





 ワクワクして





 心地イイ緊張感。





 そうそう、この感覚。





 長い長い航海を乗り越えて


 新大陸を発見して


 初上陸するために小さいボートに乗り込んで向かっている


 その瞬間。





 ク~ッ。たまらない。





 未開の土地。


 誰も知ってる人のいない場所。


 カラダひとつで乗り込みます。




 明日、


 luke8488 returns!


 乞うご期待。


 イヤイヤ、調子に乗ってる場合ではありませんでした。


 みなさん


 お祈りください。





 神に感謝。
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『添い遂げる』

2007-08-19 18:39:31 | Weblog
 腰が痛い。


 妻は腰が痛いのだ。


 あまり書くと怒られるかもしれないが


 13年前のヨーロッパへの新婚旅行の飛行機の長旅以来、腰痛とお友達になってしまった。


 ぎっくり腰のように、忘れた頃に急激に猛烈に襲いかかってくるときがある。


 それはそれでつらいのだが、いままでの傾向からすると「ぎっくり」のケースは「安静四日間で回復」という方程式が成り立っていた。


 ところがどっこい、今回のお友達は「大変フレンドリー」というか、「しつこい」というか、「夜も遅いし、「もう帰ってよ。」って思ってるのに、なかなか腰が重い」というか、なかなか去って行ってくれない。


 長年の金属疲労もあるだろうし、いまとってもポジティブに向かい合ってる仕事も負担が大きい。そして何と言っても「ぼく」という名の重い重い心労の素を抱えている。


 前置きが長くなったが、今日、ごミサに与ったあと、教会まつり(10月28日開催)のミーティングをし、楽しいランチタイムをはさみ、Live『VOICE』5th(9月23日開催)のミーティングをしている間、妻が待っていた。体調が悪いのだから早く帰ればイイのにと思いながらも、まぁ待っていてくれたので流れに任せた。


 ひと段落したタイミングを見計らって妻が言う。


 「ちょっと買い物に行きたい。」と。


 「無理しないほうがイイんじゃないの。」


 「やっぱり行く。」





 彼女はぼくに真新しいビジネスバッグを選んでくれた。




 こういう人と『添い遂げる』んだろうなって思った。




 添い遂げたいと




 ココロから思った。







 神に感謝。
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『準備万端』

2007-08-17 21:20:36 | Weblog
 「ぷ~」は今日で封印されました。


 「ぴ~」に復帰です。


 調子に乗って言ってしまえば


 「ぴ~DX(デラックス)」で復活です。


 四ヶ月。


 長い、長い、そして短かった春休み。


 すべての日々にはその時々に意味があったのでしょうが


 今日、ぼくの中でようやく「意味あるモノ」に昇華しました。


 いつくしみ深い神さま、あなたはすべてを用意してくださっていました。ぼくは、怖かったけれど、決して怖くありませんでした。信じて、待って、時が満ちました。感謝です。


 ぼくのこれまでは無駄ではありませんでした。チョッとの自信すらも揺るぎそうなっていたけど、ずっとずっと神さまは「だいじょうぶだよ。」って語りかけてくれていました。それに気づけた。ギリギリセーフだった。いや違うギリギリなんて無いんだよね。


 ぼくのために祈ってくれた仲間に感謝します。


 祈りはパワーあるよ。ほんとだもん。実感してるもん。


 信じて


 信じきって


 願いはかなう。


 ありがとう。


 ココロから感謝します。





 神に感謝。
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『ぼくらの間柄』

2007-08-16 23:33:14 | Weblog
 「そんなことばっか言ってると、嫌われるよ。」


 目の前のその人は


 笑顔でぼくにそう言った。


 やさしいとは言えない、ぼくの口調に


 不快だったのだろう。精一杯の反撃だったのかもしれない。


 相談されたり、アドバイスする時に、ぼくは辛口だ。いつもじゃないけどね。


 もちろん、それを受け止められる余力、余白を相手が持っているのか、話の内容にもよるし、相手の性格や現状については極力把握し、ケアをしているつもりだがパーフェクトなどということはありえない。


 当然、発言をする自分の状況や気分や守備範囲をコントロールできないのであれば口を開く資格が無いと思っている。これはぼくのポリシーだからイイも悪いも無い。


 コミュニケーションは、目の前にいる相手との関係性がどうかってことも重要だけど、「愛」さえあれば、表現力など後からついてくるというか、必ず伝わるはずだ。それが即効性の抗生物質なのか、じわーっと効いてくる漢方薬なのかは、それぞれのケースにもよるでしょう。


