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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

<3年後の追記>偏在する樹木の如き音楽

2010-03-06 23:06:30 | 作曲理論講義/受講録
<動画(音源?)を発見したので、追記します!>

先日のペン大の講義で菊地さんが楽理のほかに
ジョビンの曲の詩の美しさについても触れたことが
ずっと記憶に残っていた。

で、口調がとても想い溢れていていっそう気になっていた。
『「空の鳥、地上の鳥」ってね。泣けますよ』
なんて仰るし、、、。
(最後のほうに訳詩を発見したので転載します)

ジョビンについての大著を1月ほど前に
読み終えていたのでなおさらだったのかも。

作家である実妹が書いた分厚い本で、いつか読むだろうと
思っていたけれど、よほどの思い入れでもないとこういった本に
入り込めなさそうだったので様子を見ていた。
どこにでも置いてあるという著書でもなくて
(なんとなくネットで買うのは避けたく思っていた)
様子を伺っていたのだった。

殊に愛する音楽にまつわる、
もうこの世には存在しないけれど
そのことによって一層顕わになるように
音楽や音楽家の存在を純粋に著した書を読む時には
出会いのタイミングを大切にしている。
早すぎても遅すぎてもいけない。(ジョビンの音楽のようだ)

こういった音楽家の死の場面を扱っている著書を読むと
それを自分でも追体験することになるので
移入が強くなりすぎて辛い場合がある。
グールドの著書のときもそうだったけど
音楽を通して私の中に存在している彼らもやはり
別な意味でもう1度死んでしまうかんじがするからだ。
それはとても哀しい。だってもういないのに(笑)
また不在を感じるなんて

でも、そのあと聴く音楽の中にこれまでよりいっそう
存在を強く感じてその輝きにまた泣けてしまう、、
という風に感情が溢れ過ぎるので。

そういう意味ではこの本を読むのには
良いタイミングだった。十分すぎるほど
移入の準備は整っていて(笑)


彼は時代とその流れと全ての出会いとに、
完璧なタイミングで出現したアーティストの一人だった。
そしてボサノバが生まれた。


自らを「エレーナ」「彼の妹」と、兄ジョビンを
「アントニオカルロスジョビン」「トムジョビン」と
ずっと三人称で書かれていたこの本、
終章にきて突然「私は」という一人称になり
実妹の視点で締めくくられる。胸が苦しくなった。

帰宅途中の電車で読んでいたら、あっという間に
目の前が霞んできたので(笑)終章は寝る前に
ベッドで読んだ。起きたら顔がすごいことになっていた(笑)


ジョビンの音楽を、何故こんなにも、世界中の人々をして
ずっと聴いていたいと思わせるのかを確信した。
何故、皆がカバーしたり、こうしてその魅力を
もっと知りたいと思うのかを。

彼の音楽に他の音楽にはない、遍在性を感じる。
そして、じっさいに「遍在」してるのだ(笑)

彼の音楽の数曲は世界で最も演奏されている曲だ。
私のお気に入りの駅前の酒屋さんでも流れていて
意味なくお店の人に微笑みかけたくなる、極上の笑顔で(笑)

言ってみればブラジルと反対側に位置する
この日本のスーパーやカフェ、エレベーターにまで(笑)
彼は居るのだ。永遠に消えない抽象物となってそばで微笑み、
寄り添っているようにすんなりと耳に入ってくる。




とても哀しいことを知った人が「笑いを忘れる」という事は多い。
でも、ジョビンの音楽にある感情はちょっと違っていて
「それが故に哀しみのほうをすっかり忘れてしまった人」の
微笑み、のようだと思う。

実際に、彼の微笑みは「抽象的な微笑み」と文中に称されている。
笑っているようにも泣いているようにも見える微笑、、、


ここで、さらに先日のペン大の講義で
菊地さんが言っていた言葉が思い浮かぶ。
この曲に時折現れる特殊なコードと、その響きについて。
分析するとそのコードの「機能」はSdm(サブドミナントマイナー)で
「全部、これ、といってもいいんじゃないかという気すら、する」と。

映画美学校の講義のときに、サブドミナントを
「暗い人の切なさ」とするとサブドミナントマイナーは
「明るい人の切なさ(暗さ)」のような、と表現していたことも。
(手元にノートがないので記憶違いの場合もありつつ書いてます)

