地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

医者ルカ【日野原重明氏「102年の人生のハイライト」 復活祭で賛美と証しコンサート 】

2014-04-22 22:31:07 | 今日のみことば



愛する医者ルカとデマスも、
あなたがたによろしくと言っています。

「コロサイの信徒への手紙」/ 4章 14節
新共同訳 新約聖書



老いとは衰弱ではなく、
成熟することです 。

年齢は勝ち負けではありません。

謙虚に、
そして存分に味わえばよいのです。

よい出会いがある。
それは、あなたの才能なのです


人はひよわいからこそ、
寄り添って生きることができます。

仲間で群れあっているかぎり、
人も社会も成長しません。

家族とは「ある」ものではなく、
手をかけて「育む」ものです。


(日野原重明『生き方上手』より)





▲聖路加(聖ルカ)国際病院名誉理事長の
日野原重明氏 (102歳 写真)

★日野原重明氏「102年の人生のハイライト」 復活祭で
ベー・チェチョルの賛美と証しコンサート

◆クリスチャントゥデイ2014年4月20日



▲声帯を一度失ったとは思えない歌声で
歌うベー・チェチョル
=20日、
ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会
(東京都新宿区)で



聖路加国際病院名誉理事長の日野原重明氏がプロデュースしたイースター(復活祭)コンサートが20日、東京都新宿区のウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会(峯野龍弘主管牧師)で行われた。「奇跡のテノール」と呼ばれる韓国人歌手のベー・チェチョルが歌う、賛美と証しの集会として行われ、ベー・チェチョルは約800人の聴衆を前に、「キリストには代えられません」「アメージング・グレイス」など7曲を披露。今秋には全国公開される、ベー・チェチョルの実際のストーリーを描いた映画『THE TENOR』のミュージック・ビデオも初公開された。

日野原氏とベー・チェチョルが最初に出会ったのは、昨年行われた日野原氏の102歳の誕生日を祝う会だった。日野原氏の名古屋の知人が、素晴らしい誕生日プレゼントを贈りたいからと、日野原氏を名古屋に呼び、誕生日会を開催。その際、ベー・チェチョルの「奇跡の歌声」に出会ったという。

ベー・チェチョルは、ヨーロッパのオペラ界で「アジアのオペラ史上最高のテノール」と呼ばれ活躍していたが、2005年秋、甲状腺がんに襲われ、声帯、横隔膜という歌手のいのちとも言えるような2つの臓器の神経を切断。歌声だけではなく、右肺の機能も失ってしまう。その後、多くの日本人ファンらの支援により、京都大学の一色信彦名誉教授による声帯機能回復手術を受け、2008年に奇跡的なカムバックを果たした。



今回のコンサート開催のいきさつや、ベー・チェチョルとの出会い語る日野原重明氏。今年10月4日には103歳を迎えるが、冗談も言い会場を沸かせた。
日野原氏は、「一つの声帯がすっかりだめになって、残っている声帯一つだけを上手に振動させることによって、この素晴らしいテノールの声が聞こえる。考えられないほど奇跡的なこと」とその感動を伝え、「(今回のコンサートは)102年になる私の人生でのハイライト」などと語った。

ベー・チェチョルはこの日、讃美歌「キリストには代えられません」「慈しみ深き」や、韓国で作曲された現代聖歌「主は我が羊飼い(詩編23篇)」、「ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise Me Up)」「君と旅立とう(Time to Say Good-bye)」「アメージング・グレイス(Amazing Grace)」を披露。今回のコンサートのプロデューサーであった日野原氏自身によるアンコールにも応え、朝鮮民謡の「アリラン」も歌った。

手術により声を完全に失ってしまった時、「声を失ったのと同時に、その後の人生を生きていくのに必要なすべての力を、私は一度失ってしまったのです」とベー・チェチョルは話す。「その時、神様を信じることができなければ、私の人生はすべてそこで終わっていたと思います。神様から大きい平安、安心をもらったのです。ここまでこうして生きてこられたのは、その時に私に与えられた心の平安があったからです」と語った。

また、「自分が本当に愛されている、大切にされている、そのことを感じることができなければ、私はここにいなかったかもしれません。私がいただいた本当に愛されているというメッセージを、歌を通して皆さんにお伝えしていかなければと思っています」と証した。