 ましてや家族、それこそ教会家族も同じことだけれど、信頼関係があるのだから「嫌われる」ようなことを言って、嫌われるのなら本望と言っても過言ではない。もっと言えば、「そんなこと程度」でスキとか嫌いとかヒヤヒヤするような『ぼくらの間柄』ではないじゃないかと。


 ちゃんと見てるし、言いっぱなし、投げっぱなしなんてことはしない。





 最終的に救いの手を差しのべるのは神さま。


 ぼくらは、その絶対的な安心感の中で試行錯誤している。


 「そんなこと言ったら、嫌われちゃうよ。」は


 「わたしは嫌われたくない。」


 「もっと愛してほしい。」という叫び。




 だいじょうぶ。


 あなたはもうすでに


 生まれた、生まれ出たその日から


 気づかないうちから


 愛されている。


 いまも


 これからも


 ずっと。




 『ぼくらの間柄』なんだから、どんどんダメだししてくださいな。




 「愛」あればこそ。






 神に感謝。
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『ここ一番』

2007-08-15 20:10:33 | Weblog
 今日はちょっと勝負の日だった。



 時間は午後五時から。



 午前中はいつも通りカラダを動かして、散髪などして、準備をした。



 イイ意味で緊張していないとドロドロに溶けてしまいそうなこんな日に。



 本日三回目のシャワーを浴びてワイシャツに袖を通そうかなというときにケイタイのメール着信を知らせる着メロが鳴った。



 差出人は教会の大切な友だち。



 件名は無く



 コメントだけが届けられた。






 「ヤーウェ・イルエ」と






 ただ一言だけ。



 ぼくは、「このタイミングでかよ。」と微妙にニュアンスを感じ取りながら、ニンマリしながら返信した。



 「これからスーツ着て行って来ます。



  ところでどんな意味なの?」と。




 彼からすぐに返信が来た。



 「神は備えて下さる。



  という意味です。」



 付け焼刃の知識で理論武装していた自分にハッとさせられる。




 今日はぼくの知識をひけらかしに行くことが目的ではなくて



 ぼく自身をわかってもらうことが目的だったんだって。



 これこそが真の



 「ヤーウェ・イルエ」でした。



 出かける瞬間妻が言う



 「今日はマリア様の被昇天の祝日だよ。」って。



 あらためて認識して天使祝詞を唱えて自転車に乗り込みます。



 『ここ一番』はなんてったって



 神さまです。



 一時間半全力で立ち向かいました。全力だから悔いはありません。



 結果はきちっと



 用意されています。



 今回はプロセス重視ではなくて



 結果をお願いしたいのです。



 心から祈っています。




 心憎いばかりのタイミングで、本質をしっかりと伝えてくれた仲間にココロから感謝します。



 ありがとね。







 神に感謝。
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『打ちっぱなし』

2007-08-13 19:49:09 | Weblog
 「13日、久しぶりに完全オフになりそうなんです。」


 先月の終わり頃だったか、教会の庭で傘をゴルフクラブ代わりにして、雨上がりの駅のホームでよく見かけるサラリーマンのような光景を繰り広げながら話しをしていた。



 「そしたら練習場に行こうか。」



 「イイじゃん、イイじゃん。」



 ということで



 前日の飲み会の余韻を引きずりながら、電車で小一時間、猛暑の中ゴルフ練習場にたどり着いた。


 
 いわゆるお盆休みの中日(なかび)、予想にたがわず80近くある打席は満杯で20分くらい待たされた。「行くとこも無いしちょっとゴルフの練習でも。」って人は以外に多いのだ。女子ゴルフやハニカミ君の影響も大きかったりする。微妙に運動にもなるし、会社人間のおやじが奥さんや子どもに対して唯一イニシアチブをにぎれる事だからかもしれない。



 そういうぼくもプロゴルファーでもないし、シングルプレーヤーでもないのだが、今日は、「教えてあげよう。」と思って来ているんですけどね。ひと昔前の営業マンはゴルフとマージャンをすることがお客様とのパイプを太くするすべの必須条件の一つだった。