たとえば私がジョビンの曲でとても美しいし
ちょっと変わった質感を持っていると思う大好きな曲、
Children's Game(歌つきだと「バラに降る雨」)には

Antonio Carlos Jobim - Children\'s Game




サビにいくときのつなぎ目のコードが
Fメジャー(だったかな)のトライアドなのに
どうしてもマイナーコードのように聴こえるところがある。
きっと曲の展開とメロディーとの兼ね合いなんだろうけど。

この曲も明るいというわけでもなく
かといって特別暗いわけでもない。
曖昧、というわけではない。喜びも情動もちゃんとある。

、、、というかんじで(ここで以前菊地さんが日記に
書いていた「ちょっとうれしい」「ちょっと哀しい」
=「グレー」についての言及を思い出す…)
なんていうか、そういう謎がジョビンの音楽にはある。


彼の言葉は、こんな風に表されている。
「ユーモアとメランコリーを越えた、
しかし常に知的な言葉、優秀な観察者のフレーズだ」

また、トムの親しい友人の言葉で
ボサノバについてこんなことが書かれている。
「ボサノヴァは制御された陶酔だね、
音の節約、ゲリラ戦てとこだ」

私もJazz対BossaNovaとか二項対立で考えはしないけど
JAZZミュージシャンである菊地さんも確信的に
「ジョビンの音楽(の複雑さや優秀さ)は
僅差で当時のJAZZを超えていた」と書いてあった。
それによって得た憂き目も。

あとがきに書かれている山下洋輔氏の文章が
優しさが溢れていて秀逸だった。


菊地さんは音楽理論においてもジョビンの音楽を
「樹木的」という。ジャングルのようだ、とも。

擬態しているのだ。美しい葉、と思って触ると
じつはカマキリだったりする(笑)

実際のコードもそうなっていてメロディーだけ聴いていると
稚拙に聴こえないでもない。よく耳を傾けると緻密なズレと
捩れのようなものが 見事な織物のように美しくも頑丈に
でもなんだか儚くはためいている。
(儚む、という文字は何故「人」に「夢」と書くのだろう?)


ジョビンの死について親しい友人が寄せた言葉を
憶えの悪い私でも反芻することが出来る。

「彼の死は1本の大木が倒れたのではなく
ひとつの森全体が消滅したのだ」

ジョビンとアメリカ、自然(地球)破壊と森林伐採、そして
ボサノバとジャズ、の関係性とその象徴性について
ぼんやりと考えていた。坂本龍一がなぜクラシックアプローチで
ジョビンへのオマージュともいえるCDを出したか、とか
ない頭でいろいろと(笑)いまさら納得していた。

こんな画像を観ても(シナトラもアンディの歌も
素敵だけどやはり私はジョビンのヴォーカルのほうにひかれる。
こんな表情をして歌う人をかつて見たことがない。)



森に行くと曲のメロディーが最初から最後まで聞こえる事があり
病気を樹液で治したりしていたジョビン。

本当に森の化身だったのかも(笑)