当初は聖路加国際病院のチャペル(250人収容)でコンサートが予定されていたが、より多くの人に聴いて欲しいと会場を、プロテスタントでは日本最大規模の教会となる淀橋教会に変更。この日は約800人がコンサートに参加した。

最後の歌「アメージング・グレイス」の前には、ベー・チェチョルの実際のストーリーに基づいた映画『THE TENOR』が紹介された。日韓共同の作品で、撮影はヨーロッパ、日本、韓国で行われた。会場には同映画の監督やプロデューサーの姿もあり、公の場では初めてミュージック・ビデオが公開された。映画では、韓国人俳優ユ・ジテが主演としてベー・チェチョルを演じる。日本からは伊勢谷友介、北乃きいらが出演するという。今秋に全国で一斉ロードショーされる予定だ。

(クリスチャントゥデイ2014年4月20日)



★常に10年先を考える 101歳が語る
「生涯現役の秘訣」

聖路加国際病院理事長・名誉院長 
日野原重明氏

◆日本経済新聞2013年2月22日 6:30


 昨年10月4日、101歳になった聖路加国際病院理事長・名誉院長の日野原重明さんは、いまでも新しいことにチャレンジし、子どもたちとも積極的に交流する。若さを失わない日野原さんに、「生涯現役であるための秘訣」や、「人と人のつながり」「老いとどう付き合い、どう死ぬか」について聞いた。



 ひのはら・しげあき 聖路加国際病院理事長・名誉院長。1911年山口県生まれ。京都大学医学部卒業、同大学院修了。41年聖路加国際病院に内科医として赴任。現在も理事長職のほかに、現役医師として回診し、患者参加型医療、予防医学、終末医療の普及推進などに貢献。医学・看護教育の刷新に尽力している。  73年(財)ライフ・プランニング・センター創設。2000年には老人の新しい生き方を提唱して「新老人の会」を立ち上げた。また、次世代に平和といのちの大切さを伝える「いのちの授業」を全国の小学校で展開中。長年の功績が認められ、05年に文化勲章受章。

――日野原先生にとって「現役」とはどういう意味ですか。

日野原 生き甲斐を持って生きること、これが一番大切です。生き甲斐がなくなれば、人生は終わり。今日はこれをやろうというプログラムがないとだめです。今日に期待を持って朝はさわやかに目覚めます。

■10年手帳に記入した予定は自分のミッション

――10年先まで予定を書き込める10年手帳を使っていらっしゃるそうですね。

日野原 2011年から20年までの10年手帳を使っています。それぞれの年の同じ日に予定を書き込んでいます。食事に行くようなときはアポイントメントを取るって言うでしょう。ぼくが手帳に書くのは「コミットメント」なんです。神に誓約をすることをコミットメントと言います。どうしてもこれがやりたいということを5年、10年先でもきちっと決めて、これは自分のミッションであると考えています。

――先生が「『成人病』という言葉では誤解を招く。『生活習慣病』と呼ぼう」と提案してから、実際にそう呼ばれるようになるまで20年かかったそうですね。10年、20年の単位で取り組まなければならない仕事は多いのですね。


日野原 日本人の死亡原因の一番が当時は脳卒中で、高血圧の人が脳卒中になることが多いので厚生労働省が健診をしようということになりました。成人健診という名前をつけて、そこで発見される病気を成人病と呼んだのです。でもそれは間違っていると思いました。海外では「成人病」などと言っても通じないので、その人の毎日繰り返す生活の仕方がつくる病気を「生活習慣病」と呼ぼうと提案したのです。


▲日本赤軍「よど号」ハイジャック事件(1970年)
※乗員乗客129人の人質の一人だった日野原氏


■「よど号」事件に遭遇、その後の人生は「与えられたもの」

――101歳からでも10年先のことを考えていらっしゃるわけですが、60歳あるいは65歳になって、第二の人生を歩もうとしている人に対してアドバイスはありますか。

日野原 60歳とか65歳というのは職業で一区切りつくだけで、人間として生きることが終わるわけではないんです。自分の得意なことを開発して、新しい人生を始めることが必要です。ぼくは、ハイジャックにあった「よど号」に乗っていました。59歳のときですが、命が助かったときに、「これからの人生は与えられたものだ」と感じました。「恩を受けた人に返すだけでなく、あらゆる人にこれからの私の人生を捧げよう」「これからがぼくの人生の本番だ」と思いました。

