報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

資源戦争について

2005年01月29日 15時59分41秒 | ●コンゴ内戦
 98年のコンゴ内戦の取材の話が結局全部で9回にもわたってしまった。7年も前の、遠いアフリカの、しかもお膳立てされ、何の核心にも触れることができなかった取材なので、はっきり言ってたいした内容ではない。退屈だったかもしれない。それをイラク戦争真っ只中のいま、長々と書く意味があったのかとも思う。
 しかし身近でないコンゴ内戦もアフガニスタン戦争、イラク戦争もすべて同じ糸で結ばれている。

 戦争とはつまるところ「資源」を獲得するための行為だ。
「資源」を巡る戦争や紛争に、「民族対立」や「宗教対立」「歴史的対立」が利用されているにすぎない。これらは、戦争の本質から目を反らすための煙幕だ。「テロとの戦い」もそのひとつだ。

 現代社会の繁栄は、大量生産、大量消費、大量廃棄によって成り立っている。多くの「富」を獲得するためには、さらに多くを生産し、消費し、廃棄しなければならない。そのためには、当然さらに多くの「資源」が必要になる。あらゆる「資源」が有限である以上、誰よりも早く、そして誰よりも多くを獲得した者が勝者となり富を手にする。より多くの「資源」を支配できるのは、結局より強大な軍事力を行使できる者だ。

 アフリカや中東、中央アジアでの戦乱は、けっして個別の原因や事情によるものではない。すべて「資源」という一本の太い糸でつながっている。ものごとの本質は、皮を剥いていけばひどく単純なものだ。それを意図的に複雑に見せ、本質を見えなくしているだけの話だ。しかし、その本質が単純だからといって単純に解決できるわけではない。

 理屈から言えば、戦争をなくすには、世界中の人間が過度な消費=「浪費」をやめればいいのだ。大量消費しなければ、大量生産の必要性はなくなる。「資源」の争奪戦争もおさえられる。これはあくまで理屈だ。
 そんなことが可能かどうかは考えなくてもわかることだ。経済的繁栄(好景気)とは、すなわち「浪費」が作る状態だ。もし世界中の人間が「浪費」をしなくなったら、世界的不況となる。それは恐慌へと発展するかもしれない。世界中で「浪費」し続けなければ、世界経済の安定を維持できない構造になっている。

「浪費」というものの定義もできない。日本人の適切な消費は、別の国の過度な消費かもしれない。僕の適切な消費は、別の人には耐えられないかもしれない。人の消費行動に基準を設けることなどできはしない。
 たとえば、コンゴには、携帯電話やIT機器の部品に必要不可欠な希少鉱石コルタンが埋蔵されているが、このコルタンもコンゴ内戦の一因になっている。コンゴ内戦を止めるために、世界中の人に、携帯電話なんか必要ない、捨ててしまえ、とは言えない。一度社会に取り入れられた利便性を捨てろというのは現実性を欠いた愚考でしかない。

 戦争をよしとする人間などこの地上にはほとんどいない。しかしそれでも戦争がそこにあるのは、それがこの世界の政治経済構造の一部だからだ。現在の大量消費による物質文明の恩恵を維持し、そこから戦争だけを都合よく取り除くことはできない。排気ガス問題を解決するために、すべての車からエンジンを取り除け、というようなものだ。エンジンのない車が、それでも走るのなら問題はないが。

 この地上の戦争や殺戮を止めるためには、人類がこの政治経済構造そのものを、根底から見直す能力を持つこと以外にない。