ちなみにブラジルでいう三月の水(雨ともいう)は
夏の終わりと秋の訪れを告げるもの。
輝きと楽しさに満ちた雨のようです。


そして東京も三月。
もうすぐ桜が咲きそうですね。


<三月の水>訳詩

Antonio Carlos Jobim


棒切れ 石ころ 道はおしまい

切り株に腰掛けて 少しばかり寂しくて     

ガラスの欠片に 命と太陽

それは夜 それは死 それは糸 それは釣り針

ぺローパ樹木の 幹には「うろ」

カインガ-にランプ マチッタ・ペレイラ

嵐を呼ぶ木 崖崩れ 庭の深い神秘

望もうと望まいと 吹き捲く風 坂道は おしまい 梁に屋根裏

棟木のお祭り 降りしきる雨 せせらぎのお喋り


三月の雨が 疲れを洗い流してゆく

大地を踏みしめて しっかりと歩く 手には小鳥を パチンコのつぶてを

空を飛ぶ鳥 地に堕落した鳥 小川に泉 一切れのパン 井戸の底

道はおしまい 顔に失望を浮かべ 少しばかり寂しくて

棘と釘 それは尖端 それは点 滴がしたたる それは結束 それはお話

魚の仕草 輝く銀 朝の光の中 煉瓦が運ばれてくる

薪が燃えて 一日の始まり 山道のはずれ 酒瓶を足元に 寝床に

身を横たえて 泥道の真ん中で 故障した車 はじめの一歩

橋を架けて カエルが鳴く ヒキガエルが鳴く 朝日の中で 輝く森

三月の雨が降り 夏もおしまい 君の胸に宿る 新たな命の約束



































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謎の小路、洋菓子、ロシュフォールの恋人たち

2010-03-06 00:20:53 | 日々
会社の帰り、謎の小路を抜けて




坂を下り、やみくもに(いちおう方向を掴みながら)
思いつくままに、歩きました。なるべく、
知らない道を行ったのです、そうすれば、何となく
良い発見があるんじゃないかと
妙な予感を抱きつつ歩いていたら

ほどなくして、心奪われるたたずまいのお店が表れました。
殆ど衝動的に、なのに確信を以て
吸い込まれるようにお店に入りました。

ブルーにも、少しばかり殺風景にも見えるような
古びた店内の天井は高く、なんだかとっても素敵でした、
古き良き時代にタイプスリップしたみたいな懐かしい気分。

包装紙を見て、以前、雑誌のスイーツ特集に出ていた
老舗の洋菓子店でした。大きなショーケースに並んでいる、気取ってないけど、
丁寧に作られた美味しそうで可愛らしいスイーツをみて、
迷わずショートケーキとマドレーヌを購入しました。

(文面もとっても素敵!)

「 近江屋洋菓子店は神田淡路町と本郷3丁目に2店舗ございます。
双子のようにうり二つの店舗ですので、お店の前や店舗のなかに入ってしまうと
自分が神田にいるのか、本郷にいるのかわからなくなりそうです。

 広々として開放的な店内、セルフサービスの気軽さ、独特の穏やかで
上品な落ち着ける雰囲気、リーズナブルな価格、
しつこくもたれることのないベーシックな味わい。これらが神田店・本郷店で
味わえます。ぜひ、神田店・本郷店にお越しいただき、
近江屋洋菓子店の味を堪能してみてください。」



レトロでなんとも可愛らしい包装紙なのですが







この包装紙を見て、
ロシュフォールの恋人たち、と思い出すのは
私だけじゃないと思います(笑)
(埋め込みが無効になっているそうなので、
直接YouTubeで観てください)あ、しかも、双子繋がり!(笑)
(ドヌーヴ姉妹はたしか年子で、双子のような姉妹でした、
哀しいことに、お姉さんのほうは、この撮影の年に事故死したのです)


"The Young Girls of Rochefort" (1967) 1 of 12




ここで流れる6/8拍子の曲は、本当に魅力的です。
作曲は、ミシェルルグランなのですが、
この曲、だいぶ前にコマーシャルで小耳に挟んでいて
忘れられなくて、なのに見つけられずにいた曲でした。

まさか、旧いものだったとは考えもしなかった、
新しくて、お洒落なかんじがしたので。


その曲の出現は、4:45ほどのところで予兆があらわれ
5分くらいのところではっきりしてきて、
5:11秒くらいから劇的に(笑)変化するこのかんじ、、、

曲も動きも、ともに、大好き。

ハリウッド的(ブロードウェイ?)なミュージカルと違う
(All that Jazzとか、This is itとかとは全然違いますね)

妙にユルいダンス(笑)もなかなか良い。
コロコロ変わる(長調から短調へ、、後半で
ぐっと短調になって、最後にまた長調になるの、笑)
喜怒哀楽すら、とっても魅力的です、それはたぶんに
泣いたり笑ったり、というどこか恋愛的で、
無邪気な躁鬱感すら漂っています(笑)

さらに魅力的なのは、ドヌーヴ姉妹の美しさと
衣装もお洒落です。(デザイナーは誰だったのでしょうね?
なんとなく、クレージュとかを思わせます)

楽しい発見のおかげで、会社でいやだと思っていたことは、
他愛ないことに変わりました、スイートな魔法のおかげ♪(笑)






