――実際に60歳を過ぎてから、いろいろなお仕事をされているんですね。

日野原 オーストリア出身のマルティン・ブーバーという哲学者が「人は、新しいことを始めることを忘れない限り、いつまでも若い」と言っています。普通の人は、やったことがないからできないと言います。ぼくは3年前から俳句をつくり始めました。なんでもできるんです。小学生に行っている「いのちの授業」で俳句をつくってみようと言うと、10歳の子が「いのちとは 僕の持ってる 時間だね」という句をつくってしまうのです。



■立ち上げた「新老人の会」、60~64歳は「ジュニア」

――先生が現役でいられる秘訣は小学生や若いスタッフと交流されているからかもしれませんね。


日野原 いまの小学生が10年先の日本をつくるのです。子どもの良いところを伸ばすように、先生だけでなく、一般の社会人が努力すべきじゃないかと思います。

――「新老人の会」を2000年に立ち上げられたそうですね。

日野原 89歳のときに、立ち上げたのですが、この構想は85歳から準備していたんですよ。老人というと背中が曲がって、よぼよぼになったイメージですが、そういうイメージを取り払って、新老人の会を立ち上げました。会員は1万2000人になり、最近、フェイスブックも使い始めましたから、3年先には3万人くらいに伸びると思っています。

 「おはようございます。日野原重明です」と言って、今日はこういう格言で生きてくださいといろんな格言を紹介しています。

 新老人の会では75歳以上がシニア、60歳以上がジュニアになります。

――フェイスブックを始められたということはさらに下の世代に参加を呼び掛けているわけですね。

日野原 20歳以上の人が加入しています。そのうち18歳以上にしようかと思っています。その人たちは「サポート会員」と呼んでいます。

■若い世代と日常的に触れ合うことが大切

――先生はどんなきっかけでもいいから、若い人と日常で触れ合うことが大切とおっしゃっていますね。


日野原 非常に大事です。101歳までの人生の間には、死ぬような危険があったり、ショックを受けたこともたくさんありました。サリン中毒のような大事件にも遭遇しました。そうしたことにどう対応するかということを伝えたいです。

――いろいろなことを体験した本人から直接聞くということが大切ですね。

日野原 子どもを亡くしたような親に対しては、やはり同じような悲しい体験をした友達からの言葉がなぐさめになります。

――どうすれば若い世代のために、活躍できる新老人が増えてくるのでしょうか。

日野原 森光子さんのような実力を見せないといけません。50年も「放浪記」で主演を務めたんですから。

 ジョン万次郎の記念館の募金のためのゴルフコンペでは、ぼくはゴルフはやったことがないのですが、息子に前の晩に教わって、始球式でちゃんと100ヤードくらい飛ばしましたから。ぼくはソフトボールのチームを持っていて、シートノックをするんですよ。

――万次郎の記念館について言及されましたので、ご紹介いただけますか。

日野原 無人島に漂着していたジョン万次郎は、アメリカのホイットフィールドという捕鯨船の船長に助けられ、フェアヘブンというところでホームステイをさせてもらい、教育も受けます。そのホイットフィールド船長の家が競売に出されるというので日本で1億円の寄付を募って、廃屋を修復して2009年に「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」をつくりました。アメリカの文化を日本に上手に紹介したジョン万次郎を日本人にもっと知ってもらいたいと思いました。

■若者の心を揺さぶるようなリーダーがいない

――最近は、外国に留学に行きたいという日本人が少なくなっているそうですね。




日野原 万次郎は、アメリカで小学校から中学校へ進み、英語や数学、さらに天文学や捕鯨術までも習得して10年後に日本に帰国しました。彼がアメリカの文化を伝え、ペリーとの交渉に尽力して鎖国を解くことにつなげた貢献を思うと、もっと日本人が国際的にならないといけないと思います。

 日本は英語の教え方が上手ではないので、英語がうまくしゃべれないことがネックになっていますが、幼稚園のころから英語をうまく教えれば、すぐにしゃべれるようになると思います。

 国際結婚ももっと増えるといいですね。EUがなぜ団結できているかというと、国際結婚によりどこの国の人という区別があまりなくなっていることが大きく寄与しています。

 最近の日本の若い人たちには夢がないですね。昔は無銭旅行であっちこっち行ったものですが、だんだん、それもしなくなってきています。明治のはじめに米国から日本に来て、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」と言ったクラーク博士のような、若い人の心を揺さぶるようなリーダーが今の日本にはいない。命令で若者を従わせるのではなくて、彼らに自主的にやろうという気を起こさせるようなリーダーが必要です。