 田舎の野球少年だったぼくは、ゴルフをたしなむ父にくっ付いて『打ちっぱなし』によく行った。冬場は雪が多く、今と違って室内練習場などという設備が無かったので、野球のボールが握れない期間が多かった。そんなときは野球の練習とは直接関係無いがゴルフボールを打たされた。小学校の頃から。



 こどもながらに向上心は一人前だったので、テレビでやってるゴルフレッスン番組を食い入るように見て、きれいなフォームや美しいフォロースルーを目に焼き付けて、次の機会に実践した。そのうち、父がぼくにアドバイスを求めるようになってきた。昔から「口だけオトコ」だったのか、いや、父のやさしさだったのだろう。



 大学生の夏休みまでゴルフコースに出ることは許されなかった。その辺りのメリハリはキッチリしていた。まだまだ甘い、もっとレベルを上げろと。



 目の前で汗をボタボタかきながら、必死にボールを打つ友だち。この暑さの中で、そんなに連続して大丈夫かと心配になるが若さはうらやましい。



 基本的なアドバイスをして、ぼくも久しぶりに20球くらい打って、彼は220球くらい打ったんだよ。すごい。



 彼のためになったか、ぼくの自己満足かはさておき、楽しい、楽しいひとときを過した。



 その後、キュ~っと、ジョッキを開けて、いろんな話しをして帰りの電車に乗り込んだ。



 イイ汗をかいた。



 カラダもココロも。





 神に感謝。
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『一般常識』

2007-08-10 19:04:57 | Weblog
 一般常識を問われる場面に出くわした。


 予告をされていたので準備期間は二日間。


 「なんかやらなきゃいけない。」と思うものの、大体、一般常識には範囲が無いから微妙にプレッシャーというか、不安感に付きまとわれ続けた。


 大体、問題集を買うほど切羽詰っていないというか、根拠の無い自信のようなものもあるし、クイズのノンセクション的な分野もちょっと得意だと思っているし。


 とりあえず、日経新聞などに目を通し、お茶を濁す。


 一般常識というのは、雑学王選手権みたいなというか、いままでの人生においてどれだけ社会ルール的なものを理解していたのかとか、学校教育で学んだ知識をいかに記憶し続けているのか、一見、難しい問題では無いものがほとんどなので、わからない問題に出くわすと大変凹む。


 さて、ここで問題です。


 調べちゃダメですよ。問題見た瞬間にサッと答えてください。





 Q.アメリカ合衆国の首都は?





 Q.オーストラリアの首都は?





 Q.カナダの首都は?





 Q.現在の日本国の内閣総理大臣の名前を漢字でフルネームで書いてください。




 
 Q.終戦記念日は西暦何年何月何日ですか?




 ほらね、意外とドキッとするでしょ。


 「そんな事知らなくたって生きていけるから。」


 「一般常識の定義がわからないから。」


 開き直りや言い訳が通用しない現場ってのが存在する事実。


 ただし、いわゆる教養や知識の多さだけでは生きていけないのも現実。


 ぼくは幸運にも一般常識を問われる状況をクリアすることができた。100点満点だったのか60点でギリギリセーフだったかは定かではない。


 ただ周りにいる様々な人に「ぼくのために祈って欲しい。」って話しをした。


 「祈りがすべてを解決するのだ。」ということを言いたいのではない。


 結果オーライを無理やり結びつけようってんでもない。


 心配して、ジタバタして、投げ出しそうになって、あきらめモードになって


 でも


 必ずやってくるその日のことを


 ちゃんと考えて、正面から向き合って


 そして祈って。


 そしたら結果的に、ぼくのフィールド内の問いかけが多く用意されていた。


 ぼくはその現実を


 ただただ感謝するだけ。


 そう


 ただそれだけ。






 神に感謝。
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『親戚の男の子』

2007-08-08 23:39:24 | Weblog
 田舎から妻のお兄さんの次男坊、小学校六年生が生まれて初めて一人旅で、我が家にやってきた。


 一人旅といっても高速バスに乗せられて、ただひたすら、乗り換えも無く、指定された座席に座ってきただけだけど、どんなにお膳立てしてもらったとしても、確かに、絶対的な現実として、彼は一人でやってきたのだ。