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<追記>Children's games再び

2010-03-04 00:43:00 | 作曲/編曲
当時は探しても無かったのですが、
やっとYouTubeで見つけました。(でもいつ消えるかわからない)

ジョビンの曲の中で、一番好きな曲に
ぜひ、お耳を拝借させてください♪

Antonio Carlos Jobim - Children's Game



この備忘を書いたのは、実に5年前のことでした。
メソッドを学ぶ初々しい(笑)歓びに溢れているかんじが、
今の私とは、また違うようであまり変わっていなくて、
やはり楽しくなります(成長してな~い、笑)

この曲は、直近だと、ジョビン(の妹さんの著書)に関する
著書を読んで書いた備忘録『偏在する樹木のような』 の備忘が記憶に強い。
フォーレのような美しさ、、、(といったような事が)
山下洋輔氏によって著述されていました。


<以下、2005年の備忘録を、逆順にしてみました>

『憂鬱と官能を教えた学校』
憂鬱と官能を教えた学校
河出書房新社-
菊地 成孔, 大谷 能生



再びアントニオカルロスジョビンのChildren's gameを分析、
発見と感想を。こういった名曲の分析、言及は有識者によって
何度もされていて、もっと詳しく正確に述べられていると思うけれど、

読譜のみが出来てコードやスケール、調性など楽理の概念を
理論的というよりは感覚的にしか意識してこなかった

私の覚えたて(笑)ホカホカ~、、の楽理的な分析、備忘録再び。

殆どのコードを自分自身の耳で取れた事で曲に
肉薄したような喜びを感じるが、まだ正解かどうかはわからない。
(というか売っている楽譜を見れば一目瞭然なんだろうけど・笑)

構成は
◯前奏→メロディA→サビ→メロディA'とシンプル
◯前奏以降を繰り返すかんじ。
◯4分の3拍子←これ、間違い、6/8拍子です(2010年、追記)

サビの部分のコードはE♭m7→D♭△7→D♭m7→B△7で
8、6、6、8、6、6と途中拍子が変わる、(You Tubeでいうと、33秒辺り)

ここ、かなり魅力的。(さらに魅力を増すのは
弦のオブリガートがつく1:30秒を過ぎたあたり)
一見弾き難く思える魅惑的サビ、
私が眉間に皺をよせて音を追っていたのを

トム氏に笑い飛ばされた気がしたほどチャーミングな
メロディの正体は、以下。

メロディはD♭から始めて
そこから5度下の音を7回弾く、途中の1回は先日習ったばかりの
増4度ドミナント。つまり最も不響和な+4と
最も響和するP5(トニック)との組合せ。

メロディ確認のため、サビの1つめの音のみ7音を弾いてみる。

む、7音…?なんだ、正体はダイアトニックメジャースケールだった
つまりドレミファソラシドをD♭から下降して弾く…

(以下単音≠コード)
D♭G♭、C F、 B♭E♭、A♭D♭、F# C、F B♭、E♭A♭。
レ(E♭)の音まで行ったら長2度下がったBから
またドシラソ…♪と弾いていただけ
ほんとうに、子供のピアノ練習のようだ!(笑)


アントニオカルロスジョビンの
children's game(Instrumental Version)を聴いていた。

Antonio Carlos Jobim - Children's Game




気がつけばごく自然に手にとって聴いていたので
ジョビンマニアでもない私だけど
(あ、でもジルベルトよりジョビン派・笑、かも)
彼の曲の中では
How Insensitiveと1、2位を争うほどこの曲を好きだし
強くて静かな情動と輝き、冴えを持った曲だと思う。
立て続けに何十回聴いても、全く飽きる事がない。

前奏、アレンジ、楽器の編成、
メロディー、テンポ、サビのグルーヴ感…

何もかもが完璧なのに、
しかしどこにも力が入ってない。
(ジョビンの音楽は大抵そんなかんじだ)
3分半程の短い曲だけど、聴いている間
ジョビンの宇宙をめいっぱい感じられる。

そういえば、この曲、ちゃんと
弾いた事がなかったな、とピアノに向かってみる。
いや、サビの部分のメロディーが
ちょっと追い難かったんだった。

ところが、いざ鍵盤に手を置くと
あまり何も考えずに指が自然に黒鍵を弾く。

あ、このスケールは、あの時やった
◯◯◯スケール?(まだ少し曖昧)

