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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

エンターテインする芸術

2005-06-08 00:25:49 | ART
前回の日記の続き

<あるCDのレビューより>


彼と知り合いだった人と偶然再会すると、
私はいつもこの部分を思い出すのだ。彼の生前でさえ、
われわれは幸運な仲間どうしなのだという自覚が皆にあった。
あの優しく、愉快で、才気あふれる人物と知り合いなのだということが
どれほどに恵まれているかを理解していたのである。
そして今日、歳月を重ねるほどに、彼と過ごした時間はますます貴重に
(そして妙に神話的に)なっていく。

なぜ彼はこうした魅力を保っているのだろう?
まず第一に、ごく当然の話だが、彼が大変に偉大な音楽家だったことが
理由に挙げられる。彼が「偉大」なのは、よく知られた名曲に
新しい深みをーーーときにはまったく新らしい皮相性をーーー
見出す能力があったからだ。(略)
さらに重要なのは、彼の演奏を聴いた人や、各種の電気的な成果を
聴いた人と、深い繋がりを持てる能力だ
(この「電気的成果を聴いた人」というのは、まさに私自身に該当する)
結局のところ、彼の成し遂げたことのすべてを気に入るかどうかは
大した問題ではない。彼は厳然と存在するのであって、
無視はできないほどである。しかし、彼が公衆の目から隠れて長い時間を
過ごしたのは逆説的な話ではある。

彼が魅力を保っている第2の理由は、彼が、一言でいえば、
エンターテインのできる人、つまり他人をたのしませることの
できる人だったからである。とてつもないユーモアの持ち主だったのは
事実だか、必ずしも「ファニー」という言葉で形容できるわけではない。
もっと深い、根本的なところで他人を楽しませるすべを
心得ていたのである。

芸術を(アート)と娯楽(エンターテイメント)をどう区別するか
という議論が昨今活発になされているが、私は、個人的には、
この区別を認めていない。
何らかの次元でわれわれをエンターテインしない芸術は
葬られる運命にあるのだから。

その点、彼は確かにエンターテインしていた。
それも多種多様な次元においてである。
彼は忘我の境地になれるエンターテイナーだった。
もっとも、そうした視覚的要素を抜きにしても、
彼の音楽は立派に成り立っている。
彼には視覚の助けなどいらないのである。

彼の魅力の最後の理由は、彼が独自の世界を
築き上げた人物だったという点である。

自分が手にしたさまざまな手段を用いて、
型にはまらない生き方を確立した、真の意味で洗練された、
教養ある人物であり、まさに英雄の信じられなくなった時代の
英雄なのである。時間はかかったにせよ、彼は
自分の天才と、それが求める物を受け入れられるようになり、
そこに自分を適応させた。彼の生前に書かれ、いまなお
最高の論である、とある著書の著者Jは、いみじくもこう語っているー

「彼は、抜群に優れた人物で、友好的で思いやりもある。
実はエキセントリック(常軌を逸した)でも
エゴセントリック(自己中心的)でもない。
自分がどう生きたいかを悟り、そのとおりに
実践している人物なのである」

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