――「新老人の会」の中には先生の後継者になれるような老人は出てきていますか。

日野原 少しずつ出てきています。85歳の高齢でフェイスブックを始めるような人もいますから。孫と会話ができるような老人になるのがいいのです。孫にiPadのような新しいツールを買ってあげて、コミュニケーションできるような老人が増えてくることが大切です。

■医療の世界でもコミュニケーションが重要

――いまの医療の世界をみると、必ずしもコミュニケーションがうまく取れる人ばかりではないような気がするのですが。


日野原 医師やナースは、患者と同じ目の高さで話をしたり、言葉の使い方を工夫したりしてコミュニケーションをよくしなければなりません。私が尊敬しているカナダ生まれのウィリアム・オスラー博士は「医学はサイエンスに基礎を置くアートである」と言っています。アートというのは「わざ」という意味です。このコミュニケーションのわざをしっかり磨いて患者と会話をしてもらいたいですね。

――聖路加国際病院ではどのようにそれを教えているのですか。

日野原 看護部では、コーチングという形で、先輩が後輩にふるまいのわざを教えています。若い医師には診療のわざとサイエンスを指導医が現場で教えています。一緒にやるということですね。口先で「こうしなさい」と言うのではなくて、現場で一緒に何かを生み出すような形で教えるんです。

――先生は日本初の独立型ホスピス「ピースハウス病院」を1993年に神奈川県につくられましたね。

日野原 67年にシシリー・ソンダース医師が英国のロンドン郊外に近代的なホスピスをつくってから20年以上後になりましたが、日本にも独立型のホスピスをつくりました。神奈川県の中井町のゴルフ場のオーナーが遺言で土地を寄贈してくださり、建設することができました。富士山が見える環境の良い場所です。

 スタッフには音楽療法士もいて、音楽による心の癒しを考えました。焼き物や、そのほかの手づくりの工作もしてもらい、残された遺族が故人をしのべるようにしました。

■送る人と亡くなる人が同じ時間を共有

――残された家族の悲しみを和らげることにも尽力されているわけですね。


日野原 それを「グリーフケア」と言います。最後に家族でいい時間が持てると、喪失の悲嘆を鎮めることができます。家族が同じ病室で寝泊まりできるようにすることが大切です。

 やむなく病気になったわけですが、ホスピスあるいは在宅ケアで、最後を一緒に過ごせたという思い出を持つことが残される家族には大切です。最近は病人が住み慣れた家で家族と一緒に最期が持てるような在宅ホスピスケアも地方で増えています。

――先生は無理に延命してお別れの言葉も言えないということは望ましくないとおっしゃられていますね。

日野原 おじいちゃんが亡くなるときに、お孫さんたちにクリスマスのときによく歌っていたクリスマスキャロルを歌ってもらったことがあります。おじいちゃんは目も見えなくなっていたのですが「わかったら手を握ってね」と言ったら、孫の手をぐっと握ってコミュニケーションがとれました。送る人と亡くなる人が同じ時間を共有することが必要です。

■家族と一緒に生活した場で最期を迎えるのが一番いい

――いわゆるホスピスでなくても、そういう場があるといいですね。


日野原 いま緩和ケア病棟に入院できる患者の数はがんで亡くなる人のうち数パーセントにすぎないのです。だんだん家で死ぬことの良さが分かってきたので、これから在宅ケアが増えるのではないでしょうか。これから最期を迎える人にとっては、家族と一緒に生活した場が環境としては一番いいと思います。

――自分の好きな音楽はエンディングノートなどに書いておいたほうがいいのですか。

日野原 目が見えなくなっても耳はずいぶん聞こえているんです。その人の好きな音楽を奏でるのはいいことだと思います。私はフォーレのレクイエムを聴きながら死にたいです。最後に天国に行くところで死ななければならないので、合図を出すからレコードをかけてくださいと冗談を言っています。

 このごろは音楽だけでなくアロマテラピーなども使います。私は、いま、アロマテラピーやお香の効果についても研究を始めています。

(ラジオNIKKEIプロデューサー 相川浩之)

ラジオNIKKEI「集まれ!ほっとエイジ」12月17日、24日、31日放送の番組を基に再構成

http://mw.nikkei.com/sp/
(日本経済新聞2013年2月22日 6:30)



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