なるほど。スケールとは、こうして聴覚を始め
視覚的要素を含む身体感覚をまず養うわけだ。

そして曲の分析を
まだ習いたての楽理を一部使ってやってみた。

◯サビのメロディーは5度の下降の連続

◯その時リズムと調性が劇的に変化する

◯ストリングスは2度目のサビから入り

◯その時のサビのメロディを
 金管(トランペット?)が奏で
 ストリングスのコーラスが半音ずつ下降する。

サビのリズム
3、3、2
3、3、3、3
3、3、2
3、3、3、3

もしくは
(8、6、6、8、6、6
ともカウント出来る。)

クール。
こういった質感を持った作編曲を
私もしたい…いやしよう!
などと強い意志を持って
今宵、決意したのだった。(笑)

















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曇りの下にも太陽は在る

2010-03-03 00:03:07 | 「好き」はひとことで言い表せない
寒かった或る朝の記憶がよみがえりました。
(今日みたいなかんじの、ちょっと陰鬱な朝でした)

でも、あの日見上げたグレーの曇り空はやわらかく、
仄かな太陽の存在を包み込んだ薄明るい空を、
いつになく綺麗だと感じていました。

<夕べの記憶>


年暮れに近いある日、
久々に会う親しい友人と食事の約束をしていました。
(ここしばらくは、逢っていません)

行こうとしていた店は、私がティーンズの頃から愛する
或るミュージシャンのサイトで知って

漠然と良い音楽が耳に残るように
イメージで記憶に留まって時々思い出す店がありました。

美味なオーガニックかつ廉価で人気が高く、
クリスマスを挟む年末までの時期は
予約でいっぱいなことを訪れた事のない私でも
ウェブサイトで知っていたくらい。

それでいて商売っ気たっぷりの
クリスマス商戦に浮かれたりしない、
平常心を持った良店であればなおさらだ。
(料理の内容をきいて廉価な価格に恐縮するほど)

でも。だからこそ、敢えて電話をした、妙な確信を以て。
(私はこういう事に勘、、というか鼻が利くのだ!)

電話に出た優しげなマダムの声が
あいにくその日はいっぱいです、
でも・・・お待ちくださいね。明日でしたら
空いてますよ、2名様だけですが、
キャンセルがちょうど出たので・・・」と控えめに言った。

やったー

友人に日程の変更を告げないうちに
予約を入れたのは言うまでもなくて

もし自分たちが行けなければ
誰かに譲ってもいいな、と思っていた。
(そういう気になるお店なんです)

店への地図はたいてい曖昧なイメージで頭に入っている。
着いて、まず視覚で店を見つけてみようと試みる。
ぐるっと360度前後左右を見回す。たいていは、
すぐに見つからないから地図を出すことになるけど、
今回はそうじゃなかった。
店から光が漏れている小さな店が目に入る。
穏やかな佇まいから、あの店だと確信するような
坂の途中の小さなレストランでした。




こんな場所に、こんなふうにあったらいいな、と、
かつての想像に近いお店だった。

想像よりもお店が古く
規模が小さかったのは、ことさらに理想的。

料理は美味の、地の魚や肉、野菜を使っていて
(たぶん)その時に沢山獲れた
新鮮なものを選んでいると思われる。

私がチョイスした調理法「せいろ蒸し」の魚は
何と巨大な鯛。ポン酢で頂いた
ぷりぷりのほかほかの白身。

丁寧に作られているけど気取ってないし
マダム(女将)とムッシュ(板前)の愛情関係も
感じられるのが余計に素敵。

二人とも綺麗なグレーの髪をしていた。


巨大な真鯛のせいろ蒸し!



<白か黒か?>



友人はとてもささやかだけど
確実な幸福で満たされている。

傍から見れば幸せに見えても実際そうなのかどうかは
他人には決してわからない。

その友人は「自由なあなたがうらやましい」と言った。

私は自分を自由だと思った事はないし
自由になりたい、と思った事もないけど
たまたまこうなっていて、それを見た人が
自由だ、と感じることもあるというだけのことなのだろう、

幸福や喜びは、他者や外部から与えてもらうもの、と
たいてい考える。でも
平熱を超えて発熱した身体のように(あたかも自家発電のように、笑)
自らが作ったスープで心身を暖めるように

自ら熱情的エネルギーを発することが
可能なのではないだろうか?