 娘と二人で新宿の高速バスターミナルで待っていた。可能性は極めて低いが、到着予定時間よりも早く着いてしまっても対応できるように45分も早く現地に着いて待っていた。


 バスは15分遅れで到着した。


 いつもニコニコしている彼は、やっぱりニコニコしながら降りてきた。素直で、ずる賢くなくて、やさしくて、なんともかわいらしいいのです。


 バーガーキングまで歩いて、ワッパーのボリュームと美味しさに歓声を上げてよろこび、アップルパイを注文する時に「欧米か!」と言った娘のちょっと寒いギャグにも「ほんとに言ったよ~」って大笑いしながら、楽~しそうにしている。


 一歳年下の娘にリードされながらも、東京のペースに翻弄されながらも、仲良さそうに楽しんでいる。


 ディズニーランドに行って、池袋行って、お台場「冒険王」に行って


 ぼくらが十字を切っていると、不思議そうにでも何も言わずニコニコして見ている。


 田舎に帰る日の朝ミサに娘がエスコートしたら素敵だったが、見事にお寝坊。


 妻と娘といっしょに高速バスで田舎に戻って行った。


 ニコニコしながら。


 そう、ニコニコしながらね。


 はじめての一人旅。


 小学校六年生の夏の思い出。





 神に感謝。
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『ごっこ遊び』

2007-08-07 08:43:56 | Weblog
 「ウルトラマンごっこ」


 「仮面ライダーごっこ」


 「バロム1(ワン)ごっこ」なんてのもあった。


 「札幌オリンピック日の丸飛行隊ごっこ」も盛り上がった。金銀銅メダル独占でしたから。


 仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の水晶玉探しの「南総里見八犬伝ごっこ」も大好きだった。


 「プロ野球選手ごっこ」もよくやった。





 先週、大好きな仲間の女性と話しをしている時に聞いたフレーズが、どうにもこうにもアタマにこびり付いてしまっている。




 「どうして弁が立つオトコって、「神父ごっこ」みたいなことしたがるんだろうね。」




 「神父ごっこ」かぁ。




 もちろん話しには前後とか流れがあるので、どこぞのマスコミのように「あるシンボリック的な一言」だけをピックアップしてしまうと誤解を生むことがあるが、この一言は、なかなか興味深い。


 子どもの頃から、男の子も女の子も、少なからず「ヒーロー願望」(女の子は「お姫様願望」かな)というのを持って大きくなる。大きくなってきたハズだと。


 ヒトそれぞれにヒーロー、あこがれの対象があって、「カッコウいいなぁ」「スゲ~なぁ」「あんな風になりたいなぁ」なんて思って、それが職業であったり、現在のポジションの礎になっていたり、もちろんどうにも手が届かなくて、ひねくれの素になっちゃたりしている。


 あこがれるのだから、何となくその対象物と立ち振る舞いが似てしまったり、発言が影響されてしまったり、あまのじゃくさんは真反対のパフォーマンスをしてみたり。「コスプレ」なんてのもイイ例と言えるのかも。


 生きざまやメッセージに熱心に耳を傾け、その対象物に関連する情報を何とか入手して、他のヒトより近づきたくなっっちゃったりして。独占欲、知識欲刺激されたりして。


 しかし、興味の無いヒトにしてみれば「あ~あハマっちゃってるよ。」「滑稽だね。」「かわいそうに。」ってなもの。


 やっぱり「『ごっこ遊び』上手」になってる。ちょっとした批評に軸がぶれそうになる。


 稀に対象物を自分の中で、神聖化、神格化してしまうというような錯覚というか妄想に陥って、思いが募ってカタチを変えてしまうことがあったりもする。


 真剣に思いを寄せることのできる自分が、かわいかったりもするし、夢の世界、現実逃避の手段であったりもする。


 もちろんネガティブな面ばかりではなくて、生きる力や人生を歩んでいく目標になったりして、ポジティブに働くことも山ほどある。


 「神父ごっこ」


 「イエス・キリストごっこ」


 自分という出来事


 イエス・キリストという出来事


 イエス・キリストに倣って


 神さまに向かって。


 これまでの経験や過してきた環境や目にしてきた現実やその時々の感情、思い。


 幼児洗礼か、成人洗礼か。


 神父か、神学生か、何にも属さない、何にも括られない人々か。


 饒舌か、無口か。


 積極的か、消極的か。


 出しゃばりか、ひっこみじあんか。


 「信仰」に、強さ?弱さ?先輩?後輩? 