他人から何か与えられたり与えたりすることは
とても幸福な事で、それによって愛情、思いや
気持ちを確認することも可能だけど

実際は人は自家発電のように、発熱のように
(たいていの熱は自ら作り出せる、と或る
精神科医は言ったそうです)

自らのエネルギーによってチャージし、
愛も身体も冷えないように発熱することも
時には必要だし、可能なのだ、と思っていた。
(最近は、体温を一度上げると健康になる、とか
言われてるらしい、笑)

友人と私のささやかな幸福と、
友人の自由と私の自由とはぜんぜん、二項対立ではない、と
思っていたところ

その翌日の菊地氏の速報欄に、こんなことが書いてあった。

「ここをご覧に成っている総ての皆様。
クリスマスなんか来なきゃ良いのに。
という方も、クリスマスが楽しみで楽しみで。という方もいらっしゃるでしょう。

やっと愛を見つけた方も、
とうとう愛を失った方もいらっしゃるでしょう。
クリスマスに生まれた方も、
クリスマスに亡くなる方もいらっしゃるでしょう。

地獄の中にいる、と思っている方も、天国だぜ。最高だ。と思っている方も、
何も無い、空虚だ。という方も、そこそこ良いね。良い感じだよ。という方も。

 僭越ながらワタクシの考えを申し述べさせて頂くのならば、それら総ては、
つまるところ、本当に。です。同じ事。なのであります。少なくともワタクシは、
総て経験しましたよ。その結果の、この結論であります。
「ちょっと良い感じ」というのは、全部の絵の具を混ぜたグレーであります。」


この言葉が私の漠然とした灰色の空の日の感慨を
明確に代弁されていたことに少し驚いた夜の備忘録と、
もうひとつの備忘はグレングールドが
《フーガの技法》の晩年の演奏についてのコメントです。

「鮮やかな色彩を避け、
代わりに薄い灰色が無限に続く。…私は灰色が好きだ」

あのときはわからなかったけれど、時を隔てて
いまは、なんとなくわかる、グレーの美しさ!

Gould plays Bach\'s Art of Fugue, Cp 1, 4, 2



Glenn Gould Moments- P.03 Gould plays the Art of the Fugue






















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演奏の美とジレンマ

2010-03-02 00:15:07 | ピアノレッスン
ひさびさ、ピアノを弾きました。

ビゼーの希有とも思える、ただただ美しい
ノクターンのスコアを手にした。
(このクオリティで習作だなんて信じ難い…)


Glenn Gould plays Georges Bizet Nocturne in D major


この曲に限らず、弾いていて、とらわれる妙な感情がある、
とても美しい、と思う箇所にさしかかったときに限って、
弾く手が、何故かそれをスムーズに弾く事を躊躇しているような、
(すごーーーく弾きたいのに)

もっと言うと拒否しているような
(実際なかなか弾けない場合のほうが多いんだけど、笑)

まるで意志と手(心と身体?)が
相反しているようなことが、よくあるのだ。
(才能のある人なら、迷いようのないジレンマだろう)

奇妙なことだとずっと思っていたんだけど
このジレンマというか分裂を説明する
自分なりに納得する答えが見つかったので備忘します。

答え(らしきもの)を見つけたのは、以前習っていた
ピアノレッスンでの師匠とのやりとりを思い出していたから。

「甘い想い出」という曲を弾いていて
(私にはなかなかの難曲だった)言われたことと、


(いつも指先が躊躇していたのは2:45辺りの
低音の下降から始まり、2:55位のところで
美的ピークを迎える部分でした、笑)

Songs Without Words Op19 1 Felix Mendelssohn


ラカンが「ママ」と初めて言葉を発した子供は
「言葉」を得た替わりに「ママ」という象徴を失う、、、
(というようなことだったと、思う)と
定義していたことの二つが繋がった。

ピアノレッスンの師匠は、私が以前レッスンを受けて
及第点を頂いたとき「知っている事について話している」
といった演奏ですね、と言った。


(レッスンの詳細はこちらにあります)


























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