 ぼくらカトリック者の「ごっこ遊び」の延長線上には、その向こう側には


 いや、根本には、ベースには


 信じる


 「本物」


 がある。


 「本物の、本物へのあこがれ」がアタマで理解しきれないけど、ハッキリと存在している。


 その本物を全身全霊、まっすぐに伝えてくれる神父様。


 「その人に」ということもあるが


 どちらかというと


 「その伝え方」にあこがれる。


 「その匠のワザ」に。


 「神さまに用いられているさま」に。





 そんなアプローチの「神父ごっこ」だったらどうだろう。表現の稚拙さなどかわいいものではないのだろうか。ちゃんと向き合っていれば。





 「ぼくを見てよ。ぼくはこんなにも愛され、救われているんだ。」という素直な伝承、言い伝え。


 こんな「ごっこ」ならね。


 調子にのって、その気になって、空気読めなくなって


 あたかも「「神父」のように」ってのが「痛く」感じたり、「このヒトには、そうして欲しくない」「そうじゃねえだろ、何様のつもりだよ」って思いがあったり


 たしなめられたり、諭されたり


 それは


 それで。



 きっと意味があるハズ。


 「肩書き」「ポジション」「分類」などというものは


 本物の前では


 名札すらの価値も役割も無い。


 胸をはって『ごっこ遊び』


 目一杯「ダメ出し」されて


 凹んでも


 目の前のもうひとりに向かって。


 さあ。


 考えるキッカケをいただいたのですが、あの時の話しとずいぶん焦点が異なっちゃったかも。まぁ、勘弁してくださいな。






 神に感謝。
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『ジュ~って』

2007-08-06 10:24:14 | Weblog
 丸い皮に特製の中身をスプーンで調整しながら盛る。



 三箇所くらいをひだみたいに折って



 おわんに用意した水を薬指にちょいとつけ



 皮の輪郭をぬらして



 周りどうしをくっつける。



 チョイチョイってね。



 なかなかどうして、上手いものだ(自画自賛)。



 テーブルの反対側には、目の前には、テキパキと倍速モードで仕上げていく妻。



 ごミサにあずかり、教会キャンプに参加する娘を見送り、高円寺でカレーなどを食べ、夕飯はギョウザ作ることにして



 「そんなにいっぱいに詰め込むと皮だけ余っちゃうでしょ。」などと言われながら



 「そういえばビール無かったなぁ、あとで買いに行かなきゃ。」などと話しながら



 ふたりでギョウザを作る。



 娘のいない日曜日の夕方。



 テーブルの反対側、目の前には、さっきまでいた妻がいない。



 キッチンに立っていった。



 娘のいない日曜日の夕食準備。



 い~いニオイがしてきた。



 「ジュ~!」



 この音がしたら



 焼き上がり。



 できあがり。



 「ごはんですよ~」






 神に感謝。
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『Everyday low price』

2007-08-04 09:07:05 | Weblog
 我が家に天使(娘)ちゃんが、はじめて自力で25m泳いだプールの帰り道。


 「たかが25mくらいで」というかもしれないけど


 努力目標を自ら(これ大事)設定して


 積極的に(これも大事)、それなりに試行錯誤して、努力して


 カッコウは良くないけど、息継ぎのコツも、水飲みながら、苦しい思いしながら覚えて


 他の人が起こす波に飲み込まれそうになりながら


 「あと半分、あと5m、あと二かき、あと一かき」


 ゴールの壁をタッチした瞬間は、映ってるときだけ走っている「○○時間テレビマラソン企画ゴールシーン」よりも百万倍も感動ですよ。


 そんな満足感と疲労感と水にふやけた指先をひっさげて乗り込んだバス。


 しばらく乗っていると何度か行ったこともあるディスカウントストアの前をバスが通過した。


 娘が言う。


 「イヤだよねぇ、毎日あんなごはんじゃ。」


 この前後のつながりの無い発言は、間違いなく、ギャグの前フリだ。まあ、お手並み拝見てところで、話しに乗る。


 「なにが?どこが?」


 「だってさぁ、あそこの看板に書いてあるじゃん。「毎日、縄を刻んだのがごはん」なんだって、ヤダよね~。」


 その看板には『Everyday low price』「毎日がロープライス」と書いてあった。





 「ロープ・ライス」





 お後がよろしいようで。


 今日の夜は、こんなおやじギャグ満載の憩いとくつろぎの空間「おやじの会」オープンですよ。





 神に感謝。
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